毎週の習慣として、土日は朝ランニングに出かけて、帰り際に新聞(土曜日は朝日、日曜日は読売)を購入する。書評欄を読むためだ。(あと数独)
書評が本そのものよりも良いところは、「読み終わらない」というところが無いところ。どんなに長い専門書も、短い娯楽小説も、同じ文字数でしっかり読み終えることができるので、気分的に楽だ。(反対に言えば、読書の嫌なところは、本を読み終えられない、もしくは、読み始められないことからくる、無意味な「罪悪感」だ。)
さて、書評を読むときは、基本的に書影とタイトルで「面白そう」と思ったものから読み始めるが、もちろん、書評自体がつまらないものもある。そんな中、「この本はぜひ読んでみたい!」と思って評者を見ると、「また、金原ひとみだ!」ということが増えた。
以下に金原ひとみによる朝日新聞の書評のリンクを示す。
book.asahi.com
こうやって、取り上げたタイトルを見ると、やはり性差やフェミニズムを扱ったものの比重が大きく、自分の問題意識の変化が反映されているところもあるかもしれないが、それにしても金原ひとみの書評は圧倒的な力があるように感じる。一体それは何故なんだろう?
そんな疑問を持ちながら、自分にとっては『蛇にピアス』以来17年ぶりに彼女の作品を読んでみた。
『アンソーシャルディスタンス』は短編集で、それぞれのあらすじはこのように紹介されている。
「コロナみたいな天下無双の人間になりたい」
「パンデミック」を逃れ心中を目論む男女、「ストロングゼロ」に溺れる女……2021年、世界はかくも絶望にあふれている。ページが刃となって襲いかかる、いま一番危険な小説集。
〈朝起きてまずストロングを飲み干す。化粧をしながら二本目のストロングを嗜む。〉
バイト先の人間関係が原因で、同棲していたミュージシャンの恋人が心を病んでしまう。仕事のプレッシャーにもさらされていた編集者の私は、彼との暮らしから逃避するかのように、高アルコール飲料「ストロングゼロ」に溺れていく――ストロングゼロ
〈自分が想像している満足いく顔は、すでに過ぎ去った過去の私の顔なのかもしれなかった。〉
35歳にしてクリエイティブ・ディレクターとしてキャリアを積み重ねている私。恋愛も多く経験してきたが、ふと気づけば同世代の友人は結婚していた。そんなとき、24歳の後輩男子に告白され、付き合うことに。しかし、その年の差が私を縛り、美容整形にはまっていく――デバッガー
〈この孤立感はなんだ。人の中には、心と体とそれ以外にブラックホールのようなものがあるのだろうか。〉
化粧品メーカーで新製品の開発に携わる私は、夫とはもうしばらくセックスをしていない。一方で同世代の男と付き合っているが、彼が最近精神的に不安定になってきている。その不倫関係が重荷になっていたのと並行して、女友達の弟という新たな男が現れた――コンスキエンティア
〈ずっとそうだった、コロナは世間に似ている。人の気持ちなんてお構いなしで、自分の目的のために強大な力で他を圧倒する。〉
大学卒業を控え専門商社への就職も決まっている幸希と、一年後輩でプロ級のメンヘラの沙南。コロナウィルスの感染が広がっていく東京で、恋人同士の二人は社会や周りの変化に取り残されていく。生きる糧だったライブの中止を知ったとき、彼らの頭に「心中」の二文字が浮かんだ――アンソーシャル ディスタンス
〈あれは恋愛だったのだろうか。思い出そうとしても、蘇るのは激辛なものを食べて喘いでいる私たちと、セックスをして喘いでいる私たちだけだった。〉
翻訳会社に勤める私と編集者の恋人は、趣味や嗜好が一致し、セックスの相性も合う二人だった。しかし、コロナ禍で仕事がリモート中心になると、私の思考は過敏になった。感染の危険に無自覚な恋人とは気持ちがすれ違うようになるが、一方で彼とのセックスを求める気持ちは暴走し……――テクノブレイク
あらすじを見るだけでもキャッチーで、世界の切り取り方が上手い。
表題作「アンソーシャルディスタンス」だけは男側の一人称描写もあるが、5つの短編のどれも主人公は女性で、細かな心の動きが書かれている。どれも極端な性格だとは思うが、男性である自分としては「こんな奴はいない」等の反発を感じずに(こんな風に考える女性もいるんだーと感心しながら)受け入れつつ読んだ。
「ストロングゼロ」の依存症描写は笑えないのだが笑ってしまう。
もう一本ストロングを飲んでから出社しようとコンビニに寄って気がついた。冷凍コーナーに並ぶアイスコーヒー用の氷入りカップにストロングを入れれば、会社内でも堂々とお酒が飲める。こんな画期的なアイデアを思いつくなんて、私はすごい。久しぶりに自分をほめられた瞬間だった。
