Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

韓国の歴史をもっと知りたくなる映画~『工作 黒金星と呼ばれた男』


ファン・ジョンミン主演、映画「工作 黒金星(ルビ・ブラック・ヴィーナス)と呼ばれた男」7月19日(金)に日本公開決定!日本オリジナルポスター解禁

歴史的事実といっても、90年代という、つい最近の歴史を扱った映画。
自分は1974年生まれなので、1996年の総選挙、1997年末の大統領選挙の頃には完全に成人しているし、平成で言えば、平成8年、9年の頃のことなので、本当につい最近の出来事のように思える。
日本にいると、途中、社会党の党首が首相となったり、民主党が政権を取っていた時代があったりもしたけれど、自然災害以外で、平成の30年間で国が大きく変わるような歴史的事件は無かったように思う。
韓国の1990年代は、少し調べても、中国との国交樹立が1992年、IMFによる韓国救済が1997年に起きている等、日本と比べて歴史が濃密。
そして、「北風」*1が吹いて与党が勝利した1996年の総選挙。「北風」が空振りし与党が敗北、金大中が勝利した1997年末の大統領選挙。この時期の対北朝鮮工作が、『工作』の舞台となる。


登場人物は、黒金星(ブラック・ヴィーナス)こと主人公のパク・ソギョン。
その上司であり、最終的に、与党勝利を何よりも優先するチェ・ハクソン。
北朝鮮側にいて、全く感情を表に出さない、リ所長。
観客をもイライラさせる北朝鮮の「課長同志」、チョン・ムテク。
基本的に、この4人をメインキャラクターとして話が進んでいく。
最初は、輸入品を「メイドイン北朝鮮」にする話*2など、敵か味方か正義か悪か、よく理解しきれないままに話が進むが、黒金星とリ所長のふたりの関係については、予備知識なくても十分に追っていくことが可能で、エンドロールでは、図らずも涙していた。というか、あのラストで泣かない人はいないのではないか。


途中で挟まる、北朝鮮の一般市民の極度に貧しい生活、そして、ポメラニアンを連れて登場する金正日の存在感など、何となく知っていた情報も、映像で見ると、胸に刻み込まれるような思いがする。
映画(もちろんテレビ番組でもいいが)を、多くの面から楽しむには、歴史的背景、出演する俳優の演技や、撮影技術的なことも知っておいた方がいいだろう。ちょうど、この日は、『天気の子』も見たが、監督の前作や、その作風・評価も知っており、声優や主題歌についてもわかって観る映画と比べて、『工作』は、色んなことを知らないで観たため、その世界を十分に堪能できたかと言えば疑問ではある。
しかし、そうした作品世界や歴史背景を知るためのレセプター(受容体)を増やすという意味では、この映画は、自分にとって大きかった。
本や映画の良さを「世界を広げる」という言葉で表現することがあるが、実際には、知識を広げるのは、本が適しているように思う。知識は、個人個人のペースややり方でないと身につかないからだ。
映画や映像作品は、知識を受け入れるためのレセプター(受容体)を与えてくれる。それは好奇心という言葉で置き換えられるだろう。だから、本当に作品世界を楽しめるのは、少し時間が遅れてからかもしれない。しかし、世界を広げるためには重要な「種」なのだと思う。
今回は、金大中大統領が誕生する頃の話だったが、金大中は、1971年の大統領選で敗北後、1972年にKCIAによって日本で誘拐されて殺されかけ、さらに1980年の逮捕後に死刑判決を受け、1987年に再び大統領選で敗北、そして1997年についに大統領に就任し、2000年にはノーベル平和賞を受賞…という怒涛の人生。
この間に、韓国は、光州事件民主化などの大きな変化があり、それを題材にした有名な映画もある。もっと韓国の歴史を知りたいと思わせる一作でした。


次は、当然このあたりを見たいです。本なら『知りたくなる韓国』でしょうか。

【映画 予告編】 タクシー運転手 〜約束は海を越えて~(特報)

キム・ユンソク×ハ・ジョンウ共演「1987、ある闘いの真実」9月より日本公開決定!特報解禁 20180419

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知りたくなる韓国

知りたくなる韓国

*1:軍事的緊張を恣意的に起こすことで与党を勝たせやすくする、そうしたことは、現代の日韓を見ていると、今も使われる手法といえ、全くひとごとではありません…

*2:パンフレットによれば、当時の韓国では、北朝鮮産の物品の輸入には関税がかからなかったため、関税逃れで、メイドイン北朝鮮としていたようです。

ぽくないメフィスト賞受賞作~宮西真冬『誰かが見ている』

誰かが見ている

誰かが見ている

第52回メフィスト賞受賞!
4人の女には、それぞれ表の顔と裏の顔がある。ブログで賞賛されたいがために、虚偽の「幸せな育児生活」を書くことが止められない千夏子。年下の夫とのセックスレスに悩む結子。職場のストレスで過食に走り、恋人との結婚だけに救いを求める保育士の春花。優しい夫と娘に恵まれ円満な家庭を築いているように見える柚季。
4人それぞれの視点で展開する心理サスペンス!
彼女たちの夫も、恋人もまた裏の顔を持っている。
もつれ、ねじれる感情の果てに待ち受ける衝撃!
「この先、いったいどうなるのか?」
ラストまで一気読み必至!!


メフィスト賞』と聞いて、自分がイメージする言葉は「バカミス」「エクストリーム」「パズラー」「トリッキー」で、毒にも薬にもならず、エンタメに特化したミステリの極北のための賞だと思っている。
実際、宮西真冬『誰かが見ている』(2016年、第52回)の前の受賞作が以下の2作で、他の類似作品がないような馬鹿過ぎるトリックだったり、構成が巧妙だったり、というメフィスト賞のイメージ通りの作品だった。

  • 第50回 早坂吝 『○○○○○○○○殺人事件』
  • 第51回 井上真偽 『恋と禁忌の述語論理』

この2作に続いてメフィスト賞を受賞した『誰かが見ている』。
読み終えてみると、あまりにもメフィスト賞らしさが無くて驚いた。
メイン主人公の千夏子とサブ主人公の柚希が中盤まである事実を隠していることや、張られた伏線が最後に回収されるところなど、ミステリとして、それなりにちゃんとしているため、かえって「エクストリーム」なところが無いのが目立ってしまう。
題材としたテーマも含めて、嫌いな作品ではないが、メフィスト賞としては物足りなさを感じる内容だった。

『坂の途中の家』との比較

今回、たまたま直前に読んだためか、角田光代『坂の途中の家』と共通する点が複数あると感じた。むしろ、『坂の途中の家』にインスパイアされた作者が、「自分なら同じ題材をこう料理してミステリにする!」と奮起した作品のようにも読めてくる。
類似するのは例えばこんな点。

  • 育児、夫婦関係への悩みを抱える複数の女性の視点で物語が展開する
  • ブログに事実とは異なる「幸せな親子」の日記を書く母親が登場する
  • 夫の浮気を気にして、携帯電話を盗み見る場面がある
  • 家族のあり方が作品のメインテーマとなっている

前回『坂の途中の家』の感想では、世の中の小説には、「毒にも薬にもならないエンタメ作品」と「読者に考えることを強いるような、苦い良薬作品」があり、大きく性質が異なる、というようなことを書いたが、前者の作品としては、メフィスト賞受賞作をイメージしていた。
しかし、メフィスト賞受賞作である『誰かが見ている』は、もうちょっと考えさせる作品になっている。そうすると、以下の3段階に分ける方がいいかもしれない。*1

  1. テーマ性が希薄で、エンタメに特化
  2. テーマを読者に投げかけるが、読者は安全地帯
  3. テーマを読者に投げかけ、かつ、読者自身に考えることを強いる

そうすると、普通の小説は「2」に入って、むしろ「1」や「3」が少ない。
例えば、桐野夏生は、作品ごとに明確なテーマがあり、1には当てはまらない。テーマが一般的かどうかによって、2と3の間ということが言える。
繰り返すが、メフィスト賞は、あくまで1のカテゴリーに入るものと思っていたが、この作品が受賞しているところを見ると、エンタメではなく、テーマ性で評価されているのかもしれない。
ところが、自分は、この作品を、エンタメ、社会的テーマのどちらの観点からも好きになれなかったのでした。(以下、かなりネタバレ)




