Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

読者の共感を拒む踏み絵的小説~村田沙耶香『地球星人』

地球星人

地球星人

私はいつまで生き延びればいいのだろう。いつか、生き延びなくても生きていられるようになるのだろうか。地球では、若い女は恋愛をしてセックスをするべきで、恋ができない人間は、恋に近い行為をやらされるシステムになっている。地球星人が、繁殖するためにこの仕組みを作りあげたのだろう―。常識を破壊する衝撃のラスト。村田沙耶香ワールド炸裂!

とても共感しにくい、ここまでに読んだことのないタイプの小説でした。
目をそむけたくなるような悲惨な事件や、はらわたの煮えくり返るような理不尽を描いた小説はそれなりに読んできた気がします。
どんなに辛い出来事でも、そこには、常にどちらかがあり、それがあることで、主人公や作者に共感を抱くことが出来たように思います。

  • (一人称の場合)登場人物の、加害者や社会、家族に対する怒りや悲しみ
  • (三人称の場合)登場人物をめぐる出来事に対する作者の怒りや悲しみ


『地球星人』が変わっているのは、そういった読者の共感を拒むことです。
読者はひたすら置いてけぼりにされるのです。(自分はそう感じました。)
確かに、これまでに読んだ村田沙耶香の小説には、どれにもそういう要素がありました。
主人公の女性は皆、世の中の「普通」に違和感を抱き、その違和感を持ち続けたまま大人になります。今回、主人公の奈月が、自分が魔法少女と信じている設定は、以前も出てきているし、その延長上にある彼女が対峙する相手としての「人間工場」という説明も、いわば「村田沙耶香的」な感覚として、とてもよく分かります。

私は、人間を作る工場の中で暮らしている。
私が住む街には、ぎっしりと人間の巣が並んでいる。
(略)
ここは、肉体で繋がった人間工場だ。私たち子供はいつかこの工場をでて、出荷されていく。
出荷された人間は、オスもメスも、まずはエサを自分の巣に持って帰れるように訓練される。世界の道具になって、他の人間から貨幣をもらい、エサを買う。
やがて、その若い人間たちもつがいになり、巣に籠って子作りをする。p37

そんな人間工場の中で 身を潜めるようにして生きていく奈月は次のように言います。

私は悲鳴をこらえながら呟いた。
「いつまで生き延びればいいの?いつになったら、生き延びなくても生きていられるようになるの?」p91

このあたりまでは、「いつもの村田沙耶香」作品だと思って読んでいました。
しかし、最初に「これは、ちょっとついていけないぞ」と感じたのは、塾の伊賀埼先生から「ごっくんこ」を強要されるシーンです。
この、酷い性暴力に対しても、奈月は世界に違和感を抱いたまま、いわば、ぽかーんとしています。村田沙耶香作品では、作者=主人公という面が強いので、作者も、ぽかーんとしており、本を読んでいても、誰も怒らず、誰も悲しんでいないので、読者である自分だけが、やるせない気持ちを抱えることになります。
まず、そこに「ついていけない」と思ったのです。


次に、「ついていけない」と感じたのは、34歳の奈月が、23年前に、伊賀埼先生の家で「魔女」を殺したことを振り返るシーンです。
奈月は、伊賀埼先生を殺した自覚はなく、あくまで、殺したのは「魔女」なのです。

私は、そのまま魔法使いではなくなり、宇宙船をなくしたただのポハピピンポボピア星人として余生を生きている。母星に帰れない今、 ポハピピンポボピア星人として生きていくのは孤独だった。地球星人が私を上手に洗脳してくれることを願うばかりだった。p150

こんな風に自らの殺人の告白を締める主人公に共感するのは相当に難しいのです。
しかし、それでも、奈月は「地球星人に洗脳される」=普通の人間として生きる選択肢を残しているので、まだ話をしたりは出来そうなのですが、全くついていけないのは奈月の結婚相手の智臣です。


まず、智臣は、地球星人の目から見たら、「仕事ができないことを他人のせいにしているダメ人間」と評価されるタイプの人です。
最終的に同居して暮らすことになる3人ですが、当初は、由宇(奈月のいとこ)<奈月<智臣の順で病が深く、智臣が最も急進的です。これに対して奈月は、由宇に説得されて、考え方を「地球星人」側にシフトするよう智臣と話してみようと決心します。
これに対する、智臣の朝食でのひとことは本当に衝撃的です。

話があるからあとで時間が欲しい、と翌日の朝食のときに夫に切り出すと、僕もだ、と夫がうれしそうに、私と由宇に告げた。
「僕は、祖父とセックスしてみようと思うんだ」p163