同様に、「デバッガー」も、10歳以上年下の後輩男子と付き合うことになり、美容整形に依存していく話。
美容整形の施術の前だけでなく、直後にも、それが「正しかった」のか「間違っていた」のか延々とネット検索を続けてしまう不安描写が印象的だが、その自己分析も面白い。
私は大山くんと付き合っていたのではなく、老いに怯えあらゆる恐怖に耐え戦いながらも彼と一緒にいたいと望む自分と付き合っていたのではないだろうか。そんな突飛な考えが浮かぶ。なぜ、私は私と大山くんの間に、老いに怯える自分を介在させてしまったのだろうとも思う。
一番、心に刺さったのは、主人公が夫以外に二人の男(奏、龍太)と深い仲になる「コンスキエンティア」だ。主人公は「自分では制御できない獰猛な欲望」を抱えていることに自覚的で、それを手なずけるための「手綱」を握らせる相手が、夫→奏→龍太(女友達の弟)と移っていく。
彼女が、龍太の良いところと悪いところを合わせて語る部分がある。
夫や奏に比べて、彼は全くめんどくさくない。龍太は同棲なり結婚なり、一緒にいる時間なり、具体的なものだけを求めているからだ。めんどくさく臨界点を越して尚捻れ続ける夫や奏に対して、龍太は臨界点で折れるか、爆発するかのどちらかだろう。でも正直、どこかでここまで乖離性のない人間がいるのだということに戸惑いも感じていた。どこかで、そろそろ表を制覇して、人間的な不可解さ、矛盾、非合理性に触れるのではないかという期待をしていたのだ。どこまでいっても恋愛の成就が頂点に君臨し、ひたむきにそこを目指して愚直に表の面だけで生きている龍太に対して、私は不可解さを抱かずにはいられない。彼は、自分の望みを全て自分で把握できると思っている。把握できないものの存在を完璧に無視し、具体的なものだけに執着し、抽象的な思考を徹底的に排除している。その徹底した即物的な生き方は、側で見ていると逆にその底知れなさに空恐ろしくなる。彼のめんどくさくなさは、私にとって最大の謎であり、闇でもある。
後半に登場し、主人公が心を惹かれる別の男性は、そんな龍太とは正反対の主張をする。
自己実現とは大凡、資本、趣味、倫理の3つの面からアプローチする。金持ちになりたいという欲望、好きなことをやりたいという欲望、倫理的正しさを追求したいという3つの欲望が人を突き動かす。売れればいい、という考え方は暴力的だし、好き嫌いで物事を捉える趣味判断も幼稚で愚か、倫理的正しさの追求はそれと相反する自分自身の小さからぬ側面を絞め殺す諸刃の剣で、物作りと倫理の追求は本質的に相容れないところがある。物を作る人は大抵、その内なる欲望のバランスと矛盾に悩み続けているのだとも思う。
倫理の面についても「欲望」という表現を使っているのが面白いが、倫理が重要というわけではない。この男性に主人公が惹かれるのは、自己実現にはバランスと矛盾がつきものであり、必然的に人はそこに悩むものだ、という人生観の大前提の部分にある。龍太とはそこを共有できない。
「コンスキエンティア」に書かれているような、(時に過剰な)自己の欲望の制御不能性と、他者(恋愛相手)の制御不可能性、故に人生が上手くいかないという諦念は、全編に共通しているように思う。
「蛇にピアス」を読んだときもだが、今回もまた、性描写のしつこさと独白調の文体に村上龍を思い出した。大学生時代の自分が村上龍に惹かれたのは、主人公が世界の真理に触れている感じをする断言口調にあったように思う。しかし、『アンソーシャルディスタンス』で金原ひとみが描く主人公の女性たちは、常に、怒り、諦め、迷って、自立していても芯の部分に不安がある点で、村上龍とは正反対なのかもしれない。
そこから考えると、自分が金原ひとみの書く書評に惹かれたのは、自信を持てない「弱い者」の立場をテーマにするような選書がなされた上で、彼女自身の視点・主張が書評の中に表現されているからだと思う。
「アンソーシャルディスタンス」「テクノブレイク」は、コロナ禍の日本を舞台にしているが、コロナは、全世界に共通する事象ながら国によって、そして職業によって受ける影響が大きく異なる。そんな状況に誰もが惑う一方、隣の人の悩み・不安が理解できない、という状況は増えていくだろう。
そんな世界ではより多くの想像力が求められ、小説を読む意味も、これまで以上に大きくなっていく。
…なんてことを書いて大上段に構えるのもなんなので、単に面白いと感じられ、シンクロ率が高い作家として、もっと金原ひとみ作品を読んでいこうと思う。
最近の本からもう少し読んでみようか。