Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

計算ずくなのか?〜穂村弘『もしもし、運命の人ですか。』

一方的な思い込みから作家像を当てはめて好き嫌いを決めることがある。
随分前に何冊か読んだ印象から、穂村弘は、非モテ+不器用+妄想系の人だと思い込んでい、それ故の好意を抱いていた。
しかし、この本に出てきた恋愛エピソードを見ると、少なくとも一つ目の条件が誤っていたことを知った。穂村弘、モテる人では?と。何か、これは自分の好きなタイプの作家ではないのではないか?と。


彼は、コミュニケーションにおける他人と自分との差に敏感な人で、そこを先読みしようとして出す仮説や妄想は、日本人の人間関係の本質をついているところがあるので、誰もが笑いながらも大いに学ぶところがある。そこが凄いところ。
『結婚失格』の特別寄稿で枡野浩一に向けて書かれた文章は、かなりきつい内容となっているが、彼のこだわりが如実に表れている。

だが、その一方で私は、彼が根本的なところで、「普通の人」の感覚をわかっていないと思う。いや、あたまではわかっていても、体感として理解できないというか、信じられないのだろう。だからこそ、彼は「どうして?そうして?」と心の声を募らせながら、毎度毎度、丁寧な正論で執念深く相手を追いつめてゆくのではないか。

自分も、「わかっていない枡野浩一」が全面に出ている『結婚失格』本編のあとにこれを読んで、非常に納得したが、この文章自体、穂村弘が「普通の人」の感覚にこだわりを持ち、そこに自負のあることの表れだと思う。
つまり、エッセイで取り上げられる身辺雑記ネタは、こんなことがあった的なものではなく、「普通の人」と自分の感覚の微妙なずれを正確に測定し、厳選に厳選を重ねたものなのだ。したがって、コミュニケーション関係に悩んで自説を積み上げているように見える部分は、ネタとしての質を十分吟味した上で、一番それが効果的に表れるように再構成しているのではないかと思う。つまり、冒頭に述べた「非モテ+不器用+妄想系」の後半部は、少なくとも文章を書く上では、計算高い「不器用+妄想系」なのだ。
よく考えれば、31文字で作品を作りあげる歌人なのだから、エッセイにおいても同様に、推敲に推敲を重ねた削ぎ落しや言い換えが行なわれているのだろう。
以前、枡野浩一穂村弘だったら、穂村弘の方が友達になれそう、と言ったことがあったが、実際に会ったら自分を隅から隅まで「測定」されそうで怖い気がしてきた。逆に、練り上げられた文章に会うために、もっとこの人の本を読みたいと思った。


以下、計算しつくされた「不器用+妄想系」の数々を引用。

相手の過去にやきもちをやくことを「さかのぼり嫉妬」と云って、これは人間の抱く全ての感情のなかで最も不毛なもののひとつだ。「さかのぼり嫉妬」のサイクルに入ると、出口のない愛情証明を求め始めて大変なことになる。
<いちゃいちゃ界>p16

こういう場合、女性の意思はどれくらい可変なのだろう、とも思う。こちらの態度や誘い方やその日の天気や月齢やイチローの打撃結果によって、行き止まり地点は変化するのだろうか。それとも、食事に誘われた段階で予め確定していて微動だにしないものなのか。5のつく日はスタンプ2倍とか、あるのだろうか。
<性的合意点>p40

いっそのこと、お互いに対する好意が数値でおでこに表示されればいいのに、と思う。相手のおでこをみて「12点」なら(100点満点で)、それこそ無駄なあがきをせずに諦めることができる。こんなににこにこしてるけど、この娘にとって俺は「12点」なんだと思えば、無駄な希望や余計な幻想を抱くこともなく撤退できる。
<好意の数値化>p50

目が合った一瞬、どきっとする。妹だけあって目元が彼女に似てる、と云うか、ちょっとだけこっちの方が可愛いかも……。
遥か彼方から遠眼鏡でその様子を眺めていた長老は呟く。ウェルカム・トゥ・「比較」ワールド。少年よ、そこが地獄の入口じゃ。
<「比較」と「交換」>p148

「いいひと」との穏やかな関係には非日常性が乏しい。
日常に限りなく近い恋には恋の醍醐味がないというわけだ。
「危険な男」「わからない男」「厄介な男」との恋愛の方が、生の実感装置として遥かに有効なのだ。
<魔女と恋に落ちる理由>p153

誤解だ。
コップに水を注ぐときのことを考えて欲しい。
全体に充ちているからこそ、或る一点から溢れるのである。
その一点がどこかってことが問題なんじゃなくて、好きという気持ちは全体に充ちているのだ。
耳の角度じゃなくて君がすきなんだ。
<雪女の論理>p172