この発言の真意は省略しますが、寝たきりの祖父についてのこの発言に共感できる読者は相当レアでしょう。
しかし、このとき、食べていた味噌汁を吹き出してしまった由宇でさえ、「宇宙人の目」を獲得し、 どんどん智臣と同様の考え方になっていきます。
最終的に3人の考え方は、生き延びるためなら、窃盗、殺人、さらには人肉食までOKとする極端にも程があるものになっていきます。
そして、この物語は、 ポハピピンポボピア星人と地球星人の考え方が全く相容れないままに終わります。
この終わり方も衝撃的でした。
読者の共感しやすい終わり方は、 酷い終わり方ですが、ポハピピンポボピア星人が、地球星人(工場)側の酷い仕打ちにより絶滅してしまう、地球星人を一方的に悪者にして世界を閉じる終わり方です。そうでなければ、 ここまで極悪非道なポハピピンポボピア星人にシンパシーを、同情心を抱けません。


…と、そこまで考えたとき、自分は、マイノリティーの意見に耳を傾けながらも、あくまでマジョリティの立場に立って、その優越を離さない、そういうタイプの人なのではないかと、ふと疑問が湧きました。
マイノリティ( ポハピピンポボピア星人 )が、微かながらも、マジョリティ(地球星人)に対抗できる力を得て終わるこのラストは、自分にとって都合が悪いのかもしれません。そして、クレイジー沙耶香と呼ばれる村田沙耶香が、世間に向かって「お前らこそがクレイジーだ!」と絶叫するような『地球星人』に面食らってしまったのは確かです。
この作品は、村田沙耶香が仕掛けたリトマス試験紙であり踏み絵であるのでしょう。
これまで、興味深く村田沙耶香作品を読んできた自分のような読者は、作者本人からは「したり顔で頷きながら、最後は敵に回る奴」*1と蔑まれているのではないか、と怖くもなりましたが、やはり、自分の中では上手く結論付けられない本となりました。
他の方の感想等を読んでまた考え、読み直してみたいです。

*1:キム・ジヨン』に出てくるあの人

『3月のライオン』聖地巡礼の魅力(その2)~河を渡る

その1では、『3月のライオン』の聖地巡礼ではランドマークが重要な要素であることを書きましたが、最も重要なことを書いていませんでした。
それは、三日月町すなわち佃島が水に囲まれているということです。
風景の一部をなすランドマークを多数擁するだけでなく、どこを向いても水面が背景に入る場所が舞台であるということが、実際に現地を訪れると体感できます。
ちなみに、羽海野チカ先生の前作『ハチミツとクローバー』のメインキャラクターが、竹本・花本だったことを考えると、『3月のライオン』の3姉妹の名字が「川」本であるのは、作品世界と何か通じるところがあるのかな、と勘繰ってしまいます。


さて、『3月のライオン』で登場する川(作中での表記は「河」が多い)のほとんどは隅田川
場所に馴染みのない方にもイメージできるように説明すると、浅草からスカイツリーや「金のうんこ」を見るときには川越しで見ることになりますが、その川こそが隅田川です。その隅田川を、浅草からは東京湾に向かって7kmほど下流にくだったところに、川本家のある三月町(佃島)と、零くんの住む六月町を結ぶ中央大橋があります。
中央大橋は、漫画には桐島が自分を顧みながら川本家に向かう、もしくは自宅に戻るシーンで「渡る橋」として登場します。中央大橋を「渡る」ことは単なる移動にとどまらず、心理的な要素が多分に含まれる行動なのです。したがって、聖地巡礼では、中央大橋は、絶対に渡ることがオススメです。(中央大橋は1巻の表紙の橋です↓)
3月のライオン 1 (ジェッツコミックス)


その際、重要なのは順序です。その1で紹介した最後に挙げた事例のうち、中央区の「おでかけマップ」は、月島駅スタート→八丁堀ゴールというルートになっていますが、これは通常とは反対のルートでオススメできません。主人公・桐島の気持ちになって三月町(佃島)を訪れるなら、当然ですが、八丁堀スタート→月島駅ゴールというルート(『3月のライオンおさらい読本初級編』のルート)にした方が良いです。
余談ですが、宮崎駿ジブリ映画では、序盤でトンネルをくぐるシーンが出てくることが多いです。作品世界の中心に外部から入り、物語に没入させる仕掛け*1として(もっと深読みも出来ますが…)重要な役割を持つトンネルは、2022年に開業予定のジブリパークで絶対に用意すべきでしょう。『3月のライオン』の聖地巡礼は、中央大橋を通って「河を渡る」だけで物語への没入度が高まる、テーマパーク級の仕掛けを内在しているのです。
(下は「おさらい読本初級編」の掲載ルート)

