Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

知ってたつもりで全く知らなかった〜加藤直樹『九月、東京の路上で』

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響


話題になっていたので、この本のことは何年も前から知っていた。が、関東大震災時の朝鮮人虐殺という史実は知っているし、歴史資料的なものが不得意というそれだけで読むのを避けてきた。
実際、いざ、この本を前にして、パラパラと頁をめくってみて、目次の、多くの場所で起きた出来事の羅列を見るにつけ、あ、もしかしたら、読み切れないかも…と思ってしまった。
ところが、読み始めると、この本の持つ力に圧倒され、よく出来た構成にも助けられ、あっという間に読み終えてしまった。


まず、110頁にも書かれているように、「関東大震災時の朝鮮人虐殺は、東京東部のごく狭い地域で起こったことだと思っている人が多い」がそうではない。
自分がまさに「狭い地域」のことだと思い込んでいた典型で、そういった人たちに向けてこの本は書かれていると言える。
この本は1章、2章は9/1から1日、2日と経って状況が進む様子が時系列で書かれているが、そこが巧みなところで、時系列が進むことにより、被災地からの避難民が外側に移動するため、地理的な広がりを見せる。
1章では、焼失地域(浅草、日本橋、神田、京橋、本所、深川)から、江東区など東京都の東部の話が出てくる。このあたりまでは何となく聞いたことのある話だったが、2章で、虐殺が地方(熊谷、寄居、高円寺、小平)に広がるのを見ると、全く知らなかった「本当は恐ろしい」日本人の話が現れてくる。
自分の認識は、虐殺は、震災の惨状にパニック化した群衆が起こしてしまったというものだったが、読むにつれ、それは日本人に甘い、甘過ぎる認識であることを知ることになる。


例えば、虐殺のきっかけとなった、朝鮮人暴動、朝鮮人襲来のデマは、軍や警察がそれを広げるのにむしろ加担していたという事実(1章)を、自分は全く知らなかった。
また、地方の話は主に9/4以降の話となるが、震災から3日以上経って、直接被災していない場所、つまり地震によるパニックという要因が少ない場所でもこんな風になってしまうのかと唖然とした。
例えば、寄居の飴屋の男性朝鮮人・具さんのエピソードを読んでも、虐殺する側の論理が明らかに破綻しているし、理性的でない。そこには、まさに「赤信号みんなで渡れば怖くない」の精神、そして、「朝鮮人は殺してもいい」という狂気だけがある。


秩父に近い埼玉の寄居でも、東京からの避難民が持ち込んだ流言に、村の自警団は戦々恐々としている。

だが寄居の隣、用土村では、人々は「不逞鮮人」の襲撃に立ち向かう緊張と高揚に包まれていた。事件のきっかけをつくったのは、その日夜遅く、誰かが怪しい男を捕まえてきたことだった。自警団は男を村役場に連行する。ついに本物の「不逞鮮人」を捕らえた興奮に、100人以上が集まったが、取調べの結果、男は本庄署の警部補であることがわかった。

がっかりした人々に対して、芝崎庫之助という男が演説を始める。「寄居の真下屋には本物の朝鮮人がいる。殺してしまおう」。新しい敵をみつけた村人たちはこれに応え、手に手に日本刀、鳶口、棍棒をもって寄居町へと駆け出していった。p100
http://tokyo1923-2013.blogspot.com/2013/09/1923962.html?m=1

このような自警団の状況について、本書では、山岸透『関東大震災朝鮮人虐殺80年後の徹底検証』から、以下のような文章を引用している。

自警団、自警団員の中には、自警を超えて、虐殺、朝鮮人いじめを楽しむ者も出てきた。前述で見たような殺し方は、もはや自衛のためのものではなく、社会的に抑圧されていた者が、その屈折した心の発散を弱者に向けるようになったものである」「危険な朝鮮人ではないということを十分に知った上での暴虐であり、自分たちのストレスの発散を求めた、完全な弱い者いじめになっている」「対象は安全に攻撃できる、自分より弱いものであればいいということになる」
p90

これを読んで、「そうは言っても90年前のこと」と捨て置けない空気が2019年9月の日本には満ちている。
とはいえ、本書を読むと、このような、地方での不合理な虐殺は、さまざまな場所で起きていることを知り、何故?の気持ちが高まっていく。


次に強烈な印象を与えたのは習志野収容所に関するもの。
民衆による虐殺行為に、これはまずい、と感じた軍や警察は、自警団による虐殺をこれ以上拡大させないために、朝鮮人習志野収容所に収容し、集中隔離するような対策を取る。
…のだが…。

ところがその間、収容所では不可解なことが起きていた。船橋警察署巡査部長として、習志野収容所への護送者や収容人員について毎日、記録していた渡辺良雄さんは、「1日に2人か3人ぐらいづつ足りなくなる」ことに気がつく。収容所附近の駐在を問いただしたところ、どうも軍が地元の自警団に殺させているのではないかという。p140
http://tokyo1923-2013.blogspot.com/2013/09/75.html?m=1

リンク先を読んで頂くと分かる通り、刀の切れ味を確かめるために、収容所から朝鮮人を「貰ってくる」ようなことが行われたという。狂気の沙汰としか思えない。
また、習志野に護送された朝鮮人の中から、自警団のえじきに差し出された人たちがいたこともエピソードとして書かれている。(差し出された16人)

東日本大震災のときに、「暴動・略奪の起きない素晴らしい国」として持ち上げられたのと同じ国とは思えない。


さらに追い討ちをかけ、自分の弱った心にトドメを刺したのは、小・中学生による作文だ。

朝鮮人がころされているといふので私わ行ちゃんと二人で見にいった。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによってみた。すると頭わはれて血みどりになってしゃつわ血でそまっていた。皆んなわ竹の棒で頭をつついて『にくらしいやつだこいつがいうべあばれたやつだ』とさもにくにくしげにつばきをひきかけていってしまった」(横浜市高等小学校1年【現在の中学1年】女児)

「夜は又朝鮮人のさはぎなので驚ろきました私らは三尺余りの棒を持つて其の先へくぎを付けて居ました。それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だけがころがって居ました」(同1年女児)p129
http://tokyo1923-2013.blogspot.com/2013/09/blog-post_1256.html?m=1

これほど気が重くなる作文もないだろう。
また、虐殺死体が転がっているのが「ありふれた」景色だったこともうかがえる。


しかし、それにしても何故?


本書では、別途章立てして、理由の考察を行なっている。すなわち8割程度は、基本的には事実に基づいた内容のみで話を進め、解釈は出来るだけ含まずに書くことで、資料的価値を高めている。
166頁を読み進めたところでやっと「虐殺は何故起こったのか」の考察が入る。

その背景には、植民地支配に由来する朝鮮人蔑視があり(上野公園の銀行員を想起してほしい)、4年前の三一独立運動以降の、いつか復讐されるではないかという恐怖心や罪悪感があった。そうした感情が差別意識を作り出し、目の前の朝鮮人を「非人間」化してしまう。過剰な防衛意識に発した暴力は、「非人間」に対するサディスティックな暴力へと肥大化していく。
http://tokyo1923-2013.blogspot.com/2013/10/blog-post.html?m=1


この土台があり、かつ、治安行政や軍が流言の拡大に加担したことが大きいのだという。


今でも、日本の植民地支配は、韓国にとっては良かったことだと考える日本人は多いと思うが、当時から朝鮮人からの怒りを感じつつも、その怒りを「無いもの」と抑え込んでいたらしいことが、4章のさらに突っ込んだ考察を読むと分かる。
それがかえって朝鮮人への恐怖心を増大させることになったのかもしれない。
1910年の韓国併合、1919年の三・一運動、1923年の関東大震災における朝鮮人虐殺はまっすぐに繋がっている。


治安行政については、『災害ユートピア』からエリートパニックという言葉を引いて、次のように説明されている。

災害時の公権力の無力化に対して、これを自分たちの支配の正統性への挑戦ととらえる行政エリートたちが起こす恐慌である。その中身として挙げられているのは「社会的混乱に対する恐怖、貧乏人やマイノリティや移民に対する恐怖、火事場泥棒や窃盗に対する強迫観念、すぐに致死的手段に訴える性向、噂をもとに起こすアクション」だ。

ここから見えるのは、ある種の行政エリートの脳裏にある「治安」という概念が、必ずしも人々の生命と健康を守ることを意味しないということである。それどころか、マイノリティや移民の生命や健康など、最初から員数に入っていないということである。
p194


