Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

わたしを離さないで

わたしを離さないで

圧倒的な閉塞感を持ちながらも、登場人物への愛情から、頁をめくる手が止まらなくなるような魅力を持った小説。
以下、直接的な表現は無いものの、文言の端々からネタバレあり。
(未読の方注意)




物語の舞台設定がSF的である場合、それを使って読者を驚かせる展開にするのが、小説の王道のように思う*1が、この小説は、そうはならない。
終わりにクライマックスを迎え、主人公たちの生きる道が開けるのか、はたまた新たな事実を知らされるのか、と期待していると、物語の閉塞感は温存され、読者の期待は裏切られる。そう、運命は変わらない。
いつか終わりがくる関係性、死すべき存在としての人間、そういったテーマが最後まで貫かれている。自分はそう読んだ。
物語自体が暗くならないのは、はじめに述べたように、登場人物たちの人間的魅力(その描写の巧さ)ゆえなのだが、彼らが明るいのは、自分たちの「提供者」としての運命を半ば受け入れているからである。「提供者」ではない自分は、この物語をやや上の視点から、彼らの明るさを不憫に感じて読み始めた。
しかし、物語がSF的な展開を見せずに、地を這うように進み、主人公たちの悩みの多くが、「提供者」ならでは、というより、普遍性を持ったものであることがわかってくると、少し気持ちが変わってきた。
つまり、(提供者ではなく、現実に存在する)誰もが心の底に抱く閉塞感について、この物語は書かれているのだ、と。


通常の人にとっては、中学〜大学をイメージさせる特殊な環境「ヘールシャム」での出来事、仲間との思い出がメインで語られながら、大人になってから、その「ヘールシャム」の閉鎖を知る、というあたりも、「仲間との別れ」以上に、この物語の流れを象徴しているように思う。
「あの風景にはもう出会えない」*2というのは非常につらい。幸い自分の通った小中学校は今も残っているものの、よく遊んだ広場にビルが建っただけで悲しいことを考えると、長い時間を過ごした場所が変わってしまうことは、自分の記憶の中の人生に影響してくるくらい、つらいことだ。しかし、一方で避けられない。何にでも終わりはあるし、世の中は変わっていく。
そして人間も。


勿論、「提供者」という設定で表現したかったものは、そういった「閉塞感」以外に、最後にマダムが打ち明けるように、新しいもの、効率的なものにより、古いものが消えて行ってしまうことに対する「恐怖」みたいなものがあるのだろう。

新しい世界が足早にやってくる。科学が発達して、効率もいい。古い病気に新しい治療法が見つかる。すばらしい。でも、無慈悲で、残酷な世界でもある。そこにこの少女がいた。目を固く閉じて、胸に古い世界をしっかり抱きかかえている。心の中では消えつつある世界だとわかっているのに、それを抱き締めて、離さないで、離さないでと懇願している。(p326)

しかし、こういったメッセージは、全編を通して、この部分だけで、あとは、登場人物たちが「介護人」として「提供者」として、どう生きるか、つまり、新しい世界でどう生きるか、という話に終始している。
逆に言えば、新しい世界の中ででも、古い価値観(友情、恋愛、芸術的感性)と向き合うことによって幸せになれる、というストーリー全体が、変わりつつある世界(「少数の人の健康」や「効率」が優先される世界)に警鐘を鳴らしていると、言えるのかもしれない。

繰り返すが、圧倒される物語だった。

*1:たとえば、グレッグ・イーガンの短編は、倫理的なテーマを選んで書かれていても、クライマックスでは、SF的な「驚かせる」展開を持ってくることが多いと思う。

*2:「僕らが絶えず、唄ったステージはもう無い」(100s「あの荒野に花束を」)にも通じるものがあります