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なお、順序という意味では、川本家を訪れるためには、隅田川を渡ったあと、佃島の船溜まり(佃川支川)を渡る必要があり、佃小橋は、この船溜まりを渡る橋となっています。
したがって、中央大橋→佃小橋→川本家というのが作品内でのお約束のルートとなっており、「おさらい読本」のコースは、まさにそれになっています。(原作を大事にしている気持ちが伺えます) 
しかし、現地を訪れると分かりますが、中央大橋を渡って三日月堂(川本家)に行くのであれば、佃公園(隅田川テラス)から住吉小橋を通る(上図の3(中央大橋)→12(住吉小橋)に向かう)コースが近道だし、作品世界とシンクロ出来る隅田川沿いルートなので、こちらをオススメします。なお、1巻の表紙の場所で写真を撮影する場合は絶対に隅田川テラスに寄り道する必要があります。
佃小橋は小さい橋なので行ったり来たりしながら堪能しましょう。
(下は佃公園の隅田川テラスを通る桐島@10巻98話「やわらかい風」)
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なお、上図4の石川島公園は、作中での登場頻度が少ないので、時間と体力を節約したい方は、こちらもカットしましょう。
したがって、三日月堂を佃煮天安とした場合のオススメルートはこのようになります。*2


このシリーズですが、もう少し続きます。

参考

前回書いていませんでしたが、『3月のライオンおさらい読本 初級編』には、上に引用した聖地巡礼マップのほか、松井玲奈が月島で撮影したコラボグラビアがあり、こちらも現地を訪れたり写真を撮ったりする際には参考になります。佃煮天安の写真がやっぱりいいですね。

参考2

こちらのニュースによれば、東京五輪に向けた隅田川の魅力向上のために、住吉小橋(住吉水門)のあたりも工事をするようですね。月島川水門の部分も連続化に向けた整備工事を行うということは、もしかしたらモモちゃんがアヒルを追いかけて行き止まりになった箇所(上図に入り切れていませんが13にあたる)も通れるようになるのかも…
www.sankei.com

*1:ディズニーランドはそういう仕掛けがよく出来ています。スプラッシュ・マウンテンも滝から落ちる前に物語に「不穏な雰囲気」が入ることが気持ちを盛り上げます。

*2:「おさらい読本」で三日月堂があるとされる10の位置には商店はありません。佃煮屋さんとして一番近いのは、「つくだに丸久」ですが、松井玲奈のグラビアで写真を撮影しているのは「佃煮天安」となります。

『3月のライオン』聖地巡礼の魅力(その1)~ランドマーク

大好きな作品の舞台となった場所を実際に訪れる「聖地巡礼」は、それだけでワクワクするものです。
自分が『3月のライオン』の「聖地巡礼」をしてみようと思ったのは勿論、そのワクワク感を求めてのことです。しかし、何度か現地に行き、その後、漫画を読み返して思うのは、三月町(川本家のある町)のモデルである佃・月島の聖地巡礼の魅力はそれだけじゃない、ということです。
勿論、『3月のライオン』は、プロ棋士の漫画なので、千駄ヶ谷にある将棋会館(と向かいにある鳩森神社)も作品内に何度も登場し、そこに行くワクワク感も格別*1なのですが、佃、月島には、それ以上の魅力があるのです。

1.ランドマーク

Wikipediaから引けば「目印となる地理学上の特徴物」をランドマークといいますが、『3月のライオン』には、実在のランドマークが多く登場します。
特に多いものが、中央大橋、佃小橋&風呂屋の煙突の3つ(2つ)です。

3月のライオン 1 (ジェッツコミックス)ファイター [TVアニメ『3月のライオン』主題歌 (リアル・インスト・ヴァージョン)]3月のライオン 2 (ジェッツコミックス)3月のライオン[前編]

  • 中央大橋↓(桐山零が川本家を訪れる際に最初に渡る橋)

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  • 佃小橋↓(桐山零が川本家を訪れる際に二番目に渡る橋)
  • 風呂屋の煙突↓(銭湯は「日の出湯」。作中では「月の湯」)

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これらは、いわば登場人物らが三月町(ということは佃・月島)にいる風景の「お約束」として、大体どの巻にも登場しますが、聖地巡礼で佃・月島を訪れたときも、これらは、風景の中のランドマーク(目印)として機能し、それがあるからこそ、『3月のライオン』をもっと楽しむことが出来るのです。
具体的には、作中に登場する背景の中で、これらのランドマークをチェックすることで、その風景が見える位置(視点)を地図上に落として捉えることができる、というのがランドマークを見て楽しむ作品の楽しみ方です。


たとえば、佃小橋は作品中では「赤い橋」として頻出し、 風呂屋の煙突とほぼセットで出てきますが、そのほとんどは南側(橋の左側に煙突が見える)もしくは東側から見た風景(橋を渡った向こう側に煙突が見える)です。実際、14巻で、島田八段と林田先生(+みんな)がハゼ釣りをする「赤い橋のほとりで」では、タイトルにも「赤い橋」と入っており主役級の扱いで登場しますが、釣りをしているのが橋の南側ということもあり、北側からの絵は描かれません。
しかし、稀に北側からの風景が出てきます*2。下に引用したのは10巻99話「雨の降る街」ですが左奥から佃小橋、風呂屋の煙突、聖路加タワー、住吉神社が並ぶロイヤルストレートフラッシュ的な景色です。こういう絵を見ると、お!これは!とレアキャラに出会ったような喜びがあるのと合わせて、零くんは、多分このあたりから佃小橋を眺めているのだな、と登場人物の位置が特定できます。(少しストーカー的・倒錯的喜びな感じもしますが…)
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さて、今も書いた通り、上の景色で佃小橋と煙突の奥に光るタワーは聖路加タワーです。

