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性表現の扉を開けた少女漫画〜竹宮惠子『風と木の詩』(1)〜(3)

白泉社文庫版で1巻から読み始めましたが、面白すぎる内容に驚いています…。

風と木の詩 (第1巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第1巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第2巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第2巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第3巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第3巻) (白泉社文庫)

ジルベール

今になって、1976年連載開始の少女漫画の古典を読もうと思ったきっかけは、1月に出た『少年の名はジルベール』という本が気になっていたことに加えて、つい先日、ビブリオバトル山岸涼子日出処の天子』を紹介したところ、主人公の美しさと、テーマの共通性という意味で、これも是非読んだ方がいい、と複数の方からこの漫画を薦められたこと。


そのジルベール
自分が読んだキャラクターで似ているのは敢えて挙げれば吉田秋生BANANA FISH』のアッシュ。
女性と見まがうほどの美貌でプライドが高く、時に冷酷に人を傷つけるが、感情面で脆い部分もある。そして、彼を「調教」した人物がいる。*1
しかし、アッシュが、同世代の仲間から畏敬の念を向けられるのとは違って、ジルベールは寮の人間から蔑まれている。いや、周囲の人間は、その美しさに魅了されているからこそ、蔑んでやまない。物語の中でもそう呼ばれているよう、まさに「悪魔」のよう、という形容詞がぴったりくる存在だ。
読者としても、教育ママでなくとも「眉を顰めたくなる」人物といえる。

ジルベールの周辺

2巻までは、周囲から観たジルベールの評価という面が強い。
舞台は、19世紀末のフランス、アルルの男子校ラコンブラード学院。ジルベールが、寄宿舎に住むほとんどの生徒から鼻つまみ者、もしくは、上級生の性のはけ口として扱われる中、何も知らない転入生セルジュは、ジルベールの味方になろうとする。1巻では、ジルベールが何を考えているのか?どうしてこのような人間になったのかについては、作中であまり触れられない中、セルジュだけが、そこに向き合おうとする。
そこに、2〜3巻のジルベールの生い立ちの話が入る。
3巻までを読むと、この物語は、次のようにセルジュを応援する視点で読めばいいのだろう。

  • ジルベールを誰かがどん底から掬い上げなければならない。
  • それをできるのは外部からラコンブラード学院に来たセルジュしかいない。
  • 頑張れ!セルジュ!ジルベールの誘惑に負けるな!

勿論、パスカルやカールは、セルジュの取り組みを後押しする応援団だが、学院内部の生活が長い人間には、ジルベールを自分たちの力で変えられるとはとても信じられないのだった。
セルジュがジルベールの魔の手に落ちるのか、いや、一旦は魔の手に落ちないと、ジルベールは救うことができないのか…そこが4巻以降の読みどころだろうか。

性表現について

さて本題。
そういう漫画だとは知っていたが、それでも、この漫画の「性」の扱い方には度肝を抜かれた。驚いたポイントをいくつか挙げてみる。

  1. 1巻の冒頭がベッドシーンから始まる。
  2. 性欲について真正面から向き合う内容になっている。
  3. 明らかな、児童に対する性的虐待シーン(同性)が登場する。その虐待が犯罪として(強姦した人間が犯罪者として)描かれればまだ救いがあるが、保護する立場の人間からも虐待を受けている。


まず、一つ目。例えば同時代の漫画である『日出処の天子』は、同性愛を扱っているが、最初は、毛人が厩戸王子を見て女性と間違えてドキリとするシーンということで、性表現どころか同性愛というテーマに対してもソフト。(セルジュが初めてジルベールを見てドキリとするシーンだけを見れば似ているのだが)
また、『ポーの一族』も、男子学生寮を舞台にしているという点では似ているが、同性愛については少し触れただけだし、性的な表現は、たしかキスどまり。美少年が主人公という意味では共通しているが、性的な意味では「別にフツー」の漫画だった。
それがあったので、まさか、こんなシーンから始まる漫画だとは想像できなかった。しかもブロウは「達している」顔っぽいし、二人が裸でいるシーンも4ページに渡り、とても長い。さらに次の4パージでは、シャツを纏いながら学校に現れたジルベールに「きなさい!話がある」と呼び出された院長とも「そういう仲」らしいことが示唆される。(というか、セルジュが学院に到着するシーンではベッドインしてる…)
ジルベールとはどういう人物か、ということが強烈に伝わるから凄い出だしではあるし、彼が枠にはまらない人間だということが分かるから、このあと、礼拝堂近くでカールを全裸で待ち伏せている変態行為(!)も、ジルベールならあるかも、と納得できる。


二つ目も結構驚いた。
まず、パスカルの存在。
彼は、カールとの会話の中でジルベールについて語ることが多いが、基本的に客観的なスタンスを取り続けようとする。こんな風に。

