Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

『ラ・ラ・ランド』×藤子・F・不二雄「分岐点」×小沢健二「流動体について」


まずは『ラ・ラ・ランド』の初見感想。(ネタバレありです。要注意)
元々、3月末の平日に時間を取れるチャンスがあり、韓国映画(『お嬢さん』『アシュラ』のどちらか)を観ようと決めていたのだが、結局上映時間の関係で、他の作品を観ることに。そのときに選んだのがアカデミー賞6部門受賞の『ラ・ラ・ランド』。事前情報として、ラストにちょっとした展開がある、ということは知っていたが、予告編の印象から、「夢をかなえる楽しい映画」と思っていた。
実際、オープニングの高速道路のシーンから駐車場でのミュージカルシーンまでの流れ、つまりは二人が惹かれ合って付き合う直前までは、とてもドキドキしたし、純粋に楽しんで見ることが出来た。
特に、ミア(エマ・ストーン)の表情の変化や身振り手振りが、「美人」っぽくなくて、好感を持てた。また、色違いのドレスを着た4人が路上を闊歩するシーンなど、鮮やかな映像が連続して、飽きることが無かった。
勿論、セブ(ライアン・ゴズリング)もカッコよかったし、特に、ピアノ演奏のシーンには惚れ惚れした。(本作のために猛特訓したとのこと)


ただ、付き合って以降は、ミアにどんどん共感しづらくなる。特に二つのシーン。
ひとつは、古いタイプのジャズに固執するのをやめてバンド活動で成功したセブのライブをミアが観に行くシーン。喝采を浴びるセブに対して、熱狂する観客の中でミアは一人だけ浮かない顔。まず、ここに共感できなかった。
ストーリー上の意味は分かる。「これがあなた(セブ)のやりたかったことなの?」ということだ。
しかし、夢を追い続けても方針を軌道修正することもあるし、音楽性が変化することもある、遠回りして元々の夢をかなえるというやり方もある。そもそもセブに出会うまでは全くジャズが分からなかった彼女が、逆に、古いタイプのジャズにこだわり続ける、というのは、とても柔軟性が無いように思ってしまった。他人を自分から見た「型」にはめて説教する、というのも嫌いなやり方だ。


もうひとつは、ひとり芝居の舞台の話。
あれほど準備を重ねてきたのに、実際に来た客は友達を入れて数名、という厳しい状況。
さらにセブが来られなかったことで、ミアは夢を一旦諦めることになる、というシーンだが、普通に考えれば、3割くらいは埋まるように、友人・知人を招待したり、事前にチケットを販売したりするものなのではないか?(狭い会場なので、事前の頑張りで半分は埋まっていてもおかしくないとさえ思った。)
そういった事前努力が見られず、当日になって初めて客の少なさに泣く、というのでは、「努力不足」「自信過剰」と言いたくなる。泣いている彼女を慰めてくれる友達もいないし、単に孤独な人という印象が強まった。
にもかかわらず、そのあと大スターになるまでがトントン拍子なのも、何だかな〜、と感じてしまった。


また、熱愛中のシーンでも、空飛んじゃったりするやつは、とても「ロマンティックだな」と思っては見られない。ミュージカルならでは、なのかもしれないが、ミアやセブの人間臭さが勝ってしまい、駐車場でのダンスシーンくらいまでが、自分の中で、ミュージカルとして「あり」の境界線なのかもしれない。


そんな中で訪れる「問題の」ラスト10分。
ここには本当に引き込まれた。
結局、ミアは成功したけど、二人は一緒にならなかったんだ…という溜息の出るような現実世界の「その後」を見せられたあとで、運命的な再会を果たすミアとセブ。そこで一転して、映画本編のストーリーをそのまま延長したような「if」の世界が描かれる。
そして最後に改めて「現実」に戻り、セブとは言葉を交わさず、しかし、それぞれの「現実」を肯定するように頷く。

「分岐点」

藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編 (2)

藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編 (2)

ラ・ラ・ランド』の関連作品として、この短編集に収録されている「分岐点」を挙げる人がいたので、読んでみた。
藤子・F・不二雄大全集の「SF・異色短編」は1970〜80年代に「ビッグコミック系」「SFマガジン」「別冊問題小説」「漫画アクション」など大人向けの雑誌に連載されていた短編を集めたもので、大判で全4巻。「分岐点」が収録されているのは2巻になる。
面白いのは「分岐点」だけでなく、「あのバカは荒野をめざす」「パラレル同窓会」という2作品も、人生を左右する過去の重大な選択について振り返り、もう一度やり直せるチャンスを得たらどうするのか?という共通したテーマを持っていること。「分岐点」だけでなく、『ラ・ラ・ランド』に似た展開となる作品が3つもあることになる。
また、未来から現代に来て、ふしぎなカメラを売り歩く「ヨドバ氏」が登場する一連のシリーズも含めて、F先生の「少し不思議」視点の法則が垣間見られるセレクションになっている。
つまり、この短編集で描かれる「少し不思議」は、「視点を変えることで初めて見えてくる価値」にフォーカスすることで生まれてくる。
例えば、自分にとってのその人の重みを数値で表示する「値ぶみカメラ」、体が入れ替わることで、父と子がそれぞれの抱える悩みやお互いの信頼感に気が付く「親子とりかえばや」、街をカメラに写してミニチュアを製造する中で、風景となっていたその家に暮らす人の悩みに気が付く「ミニチュア製造カメラ」など。
勿論、「分岐点」「あのバカは荒野をめざす」「パラレル同窓会」の3作品も、それぞれ別の形で、道半ばまで生きてきたこれまでの人生を肯定するような話となっている。

