Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

小林恭二『短歌パラダイス』

短歌パラダイス―歌合二十四番勝負 (岩波新書)

短歌パラダイス―歌合二十四番勝負 (岩波新書)

久しぶりにわくわくしながら頁を繰った。
「短歌」ではなく、プレイヤーも解説も超一流なスポーツの一種として読める素晴らしい本。

短歌と短歌が1対1で優劣をきそいあう伝統の競技「歌合」(うたあわせ).この古式ゆかしい遊びを現代によみがえらせるべく,男女20人の歌人が一堂に会した.甘やかな春の伊豆を舞台に,大ベテランから気鋭の若手まで,いずれ劣らぬ実力派の歌よみが真剣勝負に秘術をつくす.華やぎと愉楽に満ちた歌合戦の勝敗のゆくえはいずこ?

参加歌人としては、見知った名前で、俵万智*1東直子加藤治郎、そして穂村弘がいる。
熱海の旅館で一泊二日にわたって行われる歌合は、基本的に、お題にしたがって用意してきた短歌に対して、チームメート同士の批評合戦を経て、作品の優劣を判者(審判)が判定するかたちをとる。
初日は2チーム対抗の「一対一」の個人戦で、柔道と同じと思えばいいのだが、二日目は少し面白い。3チーム対抗で行われる二日目は、詠み手を伏せての勝負となるため、勝負がついたあとで「あ!」ということもある。
この本の面白さは、まず、この歌合自体の面白さにある。
さらに、この様子を伝える作者・小林恭二の文章がよい。本の構成としては、短歌の紹介があったあと、小林恭二による解釈が披露され(実際には、現場で披露されているわけではない)、その後、批評合戦での参加者同士の解釈が出てくる。敵味方はもちろん、見方同士でも解釈が揺れ、それによって評価も割れてくる。書き手・小林もそれを聞きながら「そういう捉え方もあるか」と、歌人の作品(短歌)と同様に、他の作品に対する批評眼も評価していく。ここら辺のメタ的なアプローチが、本を読むのと同じくらい書評を読むのが好き(同様にCDを聴くのと同じくらいCD評を読むのが好き)な自分にはたまらないのである。
なお、20人もの歌人が登場する本であるため、誰か一人を贔屓にする、という書き方にはならないのだが、穂村弘の才能は高く買われているようで、まさにその穂村弘を伝って、この本に辿りついた自分としては、我がことのように嬉しい。

  • 穂村弘の披露した解釈に対して)見事な解釈である。ツボに嵌ったときの穂村弘の批評には、難解な幾何学の問題をたった一本の補助線でするすると解いていくような、爽快感が漂う。P53
  • 批評でも作品でも、時に天才的な閃きを見せる。確実に、現代の短歌シーンの最先端を走るひとりと言えよう。P95
  • 「ぐるぐるチーム」は自他ともに認める天才チームだったが、そのイメージの多くは、穂村弘のキャラクターによっていた。P235

また、短歌に対する作者の「解釈観」に、自分は強く共感する。

もし作品のみならず、解釈までもが作者のものであるならば、読者の主体性はどこにあるのだろう。
わたしは読みに関しては、特権的な立場の人間は存在しないし、存在すべきでもないと考える。P175

これは、「だから、歌人は、その短歌がどう解釈されても文句はいえない」というネガティブなメッセージではなく「だからこそ、鑑賞者は、作品に主体的な解釈を加えることによって、さらに、その作品を豊かにしてこう」というメッセージと読んだ。
自分は、本でも音楽でも、基本的には、作品をつくる立場にはなることはないが、主体的な解釈を続けることで、僅かでも他の誰かの力になれれば、と思っているのかもしれない、と気づいた。

なお、先日の穂村弘の本にあった「短歌と俳句の違い」の話については、この本では以下のように書かれている。

この五七五七七に比べて、たとえば俳句の五七五はあまりに近代的です。確かに思い切った省略を旨としているだけ、ソフィストケーとされていますが、短歌に比べるとはるかに表現領域は狭いと言わざるをえません。恋も事件も怨恨も、みんな俳句は苦手としています。これは絶対的な音量の問題の他に、短歌的有心を否定して生まれてきたという俳諧の出自もかかわっているのかもしれません。
(まえがき)

俳句についても、この本と同様、「句会」の本を出している作者だからこそ、思うところはあるのだろう。今さらながら俳句にも興味が出てきた。

*1:P83にあるおかっぱ頭の横顔写真は、稲中に出てくる小山田圭吾にそっくりなので面白い。