団地と移民 課題最先端「空間」の闘い

団地と移民 課題最先端「空間」の闘い

ちょうど読んでいた安田浩一『団地と移民』でも、「治安」という言葉への違和感が語られていたが、移民が多い=治安が悪いと考えるのは、日本でもパリでも同じだという。
こうした偏見は、マスコミによって増幅されることも多く、そうなると、それをさらに視聴者がSNSで拡散させる偏見拡大フィードバックが働いてしまう。


そう考えれば、「拡散しない」ことは勿論、異議を表明してストップをかけるなど、SNSの一利用者として出来ることは、無数にある。理性を保って冷静に振る舞えれば…。


しかし、ここまでの話を読んでしまうと、自分が本当に「虐殺する側」「虐殺を黙って見過ごす側」に回らないとは言い切れないのではないかと不安になってくる。
本書では、最後に〈「非人間」化に抗する〉ことの必要性を訴える。

関東大震災はそんななかで起こった。朝鮮人を「非人間」化する「不逞鮮人」というイメージが増殖し、存在そのものの否定である虐殺に帰結したのは、論理としては当然だった。

いま、その歴史をなぞるかのように、メディアにもネットにも、「韓国」「朝鮮」と名がつくすべての人や要素の「非人間」化の嵐が吹き荒れている。そこでは、植民地支配に由来する差別感情にせっせと薪がくべられている。「中国」についても似たようなものだろう。
(略)
「非人間」化をすすめる勢力が恐れているのは、人々が相手を普通の人間と認めて、その声に耳を傾けることだ。そのとき、相手の「非人間」化によらなければ通用しない歴史観イデオロギーや妄執やナルシシズムは崩壊してしまう。だからこそ彼らは、「共感」というパイプを必死にふさごうとする。人間として受け止め、考えるべき史実を、無感情な数字論争(何人死んだか)に変えてしまうのも、耳をふさぎ、共感を防ぐための手段にすぎない。


『団地と移民』でも、やはり個人と向き合うことの重要性が説かれている。2章では、中国人住民が急増した芝園団地の「芝園かけはしプロジェクト」に取り組む岡崎広樹さんはイベントについて次のように語る。

どんな形であれ、人が集まるのは良いことだ。それは防災講習会で得た結論だった。講習そのものよりも、岡崎はそこで中国人ひとりひとりの顔に接したことが収穫だと感じていた。
顔は大事だ。
数字でも統計でもデータでもない。生身の、血の通った人間が、目の前にいる。それを感じたことが重要だった。

しかし、ただ、直接知り合えばいいかと言えば、そうとも言い切れないらしい。芝園かけはしプロジェクトについて書かれた別記事では、逆効果となる場合についても触れられている。

異なる集団同士で接触が増えると相手への偏見が減るという考え方は、社会心理学で「接触仮説」と呼ばれる。ただし、接触することで対立が激しくなる場合もあり、接触仮説が成り立つには、ともに活動することが双方の利益になるような関係にあるなど、いくつかの前提条件が必要とされる。
https://globe.asahi.com/article/11578981


このことも踏まえてか、安田浩一さんは『団地と移民』の中でこのように書いている。

相手の立場になりきって心情をすべて理解することが大事なのではない。ここに住んでいる。
同じ社会でともに生きている。
違いがあっても隣人として暮らしていける。
「つなぐ」ために奔走する人々を見てきたなかで、必要なのは、そうした意識だけでよいのだと、私は考えるようになった。

精神論ではあるが、「非人間」化を避けるためには、必要な考え方だとよく分かる。
すべてを理解し合う必要はない。
違いがあっても隣人として暮らしていけることを、共通認識として持つことが、日常生活の中では重要だ。


そしてもうひとつ重要なのは、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という通り、歴史に学ぶことだろう。今回この本を読むことで知り得た史実を、繰り返し咀嚼し、流言に惑わされないことも、「非人間」化を避けるのには必須だ。
その意味では、今回興味を持った、韓国併合から三・一運動までの日韓の歴史について、もっと勉強しておきたい。
本書の副題は「ジェノサイドの残響」だが、90年前にジェノサイドが起きた東京に住む者としては、こういった歴史を学ぶことは必修科目に近いかもしれない。


最近は、最悪の日韓関係と言われながらも、「韓国人は理解できない」というトーンの記事にも共感を覚えることが多かったが、この本を読んで、「この時期の日本人こそよく分からない」と思うようになった。
日本人を知るためにこそ、日韓関係の歴史をもっと学んでいきたい。

バカミス欲が満たされました〜柾木政宗『 NO推理、NO探偵?』

ひとつ前の『パワー』は、苦手な翻訳小説で、やや社会的なエッセンスを含む内容。
こういうのを読むと、反動で、「もっと、ベタに日本の小説で、もっとバカなお手軽小説が読みたい!」という欲が湧き上がってくる。
先日、この思いから手に取ったメフィスト賞受賞作『誰かが見ている』は、メフィスト賞っぽくなく、自分の選書が間違っているのにもかかわらず、怒りを本に向けてしまい大反省。
今度こそは!と、しっかり下調べをして、これなら大丈夫だろうと選んだのがこの本。


NO推理、NO探偵? (講談社ノベルス)

NO推理、NO探偵? (講談社ノベルス)

メフィスト賞史上最大の問題作!!

「絶賛」か「激怒」しかいらない。
これはすべてのミステリ読みへの挑戦状――。


私はユウ。女子高生探偵・アイちゃんの助手兼熱烈な応援団だ。けれど、我らがアイドルは推理とかいうしちめんどくさい小話が大好きで飛び道具、掟破り上等の今の本格ミステリ界ではいまいちパッとしない。決めた! 私がアイちゃんをサポートして超メジャーな名探偵に育てる! そのためには……ねえ。「推理ってべつにいらなくない――?」。


読んでみて一言。
こういうのが読みたかった!
こういうバカミスが読みたかった!

ミステリというジャンルは、SFとは違って、できることが限られているからこそ、後発になればなるほど、物理トリック、叙述トリックにかかわらず、既出のトリックの焼き直しや組合せになってくる。
だから、真面目に「新しい方法」で驚かせようと考えると、どうしてもバカミスに近づいていく、そういうことなんじゃないかと思う。


まず、この作品の特徴は、ひとことで言うとメタ。
第四の壁を破る演出、と言うと、登場人物が読者に語りかける演出が良く見られるが、この作品の語り手のユウは、物語が「本」という媒体で読まれていることを意識して喋りまくる。
こういう演出は、いわば楽屋オチのようで、読者を醒めさせるデメリットがあるが、ここまで徹底していると、「そういう作品」として読むしかなくなる。

例えばこんな場面。あまりにメタ寄りな発言を隠さないユウを名探偵役のアイがたしなめるというのがお約束展開。

川越まつりは関東では数少ない山車の曳き回しの祭りで…(略)
アイちゃんは怒って私を見ている。その視線に気づいた私は、
「なーに? アイちゃん」
「何で急に黙りだしたのよ」
「ちょっと今は話しかけないでね。今は地の文で川越の魅力を語っているんだから」
「うわっ、また出たよ、謎の概念『地の文』」
旅情ミステリを成立させるんだから黙ってろ。
私は地の文で、名探偵に悪態をついた。
P113

「そうね。でもその線は消えるわ。だって被害者の手にはふ菓子がついていたんでしょ?」
「うん、105ページ上段13行目で……」
「うるせーーーーーーーーー」
ついにアイちゃんが大噴火をかました。
「逐一何ページの何行目とか言わなくていいのよ!そんなの聞いたことない!」
「前例があることしかやらないなんて、アイちゃんもとんだ腰抜けだね」
P207


物語は

  • 第一話 日常の謎っぽいやつ
  • 第二話 アクションミステリっぽいやつ
  • 第三話 旅情ミステリっぽいやつ
  • 第四話 エロミスっぽいやつ
  • 最終話 安楽椅子探偵っぽいやつ

と、冒頭で「推理」する能力を失った名探偵が、1~4話では本格以外のミステリジャンルを舞台に、推理なしで事件を解決に導く。ユウは、アイちゃんのサポート役というよりは芸能人のマネージャーという役回りで、アイドルとしての魅力を持つアイちゃんなら、推理なしでも、十分に名探偵になれる!と、さまざまなジャンルのミステリに取り組ませる。つまり、ユウは、この小説のプロデューサーとも言えるかもしれない。
最終話で、アイは推理能力を取り戻し、4話までを、「推理」でおさらいした挙句、「最後の謎」に挑む。ここでは「読者への挑戦状」が出されて、いかにも本格推理っぽい体裁をあしらわれてはいるが、明かされる真犯人は、裏表紙で書かれた言葉を使えば「絶対予想不可能な真犯人」。
このオチは、書き方によっては本当につまらないオチだと思うけど、ここまでおふざけが徹底していると、むしろ応援したくなる。
でも、激怒する人もきっといる。


