Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

名台詞「一緒に本屋を襲わないか」〜伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

意識的には阿部和重ニッポニア・ニッポン』の対抗馬として読んだ本。後半の素晴らしい伸びで、あれだけ良かった『ニッポニア・ニッポン』を一気に差し切った。
読後に、改めて、こういう小説が読みたかったのだと知る。
こういう小説とは、こんな感じの小説…

  1. 主人公に共感できる。
  2. あまり痛かったり悲惨なことにはならない。
  3. 大なり小なり事件が起きて解決する。
  4. 丁寧に伏線を張った上での意外な展開がある。
  5. 最後には主人公にとって、平穏な日々が訪れる。(後味が悪くない)

常にこういう小説がいいというわけではないが、ここのところ桐野夏生残虐記』、阿部和重『ニッポニア・二ッポン』、安野モヨコ『脂肪と言う名の服を着て』と、上記の1,5あたりで点数が入りにくい本が続いたので、その部分で満足度の高い本作は、まさに求めていた通りの本だった。


さて、ちょうど先日聞いたタマフルの「乗り物パニック映画」特集(2011/01/29放送)で、ゲストの三宅隆太監督が乗り物パニック映画のキモは「型」にあり、以下の十ヶ条で言い表すことができるとしていた。

1. 主要登場人物が集まり、乗り物に乗る
2. 何らかのトラブルが発生し、通常の運航が不可能になる
3. 最悪の事態が予測され、主要登場人物がパニックに陥る
4. 状況を打開すべく、何らかの作戦が実行される
5. 作戦が失敗し、事態はむしろ悪化する
6. 4〜5が何度か繰り返される
7. 打つ手がなくなり、絶望的な状況になる
8. リスクを伴う解決策を発見、迷った末に実行する
9. 策が成功し、事態が収束する
10. 主要登場人物が乗り物から降りる


勿論、『アヒルと鴨のコインロッカー』は、乗り物パニック映画ではないが、少なくとも1と10は「型どおり」。つまり、主人公・椎名が大学に通うために仙台市内のアパートに入り、そこから出ていくまでの話。その間に「同乗者」とともにトラブルに巻き込まれる(本屋強盗の共犯をさせられたり、自分の部屋から教科書が行方不明になったりする)話という意味では、乗り物パニック映画と言えなくもない。(笑)さすがにそれは言い過ぎだが、本作は、構成についても「型」に嵌めた面白さがある。
椎名が学生生活をスタートさせる「現在」と平行して進むのは、何かが起きた「二年前」の物語で、こちらの主人公は、ペットショップに勤める22歳の琴美。
「現在」と「二年前」の話がカットバック形式で交互に進む。共通する登場人物(河崎、ドルジ、麗子さん)もいて、微妙に性格に変化が生じているようにも見える。ではその間に何があったのだろうか?椎名とともに、二年前に起きたことを突き止める、それがこの話の本筋だ。


面白いのは主人公・椎名が、実は脇役であること。中盤で、現在・二年前ともに登場の機会がある麗子さんからこんなことを告げられる。。

  • 「君は、彼らの物語に飛び入り参加している」
  • 「河崎君と、ブータン人のドルジ、それからもう一人、女の子で、琴美ちゃんという子。彼ら三人には三人の物語があって、その終わりに君が巻き込まれた。」

そう、読者と同様に、椎名は物語を眺めるだけ。最後まで、最後の最後まで、何も物語を変えられないで仙台をあとにする。


本当に脇役として登場する、動物園のレッサーパンダを眺める二人の兄妹の「活躍」なども、微笑ましいだけでなく、物語に光を与えている。舞台と思われる八木山動物園のレッサーパンダは、確かサル山とソフトクリーム屋の近くにあった。仙台にいた頃の懐かしさとともに、心がほんわかした気分になった。
なお、物語の核にあるのは、ブータン人とボブ・ディラン。これまで読んだ傾向からすると、伊坂幸太郎作品は「神様」みたいな大きいテーマを、ぼんやりと扱うのが上手いのかもしれない。何故、「アヒルと鴨のコインロッカー」というタイトルなのかも、テーマとの繋がりが深く、分かるようで分からない感じがちょうどいい。
カットバック形式での「現在」「二年前」の締めの文章がいちいち対応しているとか、二年前になくなったものが、現在に現われるとか、いろいろなところで練りに練った感じがよく分かる素晴らしい小説。
未読の『ゴールデンスランバー』は、この魅力をさらに上乗せした感じなのかもしれない。逆に、映画『アヒルと鴨のコインロッカー』も観てみたくなった。ところで、、この小説は、いわゆる「映像化不可能」な部分が一部に含まれるのだが、映画ではどのように処理されているのだろうか?とても気になります。