Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』

好き好き大好き超愛してる。 (講談社ノベルス)

好き好き大好き超愛してる。 (講談社ノベルス)

以前から読んでみたかったが、最近、貪り聞いている文化系トークラジオLife仲俣暁生×佐々木敦対談で、現在進行形の現代文学として必要最低限という感じの取り上げられ方をされており、図書館で予約。

しかし、かなり感想を書きにくい本。
芥川賞候補ということだけでなく、変なペンネーム&変なタイトルということで期待度は高かったが、期待通りとは言いがたい内容だった。
〜〜〜
表題作以外に「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」を収録しているが、特にこちらが難しい。電波系スレスレ小説とでも呼ぶべきか、とにかく支離滅裂。話の設定や展開は飽きさせないが、今読んでいるものが一体何なのか絶えず自分に問いかけてしまうような破天荒な内容。冒頭でいきなりプラスドライバーを頭に刺された主人公が、調布市内でのみ全能である中学生ヒーローの脳に入り込み、幼馴染のヒロイン「あかな」との関係修復と、世界の終焉、そしてアイデンティティの回復に悩む、という話・・・と書いていて一気に頭が悪くなったような気がしてしまう。
実際、愛の話ですらないのが凄い。ラスト近くで、世界を救うことから逃げようとする主人公の引き止め工作のため、政府が用意した「偽物のあかなの角」の描写なんかが特にすさまじい。(主人公は、頭の穴への異物挿入で性的快感を覚える。また、ヒロインのあかなはユニコーンで額に角があり、ここで言う「偽者のあかなの角」はそれを模したもの。)

ああ、これ欲しい。この偽物のあかなの角超欲しい。世界を救ったらこれ僕にくれるのかな。いくらくらいのものなんだろう。世界を何回救ったら僕にこの角くれるんだろう。
(略)
いいよ?あかな殺すよ?超余裕で殺す。
僕はまたあかななんてどうでもいいという気分になっている。世界と同じくらいどうでもいい。僕は今僕の頭の中に入っているこの僕用バイブがとりあえず欲しい。
(P257-8)

それまで、あかなの思い出に浸って、戦うことをためらっていた主人公が一瞬にして、「僕用バイブ」の罠に嵌ってしまう、という信じられない展開。
呆気にとられたという意味ではよくできたストーリーだが、毒にも薬にもならない、というか、自分はここから何を得ればいいのか?
〜〜〜
さて、表題作は「ドリルホール・・・」よりは、読みやすい小説となっている。
夢と現実が錯綜し、平行して紡がれる物語のひとつは、「神との戦い」についてのもの、ということで、「ドリルホール・・・」に通じる部分はあるものの、メインのストーリーは、作家である主人公が、自分は何のために小説を書くのかで悩む、というもの。この疑問は、自分が、闘病の末亡くなった恋人(柿緒)を愛していたのか、という疑問の裏返しで、その結論として作品タイトルがある、というかたちだ。
このテーマについては、ラスト付近に多くのページを割かれており、主人公の、というよりは舞城王太郎本人の考えが現れているのだとは思うが、抜粋してみる。

  • 僕は本当に起こったことは書かない。僕が書くのは起こりえたはずなのに起こらなかったこととかそもそも起こりえなかったからやはり起こらなかったことだけだ。そういうことを書きながら、実際に起こったことや自分の言いたいことをどこかで部分的にでも表現できたらと思っている・・・・・・というより願っている。(P163)
  • 僕が書きたいのは、実際に起こったことのそばに、その向こうに何があったかなのだ。(P166)
  • 記憶もまた、時間を経れば曖昧になり、空想と変わらなくなる。物語になる。柿緒と生きた事実もゆっくりと僕の中で物語になってきている。恋愛の物語だ。もちろん。(P184)
  • パスカルは言った。愛し過ぎていないなら、充分に愛していないのだ。(P185)

自分を説得するような終盤の言葉のたたみかけにはカタルシスがあったし、「ドリルホール・・・」に比べると、表題作は、やや安心できる内容だった。
しかし、夢の中の登場人物ミスター・シスターをはじめ、支離滅裂さは変わらない。実際、そういった「奇妙」な空気に酔ったような感じになってしまい、本書を読んでいるときに起きた香川県坂出市の行方不明事件(祖母と二人の孫が殺された事件)という「奇妙」な感じのする事件には、平衡感覚を失いそうになってしまった。
冒頭に戻るが、評価の難しい作品ながら、他の作品も読んでみたいと思わせる魅力を持った作品であることには違いないと思う。次は文庫かな?

阿修羅ガール (新潮文庫)

阿修羅ガール (新潮文庫)