Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

イラク事件についてどう考えていこうか

今回の「自己責任」騒動は、当初、3人(+2人)を非難する意見が大きく、その後、それを煽ったテレビと世論が、今度は3人を擁護する方向に向かうという揺り戻しが起こったのが特徴的でした。ネットでは、良識的な意見、素朴な意見は「偽善」と敬遠される一方、誹謗中傷やネタとして面白いものが尾ひれをつけて跋扈する。その善悪は別として、インターネットがそういう性格をもったものだということが改めてよくわかりました。
さらに言えば、「世論」は、何か問題があった場合、その「問題の程度」というよりは「問題の明確性」によって非難する相手を選ぶということを改めて感じました。だから、まず「難しい」国際問題や「誰に責任を問えばいいのかわかりにくい」政治の問題よりも、「自己責任」という、やや分かりやすい論点で、しかも問題を起こした人が完全に特定できるこの事件に飛びついたのでしょう。その後、事件当初は少数派だった「3人を擁護する声」が広がったのは、非難する相手(過剰な誹謗中傷を行う人たち)が登場、増加したからであって、それより以前に、広がることはありえなかったのだと思います。

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そういった感情の揺れは、僕個人の中でも絶えず起こっていたものでした。こういう高度に政治的な事件が起きた場合、まず、心は、生活者としての「実感」と「理性的な判断」というべきものの中で左右に振れます。
ここでいう「実感」は「戦争反対」「人命第一」といった小学生的な素朴なものと「ボランティアは胡散臭い」というような悪感情の双方を含みます。*1一方「理性的な判断」は、自衛隊イラクでの役割と日米同盟の中での日本の立場などで、こちらは、勉強すれば納得できるが、忘れてしまうとわからなくなるものです。
両者は、基本的には相容れないものでしょう。「実感」から「理性的な意見」を非難しようとするのは、ただの感情的な意見として黙殺され、「理性的な意見」から「実感」を非難すると、「どうせ私は頭が悪い」と開き直られることになります。*2
そういった中で、僕は、自分の心の中の両方を大事にしていこうと思うのです。
つまり、実感が伴わないまま・実感と矛盾したままの理論的な部分の積み上げは、いくらやっても人と分かり合える意見にはならない。いろいろなことを勉強して、理論だてた部分を自分の「実感」と照合しながら、「実感」のレベルを上げる(実感できる範囲を広げる)ことに努めていくのが重要だと思います。

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「実感」の部分を無視したくないという結論に思い至ったのは、事件当初、3人への非難が異常なまでに高まったときに、吉本隆明大塚英志だいたいで、いいじゃない。*3という本の中での以下のようなフレーズを思い出したからです。

大槻教授らがテレビでオカルトを断罪する番組を見て)追及する側の、曖昧さへの余裕のなさを感じる。(大塚)

インターネットの論争は、言語で相手をやり込めたり論破したりすることが純粋化して行われてしまう。だけど、言葉のロジックだけで、相手の欠点をディベート的に突いて論破して、それが正しいのかというと、そこに対して留保を持ってしまうのです。(大塚)

実感をはずすと、元来人間には出来ないことを人に要求してしまうことがあるんじゃないかと。実感と、それを外したところと、その両方から攻めていかないと駄目だと思います。(吉本)

つまり人が分かり合えるには、「実感」の部分にキーがあるのだと思います。
一方で「実感」は当然として、「理性的な判断」も人によって、最終的な結論が全く違うということは往々としてあることです。したがって「誰かが間違っている」というよりは、「いろいろな考え方があるのだ」という認識の仕方をするべきなのでしょう。
すなわち

ひとつにならなくていいよ
認め合えばそれでいいよ
それだけが僕らの前の
暗闇を 優しく 散らして
光を 降らして 与えてくれる  Mr.Children「掌」*4

またミスチルかよ。

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ついでに他人のことを言えば、「実感」の部分に流されずに、常に「理性的な判断」が求められる政治家(特に首相)の姿勢としては、「国民はバカだから・・・」というのは論外としても、「いつか分かってもらえる」というのも何かなあと思う。時には米国大統領(たとえが非常に悪いが)のように、国民の「実感」に届くように熱弁を振るうべきでしょう。
そして、納得したいと思う国民は、安易に説明責任を求めず、見識のレベルを上げながら、歩み寄る姿勢を持つことが必要だと思います。

事件についての具体的な意見は、また何か機会があれば、書いていきたいと思います。

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(補足)
以下のコラムも、「ボケまくるという立場」が重要かどうかは別として、根っこの部分は同じことを言っているので、追加しておく。

イラク戦争や人質問題だけをいっているのではない。相手の立場に立ってみるという一呼吸が、社会や企業からここ数年姿を消したように感じられてならない。おまえはどうなんだと問われると、悪意や敵意のようなものが、こころの奥の深いところで頭をもたげつつあるような自覚もあって、自分自身気味が悪い。
http://www.asahi.com/column/aic/Mon/d_click/20040419.html

*1:3閣僚の国民年金未納の件について街頭インタビューを受けた茶髪ギャルは「あり得ない。払わない。」と、たった二言で、生活者としての「実感」を表現していました。こういう声を政治家は無視してはいけません。

*2:渡る世間は鬼ばかりの幸楽の従業員(中島唱子)ですね

*3:2000年。吉本隆明大塚英志の対談。吉本隆明の思想的立場を全く知らないままで読んだので、取り上げる題材は例によってエヴァとかオウムとかわかりやすいのだが、やや内容は難しかった。

*4:『シフクノオト』3曲目。実は、この歌は、ちょっと「大袈裟」なので、あまり好きではありません