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速水健朗『自分探しが止まらない』

自分探しが止まらない (SB新書)

自分探しが止まらない (SB新書)

上に紹介したバグジー流のやり方には、どうしても一種の「胡散臭さ」を感じてしまう。例えば、こんなシーン。

  • スタッフ一同が会社理念を唱和したあと、円陣を組んで「今日もツイテルツイテル!ハッピー!ハッピー!バグジーFIGHT!」と叫ぶ朝礼
  • (上でも述べたとおり)新入社員の親からのメッセージの朗読と、入社式の感想の提出

こういったやり方は、この『自分探しが止まらない』に紹介されていた「居酒屋てっぺん」の朝礼にかなり近いテイストを持っている。

その光景は異様なものだった。そこで働くのは20代前半の男女。彼らは「最近うれしかったこと」「自分の夢」などについて一人ずつ精一杯の大声で、発表しなくてはならない。強制されるというよりも、自発的にそれをすることを、余儀なくさせられていると言ってもいいかもしれない。(P168)

自分が、これらに対する「胡散臭さ」を、雑誌によくある心霊商品に対するそれのように一蹴できないのは、こういった朝礼や決まりの中に、ある程度の価値を認めているからである。
一般的に言われる「自分探し」についても同様で、それを肯定的に評価する部分と「胡散臭い」と思ってしまう部分が混在している。それでは、「自分探し」の何が問題なのか?そんな問題意識で本書を手にした。
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この本の著者である速水健朗さんは、同世代ということもあり、納得できる部分が多い。
特に、全体として、「自分探し」をする若者を一方的に否定する(もしくはあとがきにあるように「嗤う」)のではなく、味方に立ちながら自己反省を促す、というような中立?のスタンスを取っているのは、非常に共感できるところだ。ただし、その微妙すぎるスタンスゆえ、本全体としてのメッセージは、かなりぼんやりとしたものになった気がする。そういう意味では、ある程度、読書テーマを明確にした読み方でないと、何だかよくわからないままエンディングを迎えてしまう本である。
以下では、自分がテーマとして掲げた「自分探しの何が問題なのか」について指摘があった部分を、本文中から4つ挙げ、自分なりに考えてみた。

(1)「気づき」のみによる変身願望

「自分探し」にはまる人たちに対する違和感についての最も大きい部分は、「気づき」の過大評価ということになる。これについては全編にわたって書かれているが、最終章にまとめられている。

  • 海外に自分探しに出かける人たちは「自分を変えるために何か具体的な努力をしようとは考えずに、環境を変えることで自分を変えようとする」傾向がある(1章)
  • フリーターたちは「やりたいこと」を(社会経験や他人とのコミュニケーションからではなく)「本人の内部にのみ存在し、本人だけが発見しうる」ものであると考える(2章)

つまり、「自分の内部に潜んでいるはずの可能性」への「気づき」が重要視されるのが、この本のテーマとなっている「自分探し」ということになる。これについての速水さんは「イージーに能力が開花すると考えるのは突飛で、受け入れられない(P208)」と書いているが、そのとおりだと思う。
ただし、「自分探し」(変身願望)ではなく、「気持ちの切り替え」という範囲を限定した目的のためであれば、旅に出たり、自己啓発本を読んだりすることは非常に有効であるだろうし、「気づき」自体には意味があると思う。

(2)ドラッグとしての自分探し

「自分探し」にはまる人たちへの違和感として、もう一つ挙げられるのは、自己啓発が持つ「ドラッグ的」な部分だ。

自己啓発は一種のドラッグだ。高揚が切れると、さらなる自己啓発の材料を必要とする。軌保の場合、お笑い、映画、日本一周、アフガニスタンといった具合にその矛先が移動していったのだ。そして、その次の矛先は環境問題だった。(P154)

本書では、かつて、山崎邦正と一緒にTEAM0というコンビを組んだ軌保博光の事例が紹介されているが、メッセージとしては『新ゴーマニズム宣言スペシャル:脱正義論』を読んだときの方が強烈だった。この本は、小林よしのりが、HIV訴訟に深く関わった末に、「運動」に関わり続ける人たちに向けて「非日常の世界から日常世界に復帰しろ」と説くものであった。
つまり、両方とも、「自分探し」(自己啓発)が自己目的化することは、結局は、社会的な関わりの中での成長に繋がらないということを言っており、それはまさにその通りだと思う。

(3)「やりたいことを仕事にする」の欺瞞

また、本書の中では、自己啓発を促す側の問題点についてもいくつか挙げられている。
このうち、自分が、これまであまり考えたことが無かった「やりたいこと」と「仕事」の関係について書かれた部分が興味深く、いろいろと考えさせられた。
本書の中では、村上龍のベストセラー『13歳のハローワーク』について、以下のような評価がされている。