何が自分にとって不満だったのか

まず、エンタメの観点から言えば、伏線回収後に、メインの登場人物である4人の女性すべてが前向きな形でラストを迎える終わり方が、あまりにご都合主義で、現実味がない。以前、書いた言葉を使えば、一気に登場人物たちの「実在感」が乏しくなり、共感できなくなる。特に、夫婦の不仲は誤解がもとに生じているということはあるだろうが、それゆえに長引くのであって、一気に誤解が解けるということは無いように思う。
結局「他人の考えていることは分からない」、というニュアンスで終わる(というより終わらない)『坂の途中の家』のオープンエンドと比較すると、『誰かが見ている』は「おじいさんとおばあさんは幸せに暮らしました」タイプの安易な終わり方と言え、あまり胸に残らない物語となった。


テーマの観点から言えば、家族や子育てについての物語であるのは好みのタイプの作品と言える。
ミステリとしても、千夏子が、不妊治療の末に授かった我が子をひとめ見て、なぜ「私の子供じゃない」と思ったのか、という部分と、幸せいっぱいに見える柚希も我が子に秘密を抱えているという部分は謎の核としてうまく機能している。終盤に、柚希が実は不妊治療を諦め、特別養子縁組で杏を養子に迎えた、ということが明かされ、彼女が、(子育てに悩み「娘なんて産むんじゃなかった」と口走った)夕香に対して、怒りを覚えるという流れもすんなり理解できる。*2
結局、この作品での作者の主張は、柚希の幾つかの独白に表れていると思う。

子供を育てるとは、どういうことなのか。
子供の幸せとは何なのか。
障害があっても、愛しぬくと誓えるか。
もし万が一、自分たちに子供ができたとしても、同じように愛情を注ぐことができるか。
お互いの意見を交わし、納得し、そして、……養親になることを決めた。
p243

夫と膝を突き合わせて話をしてきた中で、何度も確認しあったのは、もし、自分の思うように子供が育たなくても、「養親にならなければ良かった」と、投げ出したりしない覚悟があるかということだった。着せ替え人形をもらうわけではない。一人の、感情がある、立派な人間とつき合っていくのだ。実子だろうと、養子だろうと、それは何ひとつ変わらないと、夫との意見はまとまっていた。父親も母親も、そして子供も、別の人格でいろんな考えがある。そんな人同士で、仲良く暮らしていくのが、家族という形なんじゃないか、と。
だからこそ、夕香が言った言葉が許せなかった。
p246

柚希の考え方にはとても共感できる。
しかし、その後、夕香を許せなかった自身の考え方を反省し改めるところまで含めて、柚希との語る言葉は、とても説教くさく聞こえ、これもまた実在感に乏しい。しかも、終盤の展開は、柚希の考え方が伝播して多くの人が改心するような流れで進むので、登場人物が自ら考えた結果ではなく、店内に「蛍の光」が流れて、そろそろ店じまい、みたいな雰囲気を感じてしまう。


タイトルは、千夏子が「神様」として扱われていたブログでの「嘘」を「誰かが見ていた」というストレートな意味がまずある。それ以外に、結子が最後に結婚式で誓いの言葉を述べたあとで、「神様」に「見てなさいよ」と宣戦布告する台詞があるが、「誰かが見てくれている」というポジティブな意味でつけているのだろう。
これもものすごく巧いタイトルというわけでもない。話は面白くないわけではないが、やはり、この作品がメフィスト賞受賞作と言われると、不思議な本でした。
宮西真冬さんは、そもそも『首の鎖』『友達未遂』に興味を持って知った作家さんなので、そちらも読もうと思います。
あと、メフィスト賞受賞作といえば、話題のこの本も早く読みたいです。

首の鎖

首の鎖

友達未遂

友達未遂

線は、僕を描く

線は、僕を描く

過去日記

pocari.hatenablog.com
→こういう、何故このベストセラーを自分は好きになれないか式の文章は、個人的すぎて人に読ませるものでないのですが、自分の趣味を探る上ではとても重要で、本を選ぶ際の指針になっているような気がします。この続きの文章と合わせて、「実在感」の重要性について書いています。


以下、メフィスト賞受賞作関連の感想。

*1:2軸を考えて4つに分類することも考えたが、テーマ性が希薄で考えることを強いるような小説は無い気がする… →と思ったが、いわゆる「純文学」は、テーマに拠らないで、読者に考えさせるタイプの作品かもしれない

*2:実際には、トリックみたいな形で「特別養子縁組制度」が出てくる流れに最初は戸惑いましたが、柚希の性格が真っ当だったので、その面での不満はなくなりました。でも、もう少し柚希の「黒い面」が出ていたらとても面白い本になっていたように思います。

いつの間にか自分自身について考えさせられる小説~角田光代『坂の途中の家』

坂の途中の家 (朝日文庫)

坂の途中の家 (朝日文庫)

あらすじ

この小説に興味を持ったのは、裁判員制度に絡めた物語だったからだ。
もともと、裁判員制度自体には、否定的な意味で興味を持っていた*1が、守秘義務の問題があり、体験エッセイ漫画などでは裁判の過程を読むことができない。その意味では、フィクションで触れるのに適した題材と言える。
そして、読んだ冊数こそ少ないが絶大の信頼を寄せている角田光代
早く読まねば、と思っていたら、今年4月にはWOWOWのドラマ(柴咲コウ主演)*2にもなったので、期待高まるタイミングで、やっと読むことができた。


公式あらすじは以下の通り。

刑事裁判の補充裁判員になった里沙子は、子供を殺した母親をめぐる証言にふれるうち、彼女の境遇に自らを重ねていくのだった―。社会を震撼させた乳幼児の虐待死事件と“家族”であることの光と闇に迫る、感情移入度100パーセントの心理サスペンス。

主人公・山咲里沙子には2歳10か月の娘がいて、夫と3人暮らし。 8か月の娘をお風呂に沈めて殺してしまった 事件の被告・安藤水穂も同様に、夫と3人暮らし。
物語は、裁判員裁判の公判1日目から8日目までの証人の発言を聞く里沙子の視点から語られるが、里沙子は、家族構成以外にもさまざまな共通点があることに気がつき、週刊誌では「ブランド狂いで母性なし」という悪評にまみれる水穂に同情していく。
その核には、時に、孤独で、逃げられない戦いを(伝統的家族観の中での)役割として負わされる 「育児」についての母親の悩みがある。

サスペンス

小説を読んで驚いたところは、新たに起こるイベントが非常に少ないこと。
基本的には数か月前に起きた乳児の虐待事件に関する証言のみで話が進む。
小説の記述は、娘の文香(あやか)を浦和の実家に預けて公判に出かけ、帰りに文香を連れて家に帰る里沙子の日々の出来事と考えの比率が圧倒的に多い。
物語が進行するおよそ10日間の間に新事実が何も出ないということは、同様に事件を題材にしたミステリとは大きく違う点である。


それでは何が物語を駆動するか(サスペンスの核になるか)といえば、里沙子の家族への思いが、公判の内容に影響を受けて大きく変化する、その心の動きである。
イベントが次々と起こるのではなく、脳内で色々な思いが錯綜する---その方が実人生に近く、ありていな言葉でいえばリアルであり、より読者自身に引き寄せて考えられる。
そもそも、この小説は、水穂という女性を、裁判というフィルタを通して見て、自分に引き寄せて考える里沙子という主人公がいた上で、里沙子を、小説というフィルタを通して、読者それぞれが自分に引き寄せて考えるという重層的な構造を取っている。
物語の進み方(新しいことがほとんど起きない)と、物語の構造(作中の人物が、見ず知らずの人物に感化されて、人生を振り返る)の、双方で、読者に「考える」ことを強いるような仕掛けがあるのだ。


読者が何を考えさせられるか?
それもまた人それぞれなのだと思う。
里沙子と同じ裁判員の一人・ 芳賀六実(はがむつみ)は、既婚だが子どもはいないアラフォー。彼女も証言を聞きながら、自分の人生の中での夫や家族との関係に目を向ける。その他の裁判員も、年代性別さまざまだが、それぞれの経験の中で、また時には周囲の意見も聞きながら事件について考える。読者も、同様だろう。


自分は、子どものいる既婚男性ということになるが、読んでいてかなり辛かった。
小説内の男性登場人物(里沙子の夫・陽一郎、水穂の夫・寿人)が、DVを振るうようなダメ人間であったら、どれだけ救われたか。ところが彼らはダメ人間ではない。夫として、(仕事重視でありながらも)それなりに育児に理解があることで、読者として「俺はこの夫たちとは違う/里沙子や水穂が苦しんでいるのは、夫のせいだ」と、自分と切り離して非難する逃げ道が塞がれてしまった。
したがって、里沙子や水穂の夫(や夫の両親)に対する不満の表出は、そのまま読者としての自分に刺さっていく。
子どもが生まれたばかりの頃、そして今、自分は、家族を苦しませる原因を作っていないか?
日々の言動が、その苦しみを内に貯め込んでしまうことに繋がっていないか?
等々…。