ラ・ラ・ランド』×「分岐点」

という風に、ここまで考えてくると、設定の似ている「分岐点」と『ラ・ラ・ランド』は、実は似ていない、ということ気が付く。
「分岐点」は、結婚相手が違う相手だったら今の生活はどうなっていたか?というシミュレーションをした上で、現実と仮想が入れ替わってしまう不思議な余韻を残す話だが、やはり、底にあるのは「視点を変えて考えてみる」という部分だろう。基本的にSFは仮想世界でのシミュレーションなのだ。
ラ・ラ・ランド』のラスト10分は、シミュレーションではない。
ほんの一瞬で「思い出してしまう」、そこに、あのクライマックスでの感情の盛り上がりがあるのだと思う。
そう、シミュレーションではなく、「思い出している」のだと思う。二人でいた頃に夢見た生活を。それこそ走馬燈のように。
そして、そこに「音楽」があるから、あの一瞬の盛り上がりが、観客にとっても、とても納得のいくものになっている。
「音楽」は、生活を、人生を、真空パックする力を持つ。
前半部の何だかしっくりこない部分もチャラにしてしまうほどの破壊力をラスト10分が持っているのは、『ラ・ラ・ランド』という映画の軸にある「音楽」の力を遺憾なく発揮できているからだと思う。
かくいう自分も、映画を観た後の「何だかな〜」という気持ちは、予告編映像を見直して、さまざまな楽曲を聴いていたら雲散霧消した。今は、すぐにでも見直したい気持ちだ。

ラ・ラ・ランド』×「分岐点」×「流動体について」

流動体について

流動体について

さて、3月に発売された小沢健二の楽曲「流動体について」にはこのような歌詞がある。

もしも間違いに気がつくことがなかったのなら?
並行する世界の僕は
どこらへんで暮らしているのかな
広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど

もしも間違いに気がつくことがなかったのなら?
並行する世界の毎日
子供たちも違う子たちか?
ほの甘いカルピスの味が現状を問いかける


「子供たちも違う子たちか?」の部分などは、まさに「分岐点」の内容で、地下鉄の地図を広げて眺める様子は、まさに、仮想の生活を「シミュレーション」するものだ。
一方で、楽曲を聴くときの歌詞は、実際には、音楽よりも後ろにあると思う。つまりメロディーやアレンジに比べれば歌詞は二の次。
「流動体について」を聴くと、そのストリングスアレンジから「僕らが旅に出る理由」(同じ服部隆之が担当)を、そして「僕らが旅に出る理由」を聴いていた頃のことを思い出してしまうんじゃないかと思う。
…とすると、ストーリーに入り込む以前の段階で、聴く側に20年以上も前のことを走馬燈のように思い起こさせる「流動体について」は、『ラ・ラ・ランド』的でもあると思う。


ラ・ラ・ランド』、「分岐点」、「流動体について」は、アプローチは異なるが、共通するテーマがある。
特に『ラ・ラ・ランド』は6部門でアカデミー賞を取るような作品だから、勿論、誰が見ても面白い映画だけど、その良さを存分に味わうには、ある程度の年齢が必要だと思う。それは、年齢を重ねているという以上に、未来のことを思ったり、過去を振り返ったり、そして現在を楽しく生きる、その頻度と強度によるのだろう。
つまり漫然と日々を過ごしてしまうのではなく、音楽や映画の力を借りながら、タラレバを繰り返し、何度もためらい線の下書きを描きながらも、今を楽しく生きる。
それこそが人生じゃないか!
…ということが『ラ・ラ・ランド』全体のメッセージなんじゃないかと思った。
また観に行きたいです。

「生きるヒント」がそこにはある〜つづ井『腐女子のつづ井さん』(2)

腐女子のつづ井さん2 (ピクシブエッセイ)

腐女子のつづ井さん2 (ピクシブエッセイ)

一読目は、1巻を読んだときの衝撃は受けず、少し残念に思ってしまったほどだったが、2度3度読むと、ちゃんと面白くて、よくもこんなにネタ持ってるな、と感心した。
最初に感じた「1巻からのギャップ」は、客観的な他人目線が入り、「無邪気に趣味に打ち込む仲良し」という構造から少し離れたように感じたからだと思う。

  • 「いや そりゃ彼氏できんわ」(一晩かけて二人でアニメを見た感動を二人で歌い上げたあとのMちゃん)
  • 「世界にはこんなにも愛があふれているのに…私には…」(ハッピーエンドのBLを読んだあと「わからねー」と叫んだあとのオカザキさん)
  • 「壁にマスキングテープってねー」「あれ読んだときちょっと心配したわ〜」(ゾフ田)
  • 相手が自分の絵日記を読んでいるのを思い出して、恋愛相談の回答の引用元を「BL本」とばらしてしまうつづ井さん


