Yondaful Days!

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偉大な漫画家を生んだ、さらに偉大な漫画家の話〜矢口高雄『ボクの手塚治虫』

釣りキチ三平で知られる矢口高雄が、自身が強く影響を受けた漫画家手塚治虫の死を悼み、追悼の念も込めて、自らの秋田の山奥で育った少年時代からの手塚体験について語った漫画。(自伝的漫画『オーイ!!やまびこ』の抜粋)


矢口高雄の略歴は以下。(Amazonより)

本名……高橋高雄。1939年秋田県平鹿郡増田町生まれ。町の中心より20キロも離れた奥羽山脈の山襞の寒村で育つ。理解ある両親、そして先生に恵まれ、よく学び、よく遊ぶ“忙しいガキ”時代を送る。
──そして30歳──少年時代からのマンガ熱さめやらず、12年間勤めた羽後銀行(現 北都銀行)を退行、妻子も残し単身上京。
マンガ家としては異例の、“遅いスタート”をきる。'73年『釣りキチ三平』連載開始。同年『幻の怪蛇 バチヘビ』発表。──翌'74年、前記2作品で講談社出版文化賞・児童まんが部門を受賞、矢口ブームが日本中を駆けぬけた。
'76年には『マタギ』にて、日本漫画家協会大賞(グランプリ)を受賞。デビュー後、たった7年目の快挙であった。

とても熱中して読めた。
巻末の解説に書かれている「矢口少年にとって、生きること、成長することの本質的契機が、手塚マンガを読むことであった」というのは、確かに、この作品の核の部分を言い表している。


手塚治虫がいなければ、確実に漫画家・矢口高雄は存在しなかったと言えるほど影響を受けていることがよくわかり、特に、手塚マンガとの「3つの出会い」から受けた衝撃が、それこそ漫画的な表現で胸を打つ。


まず、手塚漫画ファーストコンタクトとしての『流線型事件』。
秋田の寒村で、出版物そのものに触れる機会の少ない中、母親がどこからかかき集めてきたマンガを貪るように読むようになった矢口少年。そのマンガ好きを知り、小学校3年生のときに、近所のお兄さんがくれたのが『流線型事件』。
表紙の絵を見た途端に衝撃を受ける。本から自動車が飛び出て、矢口少年は、ひっくり返ってしまうのだった。当時の漫画は、登場人物が右から左、左から右へ流れるだけで、正面に飛び出るような映画的な手法は用いられていなかった。手塚漫画は、それこそ新時代を開く先駆者だったのだ。


次に、半年後に、東京の従兄が持ってきてくれた『メトロポリス』。
既に東京では大ブームが起きていたものの、秋田では、それを知る由も無く、『流線型事件』をひたすら読み続けていた矢口少年は、『メトロポリス』のストーリーの面白さに興奮のあまり、読者に向けて、ネタばらしをし始める。(笑)
30頁以上に渡り、全編を、絵つきダイジェストで解説してくれるのだ。
従兄にもらった『メトロポリス』は、表紙と前後数ページが破れていたため、ラストがどうなったかは、矢口少年にも分からなかったが、それがまた、矢口高雄の目線から見る『メトロポリス』の印象を強くする。ストーリーの面白さを伝えるのに、出来るだけ原型を崩したくない、という手塚治虫への敬意が良く表れていると思う。


近くの村のお祭りで見たディズニー映画「ピノキオ」にもまた衝撃を受けたりしながら、次なる手塚治虫との出会いは「ジャングル大帝」の載った月刊の漫画雑誌「漫画少年」。
場所は、裕福な親類の家のトイレだった。当時は、雑誌類もトイレットペーパーとして使用していたため、これも既に、一部「使用済み」だったが、トイレから持ち帰り、やはり何度も読み返した上で、自らの小遣いで連載誌を購読することを決めるのだった。
漫画少年」は93円。これを稼ぐために、杉皮背負いのアルバイトをして貯めるくだりは印象的だ。それこそ膝が抜けるほどの重労働を終えてからお金を持って、20キロ先の町の本屋まで、自転車のペダルを漕ぐ様子からは、読んでいる側にも、ワクワク感が伝わってくる。


夢をどうしても捨てきれず銀行員をやめて漫画家になるあたりも描かれているが、とにかく秋田での子供時代の描写が鮮烈で、水木しげるの自伝的漫画とはまた違った意味で、生き抜くことの大変さについて教えられた。
綺麗な絵も非常に読みやすく、当時の出版事情などにも触れながら、手塚漫画の凄さについて文庫本一冊にコンパクトにまとまっており、いろいろな人にオススメしたい本だった。

追記

その後、釣りキチ三平も借りてみた。ややマニアックな釣りの世界が、少年漫画の土俵で見事に表現されており、漫画家ってすごいなと改めて思った。読んだのは以下。手にしたものが次々に謎の死を遂げる「呪いのウキ」を受け取った三平が、全国野ベラチャンピオン大会に挑むという内容。恐怖漫画とも相性が良さそうな絵柄だが、そちら方面に特化した作品はないのかな。