一方で、読者に「考える」ことを強いる小説内の登場人物として、考えに考えを重ねた里沙子は、終盤で、家族に対する大きな確信を得るに至るのだが、それについては後述する。

タイトルの意味

公判序盤で、証拠画像として示された水穂の家は、坂に沿って並んだ新築建て売り住宅のうちの一軒(坂の途中の家)だったが、里沙子には既視感があった。里沙子は、今のマンションにしばらく住んだあと、一戸建てを買おうと物色したときに、現地の物件を見て回ったときのことを思い出したのだ。

見て回ったそれらの家に水穂の住まいは似ていたのである。どこのどの一軒、というのではない。住むことを思い浮かべた家のどれか、あるいはそのぜんぶを足したような住宅だった。そして無意識に思い浮かべたリースや正月飾りや石段の鉢植えは、そこに住んだら飾ろうと里沙子が実際に思っていたのだった。p77


つまり、里沙子が持っていた新築の戸建てに対する憧れが、「坂の途中の家」を初めて見たときに頭の中によぎった。
もっと言えば、この小説がテーマのひとつにしているのは、カッコつきの「理想の家族像」であるのだが、そのイメージを、乳児虐待の起きた家に重ねようとしているところが皮肉でもある。

公判の間の証人や裁判員たち、そして里沙子の夫である陽一郎や義母の発言は、ある種、それぞれの人の頭にある「理想の家族像」を念頭にしたものであった。弁護側の証人(水穂の母親や友人)も、本来の主旨であるはずの、被告を守るということ以上に、自分がそこ(理想像)から外れていないことに重きを置いていたと里沙子には感じられる。


しかし、里沙子は、自分の頭で考えることで、そこから逃れることが出来た。
特に考えることもせずに受け入れている価値観が、いかに脆弱なものなのかということがこの小説の言いたかったことだろう。

ラスト(大きくネタバレあり)

この本のラスト、変な言い方をすれば、里沙子の考え方の「転向」は、小説の流れからすると自然かもしれないが、全ての読者が受け入れられるものではないだろう。
そもそも、公判の十日間で、里沙子が見た人々は、皆、自分がそう見られたいように証言を述べていた。だから発言者が異なると「事実」が変わって見えてくるということは里沙子自身が分かっていたことである。つまり、里沙子が最終的に得た「気づき」も、決して「事実」ではない。
したがって、ここで示されているものは、「事実」ではなく里沙子の一面的な見方に過ぎない、という解釈が成り立つとはいえ、それまで白と言っていたものを黒と断言するような里沙子の考え方の「転向」の度合いは大きく、読者としてはギョッとする。


公判五日目の段階では、里沙子は、自身の能力不足も 夫婦のわだかまりの一因だと考えていた。ましてや、四日目は、くたくたに疲れた公判の帰り道、「抱っこして」と路上でぐずり始めた文香を懲らしめようと、少しの間、道路に置き去りにしたところを、帰宅中の陽一郎に見つかり、信頼を失うという失態を犯している。五日目とその後の週末は、里沙子の気持ちが最も落ち込んでいる時期だ。
里沙子が考えを大きく変えるきっかけとなったのは六日目に証言した水穂の高校時代の友人・有美枝の発言だった。有美枝は、あんなに前向きで自信家だった水穂が、変わってしまった理由を、夫のおだやかな暴言で、水穂の自信がことごとく奪われたのではないかと考えたのだ。(p283)
これを受け、公判八日目以降の、里沙子の思考はダイナミックに変わっていく。

あの人たちは(略)理解するはずがない。ただ相手を痛めつけるためだけに、平気で、理由もなく意味のないことのできる人間がいると、わかろうはずがない。
相手といったって、恨みのある相手でもなければ、何かの敵でもない。ごく身近な、憎んでもいない、触れ合う距離に眠るだれかを、自分よりそもそも弱いとわかっているだれかを、痛めつけおとしめずにはいられない、そういう人がいるなんてこと。
p420

私も、今まで気づかなかった。里沙子は窓の外を眺める。国道沿いの数軒の店、ずっと続く田畑。見慣れた景色なのに、はじめて訪れた町のように見える。たぶんこの審理にかかわらなければ、ずっと気づかなかったろう。私だって意味がわからない。
無料カウンセリングがある、だから安心したという話が、裁判終了後、精神科にかかるという話になって義母に本気で心配される。里沙子はこの流れに、心配や思いやりなど微塵も感じない。感じるのはただ、意味不明な悪意だけである。あまりに意味が不明すぎて、今までだったら、気づかなかった。それが悪意だと。
p422

けれど今、ようやくわかりはじめている。陽一郎は、引き出物がへんだと言いたかったのでもないし、残業や飲み会を知らせている男なんかいないと言っていたのでもない。きみはおかしい、間違っていると、ただそれだけをずっと言い続けていた。おかしいところをなおせ、でもない、間違っていることをただせ、でもない。陽一郎は、ただ単に私に劣等感を植えつけたかっただけだと里沙子は今になって、まるで他人ごとのように理解する。
けれど、理解して、ますますわからなくなることがある。なぜそんなことをする必要があったのか。p432

暴力など一度もふるったことがない。(略)
けれど実際は、青空のような陽一郎は、静かな、おだやかな、こちらを気遣うようなもの言いで、ずっと、私をおとしめ、傷つけてきた。私にすら、わからない方法で。里沙子はそのことだけは、今やはっきり理解している。しかし依然としてその理由も目的もわからない。憎んでいるからだと思うしかないが、なぜ、また、いつから憎まれているのか、里沙子には想像すらつかない。p463

しかし、その夜、「きみには無理だ」と言われるのを覚悟しながら「また働こうかな」と陽一郎に聞いてみると「それもいいんじゃない」と肯定され、逆に自分の方が被害妄想にとらわれてしまったのではないか、と不安になる。
読者としては、夫婦がお互いの誤解を解いて仲直りするという穏当な方向でエンディングを迎えるのかと思いきや、そうはならない。


里沙子は、一度は被害妄想かもと不安になったにもかかわらず、その後もスタンスは変わらないのだ。解釈は若干変わったが、陽一郎が、もしくは自身の母親が、相手をおとしめようとして、発言・行動してきたということは、事実として、里沙子の頭に定着している。
以下に、ラストまでの里沙子の思考をシンプルに辿ったが、最終数ページの段階では離婚についても考えており、正直言って、この終盤の里沙子の一点突破式の思考にはついていけない部分がある。

憎しみではない。愛だ。相手をおとしめ、傷つけ、そうすることで、自分の腕から出ていかないようにする。愛しているから。それがあの母親の、娘の愛しかただった。
それなら、陽一郎もそうなのかもしれない。意味もなく、目的もなく、いつのまにか抱いていた憎しみだけで妻をおとしめ、傷つけていたわけではない。陽一郎もまた、そういう愛しかたしか知らないのだ…。
そう考えると、この数日のうちにわき上がった疑問のつじつまが合って行く。陽一郎は不安だったのだろう。自分の知らない世界に妻が出ていって、自分にはない知識を得て、自分の知らない言葉を話しはじめ、そして、一家のあるじが今まで思っていたほどには立派でもなく頼れるわけでもないと気づいてしまうことが、不安だったのだろう。
p480

きみはおかしいと言われ続け、そのことの意味については考えず、そこで感じた違和感をただ「面倒」なだけだと片づけて、ものごとにかかわることを放棄した。決めることも考えることも放棄した。おろかで常識のないちいさな人間だと、ただ一方的に決めつけられてきたわけではない。私もまた、進んでそんな人間になりきってきたのではないか。
そのような愛しかたしか知らない人に、愛されるために。
p481

そもそも離婚を望んでいるのかどうかも、里沙子にはわからなくなる。ただ、おそろしいだけだ。陽一郎が彼の愛しかたで、妻である自分ばかりか、文香まで愛するのを。
p488


この、スッキリしない終わり方については、ノンフィクション作家の河合香織さんの解説が素晴らし過ぎる。
解説では、まず、「もしかして狂っているのはこの女ではないか」という可能性にも言及しつつ、ノンフィクションと比較したときの小説の特徴について次のように書いている。