一巻には少なかった、こういったメタ構造の笑いが増えたように思えて、そこに違和感を覚えてしまったのが最初の悪印象の原因だ。
しかし、この漫画の本質は全く変わっていない。
この漫画の魅力は、主人公たちが、好きな作品の(BL的)魅力を味わい尽くすために奇抜なアイデアを出し、その変わった提案をすぐに友達が受け入れてくれ、実行してしまう、というところにある。

  • イヤホンを鼻の穴に刺して、BLのCDをかけることでイケメンの声を手に入れる
  • ベッドに二人で並んで寝たらどんな感じか確かめてみる
  • 箱買いしたフィギュアで、推しを引くトレーニングをしてみる
  • フィギュアで影絵遊びしてみる
  • 女児会(女児になり切っての女児向けアニメ鑑賞)
  • 彼氏おりそうなツイッターアカウント選手権
  • お賽銭箱型の貯金箱を拝む
  • 語彙を増やすための辞書をつくる

ーBL本を読みながらあたりめの匂いをかぐ4DX

これらの提案を出来る雰囲気があって、しかも提案したら即応で「話が早!」となる王道パターン。
それを可能とする友人関係がある、というのが、まずとても羨ましい。
いや、仲間がいる、というそれだけではなくて、そもそも彼らが、自分ひとりで何でもやってみるDIY精神に溢れているというところが魅力的なんだと思う。

  • 言いたくて仕方ないアニメの感想を壁に話しかけてしまう
  • お賽銭箱型の貯金箱を使って神社を作る
  • 推しカプの当て馬になりたい願望を膨らませてしまう


そして、一巻で出てきた「壁にマスキングテープ」で一晩過ごしてしまう話も含めて、お金を使わずに自分一人で楽しむ(無駄に時間を使う)術を心得ている。
印象的だったのは、「プロジェクターを買って大画面でアニメを見たい」というつづ井さんの願望を、ゾフ田が「石油王の遊びじゃん」と否定して、懐中電灯を使ったフィギュア影絵遊びを提案する話。
身近なものしかなくても、工夫次第で、人生はいくらでも楽しく生きることができるんじゃないか、というヒントが詰まった、良い漫画だと思う。
読む前は想定していなかったけれど、自分もいろんなことにチャレンジしていきたいと思いました。

補足

つづ井さん達が話している漫画が一体何なのか気になったので、調べてみると、どうも『ハイキュー』らしいということが分かりました。一方で、調べる過程で久しぶりに某巨大掲示板のアンチつづ井さんスレに迷い込んでしまい、色々と嫌な話を知ってうんざり。納得できる批判もありましたが、絵柄が、ほしよりこ地獄のミサワのパクリという指摘はどうなんでしょうか。似ているところはあるけど全然許されるレベルと思う…。

宮沢賢治関連の感想 目次

宮沢賢治作品本体の感想

 ⇒自分の宮沢賢治への愛は、この朗読CDから始まっています。岸田今日子の表現力に驚きます。

ますむらひろし関連作品の感想

 ⇒ますむらひろしの漫画『銀河鉄道の夜』は大好きな作品ですが、『イーハトーブ乱入記』と合わせて読むと理解が深まります。

その他(映画、漫画、宿泊施設、音楽)

 ⇒「KENJIの春」はアニメ作品、「存在の祭りの中へ」は岩波現代文庫。当時は本当にマイブームだったのだなあと感心する。

 ⇒朗読漫画ですが、1〜2巻で宮沢賢治の『やまなし』が作品として取り上げられます。作品解釈も含めて読み応えありです。

 ⇒以前、岩手県・鴬宿温泉にあったウォーターアミューズメントパーク「けんじワールド」に宿泊した感想です。あまり宮沢賢治らしさは感じなかった…

 ⇒このブログでは初期のオリジナルラブ妄想。

人生を肯定してくれる漫画〜つづ井『腐女子のつづ井さん』(1)

腐女子のつづ井さん (MF comicessay)

腐女子のつづ井さん (MF comicessay)

久しぶりにテレビで高校サッカーを見た。
高校時代に所属していたサッカー部は、それほど強いわけでなく、自分はレギュラーではなかったが、それでもサッカーに思い入れは強く、同世代の小倉隆史城彰二を見ると、熱心にサッカーを見て、サッカーを練習していた頃の自分を思い出す。
また、高校野球もそうだが、負けムードの学校側のスタンドで手を合わせて祈る女子生徒をテレビカメラが抜くのを見るのも結構好きだ。可愛いかどうかではなく、彼女の視線の先には誰がいて、どんな関係なんだろう、とか、ちょっと妄想して楽しんだりする。


そんなときに、最近読んだこの漫画を思い出した。
タイトル通り「腐女子のつづ井さん」が友達と話をするだけの漫画だが、その妄想のレベルが自分とあまりにも違い過ぎるので面白い。
「ねー聞いて、めっちゃハッピーな夢見た」とつづ井さんが友達のMちゃんに話しかけるところから始まる「腐女子と夢」の回はこんな感じ。