この、聖路加タワーは対岸側(ざっくり言うと月島の対岸は築地)にあるので、漫画の舞台として登場することは少ないのですが、川の向こうの風景として描かれることがとても多いランドマークです。
ただ、 13巻を読むと、後藤九段の奥さんの入院先 (作品内では中央病院) は聖路加病院のようで、零とは無関係な場所ながら、ここも作品の舞台ではあります。この13巻139話「目の前に横たわるもの」で香子が見た景色は、聖路加タワー側からの景色、つまり、いつもは遠景として見ている川の向こう側から零の暮らす世界(三月町と六月町)を見ている、これまた、とてもレア、かつ深読みしがいのある景色となっています。(そして零の住んでいるマンションもばっちり特定できます…笑)
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最後にもうひとつ付け加えると、中央大橋から隅田川上流を見ると永代橋越しにスカイツリーが見えるのですが、零が何度も目にしているはずの、この景色は多分これまでに描かれていません。零の住む世界は六月町と三月町、そして将棋の世界だけ、ということで、余計な情報は不要なのでしょう。
こういった、背景の取捨も物語の重要な要素なのだと、改めて感じます。
なお、住吉神社の鳥居や、今回触れていない中央大橋を含む隅田川の橋も何度も登場しますが、これはまた今度に回しましょう。
(続き→『3月のライオン』聖地巡礼の魅力(その2)~河を渡る - Yondaful Days!

参考

聖地巡礼のまとめは個人で沢山の方がされており、どこも熱のこもったページで参考になりますが、公式としては、漫画の副読本である「おさらい編」(初級で関東地方、中級でそれ以外を取り扱っています)が参考になります。

HPでは、中央区が映画公開に合わせて「おでかけマップ」という形で紹介しています。また、東京ウォーカーの記事でアニメの舞台が取り上げられています。
日月堂があると思われる場所付近には佃煮*3屋さんが何軒かあるのですが、「おさらい編」では、「佃煮天安」さんをピックアップしているのに対して、東京ウォーカーでは「つくだに丸久」さんをピックアップしています。聖地巡礼をしたときは、お土産に買いたい逸品です。

www.walkerplus.com

過去日記のリンク

pocari.hatenablog.com

*1:あと、将棋会館では、棋士のグッズを買える!

*2:2巻表紙は珍しく北側からの佃小橋です。

*3:当然お気づきかと思いますが、佃は佃煮発祥の地です。

『3月のライオン』や将棋関連本の感想

2013年の将棋電王戦から始まった自分の将棋ブーム。
その後、藤井聡太の登場、羽生九段が無冠になる一方で、『3月のライオン』の主人公・桐山零のモデルともいわれる豊島将之八段が2019年6月現在では名人を含む三冠を保持しているなど世代交代が進んでおり、目が離せません。
関連本はもっと読んでいきたいですね。

世界規模の課題に個人でも取り組む入り口に~『未来を変える目標 SDGsアイデアブック』

未来を変える目標 SDGsアイデアブック

未来を変える目標 SDGsアイデアブック


SDGs(エス・ディー・ジーズ) は言葉としては知っていたし、それが目指すゴールの何となくのイメージは持っていましたが、道筋については全く未知でした。
そんな自分にとってこの本は、中高生向けに書かれた本ということもあり、 とても読みやすく、 具体的な取り組みとして世界でどんなことが行われているかを知ることが出来る良い本でした。のみならず、地球温暖化ガスの排出目標などとは異なり、SDGsがとても身近な存在に思えてきました。

SDGsとは何か、について、外務省HPから引用すると以下の通りです。

持続可能な開発目標(SDGs)とは,2001年に策定されたミレニアム開発目標MDGs)の後継として,2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」にて記載された2016年から2030年までの国際目標です。持続可能な世界を実現するための17のゴール・169のターゲットから構成され,地球上の誰一人として取り残さない(leave no one behind)ことを誓っています。SDGs発展途上国のみならず,先進国自身が取り組むユニバーサル(普遍的)なものであり,日本としても積極的に取り組んでいます。

実際の17のゴールと本書で紹介された取り組みは、目次で一覧でき、それだけでとてもわかりやすいので、以下に画像として引用します。
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読み進めると、どの取り組みも、寄付ではなく支援だったり、ボランティアではなくビジネスだったり、という「持続可能性」に重きが置かれていることが分かります。
また、ミレニアム開発目標の反省から「誰も置き去りにしない」世界をつくることを理念として掲げていることも含め、途上国だけでなく、先進国も積極的に目標達成に向けて努力すべきゴールがたくさん掲げられています。(持続可能な世界をつくるにはエネルギー消費の多い先進国こそが行動に移す必要があり、相対的貧困などの国内の問題も「誰も置き去りにしない」という意味で、先進国が取り組むべき課題です。)