普遍性を見出そうとする営みという点において、具体的な事件を追うノンフィクションと、虐待を題材に小説を書くことに大きな違いはあるのだろうか。むしろ、小説には事実の影に覆い隠されて見えなくなっている本当の人間の姿を引きずり出す力があるように思える。
だからこそ、角田光代の小説ほど心を揺さぶられるものはない。そこに描かれるのはいつだって「私」だったから。

ほぼ同意だ。
ちょうど、自分は、『坂の途中の家』を読む前に、別のベストセラー作家の作品を読んでいたのだが、その作品は、読者を、物語から完全に切り離した安全地帯に置いて、そのことで、登場人物が繰り広げるドラマの悲喜こもごもを楽しませることに徹した内容で、面白かったが、いわゆる「毒にも薬にもならない」話だった。
だからこそ「私」が書かれている、読むことで、確実に「私」と向き合うことになる『坂の途中の家』を読んで、これこそが「小説」だという気持ちを強くした。
結局、この小説は、読者自身それぞれの「私」の小説になってしまっているので、モヤモヤしたラストでの里沙子の結論は、それほど作品の本質には影響しないのだ。
それでは、この小説のもっとも重要なポイントはどこにあるのかといえば、「自分で考えること」であると、河合香織さんは説く。

本書には、人は自分で選んでいるつもりでも、選ばされているのではないかというテーマが根底にある。親から受け継いだ価値の呪縛から逃げたいと思っても、なかなか逃れられない。里沙子も水穂も、その価値の呪縛に苦しんでいた。親の価値観を憎み、そんな親に育てられた自分は非常識で異常だと思い込み、自身を失っていた。黙っていれば誰からも謗られることが無いし、選択しなければ責任を取る必要もない。仕事をやめることも、子どもをもつことも、自分の価値観に照らして、自分で選びとってきたと言えないかもしれない。
そうやって選ぶことも放棄してきた里沙子は、裁判を通じて試行錯誤していく過程で、最後に考えることを取り戻そうと一歩を踏み出す。その姿に、作者の人間への深い信頼を感じる。
(略)
考えることは、自分の人生に責任を持つことは、苦しいかもしれない。けれども、七転八倒しながらも考え抜いた答えは、他人から押し付けられて選ばされた人生とは大違いだ。見たくもなかった自分の姿も、恥じるものではなく、きっと誇らしくさえ思うだろう。
生を信じることをやめることはできない、そんな人間の剛健さを作者は描き出した。だから、性別や年代に関わらず、角田光代の小説に多くの人が心を動かされ、なぜ作家は「私」のことを知っているのだろうかと思うのだ。

自分は、既婚男性としてこの小説を読み、『82年生まれ、キム・ジヨン』のように、男性が糾弾される内容だという風にも感じたし、毒親問題に関心がある人は、そのテーマに共感する部分があったかもしれないが、ポイントはそこではない。
里沙子は、考えることを放棄しなかったことで、自ら選ぶ人生を見出した、そこが最も作家が主張したかった部分ということだ。里沙子の結論は正しく見えないかもしれないが、正しいかどうかではなく、考えたかどうかの方が重要なのだ。
ときに、小説の力を借りながらも、自分の頭で考えることをやめない。
そんな風にして人生を選んで生きていきたい、と思わせる小説でした。

参考(過去日記)

角田光代というと、やはり『対岸の彼女』の印象が強いです。『坂の途中の家』もそうですが、角田光代は、夫婦であっても親友であっても、結局は「他人」だという見方を持っている気がします。ドライに考えるからこそ、愛が深いのかもしれません。
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com


河合香織さんは、昨年読んで最も面白かった、というか考えさせられたノンフィクション小説『選べなかった命』の人ですね。『セックスボランティア』も興味あります。
以下の『帰りたくない』は河合香織さんの本の解説を角田光代さんが書いている、という、『坂の途中の家』と反対となるコンビですが、驚くべきことに、最終的に主張する内容が一致している、ということで、相思相愛の関係なのかもしれません。それにしても角田光代解説の巧さよ…。
pocari.hatenablog.com

セックスボランティア (新潮文庫)

セックスボランティア (新潮文庫)



結論をいえば、『坂の途中の家』を、フェミニズムをテーマにした小説と捉えるのは誤読という感じもするのですが、男が読むと、とても痛いという意味では似ていると思います。
pocari.hatenablog.com


裁判員制度開始前(2007年)に書いた文章がこちらです。ここでは書いていませんが、自分は「裁判員が量刑まで判断する必要がある?」という点にも強く疑問を抱いています。
pocari.hatenablog.com

*1:開始前から、いろいろと気になっていたが、裁判員制度は今年令和元年で制度ができてから10年が経つ…。

*2:小説を読んでから配役を知ると、里沙子=柴咲コウも、水穂=水野美紀も、歳を取り過ぎているような気がする。陽一郎も田辺誠一だと、歳を取り過ぎ。もう少し若い配役にできなかったのだろうか。

Original Love "bless You! Tour"@中野サンプラザ7/20(Tour最終日)

bless You! (通常盤)

bless You! (通常盤)

公演前のすったもんだ

ぼくの知らない間に誰かがきて
ポストの中のものを全部取ったんだろう
 スガシカオ「サービス・クーポン」

今回、個人的に過去最大のトラブルに見舞われました。
前日夜になって準備しようと探したら買ったはずのチケットが見つからない!
まずは寝よう。と翌朝探しても、3月末に国際フォーラムで買ったはずのチケットは姿かたちも見えず。ソールドアウトで当日券の出ない公演だったため、ライブ参加も諦めていました。
しかし…
詳細は省きますが、その後、「電脳空間の神」*1の助けをお借りして、何とか、チケットをお譲り頂ける方に出会え、会場でチケットを入手することが出来たのでした。
結論から言うと、今回のツアー最終日の「bless You!祭り」は、「こんな理由」で参加出来なかったら大後悔の公演で、チケットをお譲りいただいた方には勿論、チケット入手の手助けをしていただいた神様には大感謝しています。
繰り返し御礼申し上げます。

セットリスト

今回、セットリストだけでも10杯ご飯を食べられる公演でした。

  1. Millon Secrets of JAZZ
  2. ペテン師のうた
  3. AIジョーのブルース
  4. 灼熱
  5. 疑問符
  6. DEEP FRENCH KISS
  7. I WISH
  8. ショウマン
  9. 冗談
  10. クロバットたちよ
  11. 地球独楽
  12. 空気-抵抗
  13. ゼロセット
  14. グッディガール
  15. お嫁においで
  16. 接吻
  17. 月の裏で会いましょう
  18. Two Vibrations
  19. The Rover
  20. bless You!

(アンコール)

  1. 逆行
  2. 希望のバネ
  3. 夜をぶっ飛ばせ


今回のセットリストの評判は聴こえてきていたのですが、実際に来てみて、まさかこれほどとは!と思わせるものでした。
『ELEVEN GRAFFITTI』『L』『ビッグクランチ』の楽曲が好きな自分としては、2曲目に「ペテン師のうた」が来た時から嬉しかったのですが、やはり圧巻は7~11曲目。
この流れの中に、最新作から「アクロバットたちよ」が入る、新旧融合ぶりが素晴らし過ぎました。

「I WISH」は、PUNPEEのユニットPSGが「愛してます」でサンプリングに使っていた関係もあり、1月のLOVE JAMで久しぶりに披露されました。ミラーボール?が回って会場に星が降るような演出がされましたが、こういう演出については2階席の方が見やすく、より楽曲に没入出来ました。

PSG - 愛してます



「ショウマン」は、田島自身によるピアノ弾き語りから入る名バラード。この曲は屈指の名曲で、初めてこの曲を聴いた観客、確実に「落ちる」であろう楽曲で、当時この曲を聴いていた人なら8割方は泣いています。


9~11曲目「冗談」「アクロバットたちよ」「地球独楽」は、以下のようなMCのあとで「サイケデリックロック」コーナーとして演奏された曲です。

  • オリジナルラブは長くやってきて、メンバーも途中抜けた。が、デビュー当時から木暮、真城とは一緒に仕事をしてきた。
  • 同級生だったのに、「お前とは組まない」と言っていた木暮は、今では手下(笑)
  • 最初は、こういうサイケデリックな音楽をやって来たのに、時々アルバムに、この種の楽曲が入ると、「方向性が変わった」等と書かれたが、元々あるものが出ているだけ。

