Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「食えない羊羹」としてのスマホ~高橋久美子『旅を栖(すみか)とす』


5/12のアトロク(ラジオ番組アフター6ジャンクション)のサウンドスケープ特集がよかった。

これまで、少し足を伸ばせば簡単に行けたあの街ですら、今は、はるか遠い星のよう。だったら、いつかの旅行で訪れたあの街、この街、いずれは行きたいあの国の「音風景 = サウンドスケープ」に、今こそ、耳を傾けようじゃありませんか! というわけで無類の旅好きで(前作エッセイ集『旅をすみかとす』)、旅先では、記念撮影ならぬ「記念録音」を録りまくってきたというチャットモンチーの元ドラマーで、現在は作詞家・作家として活躍中の高橋久美子さんをお迎えし、秘蔵の“旅音源”を聴かせて頂きながら、記録、そして記憶としての音の魅力についてお話を伺いました。

https://www.tbsradio.jp/587804


高橋久美子は、チャットモンチー脱退後、やはりアトロクでその活動を知り、絵本に携わったりなど、音楽の活動にとどまらない色々なことをしている人だな、と思っていた。今回、サウンドスケープ特集を含む2度の旅ネタ回が内容もさることながら、その豪快な人柄も伝わってくる、いわば神回で、この人の書いた文章を読みたいと思って読んだのが、この『旅を栖(すみか)とす』。


この本は、国内外の旅先でのあれこれについて語られた、いわゆる旅行記だ。こういう本を読むのは久しぶりだったが、一般的に旅行記の面白さはこんなところにあるのではないだろうか。
1)単純に旅のトラブルなど体験自体が面白い
2)知らない文化を知ることができる
3)自分も行ってみたいなと思いをはせることができる

エンタメ寄りであれば1)の比率が大きく、教養寄りであれば2)の解説の比率が大きい。『旅を栖とす』の場合は、2)の各国の事情については、補足的に触れられているが、メインとはならない。したがって、1)寄りであると言えるが、そこには高橋久美子ならではの感性が一貫していて、それが文章を魅力的にしているように思う。(つまり旅行記が自分に合うかどうかは作者の感性が読者の琴線に触れるものであるかどうかにかかっているのだと思う)

それでは、その高橋久美子の「感性」とは具体的に何かと言われれば、人との出会いを大切にする気持ちと想像力、そして何より「ライブ感」であると思う。

プロローグが名文なので一部抜粋する。

街も人も日々変化する生ものだから、旅は一期一会のライブだと感じる。この非常事態が収束したとしても、あの日と同じ旅にはならない。きっとまた予想もしない新しい出会いが待ち受けている。だから面白く、切ない。
家の中で過ごすことの多かったこの一年はとびきり孤独だった。孤独が嫌いではないが、いつもとは少し様子が違っていた。でも、玄関を開け外に出る度に私は一人ではないと思い知らされる。生きているのは人間だけではない。桜の葉は、衣替えもしないのに百枚百通りの衣装をまとって日に照らされ、コンクリートの隙間から名もない植物が顔を出している。踏み出した足が、右、左と地面を蹴って私を知らない世界へと運び出す。なんだ、いつだって私は旅をしているじゃないか。忙しい日々では気づけなかった様々なことに心を傾けている自分がいた。そうしてまた新しい気持ちが動き出した。


一期一会の「ライブ感」を大切にするなかで、象徴的なのは携帯電話の扱いだ。
タイで日本人のバックパッカーに声を掛けられ「Facebookとか教えてよ。連絡取りあおうよ」と言われたときの心の声が面白い。

私は、めんどくせえなあと思っていた。なんでタイでたった今出会った日本人と一緒に旅行しないといけないのか。一人で来たなら、一人旅を全うしやがれ。それに私達は携帯のSIMカードなんかも入れ替えてないし、海外では携帯電話はご法度だと思っているタイプの旅人で、スマホを持ってはいるが、ここではただの食えない羊羹だ。

p32

そうか。スマートフォン以降は、海外旅行も以前と大きく変わって、例えばバスの移動や場所の確認など、旅先でのトラブルが大幅に減るという話を聞いたことがあったので、むしろ自分はスマートフォンを持った海外旅行に興味を持っていた。したがって今後訪れるかもしれない海外で「食えない羊羹」にしてしまえるかどうかは何とも言えないが、まさに仰る通りと思う。