バカミスって何?と聞かれたときに、教えたくなる本が『6枚のとんかつ』『○○○○○○○○殺人事件』のほかに1冊加わった。
アイ、ユウのコンビが登場する8月に出たばかりの最新作もAmazonレビューで★一つだし、これは期待しかない(笑)

男女逆転小説で味わうべき恐怖〜ナオミ・オルダーマン『パワー』

パワー

パワー


ちょうど一週間前に、『したたかな韓国』を書いたあと、韓国がGSOMIAを破棄するなど、日韓関係がさらに悪化する中、こんな事件があった。

t.co


こういうニュースを見ると、本当に酷いことを言う人がいるのだな、と驚くのと同時に、この人たちはどういう人?と思ってしまう。*1
そして、自分は本が好きなので、こういうネット上に跋扈する暴言の発言者は、ネットばかりで「本を読まない人たち」だろう、と決めつけ、とりあえず自分との間に線を引く。
ところが、例えば、好きになれないネット民としてすぐに頭に浮かぶ、いわゆる「ネトウヨ」の人たちは、「論破」が好きなので、本で勉強して理論武装をするのも好きらしい。書店では嫌韓本や日本スゴイ本が大いに売れている。


すると、自分は、自己防衛的にこう思う。
彼らは「正しい」ことが好きで、自分の「正しい」を補強する本は読むけど、フィクションは読まないのでは?他人に感情移入できない人は小説を読めないでしょう…と。
ところが、彼らは百田尚樹の小説も読むようだ。自分が百田尚樹の小説を読みたくなったのは、そこに理由がある。自分が読む「小説」と、百田尚樹の書く「小説」には、何か根本的な違いがあるのでは?と思ったのだ。


さて、実際に著作を読んでみて、(まだ2冊しか読んでいない中で、断定的に書くのはダメだと思いつつ)現段階での気持ちは以下。

まず、百田尚樹の小説は面白かった!しかしそれはエンタメ度が高く、読者を抜群に楽しませてくれるが、読者自身は安全地帯にいたまま、脅かされないタイプの小説(これ自体は悪いことではなくスカッとする小説には必要ですが)なんだと思う。*2
自分はそういう小説も大好きだが、一番好きなのは、スカッとしない、読者が安全地帯から引きずり降ろされるような小説で、今回読んだ『パワー』もそのような小説だ。


話は飛ぶが、先日、あいちトリエンナーレに行ってきた。よう太と二人で、炎天下の中、3日間をかけて4会場を回ったので、われながら気合が入っている。
自分が現代芸術を好きなのは、「そんな見方があるのか!」という驚きや発見があるからだ。
勿論、楽しい「驚き」も多いが、ときには、自分には受け入れられないものや、過去の自分の誤りを省みてしまうような作品もある。でも、そういうきっかけが無ければ、気が付かないものだ。
そこには「意味」がなくてもいい。例えば、自分の名前が道路名称に見えることから、名のない通りに、自分の名前の標識を立てまくった「葛宇路」という作品は面白かった。
意味のないものでも、そこに芸術家という人間を介することで、世界をこのように見ている、楽しんでいる、考えている、怒っている人がいることを知る。月並みな言い方だが、それは多分、生きることを豊かにする。

『パワー』が教えてくれる「怖さ」

最初に引用した事件と、それをめぐる発言の話に戻るが、こういう発言をするタイプの人(おそらく男性だろう)は、あまり他人が何を感じ、考えながら生きているかに関心がないのだろうと思う。
そういう人にオススメなのが、この『パワー』だ。

ある日を境に、女たちが、手から強力な電流を発する力を得る。最年少かつ、最強の力を持つ14歳の少女ロクシーは母を殺された復讐を誓い、市長マーゴットは政界進出を狙い、里親に虐待されていたアリーは「声」に導かれ、修道院に潜伏する。そして、世界中で女性たちの反逆がはじまった―。オバマ前大統領のブックリストや、エマ・ワトソンフェミニストブッククラブの推薦図書となった男女逆転ディストピア・エンタテインメントがついに邦訳!


全世界の女性が一斉に「パワー」を持つことで男女の力関係が逆転する。
これまで弱い立場だった女性たちが各地で声を上げて反抗していく序盤は、ある種「よくある話」で読み物として男性でも読みやすい。
ところが女性が、立場的にも肉体的にも男性を圧倒する後半はなかなか憂鬱だ。渡辺由佳里さんの解説から引用する。

パワーのおかげで社会の男女の権限も変化する。政情が不安定なある国で残虐な女性が政権を握り、独裁者として男性の虐待を行うようになる。
電気刺激を与えられるパワーにより、女性は男性を虐待することもできるし、殺すこともできる。性交を拒否する男性に電気刺激を与えて勃起させることができるので、レイプもできるし、性奴隷にすることもできる。男の性奴隷の命は安いので、虐待して殺しても、利用する側には罪の意識はない。
男性は女性の保護者なしには外出も買い物も許されなくなる。単独で行動すると、食べることができなくなり、女性集団から襲われ、性的に凌辱されたり、殺されたりする。
「子孫を残すために男は必要だが、数が多い必要はない」と男性を間引きする案も女性から出るようになる。

主要登場人物は、あらすじに書かれているロクシー、マーゴット、アリーという3人の女性以外に、トゥンデというジャーナリストの男性がいる。このトゥンデから見た世界が、後半でどんどんおぞましくなっていくのが本当に怖い。例えばこの部分。

路上で女たちの集団ーーー笑ったり冗談を言ったり、空に向かってアークを飛ばしたりしているーーーのそばを歩いたとき、トゥンデは胸のうちでこうつぶやいていた。ぼくはここにいない、ぼくは何者でもない、だから目を留めないでくれ、ぼくを見ないでくれ、こっちを見てもなんにも見るものは無いから。
女たちはまずルーマニア語で、それから英語で声をかけてきた。彼は歩道の敷石を見つめて歩いた。背中に女たちが言葉を投げつけてくる。淫らで差別的な言葉。だが、彼はそのまま歩きつづけた。
日記にこう書いた。「今日初めて、路上でこわいと思った」
P331

女たちは、どうしようもない怒りや憎しみから男性に向けて暴力を振るうのではない。遊び半分で男をレイプし、殺してしまうことすらあるのだ。
これまで、(特に今年は多くの)フェミニズムの本を読み、男女を置き換えて考えてみる訓練をしたつもりになっていた自分にとっても、この後半のトゥンデから見た世界は、初めて知る「怖さ」があった。もちろん、女性全てにとっての世界ではないことは理解している。それでも、念入りに描き込まれる(複数女性で男性を凌辱する)レイプシーンなども辛く、性暴力被害についても新たな気持で考えてしまった。
再び渡辺由佳里さんの解説から引用する。

この小説は、「レイプされるのは、襲われて抵抗しない女性が悪い」とか「女性が独り歩きをしていたら、襲われても当然」、「嫌だと言いながら、本当は楽しんだのだろう」といった男性の言い分に対する、非常に直截的な返答だ。そういう男性に対して、「パワーが逆転したら、あなたはレイプされて殺されてもOKなのでしょうね?」と問い返している。
この小説で、パワーを持って暴走し始めた女性が行う行動は、非人道的で、残虐すぎるように思える。女性読者である私にとっても読むのがしんどい部分が多いが、男女を置き換えれば、これらは男性社会が女性に対して実際に行ってきたことなのだ。まったく誇張はない。
なぜ、男女を変えただけで、これほど残酷に感じるのだろうか?そこを読者は考えるべきなのだろう。

繰り返し書くが、こういった問題を考える際に、具体的な事件や報道よりも、小説という回り道の方が、その本質を伝えることがあると思う。
少なくとも自分は、この小説の後半に、かなりの「怖さ」を感じたし、多くの男性に、同じ「怖さ」を味わってほしい、考えてほしいと思った。