この3曲はバックのスクリーンに写真が流れる演出がありましたが、「冗談」と「アクロバットたちよ」は、田島自身の撮影したものが、「地球独楽」は、宇宙の写真( ハッブル望遠鏡?)が使用されていました。
この形式での「冗談」の演奏は、1月のLOVE JAMのときから継続しているので、3曲まとめて定番化することを期待したいです。


なお、メンバー入場時の音楽は「逆行」のイントロで、まさかこの曲から?と驚きましたが、「逆行」はアンコール1曲目に、暗めの照明の中、圧倒的なカッコ良さを持って演奏されました。(ギター演奏に魅せられる中でのオカリナ演奏が最高!)
「空気-抵抗」と「逆行」は、バンド編成でしか演奏されないだろうと思うので、今後もバンドツアーの見せ場で持ってくるのではないでしょうか。

メンバー

何と言っても、この日の(田島曰く)「bless You祭り」を祭りたらしめているのは、参加メンバー。
バンドツアーの面々は、勿論、これまで初日からツアーを続けてきたこのメンバーですが…
ーギター:木暮晋也

これに加えて、7/20はゲストミュージシャンがいました。

ゲストミュージシャンは、それぞれ個性が出ていて面白かったです。
ひたすらクールに極上演奏を聴かせる渡辺香津美さんに対して、その後に出て来た長岡亮介は同じギタリストなんだけど、登場時からフライングVを引き摺るようにして現れ、派手な演奏も含めて、田島のクソ真面目さの対極にあるノイズとして機能していました。また、見た目がカッコいいので、いるだけで華があります。
そして、PUNPEE。上にも書きましたが、LOVE JAMは、サニーデイの参加以上に、PUNPEEが出るというので、忙しい時期に無理矢理参戦したようなもので、アルバム『MODERN TIMES』は何度も聴きました。

PUNPEE - タイムマシーンにのって (Official Music Video)


で、PUNPEEの観客盛り上げ力もさることながら、田島リスペクト感が極端すぎて慇懃無礼みたいになっているのが面白いんですよね。その関係性がわかっていてやっているのか、「お嫁においで」のあとで、田島がニコニコしながらフリースタイルラップバトルを仕掛ける小芝居が最高でした。
PUNPEEのラップはとても聴きやすいし、その中で、田島のオジキを「フリースタイルって言ってるけど、ずっとカンペ見てる」と軽くディスるあたりとかは今回の「祭り」の最大の成果ではないでしょうか。

ORIGINAL LOVE - グッディガール feat. PUNPEE (Love Jam Ver.)



そして、今回の最大の重要ポイントですが、ホーンセクションがいたのです。
その名もOriginal Love Horns!

  • サックス:永田こーせー
  • トランペット:真砂陽地
  • トロンボーン:大田垣 “OTG” 正信



ライブでは、 「夜をぶっ飛ばせ」 なんかは、田島が一人で演奏するバージョンを聴いた数が圧倒的に多いので、近年、しっかりバンドで演奏されるだけでも、感動していましたが、(いつもはカラオケだけだった部分に)ホーン隊が加わると、「カニカマも美味しいけど、カニってこんな味だったんだ!」と、ちょっと驚いてしまいました。
「the Rover」なんかも、ひとりソウルでのソロバージョンも良かったのですが、真城さんのお陰で熱望していた女性コーラスという穴が満たされ、さらに今回ホーンが鳴るのを聴くと、これも(あまり考えないようにしていた)長年の望みが叶って、むせび泣きです。
田島本人も「DEEP FRENCH KISS」「I WISH」のあとで、ずっとホーン隊をつけて演奏するのが夢だったみたいなことを言っていたし、アンコールが終わって舞台を去る際に、木暮さんが「また、ホーン隊とやりたいね」と田島に語りかけていたのも印象的でした。
今回は、東京だけでしたが、ライブのチケット単価を上げるなどしてでも、多くの公演で Original Love Hornsが活躍できるよう、来年以降のバンドツアーには期待したいです。

映像面

最後に、ですが、アルバム完成時に、田島は「 エキセントリックなアートロック エンターテインメントショーにしたいと思ってます」と語っており*2、終了後には「 今回は映像スタッフ、照明スタッフにも随分無理な注文をしたけどしっかり応えてくれて感謝しかない。目でも楽しむことができる新しいOriginal Loveのステージだった。」と語っているように、映像面にも力を入れていることが見て取れました。
bless You!や地球独楽を見ると、映像と音のシンクロも狙っていたようです。コーネリアスのツアーなんかを経験すると、シンクロ度合いを真面目にやろうとすればまた違う方向性になるので、あまりそこに拘る必要もないかな、と思うところもあり。
そして、bless Youの「花まみれのギター演奏映像」(書いていても何だかよく分かりませんが)の謎度合いが、田島貴男っぽいなあ、と思いました。
でも、こういった形で、田島貴男が撮影した写真や、ハッブル望遠鏡の宇宙映像を鑑賞できるのも、今後の楽しみが増えました。
それも含めて、これからのオリジナル・ラブの活動が楽しみになるライブでした。

最後に大好きな「bless You!」の歌詞を。

bless You!
優しさを
思いやる気持ち
もっともっと
おたがい
出会った人たちに
別れた人たちに
共に生きる人たちに
与えられるよう

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
→真城さんのコーラスが入って嬉しかったときのライブレポ!(2013年エレクトリックセクシーツアー)
まさか「この先」があるとは!!


pocari.hatenablog.com
→これは全く本題ではないのですが、草野マサムネ×田島貴男対談の中でルナルナのアレンジについて「ホーンセクションを入れちゃうと渋谷にいっちゃう」という草野マサムネの発言があり、「渋谷系」と言えば、ホーンセクションだったのだな、という面白い発見がありました。


pocari.hatenablog.com
→アルバム『bless You!』は1曲ごとに感想を書いています(未完)が、中でも文章に力の入ったこちらを是非お読みいただければ!

映画「主戦場」に右派が「騙された」理由がわかった~『海を渡る「慰安婦」問題』

海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う

海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う

「歴史戦」と「主戦場」

上半期、非常に刺激を受けた映画『主戦場』ですが、内容については良かったのですが、タイトルの意味がピンと来ないというところがありました。
慰安婦」問題の舞台が米国に移ったことを指して、米国のことを「主戦場」と言っているのだろう、というぼんやりした理解がまずあり、また、パンフレットや一部レビューにあったように、「本当の主戦場は、観た人の心の中にある」みたいな、さらにぼんやりした推測がありながらも、「でも何でこの言葉を?」という疑問は拭えませんでした。


しかし、この本を読んでタイトルの意味が明確になりました。
だけでなく、映画公開後に、出演者らが「騙された」と抗議した背景も理解できました。
ひとことで言えば、「主戦場」とは、彼ら出演者(右派)が好んで使う言葉だったのです。
デザキ監督は、それを分かっていて敢えて「主戦場」というタイトルを付け、出演者側も、このタイトルであれば安心、とチェックを怠ったのでしょう。そういう意味では「騙した」面があるのかもしれません。
www.newsweekjapan.jp




この本の「はじめに」には、「歴史戦」「主戦場」の説明があります。

「歴史戦」という言葉を広めたのは、2014年4月に開始され、現在も続く『産経新聞』の連載「歴史戦」だろう。この連載をまとめた書籍において…(略)
同署の帯には「朝日新聞、中国・韓国と日本はどう戦うか」と記されていることから、「歴史戦」の敵は『朝日新聞』と中国、韓国であるという想定が見える。
また、同書の日英対訳版の帯に掲載された推薦文、「これはまさに「戦争」なのだ。主敵は中国、戦場はアメリカである」(櫻井よしこ)、「慰安婦問題は日韓米の運動体と中国・北朝鮮の共闘に対し、日本は主戦場の米本土で防戦しながら反撃の機を待っているのが現状だ」(秦郁彦)を見ると、「歴史戦」の「主戦場」がアメリカと考えられていることもわかる。

本のタイトルでも括弧がついた「歴史戦」が使われ、同様に「主戦場」にも括弧がついているのは、通常の意味ではなく、右派が好んで使用する、やや特別な意味を込めた言葉として使われているからです。
このような出自を持つ言葉は、慰安婦問題を自国の問題として取り上げようとする団体側は、 積極的に は使わないでしょう。
つまり、「歴史戦」や「主戦場」という言葉がタイトルに使われた時点で、「右派」系の映画だろう、と、「右派」側はピンとくるわけです。そうでない人達には、何故この言葉が使われるのか全くピンとこないのと対照的に。