オレの場合、人間に対してもつ興味は純粋に生物学的なものだ
学校中の関心を集めてる彼(ジルベール)だって オレにとっては一個の生物
もっとも彼の行う性交(セックス)とは生物学上の生殖(セックス)を意味しない
それについての関心はある!
同性愛なんてのは人間だけのものだからね!
(1巻p79)

オレに言わせりゃ おまえが悩むことなんてなんにもないぜ
だいたいジルベールと寝ようって気をおこすのがなぜいけない?
むこうはその気で誘惑してんだ!据え膳食わぬは武士の恥っていうじゃないか
(1巻p142)

タテマエ的な内容ながらも、読者の興味のツボを上手くついた話で、他の登場人物がひたすらジルベールに振り回される中で、パスカルの存在は大きい。ただ、そんなパスカルも、ジルベールの魅力を否定しないところも、また誠実な彼らしい。


そしてセルジュ。
クリスマス休暇にパスカルの家に行く回では、男女の恋が結婚や生殖に繋がる、という、いつものパスカル節の話を挟んで、パスカルの妹のパット(パトリシア)の裸を見てしまうエピソードが入る。
パットとキスをしたあとのセルジュの独白がいい。

ああ からだじゅうが脈うつのを
どうやってとめたらいい…!
ただ見ていただけだった
好きだという感情もなく
ふれてさえいないのに
あの突然の衝動は…
2巻p105

このあと、二人はパーティーでダンスをして、お互いに好意を抱く部分もあるが、ここではっきりと「好きだという感情もなく」と書き切ってしまうことに驚いた。
少女漫画の中の男女の話なのに、「恋愛」ではなく「性の衝動」が語られているのは凄いと思った。


次に、身体ともに参っていたジルベールからの頼みで、裸でベッドで一晩をともにしたあと、懺悔に行くエピソードも、パットの時と似ている。
ここで、読者には、セルジュはその晩のことを神父にすべて話したように見えた。さらに、それについてカールに相談する場面でもセルジュは「ぼくのしたことはまちがってるかい?ああしなければ彼は窓からとびおりたかもしれない」と話す。ここにも嘘はない。
しかし、セルジュには隠していることがあった。
カールと喋ったあとのセルジュの独白が、また直接的で凄いと思う。

カール
…ぼくが神父さまにたずねたかったのはそんなことじゃない
自分のからだがどうしてかってに反応するのか知りたかった
だれでもがそうだというなら なぜそんなしくみになっているのかを…


パスカルのいうように子孫をふやすため?
それなら女の子に対してだけ反応すればいい
そうでないのはなぜ
なぜなんだろう……?
2巻p241


そして3つ目。
幼いジルベールがボナールから襲われる場面、その後の、オーギュストとの場面、こういったシーンは、見ていて痛々しく、ここまでちゃんと描く必要がないのではないか。省略しても作品的な価値は変わらないのではないか、と思える場所まで描いてある。
BBCニュースの記事での竹宮惠子さんへのインタビューなどを見ると、やはり1976年当時の時代の空気と、「先駆者」として挑戦する気持ちが強かったのだろうと思う。

1970年代後半の少女漫画というと、熱心な固定読者はいるものの、少年漫画と比べれば部数も少ないニッチな市場だった。インターネットなど遠い未来の時代で、少女たちはジルベールとセルジュの物語を親や教師に知られずに楽しむことができた。と同時に、そこに描かれる少年同士の性描写も、親たちに知られずに済んだ。描写は決して露骨でも扇情的でもないが、作品には性行為だけでなく、強姦や近親相姦も出てくる。わずか9歳の男の子が被害に遭う場面もある。

自分の挑戦によって、日本の漫画における性表現の「扉を私の作品が開いたのは事実だと思います」と竹宮さんは認める。そして、以前はないに等しかったものが今や、女性や子供の福祉を脅かしかねないと国連がみなすものにまで発展してきた。

BBCニュース - 国連が批判する日本の漫画の性表現 「風と木の詩」が扉を開けた


まだ3巻までしか読んでいないので、作品全体のテーマはよくわからないが、上に挙げたように、この漫画は、恋愛のゴールとして性を描くのではない、そこがこの漫画で竹宮恵子が行った「挑戦」なのだろう。『日出処の天子』は、結局は恋愛メインの話で、性の衝動(恋愛とは切り離された性)について描かれていたわけではない。
1,2巻で繰り返されるジルベールとブロウやその他上級生とのセックスシーン、そして3巻での幼いジルベールへの性暴力。3巻までの中では、通常の、恋愛の先にある性(それこそ、パスカルが解説するような性)は、この漫画では描かれない。
そこが異常な事態でもあり、読者を惹きつけて離さない部分でもある。

*1:同じ吉田秋生の『吉祥天女』の叶小夜子は、『日出処の天子』の厩戸王子にイメージが重なることを考えると、吉田秋生は、この時代の漫画家の影響が強いのだろう。事実どうだったのかはよく知らないが、そういう部分に掘り下げたインタビューなどがあれば是非読んでみたい。