Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

高木仁三郎『原発事故はなぜくりかえすのか』★★★★★(昨日の続き)

原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)
昨日のエントリのつづき)
4章は、「公共性」という難しいテーマについて。

会社のプロジェクトがどうのこうのとかいうことと関係なく、自分で問題点を考えて組み立ててみて、問題意識を常に持ち続ける。会社の中で生きていこうとすれば、私企業の利益と公共性との間にどのようにして折り合いをつけるのか、いつも緊張感のある努力をしている必要があります。
(中略)
会社や組織の中で仕事をしているうちにだんだん普遍性イコール公共性ではなくなってしまい、普遍性イコール没主体性、没主体性イコール没公共性ということになってしまいがちです。個人のレベルでたえず公共性とは何かを問い続けることができにくくなってしまっているというところに、非常に大きな問題があります。

つまり、作者は技術者の「主体性」なしには、科学の持つ普遍性を公共性に昇華できないということを言っている。(文章中では、それを運慶、快慶らの仏師に喩えている。)
仕事が「主体性」のない「作業」に陥ってしまうこと、それは技術と無関係の職についている人にもあるだろうし、作者の指摘するように、理科離れの問題の原因の一つでもある。これは現代の日本に生きる人ならば、誰もが少なからず通る問題であり、最近よく言われるモラルハザードの問題とも離しては考えられない。そして、これからもずっと付き合っていくことになる問題だと思う。
5章もタイトルどおりなのだが、ここで作者は、事故調査を「自己検証型」(原因を徹底的に究明する調査)と「防衛型」(これ以上ひどいことにはならなかったということを立証したいがための調査)の二つに分け、原子力関連の事故調査はどうしても自己検証型にはならない、と指摘する。
なるほどな、と思ったのは、アカウンタビリティーについての説明。通常、「説明責任」と訳されることが多いこの言葉だが、「わかりやすい言葉で説明する」ということを重視するのは「逃げ」だという。つまり、重視すべきは「説明」ではなく「責任」の方。「説明が不足していたのだから、国が考えていることをなるべく分かりやすく説明して納得してもらおう」というのは都合のいい解釈で、アカウンタブルなプロセスを積んだ結果としてのわかりやすい説明が必要だという。結局は個人個人の責任感が重要だというところまで還元していくので、4章の内容とも近い。
6章、7章は、この本の中で最も共感できる部分だった。特に6章で面白いのは、作者自身が現場にいた感覚から「隠蔽」は起こりうるのだ、と認めていること。しかし「改ざん」は技術自体を否定するもので、絶対にあってはならないこととしている。その通りだと思う。
そして、何故「改ざん」などという末期的な症状が起こるかの原因として、コンピュータによるシミュレーションの重視により、倫理的なバリアが欠如してきていることを挙げている。つまり自分の手で行った実験データなどと比べると、シミュレーションの境界値を動かすことには抵抗感が少ない。そういうことが常態化しているのではないか、ということ。
これは、個人的な感覚としては、その通りとしか言いようがない。現場の大切さを説く3章ともつながるが、実際には、どのような業界でも、プロジェクトの初めから最後までを通して個人の技術者が行うことは皆無だろうし、その過程を管理する技術者がいないことも多いだろうと思う。効率性の追求や低コストは、作業の細分化やアウトソーシングによって成り立つものだから、自分が直面している仕事の意味すら分からないまま、それをこなすことも実際には可能だ。そのような中で、個人の技術者が、常に主体性を持って仕事にあたるためには、やはりバーチャルな世界を離れた場所での経験が必要だということになるのだろう。
最終章の8章は、安全文化をどう考えていくかのアイデアが述べられている。特に目新しいものがなく、やや尻すぼみな終わり方だが、安全というのは、技術の中に常に内蔵されているべきという指摘には、やはりうなずいてしまう。
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非常に長文になってしまったが、自分にとって、いろいろなテーマを与えてくれた本。少しずつ自分の言葉で考えていきたい。