それでは、慰安婦問題は日本の問題なのに、何故「主戦場」が米国なのでしょうか。
それは、慰安婦像の設置などの問題が生じてきたことが理由のひとつではありますが、それ以上に、彼らが日本国内では勝利を収めたと確信しているからなのです。
そして、その確信がさらなる問題を産んでいます。

すでに触れたとおり、このような勝利の強い確信こそが彼らにとってはいらだちの原因となる。「南京」も「慰安婦」も「捏造」であることは彼らにとって自明であるがゆえに、日本に対する非難や抗議が止まないのは日本政府が自分たちの主張を国際社会に伝えないからだ、と彼らは考えることになる。実際には彼らの主張それ自体が拒否されており、新たな非難を呼び起こしているにもかかわらず。日本政府が右派論壇の期待に応えて「毅然として声を上げ」ればあげるほど、国際社会の反応は彼らの予想を裏切るものとなる。すると彼らは「まだ歴史戦の努力が足りない」と考えるのである。
p32

結局、右派が米国を指して「主戦場」という言葉を使う裏には、日本国内では既に勝利を収めているという事実認識があり、その象徴的な出来事が2014年の朝日新聞による過去の慰安婦報道の検証特集掲載と一部記事の撤回があるということのようです。
実際には、2012年ニュージャージー州慰安婦碑、2013年カリフォルニア州グレンデール慰安婦少女像の設置が、米国で「歴史戦」を行うきっかけになっているようですが、経緯を考えると、やはり「主戦場」(=米国)は右派が好んで使う言葉だということがよく分かります。


なお、1章最後には「歴史戦」言説の特徴と問題点がコンパクトに整理されているので、メモ代わりにポイントをまとめます。

  1. 【圧倒的な物量作戦】:『正論』などの右派メディアが日本軍「慰安婦」問題を取り上げる頻度は他のメディアを圧倒している。アカデミズムや通常のジャーナリズムは「新規性」という価値に拘束されているが、右派メディアは同じことの繰り返しをためらわず行い、結果として量的な非対称性が生じてしまう。
  2. 【被害者意識】:右派によれば、「歴史戦」は、 韓国、中国や『朝日新聞』 から仕掛けられているものである。その被害者意識ゆえ、日本政府の責任を追及し、また解決のための努力を促す運動は必然的に邪悪な意図、何者かの「謀略」に発するものと解釈されてしまうことになる。
  3. 【字義通りの「戦争」】:「自虐史観」は、彼らにとっては日本を精神的にも軍事的にも“武装解除”するための罠なのである。「歴史戦」は竹島尖閣諸島の領有権をめぐる紛争と字義通りにリンクしている。
  4. 本質主義的民族観】:いわゆる「歴史認識問題」において問われているのは第一に旧日本軍と大日本帝国の責任であり、第二には過去の侵略戦争、植民地支配、戦争犯罪、国家犯罪に対する現在の日本政府の姿勢なのだが、「歴史戦」が守ろうとしているのは民族の名誉である。
  5. 【勝利の確信が生み出すいらだち】:前述のとおり。

河野談話、70年談話、日韓合意

また、『主戦場』では説明の少なかった70年談話や2015年末の日韓合意などについても触れられていました。(3章「謝罪は誰に向かって、何のために行うのか?」)
70年談話とは戦後70年の節目にあたる2015年8月14日に安倍晋三首相が発表した「戦後70年談話」のことです。これに限らず安倍さんのスピーチは、言質を取られないよう、回りくどい発言が多く、結局長いだけで何を言っているのかわかりにくいスピーチである、という程度にしか考えていませんでしたが、テッサ・モーリス・スズキさんによれば、これは日本の近現代史にかかわる基本的な部分について誤った解釈に基づいて作成されたものだったとのこと。
それだけでなく、70年談話で最も注目を集め、日本人の多くも共感(朝日新聞世論調査では「共感する」63%、「共感しない」21%)を呼んだとされる以下の部分についても、反論しています。

日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を負わせてはなりません。

ここで、テッサさんは、オーストラリア先住民のアボリジニに対して過去におこなわれた収奪と虐殺などの罪と重ねて、以下のように考えます。

過去におこなわれた悪行に直接自分が関与しなかったからといって、「まるで関係ない」とは主張できないのである。わたしたちがいま、それを撤去し壊滅させる努力を怠れば、過去の憎悪と暴力、歴史的な噓に塗り固められた差別と排除は、現在も社会の中で生き残り、再生産されていくのだから。p75

この部分は、そう言われればその通りという気もするし、また、70年談話で言っていることにも、若干の違和感を抱くようになったものの、それを非難できるほど理解が十分ではなく、もっと勉強が必要な部分だと思いました。


一方、テッサさんは「河野談話」については、3倍もの分量があるわりに曖昧な表現の多い70年談話と比べると、はるかに簡潔で要領を得たものとして評価し、特に以下の部分を強調して引用しています。

河野談話」は、日本が国家としての責任を負うことを認め、そして被害者たちに明確に謝罪した点において、世界的に高く評価された。しかし以下の箇所こそ、現在を生きる者たちが決して忘却せず、実践していかなければならない部分である、とわたしは考える。

われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。


「歴史戦」をめぐる右派の主張が、膨大に存在する史料をほとんど無視し、自説に都合のよい部分だけを組み合わせて構築されているのは歴史研究の否定であり、歴史への冒涜である、と書かれているが、まさにその通りで、歴史研究を尊重する河野談話は、それとは対極にあることがわかります。


また、2015年末の「日韓合意」についても取り上げられています。
この日韓合意をめぐる韓国政府(文在寅政権)の態度 は、現在の日韓関係の悪化の原因のひとつになっているという認識です。今の自分の気持ちとしては、こうなることが分かっていたのなら、何故あそこで「合意」をしたのか?と、日本政府よりもむしろ韓国政府への不満が募りますが、単純に、あそこで期待をもってしまったのは「ぬか喜び」という以上に、不勉強なのかもしれません。
テッサさんの見解は以下の通りです。

日本政府、および一部の日本国民は、韓国側が「蒸し返さな」ければ、「日本軍慰安婦問題」はなくなる、と考えているようだが、それはあまりにも21世紀の世界の潮流を無視した考え方であると同時に、間違った考えでもある。
(略)
歴史とは、負の遺産を抹殺し、正の遺産だけを相続できる種類のものではないのである。正の遺産を「日本人の誇り」とするのであれば、当然ながら負の部分も受け入れなければならない。
繰り返すが、「河野談話」は歴史的責任を認め、「 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」と続けた。
この「 歴史研究、歴史教育を通じ」何度も何度もこの問題を「胸に刻む」ことこそ、「同じ過ちを決して繰り返さない」道に通ずる、と私は信じる。

この3章を読むと、「70年談話」および日本政府の態度と、「河野談話」の違いは明らかであり、2015年末のいわゆる「日韓合意」も、「河野談話」とは相容れないものなのだろう、という気持ちになります。「日韓合意」自体は、右派からの反対も多く、右派が割れる原因にもなったようですが、韓国側がどういう意図で合意に応じたのかも含めて、もう少し知っておきたいです。

最後に

この本でも、『主戦場』のラスボスである人物(伏せますが)の名前は何度も登場しますが、「黒幕」感は全くありません。
それ以上に登場するのは、当然のことながら安倍晋三首相です。当時は「歴史戦」という言葉がありませんでしたが、第一次安倍内閣のときから、これらの情報戦が盛り上がり、現在、膨大な国費(広報費)が使われている*1状況にあることを考えると、もっと別のことに使ってほしいと思うばかりです。
「歴史研究」や「統計」などのこれまでの積み重ねを尊重する態度があれば、もう少し現政権を好きになれるのに、と思います。
歴史戦については、今年5月にも本が出ているので読んでみたいです。(この本は2016年6月なので、3年前と情報がやや古い)

歴史戦と思想戦 ――歴史問題の読み解き方 (集英社新書)

歴史戦と思想戦 ――歴史問題の読み解き方 (集英社新書)

*1:7/21に行われる参議院議員選挙公約にも「 歴史認識等を巡るいわれなき非難への断固たる反論をはじめ、わが国の名誉と国益を守るための戦略的対外発信を強化するなど、韓国・中国等の近隣諸国との課題に適切に対処します。 」と書かれています。「 戦略的対外発信を強化 」ということはこれまで以上にお金をかけるということでしょう。