補足的に挙げたいこの小説の2つのポイント

さて、書きたい内容は書き終えたが、この小説の良さを補足的に2点。


まず1点目は、この小説が、(今から数千年後の世界で)ニール・アダム・アーモンという歴史学者が研究の成果を広く伝えるために「小説」という形式をとった、という体裁で書かれていること。
「まえがき」と「あとがき」部分で、ナオミ・オルダーマンとニールのやりとりがあるのだが、ナオミがニールに寄せた期待が面白い。

じつに楽しみです!おっしゃっていた「男性の支配する世界」の物語はきっと面白いだろうと期待しています。きっといまの世界いずっと穏やかで、思いやりがあって、(略)ずっとセクシーなせかいだろうな。

遥か未来の、女性が支配する世界は、穏やかではなく、思いやりに欠け、ナオミはそれにうんざりしているようだ。


2点目は、女性のパワーが、単に能力としてではなく、「スケイン」という器官(鎖骨にまたがるように発達した横紋筋の組織。糸を束ねてねじったような形状。)という外形上の特徴に表れる、ということ。
これは作品世界の「性」のあり方の一つのポイントになっており、スケインが発達していることは、女性の力の象徴となる。したがって、スケインに異常があることは恥じるべきことなのだ。
女性主人公の一人、マーゴットの娘ジョスリンの悩みはまさにそこにあり、パワーを持った女性の中でも虐げられる女性がいることがわかる。これも実際世界の裏返しになっており、そこに小説内のリアリティを感じる。


ということで、かなりしっかりと考えられた世界観に基づいて作られた物語になっている。
今年は珍しく、翻訳小説をいくつか読んでおり、『蜜蜂』もディストピア小説として面白かったが、この『パワー』は、それ以上に、自分が暮らす普段の世界と地続きで、色々と考えさせられた。
年末に向けて、あと一冊くらいは読みたいな。

蜜蜂

蜜蜂

*1:勿論、もとの暴力事件が一番ダメなのはわかっています

*2:申し訳ありません。2冊しか読んでいないので、これからもっと研究しますが、今のところのイメージで書いています。本当に申し訳ありません。

日韓関係への希望と失望と~浅羽祐樹『したたかな韓国』


今年は、映画『主戦場』を観たこともあり、日韓関係に関しては、慰安婦問題を中心にこれまで以上に関心を持ってニュースに触れています。
自分のスタンスを簡単に説明すると、基本的には、今の現政権の要人に目立つ「色々と過去の歴史をなかったことにしたい人たち」に強く反発を感じ、ネット上でよく見られる、やたらと隣国を貶すような文言には常に嫌悪感を持っています。
しかし、一方で、2015年の日韓合意の破棄や徴用工問題、レーダー照射問題など、 文在寅が大統領になって以降の韓国側の姿勢には、「これはついていけない」と感じていました。
したがって、現在の最悪の日韓関係をもたらした 半導体素材に関する輸出管理の見直し や、ホワイト国除外などの措置は、大賛成とまでは行かないまでも、「いたしかたない」と思っていました。(ただし、これらは報復措置ではなく、「安全保障上の懸念」が理由である必要があると思います。)


ところが、 国民の9割以上が韓国のホワイト国からの除外に賛成 などという記事を見てしまうと、 自分の頭で考えて、この結論に至っているのだろうか。 『新聞記者』で見られるような、政府側の恣意的な報道介入によって、自分の考えは操作されているものなのではないか?という疑問が浮かんできてしまったのでした。


例えば、これも長い間、日韓関係の間で重要問題となっている「竹島」の話。
これについては、自分が学生時代にはほとんど知らないような話だったため、何となく、「日本固有の領土」に、韓国側が最近になって言いがかりをつけているのでは?と思い込んでいたのです。
慰安婦問題については、(以前に比べれば)経緯も含めて ある程度の段階までは 理解出来たと思っているので、今度は竹島の問題も少し勉強してみたいと思いました。そんなときに、友人に浅羽祐樹さんのこの本を薦めてもらったのです。


本を読んだあとで改めて確認すると、いつも聴いているラジオ番組「荻上チキのsession22」で日韓関係にコメントする専門家として、本を読む前に声で浅羽さんを知っていることが分かりました。
『知りたくなる韓国』という本を書いている方なので、「親韓」の人なのかと思ったら、session22では、現在の「最悪の日韓関係」については文在寅に対してかなり厳しいコメントをされており、やはり自分の感覚は、それほど間違ってはいなかったと少し安心しました。
ごく最近の浅羽さんの意見は文春オンラインにわかりやすいインタビュー記事があります。これについては最後に触れます。
bunshun.jp
bunshun.jp


功利主義的なアプローチ

今回、本を読んでみて浅羽さんの印象を一言で表すなら功利主義的という言い方になるでしょうか。学者というと真実を追求する人というイメージがありましたが、政治学者というのはまた別ということでしょう。
そのことは、この本の「はじめに」の部分に表れています。

竹島領有権紛争にせよ、慰安婦問題にせよ、日韓両国がどのようにアプローチするのか、国際社会が注目している。日韓関係はもはや、単なる二国間関係ではなく、いかに国際社会にアピールできるか、について双方があらかじめ意識して臨まなければならない。一言でいえば<ゲーム>の局面が変わったのだ。(略)
個別のゲームで勝敗を競うことよりも、そもそも、どのゲームを戦うのかというメタ・ゲームにおける選択が決定的に重要である。勝てるゲームで戦い、負けることがわかりきっているゲームでは戦わないことこそが、最大の必勝法だ。ジャッジ(審判や勝負の判定)の存在を意識することも欠かせない。ゲーム自体がとっくの昔に変わってしまっているのに、いつまでも前のままのやり方では勝てるはずもなく、笑い者になってしまう。


この本の出版は2013年。2013年に大統領に就任した朴槿恵への期待を込めて書かれているので、2019年現在からみると、情報が古いですが、session22での発言や、文春オンラインの記事を読むにつけ、上に書いたような浅羽さんのスタンスは変わらないと思います。
この本のメインの主張を、簡単に整理すると、以下のようになります。

  • 説得力のある論理をつくりあげ、相手だけではなく、国際社会にもアピールするためには「悪魔の代弁人」をたてて臨むことが必要である
  • すなわち、相手と交渉する前に、耳に聴こえの良い天使のささやきではなく、あえて疑問や反論、批判を提示し、論理を鍛え上げておくことをしなければ勝負事には勝てない
  • そういった準備を「したたかな韓国」は着々と進めている

竹島領有権紛争

本書では、「悪魔の代弁人」をたてて 自分の弱点にも目を向ける「したたかな韓国」の具体例として第3章で、竹島領有権紛争が俎上にのぼっています。
ここでは、韓国で2009年に出版された『独島イン・ザ・ハーグ』という法廷小説が取り上げられています。この小説の中では、「独島」の領有権をめぐって日韓が法廷論争を繰り広げ、その中で、両者の論点が整理されており、作者の若い裁判官は、独島法律諮問官という新しいポストに登用されたといいます。この作者の任官直前のインタビューでの言葉が印象的です。

必ず模擬裁判を準備してみる計画である。私が日本側弁護人を引き受け、模擬準備書面を作成してみるつもりだ。自分自身の論理を打ち破ることができれば成功ではないか。独島に建物を百棟建てるより、その方が重要だと思っている。p122

すなわち、竹島の問題については、韓国側は「悪魔の代弁人」を立てて着々と準備が整っているというのです。


備忘録替わりに、竹島問題の基本的な考え方を列挙します。

  • 韓国にとっての「独島」は日本にとっての尖閣諸島と同じ(有効に支配しており、領有権の問題がそもそも存在しない)
  • 韓国は1900年に大韓帝国勅令41号によって、それまで無人島だった「独島」を含む島々を「鬱陵島竹島、石島」として領有権を取得。このうち「石島」が「独島」にあたる
  • 【これに対する反論】しかし、それまで「独島」を実効支配していたと言いながら勅令41号に「独島」という名称が登場しないことから、これが「独島」を指していたかどうかは疑わしい
  • 日本は江戸時代の初期から竹島を利用し、遅くとも17世紀半ばに領有権を確立していた。その後、1905年の閣議決定により竹島島根県編入し、領有の意思を再確認した。
  • 【これに対する反論】上記理論の「その後」の期間(17世紀半ば~1905年)には、1877年に「太政官指令」があり、これは日本が竹島を含む島々の領有権を手放したことを意味する。(ただし、このときの島も具体的な場所が定まっているものではない)
  • また、韓国側は、日本政府による 1905年の竹島島根県への編入措置は「日本による韓国侵略の最初の犠牲」と認識している。

