- 作者: 今野勉
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/10/01
- メディア: 新書
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目次は以下の通り。
はじめに
- 第一章 テレビ的「事実」はこうして作られる
- 作り手の工夫はどこまで許せる?
- なぜ幻の魚は旅の最終日に釣れるのか
- 奇跡的撮影? カワセミの水中ハンティング
- 第二章 ドキュメンタリーとフィクションの境界線
- 「事実」と「再現された事実」
- 再現映像はゴールデンタイムの主役
- もう一度お願いします!
- リアルな戦闘の記録の舞台裏
- 虚構は否か、記録映画をめぐる大論争
- 第三章 NHKムスタン事件は「やらせ」だったのか
- 犯罪と指弾された「内輪の常識」
- 「やらせ」とは何か
- 擁護と批判、番組の評価はなぜ割れたか
- 第四章 テレビの文法
- いち早く「再現」を認めた欧米
- 「あるがままの事実」と「もうひとつの事実」
- 厳しく問われはじめた事実の素姓
- どこまで許されるか、が問題ではない
- メディア・リテラシーのすすめ
- ドキュメンタリーの現在
- おわりに
タイトルと内容のずれ
読んで判明したが、本の内容はタイトルから想起されるもの(嘘を暴く!的なもの)とは異なる。
さらには、タイトル同様、新潮社のホームページの概要も扇動的なものになっているが、これも本書の内容とは少しずれがある。
再現<誇張<歪曲<虚偽<捏造→番組打ち切り。テレビ的「事実」の作られ方!
初日に釣れたのに、最終日に釣れたとして盛り上げる釣り番組。新郎新婦はニセ物、村人が総出で演技する山あいの村の婚礼シーン。養蚕農家の生活苦を、擬似家族が訴えたドキュメンタリー作品――。視聴者を引きつけようと作り手が繰り出す、見せるための演出、やむを得ない工夫。いったいどこまでが事実で、どこからが虚構なのか? さまざまな嘘の実例を繙くことで明らかになる、テレビ的「事実」のつくられ方!
この本は、NHKムスタン事件を中心にさまざまな実例を挙げながら、「ドキュメンタリーをめぐる問題」について、賛否両論をならべた上で結論を出せずに終わっている本である。それほどに難しい問題である、ということが明らかになったことが結論といえる。
したがって、タイトルから想起される「ドキュメンタリーの悪を暴く」という内容では全く無い。作者もあとがきでこう書いている。
(何とか自分なりの結論を持ってまとめられるだろうと楽観的に見ていた本書の展開について触れ)
誤算でした。
収集した資料を解析していくうちに、解答不能の問題に次々と直面し、悪戦苦闘の志向の果て、多くの問題を宿題の形のまま、読者の皆さんの前に提示し、読者の皆さんの判断にゆだねるということになってしまいました。
P218(あとがき)
メディア・リテラシー向上という提案への賛成/反対
一応、最終章では、この難しい問題に対するひとつの解決策として、メディア・リテラシー向上を挙げている。
知らないことは、作り手、見る側、双方のためにならないと思います。
事実の作られ方についての基本的な理解のもとに、作り手と見る側がお互い緊張関係を保ちつつドキュメンタリーを育てていくという共作の関係が、私の描く作り手と見る側の理想の関係なのですが、そうは言っても世の中きれいごとだけで済むはずもありません。
(略)
「見る奴がいるから見せるのだ」という作り手の主張と「見せる奴がいるから見るんだ」という見る側の主張は、虚しい責任のなすりあいです。
自分は、社会的な問題の解決策として、大衆側の「教育」「啓発」が出てくることには半分賛成だが、反対したい気持ちも大きい。ことにテレビに関しては。
というのは、単純に「そんな時間はない」から。
- 損をせずに生活し、緊急の事態にも対応できるよう、金融や保険・医療の問題を勉強して、
- 世界に目を向けるために、外国の事情について勉強して、
- 宇宙船地球号の延命を図るために、環境問題について勉強して、
・・・
もはや、勉強しなくてはならないことだらけ、である。
ましてや、「B層」の話ではないが、学ぶ気のない日本人はどんどん増えているという話だ。*1
したがって、ダメ番組が量産されるシステムが温存されるテレビ界こそに問題があるはずで、そこについての指摘がない、という点では、この本は片手落ちである。粗悪な番組をなくしていくためには、たとえば、視聴率至上主義を脱却するようなシステム、もしくは、護送船団である放送業界自体の競争を促すようなシステムについての提案があっていいと思う。
「僕の」メディア・リテラシー
一方で、ドキュメンタリー制作の「工夫」について、「やらせ」「再現」「誇張」「歪曲」「虚偽」「捏造」などの分類をするだけでなく、提示された事実についても、分類を試みているところは、なかなか頭の整理になったし、もう少し考えてみようという気になった。
- カメラの前で自然現象のように起こる事実
- 意味を担って撮られ、選ばれた事実
- 撮影のプロセスの記録としての事実
- 典型としての事実
- カメラが発見する未知なるものとしての事実
- 撮影という行為が引きおこしたもうひとつの事実
P188
こういった事実群に対する、作り手の側の共通理解ができていなかったことが、(内部告発のようなかたちで発覚した)ムスタン問題のひとつの要因であるとしている。
たとえば、取材期間中に行われない、雨乞い、結婚式などの習俗慣習について、当事者に依頼して行ってもらうのは、やらせとは一線を画するというのが、業界での共通認識である(「典型としての事実」の再現には重要な意味がある)ということが、当時の協力スタッフに理解されていなかった。それ自体の是非は別として(自分は、「やらせ」ではないと思うが)、共通理解がなかったために、内部告発のような状態が生じ、問題が過熱したというのである。
そのほか、上に列記したうち、「選ばれた事実」の行き過ぎた例としては、ヤコペッティの『世界残酷物語』や『さらばアフリカ』(P62で、どちらも偽ドキュメンタリーとして取り上げられている)、「もうひとつの事実」として今村昌平『人間蒸発』(P186)が挙げられている。どちらも、以前から見たいと思っていた作品なので、これを機に見てみたい作品だ。
まとめ
テレビの「中の人」であるという立場が、単純なテレビ批判に陥らせなかった良い点ではあるが、もっとテレビの責任を問うべき部分はあるはずだと感じた。(やや身内に甘い結論になっている。)
文章からは、映像制作に対する誠実さが伝わってきたが、もう少し「テレビ」の問題にスポットを当てた内容の方がよかった。
そういう意味では、積極的に両者の問題点を挙げた『ご臨終メディア』の方が、読後感はよかった。(ただし、『ご臨終メディア』では、二人の執筆者のうち、森巣博が、完全に「反・テレビ」という姿勢で、これはこれで行き過ぎだと思う。)