『3月のライオン』聖地巡礼の魅力(その3)~橋と人と

ひとつ前に書いた通り作品の舞台は水に囲まれているわけですが、隅田川を渡る橋は、中央大橋以外にもあります。
だけでなく、それぞれが登場人物と強く繋がりを持っています。
今回は、かなりこじつけ部分もありますが、登場人物と橋の結びつきについてまとめてみました。

中央大橋

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中央大橋は、当然、桐島を象徴する橋です。それどころか、佃小橋が、作中の多くの登場人物が渡る、しかも「共に渡る」ことの多い橋であるのとは対照的に、中央大橋は、常に、「桐島が」「一人で」渡る橋です。例えば上の絵のように…。(2巻13話)
いや、ただ一度だけ桐島が「二人で」中央大橋を渡るシーンがありました。その相手が二海堂なのは、二海堂ファンとしては嬉しい限りです。(4巻33話「坂の途中」)
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霊岸島量水標

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中央大橋以上に、初期に、桐島零を象徴する建造物として登場するのが、霊岸島水位観測所です。(上は2巻12話)あくまで「初期の」、孤立を深めて、周囲と壁を作っていた頃の桐島の象徴なのです!。…と思っていたのですが、読み直してみると、気がつかなかった発見がありました。
まず、改めて確認してみると、霊岸島水位観測所の13巻139話のシーンでの久しぶりの登場(下図右)は、4巻36話「青い夜の底」(下図左)以来だったので103話ぶりということになります。

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ところが、3巻のラストで島田八段の研究会に入ることを決め、先ほどの33話では、二海堂とのイチャイチャシーンを見せつけるなど、桐島は孤立から脱出しつつあり、「心を閉ざしていた頃の桐島の象徴」という見立てがやや外れているように見えます。


そこで、改めて、さらに遡って登場シーンを確認してみました。

  • 2巻12話「神さまの子供(その2)」(上図)
  • 2巻17話「遠雷」(下図左:香子)
  • 3巻27話「扉の向こう」(下図右:後藤)
  • 4巻36話「青い夜の底」(上図)
  • 13巻139話「目の前に横たわるもの」

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こう並べてみると、そのほとんどが香子と関連するシーンで霊岸島量水標が登場していることが分かります。そして、4巻から13巻の間、香子も作中から姿を消します。
つまり、4巻までは作品の重要な位置を占めていた、香子に対する桐島零の後ろめたさ、不甲斐なさ、そして微かな恋心、と、そこから逃げ出して始めた「独り暮らし」の象徴こそが霊岸島水位観測所なのではないでしょうか。実際、この裏の建造物の裏のマンションに桐島は住んでいるのです。
13巻では、それが香子から見た風景として描かれていますが、 香子の脳裏には、強がりから独り暮らしを始めた頃の寂しそうな零が今も残っているのでしょう。


という風に書きましたが、ここでも零、香子以外のキャラクターで唯一、この場所を訪れている人がいます。これもまた二海堂なのです。二海堂が、中央大橋霊岸島水位観測所の二大聖地を踏み荒らす、この4巻33話は、「神回」と言えるでしょう。
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佃大橋

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佃大橋は、中央大橋下流側にある橋で、佃島から最も近い橋です。
作中の登場人物が隅田川を実際に渡る橋は(一つの例外を除くと)中央大橋のみなので、佃大橋や、このあとに取り上げる勝鬨橋は、背景としての橋です。
この橋は、三日月堂から最も近い場所にある(隅田川の)橋なので、川本家との関係が強いのかと思いきや、そうではありません。
他の橋と比べたときの特徴は「見上げる橋」であることで、公式HPでのストーリー紹介でも使われている7巻の折り込みミニポスター(下)の印象もあり、、これまた桐島零「色」が強い橋です。
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そして、物語の中ではモモが香子にたいして「まじょ」と言った場所として記憶している人も多いのではないでしょうか。(4巻35話「水面」:上図)
そもそもこの場所は香子が指定した場所。2巻20話「贈られたもの(その1)」でも、部屋に置き忘れた腕時計を渡す際の待ち合わせ場所として、零の提案した駅前のメック(月島駅前のマクドナルド)は拒否して、香子は隅田川テラス(特定できないがおそらく同じ場所)を指定しているので、香子もまた「河」が好きなのでしょう。
ということで、佃大橋も零&香子の色が強い橋なのでした。
ただし、零と香子が最後に別れたのは、いつも待ち合わせの場所に使っていた佃大橋とは反対側にある石川島公園なので、場所にこだわりはないのかもしれません。
(香子が歩く先に見えるのは相生橋で、なんか適当に書かれています…笑。こちらの川は隅田川本川ではなく、隅田川派川です。)
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勝鬨橋

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勝鬨橋は佃大橋のさらに下流側にある橋で、形状に特徴があります。 左右にアーチが2つあり、中央部が開く、いわゆる「跳ね橋」になっているのです。(今は開きませんが、フィクションでは、時々これを開く話が出てきます。)
中央大橋の上流側にある永代橋が、作品の舞台付近では有名なアーチ橋ですが、前にも書いたように、中央大橋から上流の風景は『3月のライオン』には登場しないので、作品内で、アーチ橋が見えたら、それはほぼ確実に勝鬨橋の左岸側(月島側)となります。


さて、この勝鬨橋を登場人物と結びつけようとしたとき、その相手がまた桐島ではつまらないというのではありませんが、勝鬨橋は、ひなちゃんと繋がりが深いのではないかと思います。

おそらくですが、「河」の好きなひなちゃんの背景として、三日月堂に一番近い佃大橋は「桐島」色が強過ぎるため使いづらく、結果として、次に近い勝鬨橋になっているのではないでしょうか。
例えば、ももがアヒルを追跡する扉絵シリーズの2巻16話、18話、19話は連続して、ひなちゃんの背景として勝鬨橋のアーチが見えます。
また、お父さん(妻子捨男)の登場で悩むひなちゃんと桐島が話す背景にも勝鬨橋が見えます。(10巻104話「約束」:上図)
日月堂で、将棋を教えながら、桐島からひなちゃんから話を聞くシーンでも、心象風景として勝鬨橋のアーチが出ます。(6巻56話「小さな世界」:下図)
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さらには、いじめ問題が一応は解決したあと、河の近くで桐島とひなちゃんが話すシーン。ここでは、桐島から見るひなちゃんの後ろには佃大橋が見え、思考もやや重々しいですが、ひなちゃんの視線からは勝鬨橋が見え、楽しい雰囲気で、二つの橋が対照的です。(7巻71話「日向」)2人がいる場所は、 4巻35話「水面」で、香子×零が三姉妹と出くわす場所と、ほぼ同じ場所なのですが、目に映る風景が全く異なるのも面白いです。
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千住大橋

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さて、最初に、登場人物で隅田川を渡るのは桐島(+二海堂)だけ、という話を書きましたが、唯一の例外が滑川七段です。
13巻137話、138話は「雨の匂い 河の匂い」として滑川七段の家業の話が出てきますが、扉絵は137話が、千住大橋隅田川に架かる橋)、138話が千住新橋(荒川に架かる橋)です。
滑川七段の実家は葬儀屋(千住斎苑)で、亡くなった方の遺体を運んで千住大橋を渡るシーンが出てきます。(これを指して隅田川を渡る登場人物は桐島だけじゃないと言っています)
「私たちの育った街は4つの河に囲まれていて」と語っているので、隅田川と荒川、旧綾瀬川*1に囲まれた北千住付近が生まれ故郷なのではないでしょうか。


この回は、まず滑川七段の呟きが、まさにオリジナル・ラブ「好運なツアー」の歌詞と一致するような内容でドキッとします。

どうして人というのは
こんなにも忘れっぽいんでしょう
こんな風にたくさんの人生の最後を見送っているのに
どうして もっともっと
もっと切迫感を持って生きられないんでしょう
「夢が叶った」幸運
命があって明日も生きて対戦できる幸せ
しびれる程の幸運が積み重なって生まれた
奇跡のような「今」だというのに

さらに、「生きる」ことについての滑川兄弟の対話が興味深いです。

しかし私は自分の将棋につんざくような閃光を見出せない
他人の将棋にばかり心奪われる
他人にばかり憧れる
(略)
自分ではなく他人に憧れてばかりの見学ツアーみたいな人生
なぜ私はあんな風に引き裂くように輝けないのか
これで私 死ぬ時にちゃんと「ああ生き切った」
と思えるのでしょうか[滑川七段]

