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「みんな仲良く」という呪縛〜内藤朝雄・荻上チキ『いじめの直し方』

いじめの直し方

いじめの直し方


先日、お酒の席で隣に座ったカウンセラーの仕事をしている人から、「”べき”を外すのが重要」という話を聞いた。特に、親からしつけられたことなどで、「●●すべき」「●●してはいけない」という言葉が、長年に渡って自分に枷を嵌めて苦しんでいる場合が多いという。
これについては、(苦しんだというほどのものではないが)自分にも思い当たる節がある。
自分は、小学校5,6年生のときの担任(とてもいい先生でした)の「みんな仲良く」が、頭に染み付き過ぎていて、その後、20歳くらいになるまでは、それに縛られて上手く行動できていなかった部分があったと思う。とにかく、当時の自分は、人を嫌いになることも、他人から嫌われるのもダメと思い込んでいた。表面上は上手く取り繕っていたが、自分が何処にあるか分からなくなっていた。だけでなく、「みんな仲良く」の空気を乱す人が嫌いだった。今思えば、これは「無意味」なだけでなく、自分を縛り、他人を縛ろうとする「害のある」感情だったと思う。


『いじめの直し方』では、今実際に起きているいじめをどうするか、ということよりも、「いじめの起きにくい環境」を作るための方法に焦点を当てる。だから、人に問題があるときに使う「治す」ではなく、仕組みに問題があるときに使う「直す」がタイトルに使われる。そして、いじめ問題を考える上でも「みんな仲良く」の呪縛はとても大きいということが示唆される。
基本的な主旨は、本の中でも引用されているが、さかなクン朝日新聞を通じて“いじめられている君へ”向けて送った「広い海へ出てみよう」という文章を読むとよくわかる。

中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩(せんぱい)が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。

でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれに して攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け 出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。

広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。

中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。

ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。

広い海へ出てみよう(東京海洋大客員助教授・さかなクン):朝日新聞2006年12月2日掲載


人間関係が入れ替わりやすい場所では、いじめが起きにくいが、学校は、「人間関係の入れ替わりやすさ」がとても低い場所になっている。どんなに嫌いな相手であっても1〜2年間は(クラス数が少ない学校であれば、小学校6年間)同じクラスにいなくてはいけない。つまり、さかなクンの言うところの「小さな世界」で、いじめが起きやすい状況が生まれている。
それだけではなく、学校では、そういった相手とも「仲良くする」ことを求められる。しかし、よく考えてみると、クラスのみんなが仲が良いことは、学校側にとって管理のしやすい「良い子たち」であって、必ずしも生徒たちのためのものではない。それを無邪気に守る生徒たちは、どこかにストレスを抱えてしまう。

普通の子どもは、違う相手のことを尊重して、「無関心」を装う方法を身につけていないことが多い。そうした子どもたちが、自分たちだけのオキテを作って、アンバランスな人間関係を作ってしまったりする。
だから大人は、本当は子どもに「距離をとる方法」を教えなくてはいけない。大人は子どもに、「スルーするための力」も身につけさせなくちゃいけない。そしてときには、積極的に「距離」を作ってあげなくてはならない。

相手の「変なところ」を、ことさらいじったりせず、よけいなコミュニケーションをしないこと。違う人の世界観にズケズケと割りこむんじゃなくて、そっと距離を取ること。そうしたことができることを、ぼくたちの社会では大人と呼んでいる。
そうしたことができないと、いじめやハラスメント(嫌がらせ)につながってしまうこともある。友だちが言うことを聞くまで殴ったり、部下の仕事以外の行動にまで説教したり、同僚のプライベートな出来事を勝手に広めたり、隣の家の住人にやたら口を出したりね。


引用部の後半に書かれているが、「みんな仲良く」という呪縛は、かえって逆効果を産んでいるように感じる。つまり、小学校高学年になると、学校の言う「みんな仲良く」は建前であることが気が付き表面上はそれを守るが、影ではその反動で、「大嫌いなやつ」には何を言っても、何をしてもいい、という風に極端化してしまっているように思う。
ヘイトスピーチなんかは最たる例で、「嫌いな相手には何を言っても、何をやっても許される」という理屈で、突き進んでしまっているように思う。ヘイトスピーチに反対する人が「中韓と仲良くやっていこう」と言えば言うほど(そんな建前はどうでもいいと)火に油を注ぐことになっている。


自分は、こういった隣国の問題も含めて、まずは"全員と仲良くするのは無理"ということくらいは小学校中学年くらいで教えないといけないと思う。
その上で、"嫌いな人でも困っている人は助けるべき"とか、嫌いな人がいることを前提とした道徳を教えるべきだと思う。道徳の授業は「みんな仲良く」が前提になっていることで、すべてが絵空事に思えてきてしまう。これは、いわゆるネトウヨの人たちが、左派を「お花畑」と皮肉るときの奥底にある考え方だと思う。
そう考えると、出来るだけ小さい頃から、「嫌いな人にどう接するか」を考えることで、大人になったときに相手を過度に傷つけたり、それで自分が深く思い悩むことを減らせるようはずだ。
この本では「お互いをスルーする力」「距離を取る方法」を身につけさせることが重要と説かれているが、まさにその通りだし、以前、豊島ミホ『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』、益田ミリ『どうしても嫌いな人』で学んだ「嫌いな人」への対処方法とも一致する。


ただ、一方で、「嫌いな人がいても構わない」と教える場合には、「なぜその人のことを嫌いなのか」についても考える訓練をさせた方がいいように思う。
というのは、「この人が嫌いだ」ということに気が付いた場合、相手ではなく自分に原因がある場合がとても多いからだ。
自分の場合は、高校生くらいの時期は、大体において、自分が欲しいもの(能力)を持ってそれを誇るような相手を「嫌い」とか「苦手」と感じていた。(自分はそれを「コンプレックス嫌悪」と呼んでいた)
また、冒頭で書いたカウンセラーの人の話では、親にしつけられて自分が気を付けてきたことを出来ていない相手を嫌いになるということも多いという。例えば、片づけをしっかりやる人が片づけを出来ない人を嫌いになるようなパターンだ。
嫌いになる人のパターンに気が付くと、自分の努力で、少しずつそれを制御できるようになると思う。最近よく見かけるアンガーマネジメントの本なんかには、そんなことが書いてあるのかもしれない。


ということで、色々と、いじめと関係のあることないことを書いてきたが、この本自体は、いじめの起こりやすい環境や、いじめの構造を考える上ではとても分かりやすい内容だと思う。
ただ、想定している読者層がややわかりにくく、子ども向けの口調で書かれている割には、本当に読んでほしいのは大人世代であるはず。コンパクトですぐに読める内容なので、特に小学生くらいの子どもを持つ親の方にオススメです。

参考(過去日記)

「嫌いな人」問題は、自分の中で大きなテーマで、いくつかの本の感想で扱っています。