この本は(略)「いい学校を出て、いい会社に入れば安心」という時代はもう終わったのだから、「やりたいこと」「好きなこと」を見つけて、働いた方が人生は有利であると主張する。
この本の趣旨や内容にはそれほど否定すべき要素はない。しかし、この本が学校の教材や参考図書となり、世間の模範となり、これが唯一の正しい“就職観”として認知されつつある現状には問題がある。この世の中には「やりたいこと」を仕事にした人だけで構成されているわけではなく、むしろ仕事を「やらなくてはいけないこと」としてやっている人たちで構成されているという認識が抜けているのだ。
「やりたいこと」「好きなこと」だけが大きく前面に押し出され、本来存在している「誰もやりたがらないことを進んでやること」に対する価値への配慮がまったくないのは問題だろう。(P118)

言われてみればその通りである。
しかも、最近、自身の仕事に対して、好きでこの仕事をやっているのか、生活のために仕方なくやっているのか、よく分からなくなるという、深い闇に落ちつ登りつしている自分にとっては、非常に鋭い問題意識である。
世間に溢れるビジネス書の多くは「やりたいことを仕事にする」を軸に自説を展開しているから、自分なんかがそんな本を読んだ時は、自分の仕事観とのギャップに、ますます闇にはまり込んでしまう。つまり、「やりたいことを仕事にする」論は、就職活動中の若者だけでなく、既に職に就いた多くの人間を不安にさせる論理なのだ。そういった中で、「自分探しホイホイ」にはまって行く人も多くいる。

(4)自分探しホイホイによるビジネス

冒頭で取り上げた「居酒屋てっぺん」については、作者は以下のようにばっさりと切り捨てている。

企業の経営者が従業員に自己啓発を強いる理由は一つだ。“ポジティブ・シンキング”を植え付け、安い給与で目一杯働かせること。
(略)
こういった自分探し系の若者たちが「夢」などという言葉に乗せられて、労働者として搾取される姿を指して、労働社会学者の本田由紀は「<やりがい>の搾取」という言葉を使っている。(P169-170)

3章では、これ以外にも共同出版ビジネス、ボラバイト(ボランティアをしながら最低限の給料で生活するリゾート地などでの住み込みのバイト)などの自分探しビジネスを総称して「自分探しホイホイ」という言葉が使われている。章のタイトルにあるよう、それによって「夢」を持った人たちが「食い物にされる」ことになる。
例えば、先日の日経新聞の書籍広告欄『21日間で夢をかなえる魔法のノート』に寄せられた「推薦の声」のメンバーを見ても、みんな似たような本を書いている人たちになっている。

  • 佐藤伝(習慣ナビゲーター)
  • 朝倉千恵子(株式会社新規開拓代表取締役社長)
  • 舛田光洋(そうじ力研究会代表)

特に、舛田氏は「そうじ力も、21日間続けることで強力なパワーが得られます」と、コメント内に自分の宣伝を忍びこませているし、自己啓発本という“軽い”「自分探しホイホイ」における3者による囲い込みが見て取れる。

しかし、バグジーの事例を見る限り、「食い物にされている」という一方的な評価には難しい部分がある。本人たちは、(労働の割には)低賃金で働いているのかもしれないが、やはり、自分と比べて「やりがい」における勝ち組ではないか、という考えも頭を離れないからだ。(ここでは、あくまで自分個人の問題に還元して言っている。)
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再び、「やりがい」について。

誰しもやりがいのある仕事を選びたいに決まっている。しかし、やりがいのある仕事は激減している。そんな状況で「やりたいこと」を職業にしなくてはならないと教えられてきた人間たちは、さまようしかないのだ。これも「自分探し」が生まれる原因の一つだ。(P138)

IT化やマニュアル化によって、どんどん「やりがい」の収奪が進行しており、個人レベルでも、やりがいのない仕事に割く時間が増していると感じる。
勿論、それを解消していくのにライフ・ハック*1を駆使するのが、現代社会人の作法なのだろうが、30代半ばになって、自己と仕事の齟齬を強烈に感じている自分にとって、どうすればベストなのかはよく分からない。
ということで、結局、当初、問題意識としてあった「自分探し」の「胡散臭さ」について、ある程度解消できたが、仕事の「やりがい」の問題が残ってしまった。
いずれも非常に私的な問題設定だが、後者については、「やりがい」を少しでも増やすために、仕事を通じた人間関係(同僚、顧客)を大事にし、自己の成長を実感できるような取り組みを継続することが重要なのだろう。カンフル剤として、ときどき自己啓発本を読みながら。

*1:本書では、ライフハックについて、自己啓発本のルーツにあたるニュー・ソートに端を発するものとして言及されている。が、安易な「変身願望」に走るのではなく「辛い日常をこなす」ツールと考えれば、自己啓発とは対極にあるものという考え方もできると思う。