Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

なぜ桜小路君の恋は実らないか〜美内すずえ『ガラスの仮面』3

ガラスの仮面 (第3巻) (白泉社文庫)

ガラスの仮面 (第3巻) (白泉社文庫)

姫川亜弓の才能、美貌そして、桜小路君との仲が気になるマヤは「あたしってつまんない子なんですね」と先生に相談しますが、これに対する月影先生の返答は、優しさと厳しさを兼ね備え、かつマヤの本質を掴んでいます。

マヤ、芝居をしているときのあなたはつまらない子なんかじゃない
芝居をしているときは、いつだって別人になっていられる
(略)
人がただ、ひとりの自分をもち、ただ一度の人生しか生きられないのにくらべ
なんとぜいたくで、なんとすばらしいことでしょう
やりなさい、マヤ、芝居を!
その中でこそあなたは息づき、生きていける
その中に生きてこそ、あなたという人間の価値がある
さあすべてを忘れて村の娘ジーナになるのよ
つまらない北島マヤなんかじゃなく


その後、マヤは桜小路君にしれっと、こんなことを言われて浮かれます。

マヤちゃん ぼくはかわってないよ
きみとはじめて会ったときからちっとも
ずっと以前からきみが好きだよ

この言葉を、マヤは非常に嬉しく受け止めていますが、この恋*1は実らないのです。何故か?


全編を読み返すと、その対比が非常に明確なのですが、桜小路君は、舞台の上のマヤを「怖い」と思い、ひたすらに素の「つまらない北島マヤ」を愛しています。一方で、速水真澄は、舞台の上のマヤに惹かれ続けるのです。
マヤ自身は、月影先生の刷り込みがあるから、芝居の中でこそ、自分という人間が生きて行く意味があると思っているので、どうしても桜小路君とはすれ違ってしまい、速水真澄に気持ちが向いてしまいます。
(というか、真島良も里美茂も役を通してマヤに惹かれて行くので、桜小路君が異端なのです)

桜小路君に教えてあげたいです。


さて、「たけくらべ」で東京予選を勝ち抜いた劇団つきかげが臨む演劇コンクール全国大会。
参加演目は「ジーナと5つの青いつぼ」という地味な作品で、練習シーンにほとんどページを割かれないまま、本番を迎えます。そこでは、まさに北島マヤの「一人舞台」という字義どおりの奇跡が起きます。


この巻で、劇団つきかげは後ろだてを失い、劇団全体が貧乏生活を強いられることになります。「貧乏」は、北島マヤを象徴する言葉で、そのまま姫川亜弓と最も対照的な部分になります。劇団員とおんぼろアパートで共同生活をするようになってからなどは、昭和時代のスポ根漫画と全く見分けが付きません。だからこそ、あしながおじさん役となる「紫のバラ」の人も存在感が増して行きます。この「貧乏」が日本人のDNAに訴えるものがあるのかな。


なお、北海道の放浪集団、劇団一角獣と大都芸能の水城女史が初登場です。

*1:ここでは「恋」と書きましたが、その後、嵐が丘で共演した真島良からの指摘もあり、桜小路君に対する感情は「恋ではない」と自覚することになります。桜小路君は、いつだって「いいひと」なのです。