Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

故郷という言葉の重みを知った〜和合亮一『ふたたびの春に』

ふたたびの春に

ふたたびの春に

「あの日」から一年。福島に住み続ける詩人の魂の記録。
絶望と希望を教えてください。(帯文)

卒業

和合亮一さんのことは、Twitterを通じて知ってはいたが、名前から受ける印象から50代くらいだと勝手に決めつけていた。本を読んでみると、1968年生まれということで年齢的には同世代と言ってもいいくらいに近い。とても印象的な詩に登場する息子さんは震災の年に小学校を卒業。
ということは、自分と同様、息子同士もちょうど6歳離れており、6年後の自分の思いを先取りするような気持ちで「卒業」という詩を読んだ。曲がつけられ歌にもなっており、さらにリンクもしてしまうが、言葉を噛み締めるなら、やはり並んだ文字を見るのが良いと思う。

私たちは 海の底に沈む
片方の靴を想って
泣いているのだ もう片方の靴を
地上で探しあぐねながら
(「靴」より抜粋)

寄せては返す 波打ち際に
子どもの靴が片方だけ落ちていた
とてつもなく
目の前の水を眺めて どうしようも無い
(「とてつもなく」より抜粋)

いくつか「靴」が出てくる詩が印象に残った。考えてみれば、歩き出すときに常に自分より先行するのは靴、そして自分のあとに足跡を残すのも靴。和合さんの息子の名前が大地であり、自身が体を動かすのが好きであることを考えると、人と自然を繋ぎ、生活の中に常にあるものの象徴が「靴」なのかもしれない。毎日目にする身近な物であるからこそ、海の底に沈む靴(犠牲者)を想いながら、もう片方の靴(これからの生活)を探すという比喩が胸を打つ。(私の解釈です)

故郷

この本全体を覆うのは、福島という「故郷」への想い。
震災関連でもよく目にする言葉だが、恥ずかしながらこの本を読んで初めて「故郷」という言葉の意味が分かった気がする。そして、「故郷」を奪った原発事故は、本当に大変な事故だったのだと痛感する。線量が下がったとか、冷温停止だとか、そんなことでは何の救いにもならない。
元に戻ることのない「故郷」に留まりながら、窓を開けることもできない我が家を「独房」と呼び、生活を続ける和合さんの想いを読むと、胸が痛い。次の詩が特に刺さった。

私たちは中間貯蔵施設問題について もはや
考える前から 途方も無く問われてしまっている 逆に
問いたい 「中間」の故郷とは あるのか
あるいは別のところに故郷は 貯蔵できるのか
(「収束」より抜粋)


この詩だけでなく、セシウム、線量、バッジ、防護服、スクリーニング、除染など、放射能関連の言葉が、日々の生活の言葉の中に交じって出てくる。政治的なニュアンスは無い。だからこそ、改めて原発事故の特に原発付近に住む人への影響の大きさが伝わってくる。これまで、他の報道や記事では、何故かほとんど伝わってこなかった部分だ。自分がシャットダウンしていたのか、報道が控えめだったのかは分からない。
しかし、和合亮一さんの言葉に、強い力があるのは確かだと思う。
震災関連の本は、つい先日、池澤夏樹『春を恨んだりはしない』を読んで、すぐに現地に向かった池澤夏樹の行動力に感心しつつも、文章に心を動かされず、何か自分の中で震災が「過去の出来事」になってしまっているのか、と不安に思ったが、この本は違う。
「言葉」にも、まだ力はあると感じた。
ここに書かれた言葉は風化しないと思った。
最近読んだ本の中でも、是非いろいろな人に読んでほしい、オススメの一冊となりました。


春を恨んだりはしない - 震災をめぐって考えたこと

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