  • (1)高校生のつづ井さんは、バッテリー間の人間関係の悩みを聞いて野球部男子といい感じになる。
  • (2)甘酸っぱいイベントをたくさん経たあと、最終的にピッチャーの子に寝取られる
  • (3)Mちゃんの感想「めっちゃいいじゃん。超うらやましい!」


(1)のような夢は分かるが、(2)の展開に驚き、(3)の予想外過ぎる反応によろめく。序・破・急、というのか、あっという間に腐女子沼に連れてかれる。
…すべてがこんな感じ。
他にも名言が多くて、「ここで、そんな表現が…」「なぜこんな発想に…」等、何だか色々と勉強になる。

  • ますらをの しろたへのあな いとをかし(出会って間もないオカザキさんがLINEで送ってきた古文)
  • 男性といい感じになっても「私チ●コついてないけどいいの!?」って本気で思うようになった(Mちゃん)
  • もうアニメイト行きたい アニメイトのきれいな空気の中で深呼吸したい(就活で疲れているつづ井さん)
  • これ…韻を踏むどころじゃない…日常パートとスケベパートがまるで…そう おもちつきのように…すごいスピードと頻度で交互に…すごい…(Mちゃん)
  • 東京すっごいな!!これ…この窓際でセ●クスするやつやん!!「外から見えちゃうよ…」といか言いながらめっちゃ盛り上がるやつやん知ってる!100万回読んだことある!!(Mちゃんと泊まるホテルの部屋を見て興奮するつづ井さん)
  • この世に互いの乳首に毎日オロナインを塗り合う男子高校生がいるかと思うと…貯金全部使ってオロナインを高校に寄付したい(つづ井さん)
  • じゃあ来年は右乳首にニベア 左乳首にオロナイン塗ってみようよ!!(Mちゃん)
  • 「私の十字架」ってどう?(この漫画のタイトル案を聞かれたオカザキさん)


いや、一人一人の言葉も面白いけど、やっぱり、会話の中の、無防備なバカ話の感じが面白いんだと思う。
「生きる」という言葉の意味について考えてしまう「腐女子と内緒話」の回とか、ときめきの魔法式の断捨離をやったあとで物が増えてしまう「腐女子と断捨離」の回とか、好きな漫画の最新話に衝撃を受けたオカザキさんが喪服で現れる「腐女子と感受性」の回とか、どれも、やり取り全体が面白い。


で、それだけじゃなくて、この種の漫画にしては自虐要素が少なくて、笑わせようとしてバカやってる感じでもない、というところがいい。友達は大事にするけど、影響を受け過ぎず他人を気にせずに楽しく生きている感じ、そこに、好きなことに突っ走る生き方を肯定されるようで、読んでいて楽しくなってくる。
幸せな雰囲気が強くて、自分はとても好きな漫画です。


こちらから試し読みができるので是非→コミックエッセイ劇場

参考(過去日記)

⇒同じく友人に「オカザキさん」が登場する『岡崎に捧ぐ』がテイストとしては近いかもしれません。この感想は、3作にまたがるアクロバティックなものになっており、読みにくいですが、昨年読んだ中でも1,2を争う好きな漫画です。山本さほさんは絵柄も好きです。

⇒こちらも2冊同時紹介のアクロバティックな構成ですが、『俺たちのBL論』は、自分になかった物の見方を懇切丁寧に教えてくれた、素晴らしい教科書です。

自分のオススメは、漫画→映画→漫画の順〜こうの史代『この世界の片隅に』

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

今回、各所からの絶賛評を知り、気になり過ぎて仕事も手につかないので、封切から一週間経つ前に見に行きました。
しかし、今年観た『ズートピア』『シン・ゴジラ』『君の名は。』とは異なり、この映画の感想は「大絶賛!」ではありませんでした。
そこの微妙なニュアンスについて書きたいと思います。

漫画の感想

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

kindleはこちら→[まとめ買い] この世界の片隅に (アクションコミックス)


そもそも原作漫画が以前から気になっていたことから、事前に漫画も読んでおきました。
kindleで1巻だけは購入済みだったので、kindleで揃えました)
読後の感想は以下のようなものです。

確かに戦時中の生活を描いた作品として、説教臭くないし、主人公のすずも可愛らしい。
笑えるシーンも多数あり、心が苦しくなるようなシーンもある。
ただ、この漫画がどうして傑作と絶賛されるアニメ映画になるのだろう。
見せ方を大きく変えたりしているのかな。

ドラマチックな展開や躍動感あふれる登場人物、意外なラストなどの、エンタメ的な要素は少なく、流行するにしては地味ではないか、という程度の、やや体温低めの感想を、このときは持ったのでした。

映画の感想

そして、11/16、水曜日のサービスデーということもあり、立ち見が多数出る中、テアトル新宿で映画を観てきました。
映画を観た直後の感想は、次の通りです。

ストーリーは原作漫画のまま。演出も大きく改変しているところはない。
漫画よりも格段にわかりやすくなっているところもあり、呉という街に行ってみたくなった。そして勿論広島にも。
でも、そこまで絶賛する映画なんだろうか。
君の名は。』のような、見終わったあと、誰かと喋りたくて仕方ない、という感じが全くしない…。

