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悩む家にも悩まない家にもオススメ〜小西行郎『発達障害の子どもを理解する』

発達障害の子どもを理解する (集英社新書)

発達障害の子どもを理解する (集英社新書)

よう太は4月で小学2年生になった。
一年前の小学校に入学したての頃は、幼稚園ですら上手く行かなかった集団行動が、小学校で問題にならないか本当に不安だった。5月の学校公開(授業参観)では、この子はダメなんじゃないかと目の前が真っ暗になるほどだった。でも一年経ってみると、何とか学校での集団生活も問題なくこなしているようだ。授業中の態度等で注意されることが無くなったわけではないが、授業の進行を妨害したりはしていないようで、少しだけ安心している。


そんなことを書くと心配し過ぎだという人もいるかもしれないが、幼児期の健診等で一度でも何か言われたりすると、その後の長期に渡ってそれが頭に残ってしまう人の方が多いと思う。よう太は、幼稚園時代もクラスで(集団行動ができないと言う意味で)かなり目立っていたし、3歳下の夏ちゃんと比べても落ち着きがないところがあるので、何かあるたびに夫婦の話題に上るのだった。


この本は、自分のような“迷える親世代”を中心の読者層として書かれているが、発達障害とは無関係に「子育て」をめぐる「親」「社会」が取り組むべき方向についてがその主張の中心にあり、対象読者範囲はかなり広い。
一方メインテーマであるはずの「発達障害」については歯切れがよくない。これは以下の理由による。

  • 例えばチェックリストで採点して判断できるような単純なものではなく、判断を間違える専門家もいる。
  • 「早期発見・早期治療」という対処が適切でないと考えている。
  • 症状によっては治らない(いわゆる一生付き合う病気)

したがって、「うちの子は発達障害なのかどうなのか」という質問には答えてくれない内容の本ではある。

発達障害と診断される子どもが増加しているのは何故か(1〜2章)

まず、冒頭で、複数の病院の外来統計資料をもとに、発達障害と診断される子どもの数が増えているということを挙げている。一方で、発達障害というのは、原因が未解明であり、単一の原因によって起きる単一の疾患ではなく、多くの症状をひとくくりにした症候群であるということも述べられている。(p67〜)
つまり、このような統計資料は、発達障害をもつ子どもが実際に増えたことを示すのではなく、子どもたちを取り巻く社会環境が変わった(受容できる範囲が狭くなった)ことが大きいのではないかというのが作者の分析だ。
そもそも「発達障害」があいまいで不確かな障害概念であるにもかかわらず、確定的な対処をしようとしているところに問題がある。つまり、教育全体の方向性が変わったことによって、子ども達に向き合う姿勢も変わってきているというのだ。

私が懸念するのは、近年の「個別化」が単なる教育方針の変更にとどまらず、子どものあら探しや「子ども集団」の解体につながったことです。子どもの発達に対する許容範囲を矮小化し、子どもが自分で社会性を育む場を奪いながら、「社会性のない子どもが増えた」と大騒ぎしているように見えるのです。p42


今日の日本で、子どもは「授かる」のではなく「作られる」ものとなり、同時に子どもは「育つ」ものから「育てる」ものへと変化し、「大人が主導」の育児観が広まってきた(p37)と作者は語っているが、非常に実感できる言葉だ。例えば、よう太の4月のクラス分けと担任決定については、確実に本人よりも親の方が気にしていた。自分の親が同じように思っていたとはとても思えない。

発達障害の診断をどうするか(2〜3章)

1〜2章で、発達障害の説明については頁が割かれているが、つまりは、集団行動に支障をきたすほど問題があるときについて、その症状に応じて障害の名称が決まるというものらしい。
このような「発達障害」関連の症状のリストは、どのようなタイプを見ても、37歳の自分も相当数当てはまるし、当然、よう太も「どちらか」で考えれば満点に近いほどなので、不安を増す原因となっていたが、それぞれについては気にし過ぎなくていいのだと受け取った。*1


診断についての考え方としては、そもそも子どもの状態を正常・異常に規定することは難しく、環境が異なれば判断も異なることを前提にして、以下のような対処を薦めている。

  • 親は、周囲との違い(あら探し)ばかり気にせずに、子ども自体の成長に目を向け、第一に子どもの気持ちを理解してやる。
  • 医師にかかる場合は、子どもの様子を丁寧に観察し、診断し、相談に乗ってくれる医師を選び、必要に応じてセカンドオピニオンを取る。「早期診断」を期待しない。(p45)

