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努力は人を裏切らない、のか?〜大崎善生『将棋の子』

将棋の子 (講談社文庫)

将棋の子 (講談社文庫)

今日行われる第二回電王戦の2戦目でponanzaと対決するプロ棋士は「将棋界の逆境アーティスト」こと佐藤慎一四段(サトシン)。
紹介のときに「崖っぷち」というフレーズが使われることが多い理由は、年齢制限ギリギリでプロになることができたから。
それでは、年齢制限とは一体なんだろうか。
簡単に言えば、奨励会というそれ自体が狭き門のエリート集団の中で、一定の年齢以内にレベルをクリアできていなければ原則として退会を余儀なくされるというものである。少し長いが、『将棋の子』から引用する。

年齢制限の壁は主に二つの体形から成り立っている。21歳の誕生日までに初段、そしてもうひとつは26歳の誕生日までに四段というものである。
(略)
21歳の誕生日までに初段。それをクリアできなければ、もの心ついたときから目指し、信じてきたただひとつの道を閉ざされてしまうことになる。17〜18歳の育ち盛りの青年が自分の誕生日を恐れるようになる。ひとつ歳をとることは、すなわち与えられたわずかな寿命を確実に食いつぶすことを意味する。
17〜18歳といえば加速度的に世界が広がり、自分の中にさまざまな可能性を見出していく年頃だ。学校という閉ざされた環境の中にしかなかったはずの自分の場所や存在理由が、もっと広い社会の中にもあることを知り、胸をときめかす年齢のはずである。
しかし、奨励会員たちは違う。
歳とともに確実に自分の可能性はしぼんでいく。可能性という風船を膨らまし続けるには、徹底的に自分を追い込み、その結果身近になりつつある社会からどんどん遠ざかっていかなくてはならないのだ。
ある意味では人間の整理に反した環境といえるかもしれない。それが、奨励会の厳しさであり悲劇性でもある。
p39

四段への昇級は年二回行われる三段リーグで上位二位に入る必要があり、特に熾烈を極める。同い年で友人の阿久津主悦七段(目ヂカラ氏)に先を越されながらも、逆境の中で何とか勝ち上がったサトシン。


さて、そんなサトシンが四段に勝ち上がる一方で、同じリーグで奨励会退会を決めた人もきっといるはず。一体彼らは、その後どのように過ごしているのか。それについて書かれたのが、この『将棋の子』。
講談社ノンフィクション賞受賞の感動ドラマ将棋のプロ棋士を目指して戦い続ける少年たち。だが、そのほとんどが、昇段規定をクリアーできない冷徹な現実を前に夢半ばで挫折する。残酷で切ない奨励会物語。」という説明を読んで、短編集なのかと思っていたが、そうではなく、この小説は、基本的に、一人の人物、小学校のときには憧れの目で見ていた男の人生を、大崎善生が夜行列車に乗り、鈍行列車に乗って文字通り追いかける物語となっている。その意味で、(大崎自身の登場シーンも多い)『聖の青春』よりも、さらに作者が物語に入り込んでいる。
いや、そもそも、大崎は、このノンフィクション小説を書くために、前職を辞めているのである。

昭和57年に日本将棋連盟に就職した私はその後「将棋世界」編集部に配属され、編集部員として間近で激動する将棋界を見つづけてきた。
なかでも天才羽生善治の出現と七冠全冠奪取の偉業、その羽生に立ち向かう関西の怪童村山聖の生き方とそのせつなすぎる死は強く印象に残っている。
10年間にわたり将棋世界編集長を務め、そして私は退職の決心を固めた。
どうしても書かなければならないことがあったからである。

物語は昭和44年の札幌から始まる。突如として巻き起った将棋ブームの中で、小学6年生だった大崎は、ふと「北海道将棋会館」の看板に目をとめる。その後、何度か通って、勝てないながらも大人相手に指して、たまの勝利に大喜びするのだった。そこで会ったのが成田英二。当時小学5年生で天才少年と呼ばれた成田は、25連勝中。大崎の目の前で。道場最強の大人相手に勝利するのだった。
その後、道場には通わなくなり、将棋とも離れた大崎は、大学時代に新宿のスナックで久しぶりに将棋を指したのがきっかけとなり、新宿にある将棋道場に通う ことになる。大学1年で4級から毎日道場に通い、1年後にはアマ四段というスピード昇級を果たす。しかし、アマといえども、その上に行くのは大変で 足踏みしたまま道場に通う中、誘いがあった日本将棋連盟に就職を決める。


そんな中で再会したのが、奨励会で頑張る成田だった。
しかし成田は、奨励会入会自体が遅かったせいもあり、また、自身の父親の他界と母親の病気もあり、道半ばにして、プロ棋士への道を諦めることになる。
だから、大崎には成田の挫折を哀れに思う気持ちと、天才少年への憧れの気持ちの二つの両方がある。
二つの気持ちが往復しながら、今の成田を見定めようとして、新たな視点を得る。そこがこの作品の一番の読みどころだ。この気持ちの揺れは奨励会退会を決めた成田を思いとどまらせようとするときの会話シーンによく現れている。

