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好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

41歳で読んだ「若いうちに読むべき本」〜ヘルマン・ヘッセ『車輪の下で』

車輪の下で (光文社古典新訳文庫)

車輪の下で (光文社古典新訳文庫)

車輪の下で (光文社古典新訳文庫)

車輪の下で (光文社古典新訳文庫)

周囲の期待を一身に背負い猛勉強の末、神学校に合格したハンス。しかし、厳しい学校生活になじめず、次第に学業からも落ちこぼれていく。そして、友人のハイルナーが退校させられると、とうとうハンスは神経を病んでしまうのだった。療養のため故郷に戻り、そこで機械工として新たな人生を始めるが……。地方出身の優等生が、思春期の孤独と苦しみの果てに破滅へと至る姿を描いたヘッセの自伝的物語。

中学時代だと思うが、読む本リストみたいなものを作成して、机の前に貼っていた。
そのリストに挙がっていながら結局これまで読むことを先延ばしにしてきたのが、ヘルマン・ヘッセ車輪の下』。おそらく、「本の雑誌」の特集か何かで、若い時に読んでおくべきと書かれていたのだと思う。また、当時の自分としては、まずは名を知る文学作品の中でも特にこの一冊を読んでみようと思っていた本だった。
…が、結局それから30年近く読まず。


もう読むことはないかも…と思っていた『車輪の下』を今回読んでみようと思ったのは、TBSラジオ「セッション22」の“未読座談会”という企画があったから。この企画は、『「罪と罰」を読まない』という本の発売に合わせて行われたもので、本の内容はAmazonにもある通りこのようなもの。

  • 抱腹必至。読まずに語り、読んで語る読書会
  • 翻訳家、作家、作家であり装丁家の四人が名著『罪と罰』の内容を僅かな手がかりから推理、その後みっちり読んで朗らかに語り合う。
  • 「読む」とは、どういうことか。何をもって、「読んだ」と言えるのか。ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことがない四人が、果敢かつ無謀に挑んだ「読まない」読書会。

本では『罪と罰』だが、ラジオの企画で題材となったのはヘルマン・ヘッセ車輪の下で』(新訳版では、タイトルに「で」がつく)。チャレンジするのは荻上チキ、南部広美と作家の三浦しをんの3人で、読んだことのあるサンキュータツオが折に触れてヒントを出す進行役として、1週目に未読の状態で座談会を行ない。2週目には読後に再度作品について語りあうという内容で、これは非常に面白かった。



車輪の下で』の具体的な推理の内容についてはここでは省くが、1週目の放送では、少し推理したあとで1頁目が朗読され、さらに推理をつづけた後で、最終頁が朗読され、参加者全員で推理をまとめる、という手順が取られた。
したがって、今回、「最終頁の内容を最初から知っていて読み始める」という、これまでに無い経験をした。
その最終頁の一行目にはこう書いてある。

「あそこに行く紳士方も」と彼は小声で言った。「ハンスが破滅するのに手を貸したんですよ」

どうも主人公ハンスは何かの罪を犯す、もしくは死んでしまう等の問題を起こしてしまうらしい。番組ではそれについて「殺人」という推理を立てていたが、自分も同じだった。
そういういこともあって、いつにも増して、「ハンスはいつから破滅の道に進むのか」「ハンスは何をしてしまうのか」ということに思いを巡らせる。また、見ないようにした裏表紙のあらすじからチラリと見えた「自伝的小説」という言葉から、おそらくヘッセが学生時代に犯してしまった失敗を大袈裟にしたものがクライマックスに来るのかも…と推理した。



以下、ネタバレ感想。


というわけで、常に展開を先回りして予想しながら読む読書となったが、この本は展開が読めない。


まず、序盤のポイントとなる神学校の試験。主人公ハンス・ギーベンラートが地域の期待を一身に背負って臨んだ試験は初日午後に失敗し、もうこれは合格しないのだろう。合格しなかったので落ちぶれていく話なのかもしれない…!と予想するも、終わってみれば見事2番の成績で合格。
ハンスは地元を遠く離れてエリートの集まる神学校に入学。同部屋で変わり者扱いされているハイルナーと仲良くなり、心を通わせるどころか、男同士のキスを経験する、という衝撃の展開に驚き、もしかして男二人での心中もの!!!と予想する。2人は、一時不仲になるも仲直りして親密度はこれ以上ないものとなったが、独自路線過ぎたハイルナーは校長らから嫌われて途中で退学してしまう。
ハイルナーが去ってから健康状態が優れず、休学扱いで地元に戻ることになったハンス。失われた少年時代を取り戻そうと懐かしい場所を訪れるも、皆から見放された気分になり、自殺衝動に囚われる。しかし、秋になって自殺衝動も落ち着いた頃に突然恋に落ちる。この恋愛感情の芽生えの描写があまりにも激しかったために、やはりハンスの「破滅」とは、初恋相手のエンマに絡めて何か犯罪を犯してしまうということか!!と思ったら、エンマはあっさり(遠く離れた)実家に戻ってしまい、会えないことに。
このまま家で引きこもりになるのか?という予想は外れ、父親のあっせんで、機械工の見習いとして働き始めたハンス。ある日誘われたパーティでお酒をたくさん飲まされ、家に帰る途中で川に落ちて水死。


あまりにも呆気ないハンスの死。特に自分は「自伝的小説」なんだから主人公が死んだりはしないだろう、と勝手に思い込んでいたので、水死する数行前まで、そのような事態になると想像できなかった。
…と、ここまでは、若い頃の自分が読んだときにも感じたに違いない読後感だろう。


