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“ドラえもん愛”溢れる優しい小説〜辻村深月『凍りのくじら』

凍りのくじら (講談社文庫)

凍りのくじら (講談社文庫)

藤子・F・不二雄を「先生」と呼び、その作品を愛する父が失踪して5年。高校生の理帆子は、夏の図書館で「写真を撮らせてほしい」と言う一人の青年に出会う。戸惑いつつも、他とは違う内面を見せていく理帆子。そして同じ頃に始まった不思議な警告。皆が愛する素敵な“道具”が私たちを照らすとき−−−。
(文庫裏表紙あらすじ)

本でも音楽でも何かの作品を大絶賛している文章が好きだ。だから、ドラえもん愛溢れる『凍りのくじら』は、それだけで自分にとってストライク。
主人公・理帆子は、父とともにドラえもんの大ファンで、藤子・F・不二雄のことを「藤子先生」と呼ぶ。それは単なるキャラクター設定というだけでなく、『凍りのくじら』全体が藤子先生賛歌と言えるほど、物語のところどころでドラえもんが語られ、織り込まれている。これまで、あまりドラえもんを評論する文章を読んだことが無かった分、ドラえもんへの強い熱意が心に響いた。それは、つまり、辻村深月の藤子先生に対する尊敬の念の深さを示しているのだと思う。
それに加えて、巻末の瀬名秀明による解説が名文!読後に感想を書いて残すのは、欠けた部分補っておきたい部分をメモしておくという意味が大きいが、あまりに「全て」が書かれているので、自分で改めて文章を書く気が失せてしまった。
瀬名秀明は、昨年、『鉄人兵団』のノベライズを書いたほどの藤子先生ファンで、そんな瀬名が、藤子先生をリスペクトする物語全体でドラえもん愛を表現した辻村深月を絶賛する、という二重三重の構造が面白い。そして投影対象が国民的な人気漫画「ドラえもん」だからこそ、読み手も納得しながら作品に、そして解説の文章に入り込める。


その解説から引用する。瀬名秀明は、『凍りのくじら』の魅力を、これまでの物語体験になぞらえる。そう、万が一ドラえもんを通ってこなかった人でも、これまで多くの物語を読み、経験してきた人なら、この作品に入り込めるだろう。勿論ドラえもんに思い入れがある人は尚更だ。

辻村さんの小説を読んでいると、物語の豊かさを全身で取り入れ、まっすぐに歩んでゆく人間の力強さに改めて気づくのだ。これまで読んできたたくさんの物語が、自分の身体の中で歌っていることに気づく。放課後の校舎。ネットに書き込まれた誰かの悪意。ほんとうの友だち。禁断の魔法。辻村さんの小説では、私たちが子どものころ本当に美味しく取り込み、あるいはときに苦しさや辛さも我慢しながら食べて、懸命に身体を動かし、ぐっすりと寝て夢で見たいくつもの物語が、豊かなエネルギーとして息づいている。私たちが物語で育ってきたこと、なによりそのことが読みながら嬉しくなってくる。


今回、文庫の裏表紙のあらすじ紹介も簡素で、話の展開に触れていないのは正解だ。この本は、あらすじをあまり知らない方が楽しめると思う。それは、ストーリーそのものを楽しめるというよりは、理帆子の感情の動きに、よりフラットに向き合えるという理由で。
勿論、ドラマティックな展開が終盤にあり、物語的な面白さは保証できるのだが、作品の魅力を一言で表せば、それは「優しさ」であるように思う。主人公・理帆子は、例えば、先日観た大傑作アニメ『塔の上のラプンツェル』のラプンツェルのように、天真爛漫な主人公キャラではなく、冷めた視点で物事を見るいけすかない人物である。しかし、そんな理帆子の、他の登場人物を見る気持ちが、蔑んだり、怒ったりを経て、結局、非常に優しい気持ちに着地している。そこが素晴らしいと思う。
それは全てを笑って受け入れるということではなく、全ての人を、悲しい出来事を、前向きに捉える、そういう優しさ。