むしろ事前の絶賛評が悪さして、「なぜ?の嵐」が渦巻いていました。
周囲を見渡すと、同様にポカンとしている人が多かったように思います。
シン・ゴジラ』『君の名は。』のように、「絶賛評を聞いて観に行ったらやっぱり良かった」という人が多数出るタイプの映画ではないと感じました。

漫画の感想2

しかし、そのあと改めて原作漫画を見直すと、自分の感想は全く違ったものになりました。

この映画が傑作だという評価はとても理解できる!。
ただし、映画単体としてではなく、原作漫画と相互に補完し合うものとして。

ということで、漫画を再読することで、映画・漫画双方の評価が大きく上がるものとなりました。
以下、何故自分がそう感じたかについて考えていきます。

読んでから観るか、観てから読むか

「映画と漫画で相互に補完し合う」、というのは、つまり、アニメ、漫画、それぞれに得意な表現ジャンルがあって、同じ舞台設定、同じ登場人物、同じストーリーでも、それぞれ受け手の心への響き方が異なるという当たり前のことを意味します。
実際には受け手の能力や感受性が大きく影響するため、原作漫画で最初から9割がたを受け取れる人もいれば、原作漫画1回目では20%だったけど、10回読んで80%という人もいるでしょうし、原作漫画は読まずともアニメ3回で80%など、人それぞれだと思います。
自分の場合は、原作漫画1回目で40%、原作漫画+アニメで60%、原作漫画+アニメ+原作漫画で80%という感じです。


こういう作品は、読んでから観るか、観てから読むかという話題がよく出ますが、このような自分の体験と、以下に示すような映画・漫画の特性から考えて、原作漫画を読んでから映画を観ること、その後さらに原作漫画を読み直すことをオススメします。


以下ネタバレ

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セルジュにとって、アスランにとって「誇り」とは?〜竹宮惠子『風と木の詩』(4)〜(6)

風と木の詩 (第4巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第4巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第5巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第5巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第6巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第6巻) (白泉社文庫)


6巻まで読み終えたところで、改めて1巻からの構成を確認する。

  • 第1巻
    • 序章
    • 第1章 薔薇
    • 第2章 青春(1)
  • 第2巻
  • 第3巻
  • 第4巻
  • 第5巻
    • 第5章 セルジュ(2)
  • 第6巻
    • 第5章 セルジュ(3)
    • 第6章 陽炎(1)

自分の読んでいるのは全10巻の白泉社文庫版だが、小学館文庫版は全9巻、元の単行本は全17巻と、バージョン毎に巻の区切りが異なり、白泉社文庫版は非常に区切れ方が悪い(笑)。せめて第4章(ジルベール)は、最初か最後のどちらかで切れた方が良かったのでは…?


さて、4巻以降では、「第4章 ジルベール」で、学院に入る前のジルベール(+オーギュスト)が描かれ、「第5章 セルジュ」では、セルジュが生まれる前の時代にさかのぼり、父アスランの青春から、母パイヴァとの出会い、そして、セルジュ誕生からラコンブラード学院に入るまでが描かれる。
そして、やっと「第6章 陽炎」で、「第3章 SANCTUS −聖なるかな−」(2巻)以来、途絶えていた、現在進行形のジルベールとセルジュの話が再開する。

第4章 ジルベール

4巻に入った話では、予想に反して、ジルベールがボナールと良い仲になる。全体のトーンも、ボナールのことを、犯罪的行為を行った者ではなく、情熱的な芸術家として持ち上げるように話は進んでいく。
ジルベールがボナールの家に飛び込まざるを得なかった経緯を知ると、オーギュストの酷い仕打ちとの比較から、読者もボナールを好きになってしまうほどだ。(むしろ可愛い)
そして、実際、ボナールはジルベールの良さをよく理解し、オーギュストをこう叱責する。

愛されて…
自信に満ちたジルベールが好きだった
あの南国のバラのようなあでやかさが…
…常に生きる意欲に満ち…自分を恥じず…
人を思いやることより自分を大事にするジルベールがだ


…本来 そうでなければ人間は良い意味で才能を発揮できない
おまえのようにうしろむきで生きてはいけないんだ!
(略)


…そうまで言うなら なぜもっと大事にしてやらない!
なぜ少しも愛してないようなふりをする!?
嫉妬だ!

あの子の才能をなんだと思う
”自由”さ
おまえにはないものだよ
聖人きどりのいばらのきみ!
それを嫉妬してがんじがらめにしばりつける!
分かったかい!
おまえってやつは自分の愛情も
嫉妬に変えてしまうようなバカやろうだ!
4巻p159

胸のすく思い!
オーギュスト自身も辛い生い立ちがあるのだろうけれど、だからと言って、ジルベールを虐待していい理由にはならない。ボナールは、オーギュストへの愛情も籠めながら、しっかりと彼の欠点を指摘してあげているという点でも優しさに満ちている。


しかし、決闘後、ボナールが作品の舞台を降りたあと、オーギュストの兄との話が出てくると、途端にゲス過ぎる兄との対比からオーギュストの味方をしたくなる。
自分が読者として単純なのか、話の見せ方が上手いのかわからないが、登場人物のうち特にオーギュストへの評価は絶対的ではなく相対的に動く。それはジルベール評にも似たところがある。
ただ、ここでアルル(ラコンブラード学院)に送られるジルベールのオーギュストへの依存度の高さは病的で、ボナールの指摘するような「自由」というジルベール本来の良さが殺されてしまっている。これこそが学院内でのジルベールの不安定さに繋がるのだろうが、そういった点を考えると、やはりオーギュスト許すまじ!!という気になってしまう。