紹介された中で印象に強く残ったのは「目標8:働きがいも経済成長も」で取り上げられたインドのハンドメイド絵本出版社「タラブックス」。
ここの絵本は世界中で大人気ですが、会社は大きくしない と決めているといいます。 (現在、社員15人+工房の職人25人ほど)

ふたり(会社を率いる二人の女性)は「あまりに多くの人を雇うと、社員は会社にとって自分が不可欠な存在だと感じられなくなる。それでは良い本がつくれない」と言う。工房の職人には長時間働きづめでたくさんの本をつくるより、少部数でも丁寧な本づくりをしてもらいたいと考えている。そう、会社を大きくしないのは働く人のためであり、同時に会社のためでもあるのだ。

規模拡大というビジネスの常識には、誰もがその限界に気がついていると思いますが、世界的人気がありながら、ここまで小規模な会社でも、こういった発想を持つとは驚きです。


また、いくつか挟まれるコラムでは、NPO法人ピープルデザインの須藤シンジさんの指摘が印象的でした。
コラムでは、健常者・障害者双方の心の心の底にある「心のバリア」(スティグマ)をなくすこと(心のバリアフリー)の大切さについて説かれています。
日本のように、小学校で特別支援級があり、健常者と障害者の接触頻度が極めて小さくなる国は、主要先進国では稀だとのこと。違いを持った人々との交流の術に慣れることなく、「無知」のまま成人に至ることが多い日本で、その「無知」こそが、心に「恐怖」に似た「避けたい感情」を醸成していきます。
これは、まさにその通りで、NPO法人ピープルデザインの具体的な取り組みについてももっと知りたいと思いました。


このようなSDGsですが、17個の目標を皆が考える必要があるのではなく、すべての目標はつながっていると言います。つまり、個人もしくは企業にとって大事な課題を目標の入り口にすることで、どんどん隣接分野の目標に取り組まざる得なくなり、最終的には、多くの目標がついてくるというのです。
このような社会的テーマで嫌なのは、結局、全部勉強しなければ始められないのでは…?素人は手出しできないのでは…?という結論に至ってしまうことですが、SDGsの場合は、どの入り口から入っても大丈夫と敷居が低いものとなっています。

SDGsと年金の持続可能性

SDGsのような考え方は、官僚や政治家など、国を担う人たちには、知識としても持ち合わせてほしいですが、何より、その理念を持ち合わせていてほしいと望みます。
特に、一国だけでは成り立たない日本では世界的視野は必須で、人口減少社会を迎えていることから、持続可能性について強い意識が必要だからです。
これに関連して、6/10の年金をめぐる国会での、安倍首相と共産党小池晃さんのやり取りには驚きました。(動画の3:32:00あたりから)

参議院 決算委員会 2019年6月10日

内容の良し悪しについては置いておいても、小池さんの主張が明解なのに対して、安倍首相の主張は、何を言っているかよく分かりません。
小池さんの発言は「国民の生活が第一」ということで主張が一貫しているのに対して、安倍さんの発言には、何も芯がないからです。
怖いのは、年金問題は、第一次安倍政権が終わるきっかけとなったテーマで、これまで安倍さんが勉強をしてきたはずのテーマであることです。
にもかかわらず、小池さん(のみならず多くの国民)に呆れられるような回答しか出来ない人が日本の総理大臣であることが怖いです。
特に、安倍さんが連呼する「マクロ経済スライド」は、繰り返し小池さんが指摘しているように、年金制度維持のために給付を減らしていく方法であり、国民の生活にとっては明らかにマイナスです。小池さんの質問に上手く答えられないことで、安倍さんは「国民の生活」には興味がないということが浮き彫りになっていると感じます。
そもそも安倍さんは、地球規模でも個人規模でも「持続可能性」が問題になっていることを理解していないようです。小池さんに、年金増の財源を示せ、と詰め寄り、法人税増などの案を聞けば「馬鹿げた政策」「誤った政策」と、具体的な話に触れないまま、議論を打ち切ろうとします。このやり取りを見ると、安倍さんは、多くの国民が年金を信頼できないと思っていることに全く無頓着で、それを理解しよう、解決しようと頭を使った形跡が見られません。
この国会答弁について、右派系まとめサイトでは「批判だけで無策の共産党」だとか「安倍さんの答弁キレッキレ!」というようなtweetも紹介されていましたが、普通の人が国会答弁をちゃんと見たら、安倍さんのわけのわからなさに恐怖を覚えるはずです。(ましてや、安倍さんはこのあと、もっとハイレベルに難解な問題を抱えたイランを訪問したのです…)


