Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

心の教育と想像力〜長野まゆみ『野川』

野川

野川

自分の住む家は野川に近く、作品の舞台となっている小金井市付近(武蔵野公園)にも行ったことはあった。しかし、作中で強調される、都会からずっと離れた、いわば田舎の風景というのは、自分の思い描く野川像とは異なる。表紙に描かれる風景もピンと来ない。近くに流れる川を題材にした本だけに、不思議に思った。しかし、長野まゆみのブログで紹介される野川を見ると、確かに、作品の舞台となっているあの場所だ。
だから、この「野川」は、是非とも実際に行って、その「風景」を眺めたい。その上で、今自分の頭の中にあるイメージとの違いを確かめたい。まるで観光案内を読んだあとのようにそう思ったのだった。


さて、この本では「風景」という言葉が沢山使われる。
コマメという飛べないハトが、飛ぶことによって徐々に「鳩の見る風景」を獲得していく。
それとともに、主人公の井上も、野川の河岸段丘を自分の足で移動し、引っ越してきたばかりのK市の景色を見る。そして、コマメの世話をし、地形について河井先生の話を聞き、自分の中に生まれたものを育んで行く。最後にコマメが初めて上空から野川を見ることができるようになったときに、井上は、鳩の視点からの風景を手に入れることになる。
この物語全体が、作中で井上が否定する「心を育てる/強くする/豊かにする」教育に対する、長野まゆみの考える一種の“模範解答”なのだと思う。体験することは入り口でしかなく、大切なのは、ものごとを見る視点と、そこから見た風景を出来るだけリアルに思い描ける能力(つまり想像力)、そういった風景をつくりだす「ことば」(平たくいえば表現力)ということなのだろう。
子どもの教育を考えたとき、「体験」がつくと、それだけが“確実に良きもの”として思考停止に陥ることがあるが、常に「その先」を考える必要があるなと思った。


以下、作品より。

心の授業には、いつもうんざりしていました。副読本には、こんなふうに書いてあります。空の色や雲のようす、光の変化、そのほか草や木や虫などを自分の目で見て、手でさわって、耳とからだで聴いて、実感することが大切だと。でも、具体的な方法は何も示してくれない。そういう不満を口にすると、こんどは体験しよう、ということになる。(略)
ぼくたちはおとなが思うほどバカじゃないから、絵や音楽を鑑賞し、田植えや乳しぼりを体験したのちに、どんな感想を書けばいいのか知っている。何を書いてはいけないのかも知っている。
(井上:p146)

(ホタルの話をしたあとで)
その風景は、きみ自身が目にしたものでも体験したのでもないが、きみだけのものとしてそこにある。どうだ、すごいことじゃないか?確信を持って云うけれど、それは一生きみのそばにあるよ。このさき、何度でも思い返すことができる。しかも、実際に目にした風景と変わらないくらいに、あるいはそれ以上のあざやかさで目に浮かぶはずだ。(河井:p31)

見たい風景はつくりだすものだよ。カイトでも気球でも、好きなものに乗ればいい。(河井:p116)

きみたちにつかんでほしいのは、意識のなかでの風景のつくりかたなんだ。ことばから連想できるものだけで、思い描くことが大事なんだよ。(河井:p150)

私が話をするのは(略)人の話に耳をかたむけるのは、実際の風景や音や匂いや手ざわりを知るのとひとしく、心を養うものだと私が信じているからだよ。それは書物を読むことでも培われる。(略)
私が云いたいのは、たがいに関係がなさそうに思えたものがつながることの幸福なんだよ。そこから、あらたな要素も生まれる。それが、難解な本を読んだり、年長者の話を聞いたり、日常生活には関係なさそうな数学を学んだりすることの意味だよ。
(河井:p167)