ということで、竹島をめぐる争いは、1900年前後の史実をひもとく必要があり、かなり古い問題であることが分かりました。
すなわち、近年に急に出て来た問題という誤った認識は自分の不勉強が原因で、韓国人の独島(竹島)への思い入れは、とても強いと感じました。
さらに、歴史的事実として、どちらの領土と判断するのは難しい中で、自らが不利なシナリオを想定して論争への準備を進めている韓国に勝つのは相当に難しいのではないか、という感想を持ちました。

慰安婦問題について

慰安婦問題については、4章に取り上げられていますが、ここでは、左派、右派で論争になる「何が歴史的事実として正しいか」には、あまりこだわっていないのが特徴的です。
まず、総論からすれば、慰安婦問題については、「戦時における女性の普遍的な人権問題」として韓国の主張が国際社会でそのまま受け入れられていることから、日本は「ゲームの進め方」を考え直す必要がある、というのが浅羽さんの基本的なスタンスだと受け取りました。*1
しかし、最も興味深かったのは、日韓の埋められない考え方の差についての説明でした。
日本の基本的立場は「請求権の問題は日韓請求権協定(1965年の国交正常化の際に締結)ですでに解決済み」というものですが、韓国側は、1965年時点では慰安婦問題は想定されておらず適用の範囲外であり、さらには「法以前に、国民の情緒、感情の問題」としているというのです。
この 「法以前に、国民の情緒、感情の問題」というのは、2011年の日韓首脳会談(日本の首相は野田佳彦)後の李明博大統領の言葉で、これについては、さらに「国民情緒法」という概念(?)を使って説明が加えられています。

韓国には、憲法よりも上位にあるとみなされる<法ならぬ法>が存在する。それが「国民情緒法」である。(略)
(韓国で圧倒的なシェアを誇るNAVERの※括弧内追記)オンライン辞書では、「国民情緒法」について次のように説明している。

国民情緒にそぐわない行為を法に見立てている。実定法ではない不文律。世論に基づく感性の法で、メディアの影響を多く受ける。世論に依存し法規範無視の風潮を生むという問題もある。

(略)
近年、世論に迎合的な政治はどの国でも強くなっているが、国民情緒に流されて実定法を明らかに無視したり、法の遡及適用を行ったりすることはまずありえない。(が、韓国では、国民情緒法が、それを可能にする ※括弧内追記 )
このように、世論に依存する法規範無視の風潮が生まれると、安定した社会的関係が成立しなくなってしまうのが、「国民情緒法」の一番の問題である。それは、国内でも、外国との関係においても、まったく同じである。p160


2013年に大統領に就任した朴槿恵は、韓国社会が抱える法規範無視という問題について正しく認識しており、法の支配を徹底するというアプローチで国政に臨みました。つまり、自らの弱点を知った上で、国際社会に訴えようという姿勢に、韓国の「したたかさ」を見たのが、この『したたかな韓国』のひとつの大きな柱だったのです。*2


浅羽さんが期待を持って迎えた朴槿恵政権は、慰安婦問題については、2015年の日韓合意で、あの安倍さんに 「心からおわびと反省の気持ちを表明」させるという、なかなかハードルの高いことをやってのけます。*3
しかし、結局、朴槿恵政権も自らの失態が招いたとはいえ、「国民情緒」によって辞任・逮捕に追い込まれることになります。
その後生まれた文在寅政権についての浅羽さんの認識は、先に紹介した文春オンラインの記事に以下のように書かれています。

文大統領は、2016年10月~17年3月に起きた、朴槿恵前大統領を弾劾・罷免した「ろうそく革命」の結果として誕生した大統領です。よって、17年の大統領就任当初から、保守派の政権下で積み重なった弊害を否定する「積弊清算」を歴史的使命と自任しています。

それは、朴槿恵政権が結んだ2015年の日韓「慰安婦」合意は誤りで、その父・朴正熙元大統領が行った日韓国交正常化も「誤った過去清算」だったという前提に基づいています。そのため、「日帝強占(日本帝国主義による強制占領)」をきちんと清算しなかった保守派こそが、文大統領からすれば最も断罪すべき存在です。

つまり、文大統領は植民地期に日本に協力した「親日派」を断罪した。それだけでなく、その「親日派」の清算に失敗した保守派は真っ当な政治勢力ではないと言うのです。つまり、進歩派の文大統領にとっての対日外交というのは、韓国国内の「保守派=親日派」叩きの延長線上なのです。


『したたかな韓国』の中では、2007年のハンナラ党内の予備選挙李明博に負けた朴槿恵が、与党内にいながら与党内野党として、セヌリ党への改名など様々な手続きを踏み、同じ与党の李明博大統領への不満も力に変えて大統領に就任したことが描かれていますが、2012年の大統領選で朴槿恵に負けたのが、文在寅であることが面白いです。
トランプ大統領は、オバマケアやイラン政策など、とにかくオバマと逆のことをやりたかがるのが目立ちますが、韓国では、それが5年周期で起き続けているというイメージでしょうか。


さらに、同じく文春オンラインの記事で、浅羽さんは、文政権との向き合い方で注意すべき点として、「正しい歴史」「間違った歴史」という概念を紹介しています。

では、特異な「歴史」観を有する韓国に、日本はどのように向き合えばよいのでしょうか。
留意すべきは、韓国の「正しい歴史」「間違った歴史」という概念です。

日本では、「事実として起こったこと」が実証主義的な歴史だと認識します。好むと好まざるとにかかわらず、史料に基づき、過去を再構成します。

それが韓国では「道徳的に正しい事」「本来あるべきこと」が「正しい歴史」とされるのです。その一方で、「道徳的に劣っている事」「歩むべきではなかった道」は「間違った歴史」となります。

例えば、1910年に日本の植民地になったことは厳然たる事実ですが、「間違った歴史」とされる。一方、他国には全く承認されていない、1919年に上海で建立が宣言された大韓民国臨時政府こそが「正しい歴史」。日本の植民地支配に屈してしまったのも「間違った歴史」ですし、それを「正す」ことができなかった65年の国交正常化も「そもそも無効」というわけです。

文在寅は「革命家」であると言いましたが、この部分に彼の特性が色濃く表れています。この価値観は進歩派の政権に多い傾向があります。特に文在寅政権は「正義に見合った国」を標榜し、「間違った歴史」は「正さなければならない」という姿勢で、国内政治だけでなく対外政策にも臨んでいます。

ちょっと、この考え方にはついていけないと思うのと同時に、日本国内でも 「本来あるべきこと」を「正しい歴史」とする人たちがたくさんいるのに思い当たります。
浅羽さんがこのことに触れずに話を進めているのは、(その後の文章の烈しさを見ても)、今の文政権に同調できるところの少なさを示していると思います。
文章の締めが「 まず、<友人>であることを諦めることから、新たな日韓関係が築けるのではないでしょうか」と「諦め」を前提としているところに、読者としても、かなりの不安を覚えるのも確かです。


ただ、一日本人としては、 「道徳的に劣っている事」「歩むべきではなかった道」についても、自国の歴史として認め、国際的にも正当性をアピールできる論理で外交を進めるべく、隣国の韓国についてももっと知っておく必要があるという気持ちを新たにしました。*4
ということで、こういうニュースが溢れる中で、関連する本を読むのはとても勉強になると感じた一冊でした。

次に読みたい本

次に読みたいのは、やはり浅羽さんも執筆している『知りたくなる韓国』(4人による共著)です。また、『韓国化する日本、日本化する日本』も読みたいですが、これも2015年の本で朴槿恵政権を語るには中途半端。『しなやかな韓国』を読んだからには、どこかで朴槿恵政権の総括について書かれた文章が読みたいですね。

知りたくなる韓国

知りたくなる韓国

韓国化する日本、日本化する韓国

韓国化する日本、日本化する韓国



そして、韓国を非難する文章を読んでそのままブーメランとして帰ってきた「過去の歴史をなかったことにしたい人たち」の本です。実は『九月、東京の路上で』を未読なので、こちらも今年中には読みたいです。

TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち

TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

*1:いわゆる「河野談話」は、国際的な受け入れられ方を見るにつけ、ゲームの勝ち方としても正解だったと感じます。

*2:『したたかな韓国』の第4章では、国民情緒法の問題に加えて、国民によって選出されていないが、憲法に反する法律を無効にする違憲審査を行う「憲法裁判所」の力についても触れています。当初、「親日」だった李明博大統領が2011年に豹変した理由は、憲法裁判所の判決に理由があるというのです。が、ここでは、これについては省略しました