さて、小池さんや、演説がそのまま本として出版されてしまうような枝野さんは、(その主張に賛同するかどうかは別としても)言わんとしていることが分かりやすいです。
それは、SDGsとは異なる部分もあるかもしれませんが、国民視点を含む「政治的理想」が頭の中にあるからです。
対する安倍さんが、二言目には「悪夢のような民主党政権」と言い出すのは、国民視点を含む「政治的理想」がないのは勿論、国内外の難しい課題に対して頭を悩ませたことがないからではないかと思ってしまいます。
19日に党首討論があるようなので、安倍さんがどのようなことを語るのか注目しています。(「悪夢のような…」はもうやめてほしい)
そして、次の首相は、SDGsについても一通り理解し、自分なりの意見を持っているような人がなるといいな、と思っています。

ゴジラ×インターステラー~ナチョ・ビガロンド監督『シンクロナイズドモンスター』

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ゴジラ』と『インターステラー』の反省


映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』予告2

ここ最近の個人的な映画ニュースは、満を持して立川シネマシティの極上爆音上映で臨んだ『ゴジラ キングオブモンスターズ』で爆睡してしまったことでした。
どこまで酷かったかを簡単に説明します。

  • 最初はちゃんと見てた
  • キングギドラゴジラの最初の対決もちゃんと見た。
  • ラドンのきりもみ飛行がカッコいい!
  • ここまでも眠気はあったが、そもそも怪獣バトルシーンは、席まで揺れるほどの極上爆音で自然と起きる…
  • しかし、その後しばらく続く人間同士の会話ベースのシーンで完全に爆睡。
  • あれ?いつの間にか芹沢教授が山に登っている!
  • この後はほぼ起きて観ていたはずなのだが…!
  • 世界中の怪獣たちがゴジラの周囲に集まってきて、これは危険だぞ!どうなるのか?あれ?ラドン何故?と思っていたら終了。(起きていたら絶対に抱かない感想)

鑑賞後、一緒に観に行ったよう太(中3)に、「ラストシーンは…」「芹沢教授は…」「モスラの鱗粉が…」と理解できなかった部分について逐一解説を受けることで、いかに自分が何にも観ていなかったのかを理解し、居たたまれない気持ちになったのでした。


さて、数日経ってみると、さらに記憶は朦朧となり、黒髪の女性研究者がチャン・ツィイーだったのか、アン・ハサウェイだったのかもよくわからない状態に。
思えば、5月末でAmazonプライム見放題から外れてしまう映画ということで、アン・ハサウェイが研究者役で出演するクリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』を観た直後に『ゴジラ』を見た形になったのでした。なお、『インターステラ―』は、こちらも眠気を誘われることが多く、最終的に「よくわからなかった」という感想が一番に出てくる、残念な映画体験となってしまいました。

映画『インターステラー』最新予告編


度重なる失態に対して僕はこう決意したのでした。(バケモノにはバケモノ!の『貞子vs伽耶子』理論)


こんな決意をどちらも叶えてくれる素晴らしい映画がありました。
それこそが、アン・ハサウェイ製作総指揮・主演の怪獣映画『シンクロナイズド・モンスター』です。

シンクロナイズドモンスター』という、ものすごく変な映画


映画「シンクロナイズド モンスター」日本版予告

憧れのニューヨークで働いていたグロリア(アン・ハサウェイ)だったが、失業してからというもの酒浸りの日々を送っていた。ついには同棲中の彼氏ティム(ダン・スティーヴンス)に家を追い出され、生まれ故郷の田舎町へと逃げ帰る。グロリアは幼馴染のオスカー(ジェイソン・サダイキス)が営むバーで働くことになるが、その時驚愕のニュースが世界を駆け巡る。韓国ソウルで突如巨大な怪獣が現れたというのだ。テレビに映し出された衝撃映像に皆が騒然とする中、グロリアはある異変に気付く。「この怪獣、私と全く同じ動きをする…?!」舞い上がったグロリアは、怪獣を操り世界をさらなる混乱へと陥れるが、そこに「新たなる存在」が立ちはだかる-!


とにかく、これは、ものすごく変な映画でした。
宣伝通り、アン・ハサウェイは、お酒で失敗を続ける「ダメ女」を演じますが、彼女の周りにいる男性キャラクターに「いいやつ」がいない。

  1. ニューヨークで同棲していた元彼ティムは、上から目線で「稼ぐけど優しくない男」
  2. 田舎町に戻って世話を焼いてくれるオスカーは、「優しいけど魅力の少ない男」
  3. オスカーの友人で、グロリアと一夜を共にしたジョエルは「容姿は魅力的だけど、行動しない男(子分タイプ)」

主要な男性キャラクターは上の3名なのですが、特に「3人目」として登場するジョエルは、その登場順からも、通常なら、ダメ女に救いの手を差し伸べる王子様タイプなのかと思いきや、その後、窮地に立つグロリアを見てみぬふり。そのくせ、いつも彼女のことを気にかけ、ソウルに怪獣が現れると常に心配そうな素振りを見せる。(最後まで)
オスカーは、「モテない常識人」かと思いきや、一番の「モンスター」だったのですが、むしろ「ダメ」という点では、グロリアと似た部分のある、しかも幼馴染。最後には、オスカーが改心してグロリアとくっつくのかと思いきや、最終盤で、グロリアは、元彼ティムのもとに戻ることをオスカーに告げます。確かに、オスカーはダメダメだけど、ティム?えええええ?
結局、ラストは、ティムも放っておいて、オスカーを(怪獣になったグロリアが)彼方に投げ飛ばして終わり、という、意表を突く展開でした。
実際にソウルで建物被害 ・死傷者が多数出ているのに、最後に、グロリアの「トホホ」表情がクローズアップされて終わる名探偵コナン的ラストにも違和感大でした。