そういった展開の面白さよりも子を持つ親になった自分の心を捉えたのは、ハンスの、つまりヘルマン・ヘッセの世間や大人社会に対する恨み節だ。特に学校関係者には手厳しい。

校長にとっては、自分がよびさましたこのすばらしい名誉心を導き、それが育っていくのを見るのは密かな喜びだった。(略)
彼の義務であり国家から委託された仕事とは、うら若い少年の生来の荒削りな力と欲望を制御して根絶し、その代わりに静かで節度のある、国から承認された理想を植え付けることだった。(略)
小さなギーベンラートはなんと見事に成長したことだろう!彼は放浪や遊びを自分からやめてしまった。授業中にバカな笑い声を立てることも、もうずっと前からなくなっている。庭いじりやウサギの飼育、忌まわしい釣りなども、彼は断念したのだ。
(p76-78)

感じやすい若者の心を美しさや安らぎで取り囲むことができるように、政府は愛情に満ちた配慮で、世間から隔絶し、給料や森の背後に隠されたこのみごとな修道院プロテスタント神学校の生徒たちに提供したのだった。(略)
それによって、青年たちに何年にもわたって、ヘブライ語ギリシャ語やその他の科目こそが人生の目標であると思わせ、大まじめに勉強に取り組ませることが可能になったし、若い魂の渇きを純粋で理想的な学問や楽しみに向けることができたのだった。(略)
人間は一人一人なんと違うことだろう。そして育つ環境や境遇もなんとさまざまなことだろう!政府は自らが保護する学生たちのそうした違いを公平かつ徹底的に、一種の精神的なユニフォームやお仕着せによって平均化してしまうのである。
(p90-91)

学校の先生はクラスに天才が一人いるよりも、正真正銘の鈍才が十人いる方を喜ぶものである。
それはもっともなことである。というのも、教師の課題は極端な人間を育てることではなく、ラテン語や計算のできるよき小市民を要請することにあるからだ。
(p154)


そして、非難の対象は学校関係者だけではない。ラストシーンで靴屋のフライク親方が「あなたとわたし、我々も、あの子にいろいろとしてやれたことを怠ったのではありませんかな?」とハンスの父親に語りかけた台詞からも分かる通り、批判の目は、家族や社会全体に向けられる。
ここで指摘されていることは、完全に今の自分にあてはまる。つまり、中学受験を控えた小学5年生の息子を持つ自分にとって、楽しいことを犠牲にしている子どもから追及されているようにも思え、なかなか読み飛ばすことの難しい文章だった。

そして、学校と父親や何人かの教師の野蛮な虚栄心が、無邪気に広がっていた穏やかな子どもの魂のなかで遠慮会釈なく暴風雨のように吹き荒れることで、このもろくて繊細な人間をすっかり追い詰めてしまっているとは、誰一人考えなかったのだ。どうして彼は、もっとも感じやすく危うい少年時代に、毎日毎日夜遅くまで勉強しなければならなかったのだろうか?どうして人々は彼からウサギを取り上げ、ラテン語学校の同級生を意図的に遠ざけ、釣りや散歩を禁じ、子どもを疲労困憊させるようなみすぼらしい虚栄心から来る、空っぽでちっぽけな理想を植え込んだのだろう?どう試験の後でさえ、ちゃんともらえるはずの休暇を与えてやらなかったのだろう?
いまや過度にしごかれた小馬は道端に倒れ、もう役に立たない状態だった。
どうしてこんなことを?と尋ねられたら、教師たちは疑いなく笑ったことだろう。こんなにもたくさんの他の生徒たちが、すでに同じような特訓に耐えたではないか?このように例外的に繊細な少年の神経に対して、嗅覚と感情といたわりの気持ちを働かすべきだなどと、誰が教師に要求できるのだ?せめて自然な情愛のこもった思いやりを持つべきだというのか?
学校とそれがどんな関係がある?いや、我々はハンスに対する義務を誠実に果たしたのである、と。
(p189)

6年生になったら土日も勉強で遊ぶ時間がないだとか、ゲーム(3DS)はいずれ禁止にしなくては…だとか、2月になって6年生のコースが始まったら…と思うと親までが憂鬱だ。
我が家の場合、幸いなことに、よう太は今のところ楽しく塾通いをしており、スポーツの苦手なよう太にとっては一つのアイデンティティーになっているようで、素直にそれを応援してあげたい。
しかし、こと「中学受験」という限られた中では、一年後に実際にテストを受けることになり、そこで残念な結果が出るのが心配で、家では夫婦のどちらかが大体怒っている。「今頑張らないと…」と、ハッパをかけて塾の定期試験前はゲームも我慢させており、ハンスでいうところの釣りや散歩を禁じている状態だ。
そして、親の理屈としても、ハンスの教師と同じで「こんなにもたくさんの他の生徒たちが」苦しい思いして勉強しているんだよ!というもので、よう太も中学受験という「車輪」の下で翻弄されているのかと考えたりもする。また、自分が経験していないこともあり、中学受験そのものが良いのか悪いのか判断をつけないままここまで来てしまった感じだ。
しかし、高校受験なり大学受験なり、もしくは社会に入ってからも多かれ少なかれ色々な部分でやりたいことを我慢して何かに打ち込む必要が出てくるのだから、ここは、失敗しても良い練習と捉えたい。というか、捉えるしかない。
親としては、出来るだけ子どもの意志を優先させて、逃げ道も用意した上で、サポートを続けたい。


…ということで、予想外の方面で色々と考えさせられる小説でした。若いうちに読んでおくと良いと言われ続けた作品でしたが、41歳の今読んで、それはそれで正解だったかもしれません。