「生きる」って事についてなら僕思うんです
「自分もいつかは死ぬんだ」って事を忘れて呑気に日々を送れてしまう事
それって人間の持っている
ちっぽけな権利のひとつなんじゃないかなって[滑川弟]

滑川七段が眺める水面は、隅田川ではなく荒川のようです。*2
それぞれの棋士が、同じ将棋盤の奥に別々のものを見て、別々の悩みを抱えながら生きている。
そして、香子が隅田川の対岸に零を見ているように、滑川七段も荒川の対岸に他者の人生を見ているようです。
様々な人間が、それぞれの人生の中で大切なものを見つけていく。
それが『3月のライオン』という物語の醍醐味だと改めて感じるエピソードでした。
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この聖地巡礼特集は、あと一回は書きたいのですが…。

参考

何度も繰り返しますが、聖地巡礼に行くには、まずは『おさらい読本初級編』が参考になります。
東京以外の全国版は『中級編』にありますので、持っていない人は両方買いましょう。


滑川七段の呟きは、書いた通り、オリジナルラブ「好運なツアー」とかなり似ています。
一連の発言の中で「ツアー」という言葉も出ているし、聞いているのかも…。名盤『白熱』収録です。

白熱

白熱


一連のシリーズ目次はこちら。
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:何を指して「4つ」なのかは分かりませんでした…

*2:場所が正確には特定できていませんが、向いに長い橋のように見えるのはおそらく荒川左岸側に並行して走っている首都高、奥に見えるのは鉄塔。西新井橋野球場付近からの景色のようです。

政権批判ではなくちゃんとしたエンタテインメント映画~『新聞記者』

まず、最初に書くと、自分は、 望月衣塑子記者のことはあまりに好きではありません。
望月記者の菅官房長官に対する姿勢は、必要なものだし、排除されるべきではないと考えますが、あまりに反体制に過ぎる、いわゆるサヨク過ぎる、と考えていたのです。
その「サヨク過ぎる」というやや一方的な印象は、彼女自身の言論よりも、Twitter上での安易なRTが(自分の目には)目立ったというところも大きいです。新聞記者にしては、噂話レベルの政権批判もいRTするような「軽さ」が、彼女をあまり好きではない理由です。


ということもあり、望月記者が製作に関わっているこの映画は、もともとあまり見るつもりはありませんでした。しかし、松坂桃李が気になっていたのと、実際に公開されてみると、どうも、反安倍政権以外の人も、エンタメとして、この映画を評価しているような声が聞こえてきたため、上半期マイランキング2位の映画『主戦場』と比較する意味でも観てみようということになりました。

松坂桃李&シム・ウンギョンW主演! 前代未聞のサスペンス・エンタテインメント/映画『新聞記者』予告編



ということで感想です。
ひとことで言うと松坂桃李が良かったです。
そしてもうひとこと言うと、シム・ウンギョンから目が離せませんでした。

松坂桃李について

まず、松坂桃李ですが、本当に良かったです。
彼が演じるのは外務省から 内閣情報調査室(内調)に出向しているエリート。仕事と家庭、組織と個人の中で悩み苦しむ様子がとても伝わってきました。
特に印象に残ったのはラストシーンです。漫画なら目から光(ハイライト)が失われてしまっている、あの、呆然自失の状態が、噓っぽくなく表現された上での声にならない呟き。
そこも含め、勇ましかったり不安だったり、ヒーローになりたい、けれどもすべてが上手く行くわけではないという不安定な感じを上手に(つまり過剰ではなく)演じることが出来ていたと思います。( 曲で言えばミスターチルドレン『HERO』)
そして、妻役の本田翼も、明るいながらも根は儚げな演技に徹しており、松坂桃李のラストシーンでの決断(ゴ・メ・ンと言っているように見えたので、結局真相は闇の中)も結局は彼女(勿論、生まれたばかりの子供も)が理由なんだと感じさせる名演でした。

ストーリー(フィクション)

さて、肝心のストーリーですが、映画ナタリーで朝井新聞の石飛記者の発言と、ほとんど感想は同じです。

エンタメ映画なので、あれくらい風呂敷を広げてもいいと思う。最初に謎があって、謎を軸に1つひとつ物語を積み重ねていく流れがよくできていると感じました。企画を最初に聞いたとき、反権力の人しか観に行かなかったら嫌だなと思っていたんですけど、脚本がよく練られていてしっかりとエンタテインメントになっていますし、オリジナルストーリーとしても素晴らしい。
新聞記者が語る映画「新聞記者」 - 映画ナタリー 特集・インタビュー

この発言は、物語の軸となる部分で、現実と乖離した突飛な話が出てくるのはどうか、という話を振られての回答にあたります。
石飛記者のいう「あれくらいの風呂敷」についてネタバレ部分を伏せて書くと、内閣府主導での地方での医学部設立の背景に○○○○があった、という大ネタですが、これくらいの陰謀があると、ドキドキして見ごたえがあります。
自殺した先輩官僚が携わっていた学校設立の背後にあるものは何か?という謎が、「羊の絵」の暗号も含めて次第に解き明かされていく流れは自然で見入ってしまいました。

ストーリー(事実ベースの部分)

現実の事件とのリンクの多い映画ですが、序盤には、伊藤詩織さんの事件を想起させる事件揉み消しの話が出てきます。これにも内調が暗躍し、反・詩織さんの意見がネットで盛り上がったのも内調→ネットサポーターによるもの。
それを仕掛けている内調側も疑問を感じながらけしかけ、世論が偏って盛り上がるというこの構図に焦点を当てたのが今回の映画だと思います。後半で、ややフィクション寄りの真相が明かされても、問題視しているのは、この構図なので、映画を観た人は皆、今の日本と重ね合わせて考えることになります。
(ただし、内調の人間がTwitterに直接書き込んでいる絵には、やや疑問。それはないでしょ、と思いますが。)

シム・ウンギョン

シム・ウンギョンは悪い意味で目立ちました。
まず、何故、反安倍政権の映画の主人公女性を韓国人女優が演じるのか?というのが分からない。見始めても、役名が「吉岡」という日本人の役を何故?と疑問が深まります。
しばらく見ると、彼女が演じる吉岡エリカは、新聞記者だった日本人の父と韓国人の母の間に生まれたという設定で、同僚からも「アメリカの大学に通っていたのに何で日本で記者になろうと思ったんだろう」と疑問に思われている、ということで、時々怪しい日本語にも少し納得しました。
次に気になったのは、猫背です。猫背であることで、彼女が有能であるように見えない。無能なコメディ役であれば猫背でいいのですが、今回の役には猫背は合わないのでは?と思ったのです。
ちなみに、先ほど、以下のインタビュー記事を読むまで気がつかなかったのですが、『サニー永遠の仲間たち』で主役(神木隆之介にそっくりでした…)を演じたのがシム・ウンギョンだったのですね。このときの猫背は役に合っていたと思います。
www.cinra.net

映画『サニー 永遠の仲間たち』予告編



さて、日本人女優が演じるとしたら誰なのか、と思ったときに最初に思い浮かんだのは吉高由里子でしたが、誰が演じても、邦画に男女の有名人俳優が共演する場合、恋愛色が出てしまう気がするので、その意味では、シム・ウンギョンが合っていたのかもしれないなと思いました。しかし、アサヒ芸能の記事で、「反政府」のイメージがつくことを怖れて日本人女優はオファーを断ったということを知り、納得しました。候補として挙がった女優の中に、満島ひかりの名がありましたが、それがベストな配役だった気がします。


ただ、改めて考えてみると、 ネット上でのナショナリズムの台頭は世界共通でも、官僚や為政者が、自らが正しいと思うことを出来ない環境というのは、日本に特化している問題なのかもしれません。そして、最近、日本企業内での左遷的人事がニュースが話題になること*1を考えると、松坂桃李が抱える悩みは民間でも共通するものでしょう。
その問題を追求する主役が、国外の視点を持っている人であるということは、この映画には適役だったとも思えます。


映画の中のテレビ番組で複数回登場する望月記者と前川喜平(元・文部科学官僚)は、ちょっと出過ぎで蛇足ではないかとは思いましたが、2人の主張が読める以下の新書は、参考に読んてみようと思います。また同名の新書も。

同調圧力 (角川新書)

同調圧力 (角川新書)

新聞記者 (角川新書)

新聞記者 (角川新書)

*1:カネカやアシックスにおける「パタハラ」が問題になりました。