しかし、この映画が、アン・ハサウェイ製作総指揮であり、彼女の世間的な評価を知ると、色々と納得できる映画です。特に町山智浩さんの作品評が分かりやすい。


つまり、ネットでの「ヘイター(アンチ)」からの悪評で落ち込んだ主人公が、そこから立ち直る物語という見方です。
確かに、ロボット(オスカー自身)が登場するネット動画を何度も繰り返し見てしまうオスカーには、Twitterで馬鹿をやらかしてしまう若者の匂いを感じたし、愛想を尽かしたグロリアがオスカーに言う以下の台詞は、はるかぜちゃん(タレントの春名風花)が、それこそ「ヘイター」に向けて言っているような既視感がありました。

自分が嫌いなのね
別の理由だと思ってた
私を自分のものにしたいのかと
でももっと単純な話ね
自分が嫌いなのよ
自分のちっぽけな世界が大嫌いなのね
それだけのこと

しかし、全体をネット社会の比喩だと考えたときに、怖くなってくるのは、「2人目」のジョエルの立ち位置が、サイレントマジョリティを可視化し、自分のような人間を糾弾しているように思えてくることです。
ネット全体(特にTwitter)を見たとき、一番目立つのは、世間を煽るような言動を繰り返す(しかし、おそらくリアル社会では目立たない)オスカーのような人間。
また、グロリアのように「ダメな自分」に一度溺れて、そこから抜け出そうとあがいている人も見かけます。
ジョエルは、グロリアに恋心を抱いていることもあり、 常に彼女が心配で、様子を気にかけているという意味では優しい人間です。でも、実際には行動しない。結果として、少しもグロリアの救いになっていません。本来は、オスカーの暴走を止めるのは、ジョエルの役割であるはずなのに、完全に他人事です。
映画としては、アン・ハサウェイが「ダメ女」を脱出して、人間的に成長したという意味で上手く収まっているラストということになりますが、自分をジョエルに重ねて見ると、なかなかムズムズする終わり方で後味が悪いです。また、勿論、オスカーのような人間が改心するラストが本当は相応しい気がしますが、リアルではないということでしょう。
なお、Twitter界で怪獣が出現し、大騒ぎになっているときに、ティムは、Facebookで仲間との信頼関係を築いているのだろうと思います。

どんな向かい風も一歩なら歩き出せる~山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』

選んだ孤独はよい孤独

選んだ孤独はよい孤独

深夜のファミレスで飽きずに話してたことは
ぼくらが手に入れるはずだったちっぽけな未来

それは宝物 だってぼくらはもう手にできない
グズグズと悔やむばかり

どんな悲しみも ぼくらは光にできる
借りたままの君の好きな歌が いつもそう歌うよ
まるで君の口癖みたい
スガシカオ「黄昏ギター」

誰もがみな、自分の将来に対する希望と絶望、過去の思い出と後悔の中で生きていると思う。
むしろ、それらの「せめぎ合い」の中にこそ、人が生きる喜びが生まれるように思う。
スガシカオの「黄昏ギター」では、その「せめぎ合い」のバランスが絶妙だ。
ぼくらが手に入れるはずだった宝物は「もう手にできない」。そんな絶望に溢れている。
一方で、そこにある「どんな悲しみも ぼくらは光にできる」という僅かな希望を、「君」の言葉ではなく「君の好きな歌」の言葉として引用する。「まるで君の口癖みたい」に。
この時点では、この歌詞は希望と絶望で言えば、完全に絶望に偏っている。
実際、大袈裟ではなく、辛さばかり感じて生きる人生もあるだろう。
それでも最後にこの歌は、「借りたままのギターで 僕は歌を歌うよ」と、借り物の言葉でも、自分の思いとして、自分の希望として「どんな向かい風も 一歩なら歩き出せる」と宣言する。
一歩しか歩けないのではなく、「一歩なら歩き出せる」。
単なる言葉遊びに過ぎないが、それでもこの一歩は大きい。


こんな風にして、もう取り戻せないもののことを考えたり、人に嫉妬したりしながら、それでも生きて行かなくちゃいけない。
そんな小説を集めた作品集がこの本だと思う。
帯には“誰もが逃れられない「生きづらさ」に寄り添う、人生の切なさとおかしみと共感に満ちた19編”“「女のリアル」の最高の描き手・山内マリコが「男の生きづらさ」をすくいあげた新たなる傑作!”、また、“忽ち重版!男性から共感&震撼の声続々”とあり、著名人の感想が並ぶ。

