Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

大人向けのロックとは何か?

先日も引用した田島貴男の文章(風待コラム駅伝)の中の、「大人向けのロック」という言葉について、バラくまさんyokoさんらが文章を書いていたので、自分も少し突っ込んでみたい。
問題の部分を再度引用してみる。

ところでポップミュージックにおいて、アメリカでは大人向けのロックがけっこうあるけれども、日本にはほとんどないように思える。僕ら日本人は、40歳を超えてまで日本語のロックなんかは聴きたくもねえということなのか。しらけちまうぜ。それじゃあつまんな過ぎるってんで僕はここのところ自分の年齢に沿った若者限定ではないロックを作ってやっているつもりなのだが、あまりうまくいかない。いまの僕の力はそんなところだ。

ここでいう「大人向けのロック」=田島貴男がやろうとしてうまくいかない「自分の年齢に沿った若者限定ではないロック」とは、一体どういうものなのだろうか。
音楽とは言いながら、あくまで「歌詞」の面に注目して、二つの観点から考えてみたい。
(以降、不遜ながら、完全「である」調で文章を綴ります。ただの思い込みです。)

「大人向け」とは

ここで田島貴男が書いているように、日本では「ロック」は若者限定の音楽と考えられた時間が長かった。少し前の世代までは、ロックを聴いて育った日本人は、オトナになると「演歌」を歌うものだと教化されてきたのだろう。そういう世代は、カラオケで、ロックを歌うのは気恥ずかしいと感じ、つい『酒と泪と男と女』を選曲してしまう。
そういった事実は、日本語ロックが、若者限定であるというよりも、「大人の自分を語る言葉」を持ち合わせていない表現媒体であることの現れである。
しかし、映画は、(日本映画であっても)その種の言葉を持ち合わせていた。そのことは田島貴男も感じていたことだった。

映画は大人向けにも作られている。世の中に映画があって本当によかったと思う。最近は音楽からよりも、映画から曲のインスピレーションを得ることが多くなった。

そういった理由もあって、少し歳をとると、ミュージシャンは一線を離れ、若い世代への楽曲提供が増えたり、石井竜也のように、実際に映画に走る人も出てくる。つまり、ある程度年齢を重ねた表現者にとって、日本語ロックは「鬼門」と言える場所なのだろう。

逆に、日本語ロックは、「若者向け」の音楽をするには非常に都合がよい。「忘られぬ日々」を思い出しながら「あの日に帰りたい」と思ったり、過去を振り返り、実現しなかった「未来予想図」を描きなおしたり、そういうことを歌うのに、非常に優れた表現媒体なのだ。
この「若者向け」というのは、具体的なリスナーの年代を表すのではない。こういった伝統的なJポップは、実際には全世代に共通して楽しめるものである。しかし、楽しむための「窓口」はいつも10代後半〜20代だ。例えば、自分の大好きな岡村靖幸で言うと、ライヴに行けば十数年前の自分に戻った自分と出会う。それはそれで、リスナー側のひとつの楽しみ方だ。
しかし、田島貴男は、そういう「若者向け」の音楽を提供したいとは思っていないようなのだ。

「ロック」とは

さて、実際には、上で挙げたような「若者向け」の音楽は、これまでのオリジナルラヴでも特に多かったとは言えない。例えば、「いつか見上げた空に」などは、その種の内容に近いが、稀な方である。
むしろ、特にオリジナルラヴファンで無い人にとって最もメジャーなアルバム『風の歌を聴け』の頃では、もっと俯瞰的に世界を見渡して、自己を前面に出さずにクールに歌い上げる内容が多かった。自分の好きな「水の音楽」も「Hum a tune」も、そういう類の音楽である。
『Rainbow Race』『Desire』の頃の田島貴男は、よく「老若男女」が楽しめる、普遍的な「ポップス」を目指したい、という内容のことを言っていたように思うが、そういう考え方の表れであると考える。
そう、ここでは「ポップス」と言っていた。
ロック評論等をまじめに読んだことなどない自分がこうも断定的に書くのは憚られるが、オリジナルラヴのその後の路線修正から考えると、ポップスとロックの違いは以下の通りである。
つまり、ロックは、表現者としての自分が中心。
対照的に、ポップスは、(自分を含めた一般的な人間の考えと)世界が中心。
ロックは、嫌われてもいいから、現在の自分を表現したい音楽であり、ポップスは、出来るだけ多くの人の心を打つように、緻密に構成された音楽であるともいえる。*1
オリジナルラヴの大転換期ともいえる『L』〜『ビッグクランチ』の頃は、音楽性もさることながら、自分と社会の混迷の中で、「世界」を憂い、やさぐれた歌詞が多かった。その後、「ポップス」期には、歌うことを控えていた「自分」を前面に出すことが、自身の迷路を抜け出す道だと考えて、歌詞世界に少しずつ修正が加えられていった。
『街男 街女』で歌いたかった「街男」とは、つまり、現在の自分自身であり、同世代の人間の生き様であり、それは、愚かで、馬鹿馬鹿しく、それでも一生懸命な人間の姿である。

でもそれがどうしたというのだ。歳をとればまた、自分が生きていることの馬鹿馬鹿しさも知る。絶望的に、しらけちまうぜ、と言いたいときもある。知や金や過去や未来がなんだというのだ。ちっとも確かではない。しらけちまうぜ。ぶち壊しだ。現在がここにあるだけだ。

そう、田島貴男としては、日本語ロックの「窓口」として、20代に戻らなくても感動を与えられる表現の方法を模索しているのだ。しかし、それは、(これも何度も書くように)『街男 街女』のラストを飾る「鍵、イリュージョン」で、一部実現していることだ。

誰にも渡しちゃいけないものが君の中にあるんじゃないか
気持ちがあるなら、自分が歩いた旅の先に奇跡がある
それは君の中にあるんじゃないか
気持ちがあるなら、自分が歩いた旅の先に奇跡がある
もっと もっと 心の中であの人のことを好きになろう
もっと もっと 涙が止まらない程 あの人を愛そう

これは、他の誰のためでもない、田島貴男自身の言葉であり、宣言なのだ。
そして、田島貴男が、「ロック」を求めて、自分の中を巡り巡った末のこの作品には、自身がかつて求めた「普遍的なポップス」さえ実現しているのではないかと思う。
〜〜〜〜
さて、田島貴男の探求している日本語音楽の「その先」は、スガシカオが一歩リードして開拓している、という話を続けようと思ったが、それはまた今度。

*1:実は、こう書いた場合、自分は、ポップスの方が好きかも知れないという気持ちもある。