第5章 セルジュ(アスラン

ジルベールの章をリセットするような爽やかな物語!
第3章までのセルジュのパートと似ているのだが、セルジュの父アスランの話は、成長・恋愛・友情が混然一体となって、アスラン本人も何度もその言葉を使うように、いわゆる「青春」をテーマとした内容となっている。
そして、その青春は、アスランにとって、一度失って取り戻したものである。
バカロレア合格以降アスランが付けていた日記帳は、父の言うことに従って一度閉じ込めていた自分の想いを再び開き、ここから「青春」を過ごすという決意が表れたものだった。
この物語のメインテーマは、間違いなく「青春」であり、アスランにとって、「青春」とは、学友に恵まれたラコンブラード学院での生活に加えて、家族3人で過ごしたチロルでの暮らしを意味する。そして、セルジュにとっても、父と暮らしたかけがえのない日々、「風と木」を意識して暮らすチロルでの日々が、一番の心の支えとなっていた。ジルベールに会う前は。


それ以外に繰り返し使われるキーワードとして「誇り」がある。
アスラン結核でチロルに静養しているときにこんなエピソードがある。
散歩から歩いて帰る際に出会った荷馬車の人に「療養所の人だろ」と声をかけてもらう。
「すみません。申し訳ないけれどお願いします」と言ったあとで、アスランはこう思う。

みじめだ……
少しずつ少しずつ
被害者意識が
ぼくの自尊心を食い荒らす
4巻p274


セルジュのエピソードにも、同情と誇りを対比させた箇所がある。
好きだったアンジェリンを、自分の責任で傷つけてしまったあとで、「ぼくはきみの許嫁になる」と言い出したセルジュ。それに対して、目の部分を包帯で覆ったアンジェリンはこう言う。

恥知らず!
誇りを捨てた人間はきらい!
ふれるのもいや
そして…そして
あわれまれるのは死んでもいやよ!!


…家を出てって…
怨むわ…
わたしあなたと暮らしたら
この世のすべてを怨むと思うわ…
だからのこの家を出て行って!
二度と帰ってこないで!
わたしのまえに姿を見せないで!!
6巻p113


つまり、この物語の中では、何よりも「他人の同情を受けないこと」「他人にコントロールされず、自分の意志で発言し、行動すること」が、「誇り」に繋がる。セルジュもジルベールも、それを強く意識しており、そここそが互いに惹かれ合う大きな理由になっている。
そして、アスランが、パイヴァに出会ったことで、自分自身のために生きることが出来るようになった=青春の日々を過ごすことが出来るようになった、と言っていること(p258)と重ね合わせると、誇りを持つこと(自分を主張し、自分自身のために生きること)が、すなわち、青春の日々の必要条件なのだろう。

第6章 陽炎

久しぶりにアルルの話に戻ってみると、爽やかなアスラン〜セルジュパートから一転して、またもやジルベールのベッドシーンから始まる。
4章、5章で、それぞれの生い立ちを見てきたからこそ、この章の人物関係は納得して読める。

  • ジルベールをいとおしいと思う気持ちが止まらないセルジュ
  • セルジュのことを未だ信じ切れず、オーギュストを想い続けるジルベール
  • ジルベールには素っ気なく接する一方で、セルジュにちょっかいを出すオーギュスト

この変わった三角関係で話が進んでいく中で、生徒総監ロスマリネのトラウマとなっている凌辱体験がオーギュストによるものであること、それをロスマリネの片腕であるジュール・ド・フェリィが見ていた事実が明かされる。
面白いのは、ロスマリネが、オーギュストとジルベールを毛嫌いし、セルジュに「オーギュスト・ボウという男には深入りしないことだ」(6巻p305)と忠告する一方で、ジュール・ドフェリィは「気をつけたまえ ジルベール。セルジュという人間は、きみにとってどれほど危険かわからない」(6巻p291)と、ジルベールに肩入れすること。
なお、オーギュストが、ジルベールについて「無垢」という言葉を使ったのを、ロスマリネが笑うと、オーギュストが、こう言って怒るシーンがある。

なにもおかしくなどない
だれもが無垢の意味を知らないだけだ…
そうして彼のせいで他人が己を省みてあぜんとすればそれでよい
そのためにならわたしはなんだってする!