  • 「人生の正解」を求めてもがく男たちの絶体絶命っぷりに痺れました。---穂村弘歌人
  • 微笑みながらジャブを打たれ、気づけばノックアウトに持ち込まれる、そういう作品集です。---武田砂鉄(ライター)
  • めちゃくちゃ身につまされる!男の描き方に違和感が一切ない。これってすごいことですよ!---海猫沢めろん(作家)


実際、「この感じ」は、今まで生きる中で経験してきたけれど、それほど多くは書かれていない部分かもしれない。
いや、書かれていたけれど、それは「トホホ」という(聞いたことのない)笑い混じりの嘆息とともに、斜めから通常描かれるものだったのだ。真正面から「生きづらさ」のみをピックアップしていくような作品集は無かっただろう。


自分が最も共感したのは、「あるカップルの別れの理由」の鈍感な主人公。自分を見ているようで怖くなる。

彼女は腕組みして言った。
「たまにはさぁ、自分で洗濯機回してくれない?」
ああっ!そっち!?
その瞬間、彼ははじめて気づく。
一緒に住みはじめてから、自分で一度も洗濯していないことを。洗濯機を回すのは、いつも彼女だった。
「そっかぁ、ごめん。悪気はないんだけど、気がつかなかった」
「あなたのその鈍感さに、なんか蝕まれていく感じがする」
彼女は吐き捨てるように言った。p69


他の作品でも男性キャラクターはこういうタイプの人が多く、悪気はないけれど、旧来のジェンダー観に囚われている。自分もそういうタイプだし、周りにも多いからよく分かる。
たとえば、超短編「子供についての話し合い」で一方的に責め立てられるだけの主人公もそうだ。(この小説は、これで全編)

「あなたが昭和の専業主婦みたいに、文句も言わず家事も育児も全部やってくれるんだったら、子供産んでもいいよ。でも、そうでないなら、産みたくない。これに関してはあたし、一切譲歩する気はないから」

その他、

  • 小学校の同級生との腐れ縁が今も続き、地元に住み続けて、職も結婚も自分で決断しない 一編目「男子は街から出ない」の主人公
  • 「さよなら国立競技場」の、サッカー部の上の学年が好成績を収め過ぎたせいで厭世的になってしまった谷間世代のキャプテン

など、本当にこれまで近くにいた人が悩みながら生きる様を見ているようで痛い。人間性というのは、結局「人の間」に生きて出てくるものだよな、ということを改めて感じさせてくれる。


『選んだ孤独はよい孤独』というタイトルは、19編の小説の題名の中にはないが、読み直してみると、最後の一編「眠るまえの、ひそかな習慣」とリンクしているようだ。

この小説の中で、自己啓発本が大好きな主人公は、手帳に書き写した言葉の中のひとつ―――「ナースが聞いた、死ぬ前に語られる後悔TOP5」 ―――を眠る前に唱える習慣がある。老いぼれて余命僅かな自分をイメージしながら…

「ああ、もっと自分自身に忠実に、自分らしく生きればよかった。
あんなに一生懸命働かなくてもよかった、
もっと家族と過ごせばよかった。
世間の目を気にせず、自分を出す勇気を持てばよかった。
自分の気持を押し込めすぎた。
そう、私は、あんなに人生に怯えなくてもよかったのだ。
自分の手で、幸福を選んでもよかったのだ。
いつだって、幸福は、選べたのだ」

山内マリコは、この主人公を、ダメなタイプの「意識高い系」として描いている。残念なタイプとして描いている。
主人公は眠る前に上の文句を唱えて「出会ったすべての人に、彼はもう一度会いたかった」と感じ、「どうせまた会えると思いながら、二度と会えなかった大勢の人たちを」思い出すシミュレーションをしている。が、だからと言って、彼は行動に移さないのだろう。
そして、彼は孤独のまま死んでいくのだろう。
それでも、彼が「選んだ幸福」は、「選んだ孤独」は、きっと「よい孤独」なので、あまり気にする必要はないのだ…


という皮肉なタイトルのついた作品集だが、それでも、最後の一編がこれで終わることに、少しのメッセージが含まれている気がする。
スガシカオ「黄昏ギター」で歌われるように、 「どんな向かい風も 一歩なら歩き出せる」のではないだろうか。
自己啓発本から持ってきた借り物の言葉で進める「一歩」もあるのではないだろうか。
古くからの友人と無理につるむ必要はないし、しがらみから自由になるのなら「よい孤独」もたくさんあるだろう。
しかし、自分を押し込めて、自分を出せないままで、獲得した「よい孤独」は、「幸福」から離れてしまっているのではないだろうか。
ダメ人間の「眠る前の、ひそかな習慣」を本の中で眺めることで、読者は、自分を客観視して、きっと少しだけ前に進むことが出来るようになる。
そんなメッセージが籠められた作品集になっていると感じた。


ところで、この本、ジャケがとてもカッコいいですが、長谷川潾二郎さんという画家の「アイスクリーム」という作品のようです。