旅先での音に、においに、そして周りの人の声に、全身でその場所を体験するには、スマホは「ご法度」なのだ。*1
このスマホ「ご法度」の考え方は、同行者も理解しており、3歳離れた妹と2人での旅行*2でも、結婚相手との2人旅行でも、それぞれ色々な外国人との交流が生まれ、カンボジアの青年たちに結婚について議論したりしてしまう。おそらく閉じたものになりがちな「2人旅+スマホ」での旅行とは、まったく違う旅の景色がそこにはある。


そして、「この人は信じられる!」と思わせるのは、各地で出会った人たちが今はどうしているのかな、と振り返る場面や、旅をすることで自分とは違う時間を生きている人たちがいることを改めて考える場面だ。

でも、私はこの人達のことを何も知らない。互いに羨ましいと思い合い、ほんのひと時、言葉を交わすだけだ。それでもいろんな人が、知らない場所で生きているのを見たときホッとする。勇気づけられる。一人だからこそ、一人じゃないんだなと感じられる。毎回、私はそれを確かめに一人旅をしているんだと思う。

自分の全く知らない世界に暮らしている人がいるのだ。食べるものも、裸になる場所も、太陽の巡りさえも違う土地で。旅に出たあと、自分の当たり前が全ての人の当たり前ではないことを考える。そして、イメージ通りの国なんてないよってことも。お土産に買って帰った焼きチーズは日本で食べると臭く感じて、あれは北欧だったから美味しかったんだなと思ったのだった。
p129

海外で差別的な扱いを受けたシーンでもそれは同様で、この旅行記には、「嫌な思い出」も描かれているが、それも現地の人たちの暮らしを想像することとセットでの「物言い」であり、ただのイチャモンにはしない。

海外旅行に出ると、しみじみ私はアジア人なんだなあと思う。それは私が私であるアイデンティティの一つであるけれど、私の全てを決定づけるものではない。当たり前が当たり前でない世界と出会ったとき、楽しい驚きもあれば、時には深く傷つけられる驚きもあって、自分自身がほかの民族を傷つけていることがあるのではないかという自戒にもなった。
p200


家の改築を手伝ってくれたベトナム人技能実習生の結婚式のために、初の海外旅行を果たした母親の感性を褒め称える場面でも、高橋久美子の優しいまなざしが伝わってくる。

まだまだ可能性は広がっていること、どこへだって行けるということ、新しい友達はできるということ、この旅は母の青春元年であると思った。扉は開かれた。でもそれはある日降って湧いたものではなくて、毎日大工さん達のお三どんをするなかで母の中に積み重なったものである。新しい世界のまばゆさを一番瑞々しい感性ですくい取ったのは母だった。
p205

気仙沼で多くの小学生が亡くなった小学校の跡地を訪れたときの文章も胸に響く。「亡くなったこと」ではなく「生きていたこと」に思いを馳せるのだ。

生きていたことを覚えていたいと思った。この学校で友達と走ったり笑ったり忘れ物したり、給食をおかわりしたり、同じ時代を生きていた子ども達がいたんだ。そのことを、私も訪れた人々もずっと忘れない。
p247

チャットモンチーは、ボーカル・ギターの橋本絵莉子の色が強すぎて、それぞれの曲の作詞が誰であるかを意識して聴くことがなかったが、これまでカラオケで一番多く歌ったチャットモンチーの曲「風吹けば恋」も、家族のことを歌った名曲「親知らず」も高橋久美子の作詞だったことに今回初めて気が付いた。*3
「親知らず」の歌詞で登場する家族写真の「妹を抱いた母親と真面目過ぎる父親」。そのうちの「妹」も「母親」も登場する、この『旅を栖とす』は、チャットモンチーを改めて聴き直すいい機会となったし、それも含めて表現者としての高橋久美子を立体的に捉えることが出来た。


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次は少し前に出たばかりの小説『ぐるり』を読んでみたい。表紙と挿絵が奈良美智というのがまたすごい。

*1:そういえば、チャットモンチーの代表曲「シャングリラ」でも「携帯電話を川に落としたよ笹舟のよに流れてったよ」という歌詞があったが、調べてみると高橋久美子作詞だった。

*2:親子に間違えられるエピソードも面白い

*3:そして今回聴き直して濃密な歌詞に聴き惚れた「Last Love Letter」がベースの福岡晃子によるものであることも知った。このグループは3人とも作詞がすごいじゃないか。