*3:色々と問題のある合意であることは認識しているつもりです。しかし、自分の安倍さん観では、毎年8/15の式辞でアジア列国に対する言葉を一切口にしない安倍さんが 「心からおわびと反省の気持ちを表明」 したのは、凄いことだと思います。

*4:例えば、憲法裁判所の元所長の発言として、「国民情緒法」の空気が生まれる、つまり法を軽視する土壌として、「法治が重要視されない儒教思想、35年間に及ぶ日本の植民地支配や解放以後も民主的とは必ずしもいえなかった政府によって、法が悪用される歴史があったため」ということが紹介されています。こういった歴史は、大きく日本が関わってきた歴史でもあり、日本人としてしっかり勉強しておく必要があるでしょう。

今年、読書感想文を書くならこの本!~ナディ『ふるさとって呼んでもいいですか:6歳で「移民」になった私の物語』

6歳で来日し、言葉や習慣、制度の壁など数々の逆境の下でも、
周囲の援助と家族の絆に支えられ生きてきたイラン人少女の奮闘と成長。
移民社会化する日本で、異文化ルーツの子どもたちが直面するリアルを
等身大で語った貴重な手記。


星野智幸さん(作家)絶賛!!

30年間、この本の登場を待っていました!
「デカセギ」で海外から日本にやってきた人たちの子どもが、自分の言葉で
その人生を語る日を、ずっと待ち望んできました。
その言葉の、なんと新鮮で血が通っていて胸に響くこと!
語ってよいのだ、自分の言葉で自分を語ることは自分がここにいることの
証明そのものなのだ、という思いにあふれていて、誇りを感じます。
私たちの社会は今、こんな豊かさを手にしているのです!


苦手な人でも読書感想文に書きやすい本として、今年、小学高学年~中学生に、自分がオススメするとすれば、この本です。
読書というと「物語」を思い浮かべる人が多いようですが、物語文は、特に普段本を読まない人にとってはハードルが高いと言えます。
登場人物に感情移入をしたり、その人の立場になって考えてみる、ということは、読書に慣れていない人にはとても難しいことのように思えるからです。
その点、学校を題材にしたものやカルチャーギャップを題材にしたものは、感情移入しなくても「新しい発見」や、書かれていることとは異なる「自分の意見」が書きやすいのでオススメです。
また、最後にも書きますが、この本は、全編にわたって、全ての漢字にふりがなが振られているため、漢字が苦手な人にも読みやすいです。

イランから見た日本

この本の場合、以下の目次のうち、3章までは、イランから来たナディの苦労話がメインです。
小学3〜4年生が読んでも、自分たちの生活が他の国からどう見えるのか、という新たな視点を得て、色んな感想を書き進めることができると思います。

  • はじめに
  • 1章 外国に行くってどういうこと?
  • 2章 想定外!な日本の暮らし
  • 3章 うれしい、楽しい、でも困った学校生活
  • 4章 日本で胸をはって暮らしたい!
  • 5章 私はイラン人? 日本人?
  • 6章 私はここにいます
  • あとがき
  • 解説 山口元一

ペルシャで見た日本の番組(おしん水戸黄門)では、皆がペルシャ語で喋っていたので、日本に行っても大丈夫と思っていたという話、乾燥地帯のイランから見ると緑の山々がジャングルに見えるという話、ちびまる子ちゃんを見て、男女が同じクラスで勉強していることに驚く話、どれもこれも、イランから来たナディさんの目を通してしか知り得なかった話でしょう。


こういった文化的なギャップの話は、(漫画になってしまいますが)『アフリカ少年が日本で育った結果』を読んでも同様に楽しんで読むことが出来ますが、この本の場合、それに加えて、4章から6章にかけて、もう少しシリアスな内容に踏み込みます。あとがきを読むと、ナディさんは、高校三年生のときに本の執筆を依頼されたあと、本にするまでに15年かかっているというので、その間に考えたことが4章から6章には詰まっていると思います。
この本を勧めた小6の娘も、「面白くて途中までは読んだ」と言っていたので、6章あたりは小学生だと読むのが難しいかもしれません。その場合は、読まなくてもいいと思います。全部読み終えないと、読書感想文を書いてはいけない、ということは全くなく、途中までで終えても、全部読んだ気になって「一番印象に残った部分は~の部分です」と書けばいいのです。

在留特別許可の話

さて、4章では高校入試の話、5章では大学生活の話も書かれますが、後半でメインに描かれるのは、在留特別許可など日本における法制度の話と、アイデンティティの話です。
もともとナディさんの一家は「ビザのない外国人」として来日し、いつ強制送還されるかという不安とともに学校生活を過ごしていたのです。そんな中、ナディさんが中学生の時に、入国管理局に名乗り出て審査を受けることで「在留特別許可」を認めてもらい「不法滞在」状態から抜け出すという方法があることを知り、それにチャレンジすることになったのです。これは一種の賭けであり、名乗り出ることで「ビザのない」状態がばれてしまうので、審査に通らなければ即刻強制送還となります。
ともに出頭したにもかかわらず強制送還になる家族も多数出る中、結果が出るまでに1年半以上も待たされた(勿論許可がおりました)という苦労話は、この物語の中だからこそ実感を持って知ることができました。現在は、審査期間中は「仮放免中」という扱いで仕事につくことができないというルールがありますが、申請を諦めさせるために、審査期間を長くしているのではないかと言う話が出ていて、考えさせられました。
また、3章まででも書かれていますが、「不法滞在」の期間は、健康保険証がないため、医療費負担が大きく、病院に行くことを避けていたそうです。
脚の痛みを放置して靭帯を損傷した経験から、在留特別許可を得ることで「長いこと夢見た健康保険」にはじめて加入できたことに大喜びしたという話も、物語を通じてでないと、実感を持って知ることが出来なかったことだと思います。

アイデンティティの話

ナディさんの一家は、在留特別許可を得たのをきっかけに、11年ぶりにイランへの里帰りを果たすことになります。 これまでは、日本を出たが最後、再入国できる保証がないために、出来なかったのです。
ここで、イランが「ふるさと」ではないと知り、落ち込むナディさんの話も印象的です。11年も日本にいたナディさんのふるまいは、既に「日本人」化していたのです。

日本では、心ないことを言われていやな気持になったとき、
(だって私はイラン人なんだもん!しかたないじゃん)
と、イラン人であることを心の支えにしていました。でも、そんな私にとって、このイランでの滞在は、思い描いていた「祖国に帰る」ということとは全然ちがったのでした。
イランに帰れば、街なかで人の視線を感じることなんてないはずと思っていたのに、イランのどこにいても人の視線を感じました。祖国に帰ったはずなのに、外国からの旅行者のような気持になりました。私が思い描いていた「祖国」とは、「イラン人」とは、いったいなんだったのでしょう。
p170

その後、大学入試での「外国人枠」は自身には当てはまらないことガッカリし、大学入学後のアルバイト探しで「外国人お断り」の洗礼を受けたりする中、イラン人でも日本人でもないという、アイデンティティの迷路に嵌り込んだ生活が続きます。
自分が「日本人」なのか「イラン人」なのかという悩みから抜け出すことが出来たのは、「ほかの視点」に出会えたからでした。
日系ブラジル人や日系アルゼンチン人の友人(顔だちは日本人)が、見た目と中身のギャップを気にしていないどころか、「自分」というひとりの人が、いくつもの要素を含んでいることを前向きに認めていることを知り、考えを改めたのです。


この本の一番最後「おわりに」で書かれたメッセージは、とても普遍的な内容なので、大幅に引用します。

何かを必要とする人が近くにいたとき、その人が「なに人であるか」と考えるよりも、「何が必要なのか」を考えるほうが、ずっとたいせつだと私は思います。生まれや育ちにとらわれず、性別、年齢、見た目、国籍など、お互いの環境をいかに多角的に想像しあえるかが、とても重要なことだと思います。困っている人がいれば、助けあえばいいのです。来日したての私たちに、日本のご近所さんたちがしてくれたように。
(略)
法律や社会のありかたは、時間をかけてだんだんと人に寄り添うかたちに変化していくものです。しかし、その変化の過程で取り残されてしまう人がいることを忘れてはいけないと強く思います。
これは、日本で育った日本人にも無関係ではありません。(略)
一度踏み外したらリカバリーのきかない社会が変われば、多くの人が生きやすくなると思います。「多様性を認める」とは、そのような社会をめざすということではないでしょうか。
「日本人らしい日本人」や「外国人らしい外国人」だけの時代はもう終わろうとしています。私たちは、見た目や国籍を超えて、同じ社会でともに生きています。