つまり、オーギュストは、ジルべールを使って、世間全体に対して復讐をしている、ということなのだろう。その個人的な復讐計画の邪魔をするのがセルジュということで、オーギュストは、表向きの親切さとは裏腹に、セルジュをジルベールから引き剝がしにかかる。


6巻ラストは、セルジュにとって慌ただしく、また楽しくない出来事が続く。

  • 騙されて赴いた美少年愛好クラブで暴行を受け、左肩を怪我した上に、レオに唇を奪われる。
  • 自分がジルベールが好きなことが、アンジェリンには分かっていると言われ、かつ、アンジェリンはオーギュストと結婚する可能性を示唆し、「失恋」する。
  • オーギュストが無理矢理招いた音楽院の教授の前で、左肩の怪我がたたって、ピアノ演奏の失敗をしてしまう。


レオンハルトは、現時点でのジルベールのお気に入りであり、かつ、セルジュの唇を奪った人間ということで、今後メインの話にも少し絡んでいくのだろうか。
とはいえ、何といってもオーギュストへの憎しみがどんどん募る6巻でした。アスランについては、オーギュストと会っていたとは言え、魔の手が及んでいないで本当に良かったと思います。

性表現の扉を開けた少女漫画〜竹宮惠子『風と木の詩』(1)〜(3)

白泉社文庫版で1巻から読み始めましたが、面白すぎる内容に驚いています…。

風と木の詩 (第1巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第1巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第2巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第2巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第3巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第3巻) (白泉社文庫)

ジルベール

今になって、1976年連載開始の少女漫画の古典を読もうと思ったきっかけは、1月に出た『少年の名はジルベール』という本が気になっていたことに加えて、つい先日、ビブリオバトル山岸涼子日出処の天子』を紹介したところ、主人公の美しさと、テーマの共通性という意味で、これも是非読んだ方がいい、と複数の方からこの漫画を薦められたこと。


そのジルベール
自分が読んだキャラクターで似ているのは敢えて挙げれば吉田秋生BANANA FISH』のアッシュ。
女性と見まがうほどの美貌でプライドが高く、時に冷酷に人を傷つけるが、感情面で脆い部分もある。そして、彼を「調教」した人物がいる。*1
しかし、アッシュが、同世代の仲間から畏敬の念を向けられるのとは違って、ジルベールは寮の人間から蔑まれている。いや、周囲の人間は、その美しさに魅了されているからこそ、蔑んでやまない。物語の中でもそう呼ばれているよう、まさに「悪魔」のよう、という形容詞がぴったりくる存在だ。
読者としても、教育ママでなくとも「眉を顰めたくなる」人物といえる。

ジルベールの周辺

2巻までは、周囲から観たジルベールの評価という面が強い。
舞台は、19世紀末のフランス、アルルの男子校ラコンブラード学院。ジルベールが、寄宿舎に住むほとんどの生徒から鼻つまみ者、もしくは、上級生の性のはけ口として扱われる中、何も知らない転入生セルジュは、ジルベールの味方になろうとする。1巻では、ジルベールが何を考えているのか?どうしてこのような人間になったのかについては、作中であまり触れられない中、セルジュだけが、そこに向き合おうとする。
そこに、2〜3巻のジルベールの生い立ちの話が入る。
3巻までを読むと、この物語は、次のようにセルジュを応援する視点で読めばいいのだろう。

  • ジルベールを誰かがどん底から掬い上げなければならない。
  • それをできるのは外部からラコンブラード学院に来たセルジュしかいない。
  • 頑張れ!セルジュ!ジルベールの誘惑に負けるな!

勿論、パスカルやカールは、セルジュの取り組みを後押しする応援団だが、学院内部の生活が長い人間には、ジルベールを自分たちの力で変えられるとはとても信じられないのだった。
セルジュがジルベールの魔の手に落ちるのか、いや、一旦は魔の手に落ちないと、ジルベールは救うことができないのか…そこが4巻以降の読みどころだろうか。

性表現について

さて本題。
そういう漫画だとは知っていたが、それでも、この漫画の「性」の扱い方には度肝を抜かれた。驚いたポイントをいくつか挙げてみる。

  1. 1巻の冒頭がベッドシーンから始まる。
  2. 性欲について真正面から向き合う内容になっている。
  3. 明らかな、児童に対する性的虐待シーン(同性)が登場する。その虐待が犯罪として(強姦した人間が犯罪者として)描かれればまだ救いがあるが、保護する立場の人間からも虐待を受けている。


まず、一つ目。例えば同時代の漫画である『日出処の天子』は、同性愛を扱っているが、最初は、毛人が厩戸王子を見て女性と間違えてドキリとするシーンということで、性表現どころか同性愛というテーマに対してもソフト。(セルジュが初めてジルベールを見てドキリとするシーンだけを見れば似ているのだが)
また、『ポーの一族』も、男子学生寮を舞台にしているという点では似ているが、同性愛については少し触れただけだし、性的な表現は、たしかキスどまり。美少年が主人公という意味では共通しているが、性的な意味では「別にフツー」の漫画だった。
それがあったので、まさか、こんなシーンから始まる漫画だとは想像できなかった。しかもブロウは「達している」顔っぽいし、二人が裸でいるシーンも4ページに渡り、とても長い。さらに次の4パージでは、シャツを纏いながら学校に現れたジルベールに「きなさい!話がある」と呼び出された院長とも「そういう仲」らしいことが示唆される。(というか、セルジュが学院に到着するシーンではベッドインしてる…)
ジルベールとはどういう人物か、ということが強烈に伝わるから凄い出だしではあるし、彼が枠にはまらない人間だということが分かるから、このあと、礼拝堂近くでカールを全裸で待ち伏せている変態行為(!)も、ジルベールならあるかも、と納得できる。


