Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

穂村弘『短歌という爆弾―今すぐ歌人になりたいあなたのために』

短歌という爆弾―今すぐ歌人になりたいあなたのために

短歌という爆弾―今すぐ歌人になりたいあなたのために

絶望的に重くて堅い世界の扉をひらく鍵、あるいは呪文、いっそのこと扉ごと吹っ飛ばしてしまうような爆弾がどこかにないものだろうか。一本のギターを手に取ったことで、世界が変わる人もいるだろう。だが、ギターさえ、その手に重すぎる人間はどうしたらいいのだろう。
経験的に私か示せる答えがひとつある。それは短歌を作ってみることだ。
P9

穂村弘は、この世界の「生き辛い」部分を人一倍感じている。
そこに一筋に光となり、救いとなっているのが短歌だ。
もともとは、友人atnbの書評トークショーの内容に引かれて、ダメ人間としての穂村弘に興味を持ったのだが、それとはかなり違った印象を受ける本だった。
この本は、内容はディスカッション、文通形式のQ&A、批評会の体験談、短歌の読解など、構成はバラバラだが、穂村弘の痛すぎるほどの自意識と、客観的な分析に通底するものがあるので、それに引っ張られて一貫した内容として読むことが出来る。
結局、最終章の短歌読解部分は、興味を持ちつつも、図書館の返却期間が来たので返してしまった。しかし、この章を読むと、短歌への熱意と才能以上に、その分析力にかなり鋭いものがあることがわかる。
特に、冒頭の「共感と驚嘆」の部分はよかった。

短歌が人を感動させるために必要な要素のうちで、大きなものが二つあると思う。それは共感と驚嘆である。共感とはシンパシーの感覚。「そういうことってある」「その気持ち分かる」と読者に思わせる力である。(略)
共感=シンパシーの感覚に対して、驚嘆=ワンダーの感覚とは、「いままでみたこともない」「なんて不思議なんだ」という驚きを読者に与えるものである。

ここで、驚嘆(引っかかるという意味で、クビレという言い方もしている)の感覚について、俵万智石川啄木の歌を引用して説明しているのだが、ここはわかりやすかった。

ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく

という、石川啄木の歌に対して、

停車場の人ごみの中に
ふと聴きし
わがふるさとの訛なつかし

と改作したものに力がないのは何故か。元歌では、「そを聴きにゆく」という読者の意表をつく能動性がクビレとして機能しているのに対し、後者では、それが消えてしまっているからである。つまり「驚嘆」がないのだ。
「共感」が強調されると、自己言及的で、閉じた印象の短歌になる。つまり、「僕は、こんな風に思って感動したんだ。すごいでしょ。」というだけの短歌には、読み手は一歩引いてしまう。しかし、多くの作り手が、この罠にはまってしまう。実は、それは短歌の形式が原因なのだ。
これについては、以下のように寺山修二の文章が引用されている。

短歌は、七七っていうあの反復の中で完全に円環的に閉じられるようなところがある。同じことを二回繰り返すときに、必ず二度目は複製されている。(略)だから短歌ってどうやっても自己複製化して、対象を肯定するから、カオスにならない。風穴の吹き抜け場所がなくなってしまうとね。(略)俳句は刺激的な文芸様式だと思うけど、短歌ってのは回帰的な自己肯定が鼻についてくる。
内面自体に対する疑いを抱かず、それがあるものだとの楽天的な前提に立って表層部分だけをなぞるようなところがある。
(寺山修二「ツリーと構想力」柄谷行人
P130

寺山修二が批判的に論ずる、短歌の自己肯定性に対して、穂村弘は、自分を補強し、自己実現を可能にしたものとして好意的に捉えている。
自分には、両方の意見も納得ができ、興味を持って読むことが出来た。また、寺山修二の指摘する短歌と俳句の差、についての指摘は、感覚として、非常に共感できるもので、言語に対する感覚は、そこまで鋭いものにできるのだなあと、ただただ驚いた。
かなり舌足らずで、紹介しきれない部分もあったが、『きむら式童話のつくり方』と同様、自分に「短歌をつくりたい」と思わせた本である、ということで、高く評価できる本。世界の扉を開きたいひとにオススメ。