私のふるさとも、ここ日本です。

ここまでの文章を書けるナディさんですが、お母さんは漢字混じりの読み書きができません。国籍にかかわらず、様々なルーツや背景をもつ子どもたちを想定して、すべての漢字にふりがなを振った、と「はじめに」では説明がありますが、ナディさんの両親など、日本での就学経験のないナディさんの親世代への配慮もあるのでしょう。
そして、このような小さな配慮こそが、同じ社会でともに生きる、さまざまな人のバリアを外してくれる大きな支えになっていると感じます。


読書感想文を書くために、小学生がこの本を読んだとして、一番最初は、文化のギャップに興味を持つでしょう。しかし、最後には、こういった多様な人が生活しやすい社会、というのはどういうことかに目が向くといいなと思います。
ただ、途中にも書いたように、読書は途中までで終えても別にいいし、比較的難しい6章は読まずに読書感想文を書いても全然OKだと思います。
読書の良さというのは、(ナディさんが日系ブラジル人の人の考え方を知ることで、自己のアイデンティティの問題をクリアしたように)多様な視点を得ることにあると思います。
そこにフォーカスして読めば、どんな人でも、それぞれに違った読書感想文が書ける、そんな本なのではないでしょうか。

参考

今年の読書感想文の課題図書。小学生高学年は、この4冊だそうです。物語文、絵本、歴史、環境系ドキュメンタリーと多種多様ですね。歴史が苦手な自分は、この中なら屋久島を選ぶかな。絵本は読みやすいですが、感想文を書くのは難しそうです。


中学生の課題図書は以下の3冊。伊能忠敬を扱った『星の旅人』が読みやすそうで書きやすそう。原爆を題材にした『ある晴れた日に』は、戦争と言えば読書感想の定番だけれど導かれるように「戦争反対」が結論になってしまう自分に嫌気がさすので避けたいです。


高校生も課題図書があるのか!どれも面白そうですが、映画化されている『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』が気になります。


ファミリー編は、まだ読んでいませんが、『アフリカ少年が日本で育った結果』は、星野ルネさんの関西人気質が前面に出た、楽しい話満載の漫画です。

参考(過去日記)

以前も、課題図書の面白さに気がついて、感想を書いていますが、結局、読書感想文の課題図書に選ばれている本というのは、やはり読む価値のある面白い本、ということでしょうか。
このジャンルは、もっと読んだ方がいいですね。
pocari.hatenablog.com

最高のホラー小説、来た~澤村伊智『ぼぎわんが、来る』

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

今回、順序的に、中島哲也監督の映画『来る』を今年の正月に観に行ったあと、原作小説として、この本を読んだ。
映画を観ていたので、筋はある程度知っていながらも、終盤になればなるほど、映画と離れていくストーリーに手に汗握り、全体を通した普遍的なテーマに頷き、驚いた。
原作が先か、小説が先か、ということはよく考えるが、この作品についてはどうだろうか。自分としては、小説と映画で終盤が全く違う中で、よりダイナミックな演出で物語を楽しめる映画のあとに、より精緻に物語を味わえる小説を読んだのは正解だったと思う。キャストも松たか子の琴子役がプロレス(やり過ぎ)的な感じはするが、それ以外はイメージ通りだ。

映画の凄さ

小説を読んで、映画『来る』はとても面白い映画だったのではないか、と改めて思い直した。実際、小説に合わせて映画も3部構成になっているが、秀樹(妻夫木)視点の第一部、香奈(黒木華)視点の第二部までは、視点転換によるどんでん返しもあり、小説の面白さを映画でもうまく再現出来ていた。
つまり、最初に主人公だった「イクメンパパ」秀樹の表と裏がよく分かる心理サスペンスになっていた。*1
しかし、映画の見せ場は第三部。ここで一気にキングオブモンスターズみたいなイメージの映画になるため、第二部までのよく出来た心理ドラマは吹き飛んでしまっていた。
映画を観て数日後のメモを見るとこう書いてあった。

2019年の最初に観た映画。
妻夫木聡のクズ役が話題になる映画だが、青木崇高*2のダメ感も凄い。ただ、この2人のダメ感を引き立てる黒木華が女優として優れているのかも。
この人も、この人も、死んじゃうのか…と主要登場人物の退場に驚いていると、後半は、ホラー映画というよりは災害映画になり、日本最強の霊媒師・松たか子の役回りが重要になる。男を蹴飛ばすシーンなど終始カッコいい彼女だが、お祓いのシーンでの発声が圧倒的だったら、この映画は断固支持だった。

とはいえ、後半の、日本はもう終わりかもしれない、という感じはとても良かった。
少なくとも小説は続編もあるので、映画の原作『ぼぎわんが、来る』から読んでいきたい。なお、キャバ嬢霊媒師・真琴が小松菜奈であることには全く気が付かなかったし、今もピンと来ない。
何よりピンと来なかったのは「オムライスの国」かな…笑

「オムライスの国」…!!!(笑)
そうでした。
何だよこれ!というオムライスの映像もとても印象的だった。
(今でも、思い出しながら、何だよそれ!と突っ込みを入れています)

岡田准一×黒木華×小松菜奈!映画「来る」ロングトレーラー


原作小説の凄さ

さて、原作小説の素晴らしさについては、千街晶之さんの解説が上手くまとまっていて、ほぼ何も付け加えることがないので、ここから引用する。

物語の骨格自体は、目新しさを売りにしているわけではなく、むしろ古典的でさえある。例えば、怪異から呼びかけられても答えてはいけない…という設定は、この種の会談ではお約束と言っていいが、それをこんなにもモダンな印象のホラーに仕上げてみせた匙加減は絶賛に値する。
怖さの演出効果において秀逸なのが、「ぼぎわん」という、見ただけでは意味が全く分からない不気味なネーミングだ。(略)著者は得たいの知れない単語で恐怖や不安を醸成するのが得意であり、これは独自の強みと言える。
本書の特色は、構成の妙味にもある。すでに触れたように本書は三つの章で視点人物が異なるのだが、どの人物も(そして他の登場人物たちも)他の章では全く異なる印象で描かれており、主観と客観の落差が読者に大きな衝撃を与えるのだ。
(略)そして、この主観と客観の際を利用したどんでん返しによって、古来の伝承と、現代的かつ普遍的な問題とが結びつき、ひいては「ぼぎわん」の正体が解ける仕組みとなっているのだから、つくづく巧いと感嘆するしかない。本書に限った話ではなく、著者の小説では、恐ろしいのは怪異そのものに限らない。怪異を生み、あるいは招き入れる人間の心もまたおぞましさに満ちている。そうした怨念や自己正当化や劣等感など…言ってみればひとの心に生まれる隙間の描き方でも、著者は部類の切れ味を見せるのである。

ネタバレをしてしまうと、結局、『ぼぎわんが、来る』でメインテーマとなる「現代的かつ普遍的な問題」というのは、DVなのだが、それに絡んだ関係者の心理、社会的な要因が、色々な側面から描写される。それによって、傷ついた人の心理、身内にDV加害者がいた家族の受け取り方など、読者は、様々な視点を得て、DVという問題を深く考えることになる。


印象に残ったシーンは、香奈視点の第二章で、部屋の中のお守り類が切り刻まれる事件が起きた日の描写。
急に早く帰って来ることになったパパと過ごすために、れみちゃん家族との食事の約束がなくなってしまった知紗が「パパきらい」と香奈に告白し、続けて「パパ…こわい。こわいにおいがする」というシーン。
実際に起きることではなく、「起きる予感」が最も怖い、という、恐怖の本質が、この言葉に表れているし、より本能的な「におい」に訴えることによって、読者のイメージを掻き立て、DVという作品全体のテーマを補強している。


この台詞のあと、知紗が泣き止んでから香奈が、秀樹の机の上にあった「イクメン名刺」を発見して、キレてお守りを切り刻む。ここは、秀樹視点の第一章で「ぼぎわん」の仕業だったとされていた事件の犯人が、実は香奈だったというどんでん返しになっている。小説も映画もこの部分は基本的には同じである。