二つ目も結構驚いた。
まず、パスカルの存在。
彼は、カールとの会話の中でジルベールについて語ることが多いが、基本的に客観的なスタンスを取り続けようとする。こんな風に。

オレの場合、人間に対してもつ興味は純粋に生物学的なものだ
学校中の関心を集めてる彼(ジルベール)だって オレにとっては一個の生物
もっとも彼の行う性交(セックス)とは生物学上の生殖(セックス)を意味しない
それについての関心はある!
同性愛なんてのは人間だけのものだからね!
(1巻p79)

オレに言わせりゃ おまえが悩むことなんてなんにもないぜ
だいたいジルベールと寝ようって気をおこすのがなぜいけない?
むこうはその気で誘惑してんだ!据え膳食わぬは武士の恥っていうじゃないか
(1巻p142)

タテマエ的な内容ながらも、読者の興味のツボを上手くついた話で、他の登場人物がひたすらジルベールに振り回される中で、パスカルの存在は大きい。ただ、そんなパスカルも、ジルベールの魅力を否定しないところも、また誠実な彼らしい。


そしてセルジュ。
クリスマス休暇にパスカルの家に行く回では、男女の恋が結婚や生殖に繋がる、という、いつものパスカル節の話を挟んで、パスカルの妹のパット(パトリシア)の裸を見てしまうエピソードが入る。
パットとキスをしたあとのセルジュの独白がいい。

ああ からだじゅうが脈うつのを
どうやってとめたらいい…!
ただ見ていただけだった
好きだという感情もなく
ふれてさえいないのに
あの突然の衝動は…
2巻p105

このあと、二人はパーティーでダンスをして、お互いに好意を抱く部分もあるが、ここではっきりと「好きだという感情もなく」と書き切ってしまうことに驚いた。
少女漫画の中の男女の話なのに、「恋愛」ではなく「性の衝動」が語られているのは凄いと思った。


次に、身体ともに参っていたジルベールからの頼みで、裸でベッドで一晩をともにしたあと、懺悔に行くエピソードも、パットの時と似ている。
ここで、読者には、セルジュはその晩のことを神父にすべて話したように見えた。さらに、それについてカールに相談する場面でもセルジュは「ぼくのしたことはまちがってるかい?ああしなければ彼は窓からとびおりたかもしれない」と話す。ここにも嘘はない。
しかし、セルジュには隠していることがあった。
カールと喋ったあとのセルジュの独白が、また直接的で凄いと思う。

カール
…ぼくが神父さまにたずねたかったのはそんなことじゃない
自分のからだがどうしてかってに反応するのか知りたかった
だれでもがそうだというなら なぜそんなしくみになっているのかを…


パスカルのいうように子孫をふやすため?
それなら女の子に対してだけ反応すればいい
そうでないのはなぜ
なぜなんだろう……?
2巻p241


そして3つ目。
幼いジルベールがボナールから襲われる場面、その後の、オーギュストとの場面、こういったシーンは、見ていて痛々しく、ここまでちゃんと描く必要がないのではないか。省略しても作品的な価値は変わらないのではないか、と思える場所まで描いてある。
BBCニュースの記事での竹宮惠子さんへのインタビューなどを見ると、やはり1976年当時の時代の空気と、「先駆者」として挑戦する気持ちが強かったのだろうと思う。

1970年代後半の少女漫画というと、熱心な固定読者はいるものの、少年漫画と比べれば部数も少ないニッチな市場だった。インターネットなど遠い未来の時代で、少女たちはジルベールとセルジュの物語を親や教師に知られずに楽しむことができた。と同時に、そこに描かれる少年同士の性描写も、親たちに知られずに済んだ。描写は決して露骨でも扇情的でもないが、作品には性行為だけでなく、強姦や近親相姦も出てくる。わずか9歳の男の子が被害に遭う場面もある。

自分の挑戦によって、日本の漫画における性表現の「扉を私の作品が開いたのは事実だと思います」と竹宮さんは認める。そして、以前はないに等しかったものが今や、女性や子供の福祉を脅かしかねないと国連がみなすものにまで発展してきた。

BBCニュース - 国連が批判する日本の漫画の性表現 「風と木の詩」が扉を開けた


まだ3巻までしか読んでいないので、作品全体のテーマはよくわからないが、上に挙げたように、この漫画は、恋愛のゴールとして性を描くのではない、そこがこの漫画で竹宮恵子が行った「挑戦」なのだろう。『日出処の天子』は、結局は恋愛メインの話で、性の衝動(恋愛とは切り離された性)について描かれていたわけではない。
1,2巻で繰り返されるジルベールとブロウやその他上級生とのセックスシーン、そして3巻での幼いジルベールへの性暴力。3巻までの中では、通常の、恋愛の先にある性(それこそ、パスカルが解説するような性)は、この漫画では描かれない。
そこが異常な事態でもあり、読者を惹きつけて離さない部分でもある。

*1:同じ吉田秋生の『吉祥天女』の叶小夜子は、『日出処の天子』の厩戸王子にイメージが重なることを考えると、吉田秋生は、この時代の漫画家の影響が強いのだろう。事実どうだったのかはよく知らないが、そういう部分に掘り下げたインタビューなどがあれば是非読んでみたい。