「…大崎さんにこっちの苦しさなんか何もわからないんだ」と成田は顔を赤くして大きな声で叫んだ。
それはそうかもしれないと私は口にしなかったが、そう思った。その通り、僕にはたしかに君の苦しさはわからないのかもしれない。では、君には僕の苦しさがわかるというのだろうか。僕が君に持ち続けている、君の才能への羨望や、奨励会で戦う君の立場への憧れを一度でも感じてくれたことがあったのだろうか。奨励会は確かに苦しいかもしれない。だけど君たちは間違いなくそこで戦うことを許された戦士なのだ。
p161

奨励会をやめて北海道に戻った成田と11年ぶりに会う、その電車の中で、紹介される人物らも、やはり、どこかで大崎自身と接点があった人たちばかりである。

  • 年齢制限ギリギリの第18回奨励会三段リーグ(H8)の勝負を懸けた最終二局に連敗しながら星の巡りあわせでプロとなった中座真(p5)
  • 第13回奨励会三段リーグ(H5)をギリギリで勝ち上がり、大崎が成田と久しぶりに連絡を取ったときに第18回全日本プロ将棋トーナメントで谷川浩司棋聖と対局していた岡崎洋(p58)
  • 羽生世代と同じ昭和57年組ながらも、同じリーグで岡崎に負けたことをきっかけに、プロへの道を諦めて家を出た秋山太郎(p67)
  • 昭和40年代に、当時30歳の年齢制限を間近にしたプレッシャーから南の島へ逃げ出し、将棋連盟の事務員として働き、大崎の上司となった関口勝男(p91)
  • 先崎や中座と同じ昭和56年組で羽生善治と競ったときもありながら、昭和57年組の台風に打ち勝てず24歳で退会、平成8年に司法書士となった米谷和典(p118)
  • 年齢制限で退会を余儀なくされた日に、友人の村山聖と殴り合いの大喧嘩をし、その後、赤井秀和の付き人をしながら役者を目指すも、再び将棋の仕事(ライター)に戻った加藤昌彦(p215)
  • 森信雄六段の弟子として奨励会に入会しながら1年もたたずに退会し、世界放浪したあと、平成12年ニューヨークで行われた第一回世界将棋選手権で優勝した江越克将(p230)


彼らの、そして成田英二の挫折について追いかけながら、最後に辿りついたのは、「勇気の駒」。
奨励会退会時に記念にもらう駒を、森昌子のブロマイドと併せて肌身離さず持っていた成田。その駒は、将棋の厳しさだけではなく、勇気や優しさも教えてくれた。奨励会という厳しい世界に対してやり切れない気持ちを持っていた大崎は、そういう風にして、奨励会の良い面に目を向ける。

将棋に利ばかりを追い求め、自分が将棋に施された優しさに気づこうともしない棋士と比べて、ここにいる成田は何と幸せなのだろうと私は思う。
将棋は厳しくはない。
本当は優しいものなのである。
もちろん制度は厳しくて、そして競争は激しい。しかし、結局のところ将棋は人間に何かを与え続けるだけで決して何も奪いはしない。
それを教えるための、そのことを知るための奨励会であってほしいと私は願う。
p285

たとえ挫折に終わったとしても、何かを夢見て一心不乱に努力した事実こそが、自分を励ます「糧」になる。
努力は人を裏切らない、というが、成果として出ない努力はたくさんある。しかし、そこに向けて懸けた時間は、結局、自分を強くしているのだと思う。
何に取り組んでいる人にとっても、それは共通する事実であり、だからこそこの小説は多くの人の共感を生んでいるのだろう。


さて、佐藤慎一四段は、電王戦を前にして、自分のブログに以下のように書き込んでいる。

残念ながら自分には天賦の才はありません。
幼い日にはあったかもしれないけど、もう薄れちゃって見えなくなっちゃいました。
だけど、今の自分には何度もあった壁を乗り越えようと、もがいたときの力があるはずです。

プレッシャーがなんだとか、そんな逃げ道は俺は作らない。
明日やることは決まってる。ロクな形勢判断もできないコンピューターを叩き潰せ、だ。
応援してくれる人の為、自分の為に、絶対勝つ。


「何度もあった壁を乗り越えようと、もがいたときの力」、それこそが、崖っぷちの三段リーグでつちかった、そして、コンピュータには獲得できない、何にも代えがたいものなのだろう。今回、ソフトの貸し出しを断られていることも含め、不利な点もあるが、そんなものは跳ね返してくれる。それを信じている。人間を信じている。