お天道様が見ているぞ、というように、理帆子の父は藤子先生が見ているぞと妻や娘を諭したという。作者の辻村さんは、もしかしたら理帆子と同じ佇まいでこの物語を書いたのかもしれない。そのためだろうか。この物語は辻村さんの小説の中でも特別な感じがする。描写は真摯で、心が籠もり、そして優しい。等身大ではなく、ちょっと背筋を伸ばしてまっすぐ空を見上げる感じだ。ちょうど成人式や卒業式、あるいは入社式で歌を斉唱するときのように。式を終え会場を出て、家路へと一歩を踏み出すその瞬間のように、それまでのこと、これからのこと、そしていまの自分のことが全身に満ちるあのときのように。それが決して作者である辻村さんひとりの想いでなく、読み終えた私たちの心にも残るのは、きっと私たち誰もがそういった節目をいくつも経験してきたからだ。


つまり、『凍りのくじら』の芯にあるのは、ストーリー展開の面白さや、人物描写、社会的な問題提起などよりも、もっと日々の暮らしに直結する種のエネルギーであるように思う。過剰に元気が出るようなサプリメントではなく、反対に病人向けのおかゆでもなく、スタンダードな、ご飯とみそ汁。でも、Sukoshi Fushigi*1な物語だ。そう、ドラえもんと一緒だ。だから、ドラえもんが国民的な人気を得ているように、この小説は多くの人にオススメできる作品だと思う。

(補足1)理帆子の独白抜粋

私の考える頭の良さというものは、多分その人の今までの読書量と比例する。頭の良さは様々だし、勿論この側面からだけで簡単に測れるものではないが、それでも私の場合はそこが大事。私が普段遊んでいるこの子たちはほとんど本を読まないし、そのせいか、全ての場面で言葉が足りない。考え続けることに対する耐性がないのだ。ぱっと湧いた感情に飛びついて、それに正直に生きるだけ。p30

理帆子の、こういう考え方、読書好きだったら一度は通った道なのではないかと思う。かつての自分を見ているようで、可愛くもあり、苛々するところもあり。

恥ずかしい。相手に引かれるのが怖いから、私はこの手の話題をいつも避けている。ドラえもんは国民的スターだから、飲み会やクラスメートたちとの会話の中に登場することもままある。そういう時、私はいつも全力で話をしたいという欲求を押し殺し、必要以上に黙る。p137

理帆子が、別所あきらとドラえもんの話題で盛り上がったときの心理描写。これはもの凄く分かる。好きな話題ほど、それについて触れるのに慎重になる。

いつも、持病のせいとか、親のせいとか、自分の力ではない他のせいにしてきた。だけど、悪いのは自分だと認めなくちゃ。全部を自分の責任だと認めて、その上で自分に実力がないんだと、そう思って諦めなくちゃならない。精一杯、本当にギリギリのところまでやった人にしか、諦めることなんてできない。挫折って、だから本当はすごく難しい。(略)私は彼に挫折して欲しかった。p301

元カレで司法試験浪人の若尾を評した言葉。これは名言。大事なことなら挫折と言えるレベルまで頑張るべき。

(補足2)物語の中で紹介されるドラえもんの話

ところで、物語の中では、ドラえもんひみつ道具と合わせて、いくつかの話の内容が断片的に触れられる。「家がだんだん遠くなる」や「天の川鉄道の夜」、そして映画「海底奇岩城」などで、どれも読んで(見て)みたくなる。
このうち、秀逸なミステリとして紹介される「天の川鉄道の夜」については、年末放映分のアニメドラえもん(勿論水田わさび版)を録画していたので、見てみたが、イマイチだった。というかミステリ的な側面に焦点が当たらないつくりにしており、原作の良さを消す飾り付けがついてしまった感じだ。特にアニメ版全般に対する批判ではないが、この回については残念と言えるかもしれない。

*1:冒頭で引用され、物語全般でキーワードになる言葉。「ぼくにとっての「SF」は、サイエンス・フィクションではなくて「少し不思議な物語」のSF(すこし・ふしぎ)なのです」という藤子・F・不二雄先生の言葉より。