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漱石=はっぴいえんど論〜清水義範『漱石先生大いに悩む』

漱石先生大いに悩む

漱石先生大いに悩む

夏目漱石に関する本だが、1章から5章までのタイトルが「虚の章」「実の章」「虚々の章」「実々の章」「虚実の章」となっている通り、虚実ないまじりの文章、という言い方ができる。

明治三十七年十二月、少壮英文学者・夏目金之助が処女小説『吾輩は猫である』を世に問うた。ここに「作家・夏目漱石」誕生。…日本近代文学史上、最も重要な大事件であった。定説では、神経衰弱に悩んでいた漱石に、高浜虚子(正岡子規後継者、「ホトトギス」主宰)が「気晴らしの文章を書くことを勧めた」のが、執筆のきっかけとされる。しかし、今回新発見された漱石書簡によれば、それ以前から小説の構想と新しい文体をめぐって、あるウラ若き女性と意見を交わしていた重大新事実が浮上してきた。手紙には「美禰」という名が記されている。この謎の女性は、漱石作家デビューにどうからんでいたのか?さらに漱石の文豪たるゆえんは、現代日本語表現の基本を創り上げた功績にあるが、そんな大仕事を、なぜいきなり処女作で成し遂げられたのか?謎の書簡と謎の女の真実を求めて…“文学探偵”見参!その推理が冴える。


自分のように、漱石をほとんど読んでいない人間にも、「美禰」という架空の女性との手紙のやり取りを通して、金之助と漱石という名前、全集に収められた「書簡集」の意味、正岡子規高浜虚子と「ホトトギス」との関係など、さまざまなことが「勉強」できる本になっている。
夏目漱石によって「新しい文体」がどのように生み出されたのか、ということが、当時の事を見てきたかのように理解できる。

たとえば森鴎外の『舞姫』は金之助も読んでいて、見事な小説だとは思っている。雅文体の文章には品格があり、物語は香り高くロマンティックだと認める。しかしその小説にはユーモアがなく、そのせいで真実味が感じられないのだ。
ゲラゲラ笑ってしまう滑稽さがユーモアなのではない。人間の愚かしさを知ってそれを許すところにユーモアはおのずと生じる。
おれは小説にユーモアを持ち込んでみたいのだが、はたしてうまくできるのだろうか。p83

ひとつやってみるか、という気がする。おれにしか書けない、ユーモアがあってまったく新しい小説を書いてみるのだ。
ここは、いよいよ漱石を世に送り出す時かもしれない。漱石と言えばあの夏目、夏目と言えば、おおあの漱石かと言われるぐらいに、夏目漱石をデビューさせ、一躍有名になってみる時が来たかもしれん。p93

わかりやすく言文一致にした文章は、そうではない文章より長くなりがちである。その長くなった分だけ、言い切る力強さが失われている。男性的に断定していく文章ではなくなり、女性的に少しぼかして語るような文章になっている。わかりやすく書くというのは、運命的に、力強さを失うということなのである。
言文一致の文章は、必然的に、子供向けや、女性向けに語るような調子になり、力強さを失い、論理的構造を失い。感覚的になるのだ。p119

ところが、この猫論であり、人間論でもある議論を、やっているのが猫だから、言いつのればつのるほど、苦笑して読むしかないのである。そういう構造によって、漱石は論理的文章でもってユーモア小説を書くというはなれ技に成功しているのだ。
そのようにして、漱石は日本で初めて、論理的な文章を用いて小説を書いた。これは新しい文体の発明であり、この発明のおかげで日本人は論文が書けるようになったのだ。p136

つまり、単に言文一致体で書くだけではなく、論理的かつ演説を思い起こさせる「である」調を採用し、さらにはそれを猫に喋らせることでユーモアを生み出したのが、『吾輩は猫である』の発明だというのだ。
物語の内容は勿論だが、それ以上に、その文体に心を砕いた漱石。筆名も、このときから敢えて金之助ではなく、意固地な感じのする漱石を使い、小説そのものよりも、文体、装丁、筆名など、それをパッケージとして発表することに意識的だったというのは、他のものを思い起こさせる。


特に、言文一致についての動きは、日本語で、どのようにロックを演奏していくのかという、日本語ロック論争と重なる部分が多いように思う。
つまり、夏目漱石は、とても「はっぴいえんど」的だ。
そう思うと、これまであまり読んでいなかった夏目漱石に、とても興味が湧いてきた。
まずは、ゆでめん聞きながら『吾輩は猫である』を読むことにしようか。

はっぴいえんど

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