しかし、知紗が頭を怪我した日のことについての小説での扱いは映画とはかなり異なり、物語で一番印象に残った。
すなわち、第1章では、救急車で病院に行った話が、「イクメンBlog」で秀樹の活躍を示すエピソードとして語られ、第2章では、全く頼りにならなかった秀樹の本当の様子が、香奈視点で描写される。全体的に、第2章は、妻の香奈が、秀樹にどれだけ苛々させられていたか、を示す裏話的な内容になっているので、この章で、大体の部分は取りこぼしなく「事実」が語られる。映画も同様である。
2章では、この事件について次のように香奈は書いている。

後で知紗から聞いた話によると、怪我の原因は「走っていてテーブルにぶつかった」という、ごくありふれたものだった。最悪のケース…秀樹が知紗を小突いたか、突き飛ばしたかして怪我をさせた…を想定してさえいたわたしにとっては、ひとつの救いであった。p193

しかし、3章では、秀樹の母親が、姉(秀樹の伯母)が亡くなった事故について「お、お母ちゃんは、事故や言うてたわ。どんな酷い人でも、父親が娘を殺すわけない言うて。走って転んで、つ、机に頭ぶつけただけやって」と琴子に言うのを知り、驚愕する。
2章で、すべて明らかになっていたと思われた知紗の事件にも裏があった可能性が高いことに読者が初めて気がつく仕組みになっているのだ。


このようにミステリ的な仕掛けを用いて、人間の怖さを描いてみせた『ぼぎわんが、来る』は、エンタメでありながら、前回読んだ『誰かが見ている』以上に、社会的なテーマを多角的な視点から掘り下げた意欲作だと言える。
極端に言えば、ひとことの教訓で示すことのできるテーマやメッセージを、いかに多角的視点から、手を変え品を変えて言葉にし、読者の心の奥底にまで入り込むことが出来るか、が、小説の良さを説明する最も大きなポイントであると気がついた。読者側からすれば、たくさんの視点を「持ち帰る」ことが読書の意味であると言える。
ありきたりの教訓や物語では「持ち帰る」ものは少ないのです。


ホラー小説としても、はじめて鈴木光司『リング』や貴志祐介『黒い家』を読んだときのことが思い起こされ、伝統のブランド・角川ホラー文庫の作品をもっと読みたくなりました。
次は、識者のオススメにより『キリカ』を読みますが、勿論、比嘉姉妹シリーズは続けて読んでいきたいです。

恐怖小説キリカ (講談社文庫)

恐怖小説キリカ (講談社文庫)

ずうのめ人形 (角川ホラー文庫)

ずうのめ人形 (角川ホラー文庫)

ししりばの家

ししりばの家

などらきの首 (角川ホラー文庫)

などらきの首 (角川ホラー文庫)

*1:実際には、3部以外に、妻である香奈の位置づけも映画と小説では大きく異なる。映画では、香奈は不倫関係にあり、第2部ラストで死んでしまい、秀樹との比較の中で「どっちもどっち」という印象を残す。原作小説では、男性社会批判の要素が強いのを薄めた可能性があるのは少し残念。

*2:優香の旦那さんなんですね!

「百田尚樹現象」に刺激を受けて読んだ2冊~百田尚樹『モンスター』『幸福な生活』

ノンフィクションライター石戸諭によるニューズウィークの特集「百田尚樹現象」が面白かったので、まずは一冊読んでみようということになり、長編と短編集の2冊を読んでみた。*1

『モンスター』

モンスター (幻冬舎文庫)

モンスター (幻冬舎文庫)

田舎町で瀟洒なレストランを経営する絶世の美女・未帆。彼女の顔はかつて畸形的なまでに醜かった。周囲からバケモノ扱いされる悲惨な日々。思い悩んだ末にある事件を起こし、町を追われた 未帆は、整形手術に目覚め、莫大な金額をかけ完璧な美人に変身を遂げる。そのとき亡霊のように甦ってきたのは、ひとりの男への、狂おしいまでの情念だった——。

かなり読みやすく、最後まであっという間だった。
主人公が整形を繰り返して美女になるまでの描写は、成り上がりものとして面白いのと合わせて、どの程度の期間、どの程度の費用で手術するのか、「美形」にするには、何に工夫すれば良いのか、というあたりの、整形豆知識が、非常に勉強になる。
特に、究極を求める和子(未帆)が、一旦、平均的でシンメトリーな美女に到達したあと、最終的に、左右のバランスを調整し、笑顔の演技も練習して「美」を手に入れるくだりは、執念を感じる。
しかし、整形手術という、賛否が分かれることもあるテーマを題材にしながらも、百田尚樹自身のメッセージがよく分からなかった。
例えば、ひとつ前に感想を書いた『誰かが見ている』について言えば、作者の家族観
子育てについての考えは、柚希という登場人物が語っている内容に表れていると思う。
テーマを持った物語を書く以上、どうしても作者が顔を出してしまう。その部分を探りながら読むのが自分は好きなのだと、改めてわかった。
この、「作者の顔が見えない」というのは、百田尚樹という作家の強みである、ということは、もう一冊の『幸福な生活』を読んで判明した。

『幸福な生活』

幸福な生活 (祥伝社文庫)

幸福な生活 (祥伝社文庫)

永遠の0』『海賊とよばれた男
国民的ベストセラー作家が魅せる超技巧!
衝撃のラスト1行!
そのページをめくる勇気はありますか?

宮藤官九郎さん「嫉妬する面白さ――」

単行本未掲載「賭けられた女」を新たに収録

「ご主人の欠点は浮気性」帰宅すると不倫相手が妻と談笑していた。こんな夜遅くに、なぜ彼女が俺の家に? 二人の関係はバレたのか? 動揺する俺に彼女の行動はエスカレートする。妻の目を盗みキスを迫る。そしてボディタッチ。彼女の目的は何か? 平穏な結婚生活を脅かす危機。俺は切り抜ける手だてを必死に考えるが……(「夜の訪問者」より)。愛する人の“秘密"を描く傑作集!

『モンスター』とは打って変わって、19編が収録された短編集(ショートショート)。
この短編集の特徴は、ぺーじをめくったあとの最後の1行の台詞で落とす形式が統一されていること。
驚いたのは、通常、この種の短編集は、玉石混交で、面白いものとつまらないものが混在するのが普通だが、どれも、まさに「粒ぞろい」で、凸凹がない。
それも、想定の範囲内と、範囲外、のギリギリのラインで落とす。勿論、めくる前にネタがわかるものが多いが、それでも、最後にストーンと落ちるのは読んでいて気持ちが良い。
一編が短いこともあり、軽い気持ちで読み始めてすぐに読み終えられる、お手軽な一冊だ。
ただし、文庫本で初収録された 「賭けられた女」はいただけない。
ほとんどの読者が騙される理由は、叙述トリックが巧みだから、ではなく、叙述が下手だから、である。優秀な叙述トリックの本を読んだことのある人ほど、この短編には納得がいかないと思う。


この『幸福な生活』の文庫巻末解説は宮藤官九郎
ここで、百田尚樹の強みを次のように説明する。

改めて百田尚樹さんは「作風」を持たない作家さんだなと思いました。著者名を隠して幾つか読み比べたら、同じ作家が書いたと気がつくだろうか。それくらいエピソードによって作風が変わります。(略)
誰が書いたか分からない。そういう場で経験を積んだ作家は強い。個性で勝負できないぶん、純粋に面白いもの、娯楽性の高い作品を書くしかない。読者を(視聴者を)楽しませることを第一に考えたら、文体なんか気にしてられない。個性はむしろ邪魔になる。だから作風を持たない。

宮藤官九郎が書くように、これは、バラエティ番組*2構成作家という匿名性の高い仕事を長年続けていたことに起因するのだろう。
このあたりは、最近、何冊かの小説を続けて読みながら、エンタメ小説って何だろう?と考えているあたりとも通じるが、自分は、やっぱり作者の「作風」や「メッセージ」を読み解いていくことが小説の面白さの大きな部分を担っていると思うので、『モンスター』や『幸福な生活』のように、読者を安全地帯に囲って、ひたすら楽しませるという小説は、若干、苦手な部分がある。
ということで、もう少し、百田尚樹の顔が出ている本を読んだ方がいいかなあ…。

カエルの楽園 (新潮文庫)

カエルの楽園 (新潮文庫)

日本国紀

日本国紀

*1:本当は『永遠の0』を読もうと思ったのですが、ベストセラー過ぎて避けてしまいました…。でも読んだ2冊は、どちらも百万部売れているようです。凄すぎる…。

*2:百田尚樹は『探偵ナイトスクープ』の構成作家