なお、最近は運動と知覚について研究が進んでいるということで、運動障害についても頁を割いている。この部分が、また、運動音痴のよう太には当てはまることが多いので嫌になる*2が・・・(3章)


親はどうするか、社会はどうするか、治療者はどうするか(5〜6章)

今日の発達障害児の支援の多くは「対応」に力点が置かれている。しかし、繰り返し書かれているのは、「対応」よりも、子どもを「理解」することが重要だということ。(タイトルにある通り)

発達障害という「診断名」に目を奪われて、目の前にいる子どもを「一人の子ども」として「見つめる」というステップを見失わないでいただきたい(p81)

なお、早期診断・早期対応を疑問視している作者は、長期に渡った場合の影響が未検証であることも含めて、薬物療法は慎重にという立場だ。(p164)


「理解」するということに関連して「ほめて育てる」ことについての記述が興味深かった。

最近、「発達障害の子どもは叱責されることが多いため自尊感情が低下しやすく、二次障害を起こしやすい。だからほめて育てることが大切」という主張をされる方が増えてきたように思います。でも、この話にはもう少し丁寧な議論が必要だと思うのです。p183

いわく、彼らの自尊感情が傷つくのは、叱責それ自体のせいではなく、自分の行動の理由やその背後にある思いが理解されないまま叱責されつづけること」が原因である。つまり、親は、頭ごなしに叱るのではなく、何よりもまず子どもの意見を聞いて「理解」した上で、誤ったところはただす、という姿勢が重要ということ。
うちの奥さんが怒っているのを横で聞いていると、子どもの「理解」については、かなり慎重にやっているし、よう太も自分が悪いと分かった場合には非常に反省している。自分なんかは感情に任せて怒ってしまったりすることもあるので、見習わなければならない。


第五章は、「理解」まではいかないまでも「受容」を社会にも求めようとする内容になっている。

私は発達障害児に対する治療や訓練を全否定するものではありません。子どもの障害の状態によってはそれらも必要であると考えます。ですが、私の基本は、発達障害の子どもを無理に社会の常識にあわせようとするのではなく、障害をもったままでも幸福に暮らせる社会を実現することが大切だというものです。p147

勿論すぐに実現ができる話ではないが、非常に納得しやすい主張で、このような理想が必要だと思う。そもそも、こういった悩みを抱えた親子の根本の原因と対応を、全てその親に求めるのは、生きづらさを増すだけだ。「弱者」ができるだけ少ないような社会設計が重要だろう。


第六章は、タイトル(子どもは<子どもの世界>で育つ)通り、大人が「子ども集団」に過度に介入しない方がいいのではないか、という主旨で、以下のように述べられている。

長く一緒にいる子どもにとって、発達障害をもつ子どもの障害は、その子の「一部」であって「すべて」ではないようです。彼らにとって「光太郎君は、光太郎君」なのです。p193

確かに、子どもの方が大人よりもずっと「受容する力」を持っている。そして、今回、クラス替えを迎えての気持ちを考えると、大人が過度に介入している感じは、実感として非常によく分かるし、「子どもは<子どもの世界>で育つ」(子ども達同士の関係の中で社会性を獲得する)というのも納得しやすい。
でも、親になってみると、治安、事故などで、一歩間違えば…という危険がいろいろな場所に潜んでいることがよく分かる。それだけでなく、同世代の子どもが、子どもだから…で済まされないほど意地悪だったり乱暴だったりする部分もあることも知っている。そういった「リスク」を、親がモグラ叩きのように叩いて回って無理矢理に安全を確保しようとするのは、仕方のない面もあるように思う。ましてや、幼児であれば、スーパーで数秒目を離した隙に…という事件・事故で毎回、被害者の両親が非難されているのを見ているから、親が慎重になるのは当然だと思う。
だから、「もっと<子どもの世界に任せるべき>という主張については、この本を読んだことによって、自分が直接的に行動を変える部分は少ないかもしれない。ただ、考え方の部分で、非常に参考になったし、少なくとも、理想の「子育て」いや、「子育ち」がどうあるべきか、という部分は分かって良かった。
発達障害」の話とは無関係に、同世代の親には是非読んでもらいたい本だと思った。

*1:p45:子どもの様子を見るときに気にすべきことは、「個別の問題にこだわること」ではなく、食事、睡眠、運動、興味(五感)、言葉など、子どもの発達を「総合的に見て、判断すること」です。こだわりがあるから発達障害ではないのです。

*2:発達障害児の運動の五分類①姿勢を保つのがこんな良。②手先が不器用③特定の運動発達の顕著な遅れ④集団行動で行動の最初のタイミングがみなとずれる⑤うまくいかないのに同じ行動を繰り返す。