Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

2人の邂逅と1891年の日英露~松岡圭祐『シャーロック・ホームズ対伊藤博文』

ホームズがクトゥルーに立ち向かう『シャーロック・ホームズとシャドウウェルの影』を読み、さあ、聖典コナン・ドイルによるホームズ本編)を読むぞ!と息巻いていたのが7月。
そんな自分だが、狙って探していたわけではなく、図書館の返却本棚*1で偶然出会ったホームズのパスティーシュがこの本。

あまりに大きなフックに惹きつけられ、一気読みした。

なぜホームズと伊藤博文なのか?

まず基本事項だが、タイトルとは異なり、伊藤博文シャーロック・ホームズは対立関係にはなく、協力関係にある。
日本を舞台に、2人が協力して立ち向かう相手は、ロシア。

この小説は、滋賀県大津市で起きたロシア皇太子暗殺未遂事件、いわゆる大津事件*2にまつわる企みを、2人が解き明かす物語なのだ。


と言っても「大津事件」。
確かに日本史の授業で出てきた記憶はあるけれど、なぜこれを扱うのか?と思ったが、読み終えてみると、非常に巧みな歴史事象の取り上げ方であることがわかった。

  • (1)時期
    • 決定的なのは、ホームズが「最後の事件」で滝に落ちた(1891年5月4日)直後に、大津事件(1891年5月11日)が起きているという時系列の連続性だろう。この小説では、「ホームズ死亡」直後に、兄マイクロフトの手を借りて単独渡日し、旧知の伊藤を頼る流れになっている。
    • また、冒頭では、若い二人の初対面の状況が描かれる。1864年に渡英した伊藤博文(当時は伊藤春輔=22歳)がホームズ兄弟(シャーロック=10歳、マイクロフト=17歳)の命を救い、この際に伊藤博文が見せた背負い投げが、ホームズが身につけた謎の武術「バリツ」の会得に繋がることになっている。
  • (2)大津事件の意義
    • 大津事件は、来日していたロシア皇太子が切られて重傷を負った暗殺未遂事件。犯人である津田三蔵が(ロシア側の望む)死刑ではなく無期懲役となったことで大騒動となったが、結果的に、(裁判所が政府の要望をはねのけたことにより)司法の独立を示したというところに大津事件の大きな意義がある。
    • この事実は、モリアーティ教授の断罪を司法の手に委ねず、私刑を下した形になったホームズの後悔とともに、最後までストーリーに絡むことになる。(この小説では、ホームズ、モリアーティの双方が意図的に滝での決着を狙ったことになっている)
  • (3)当時の日英露の関係
    • 1902年にロシアに対抗して日英同盟が組まれるように、大津事件当時の国際情勢として、日本は、極東支配を狙うロシアとアジアに手を伸ばす英国の対立の最前線にあった。
    • この事実が、対ロシアの交渉の中で、さもイギリスの意図通りに(スパイとして)動いているように見せるホームズが、日本で活躍する意味を大きくしている。

歴史的事実の謎へのアプローチ

やはりというべきか、歴史的事実を土台にしているストーリーは、少しでも歴史を勉強したい身からすると加点要素が大きい。
特に、今回、歴史に無知な自分にとっての一番の収穫は、大津事件で切られた皇太子が、ロシア帝国最後の皇帝で、日露戦争のときの敵のボスであるニコライ2世だということを知れたこと。このことは、この事件に大きな物語が生じる余地があることを意味し、実際、これを題材とした小説はいくつもあるようだ。
また、日本の皇太子が外国で暴漢に襲われたら…と改めて考えると、かなり大きな事件であり、何故この事件でロシアが日本に対して強硬姿勢を取らなかったのかは素直に不思議だ。
さらに細かな謎として、当初友好的だったニコライが、突然態度を急変させたことや、現場で津田三蔵を捕らえた車夫2人への待遇がロシア政府により一時金だけでなく終身年金も、という、過ぎた厚遇を与えられたこともある。小説内では、そういった歴史的事実の謎に対しても理由が明らかにされる。

伊藤博文の家庭の問題

伊藤博文というと、旧1000円札以外では、韓国総督府になり、安重根により暗殺(1909年)された晩年のイメージが強かったが、女好きとして有名だったということが、物語の中で、ホームズによって何度も蒸し返される。
特にホームズが世話になった伊藤家には、生子、朝子の2人の娘がいたが、ホームズは、すぐに朝子が、伊藤博文の妻である梅子の実子ではないことを見抜く。(梅子は元・芸妓で後妻。生子は梅子の子だが、朝子は女中の子だという。)
Wikipediaにも「女好き」の項目が設けられているが、ここには、明治天皇に「少し女遊びを控えてはどうか」と窘められたエピソードや日本で最初のカーセックスをした人物という記載がある。
ホームズはそのあたりは全部お見通しで、何かにつけて揶揄・非難を続ける。
しかし、この小説では、伊藤博文がホームズにコカインをやめさせるため、「きみがイギリスに帰るまでは、わたしも外で遊ばんと約束しよう」と自ら女遊びを封印する。(文面から”断腸の思い”が透けて見えるくらいのためらいを感じるが笑)
実際ホームズがコカイン中毒という設定は聖典でも途中から無くなっているようで、伊藤博文との約束がコカインをやめた理由として成り立つようになっているのも巧い。

ホームズの問題

この小説では、前述の通り、そもそもモリアーティを「(私刑の形で)殺した」ことへの後悔が何度も書かれており、物語の核になっていると言える。
それ以外に扱われるホームズ側の問題として、7歳上の兄・マイクロフトへの複雑な思いがある。この小説ではニコライの兄の扱いがポイントになっており、その部分と対照的になっているのも巧い。
ただし、悩ましいそれらの事項を除けば、ホームズは空気を読まずにズバズバと的確な推理をして相手を苛々させる天才として描かれており、その変人性も十分に堪能できた。
なお、ワトソンは、滝に落ちてホームズは死んだと思っていた立場なので、物語の最後(「空き家の冒険」の冒頭)にしか登場しない。そういう意味では、2人そろっての活躍をやっぱり見てみたいと思わせる本ではあった。

まとめとこれから読む本

この本を読み始めたのは久しぶりに行った海外旅行(バリ島)の帰りの飛行機だった。そのため、ちょうど「海外での生活」をしたばかりということから、訪日したホームズに少し共感しながら読むことができた。
なお、作中でもホームズから指摘されるが、伊藤博文は、品川御殿山での英国公使館焼き討ち事件(1863年)にも参加した「攘夷」の志士だった。その後の国際的な立場からすると意外だが、一昨年の大河ドラマ『青天を衝け』の渋沢栄一で経験済みだったので、素直に受け入れられた。(ちなみに、このドラマで伊藤博文を演じたのは山崎育三郎)
こういったこれまで見た作品の積み重ねが作品理解に効いてくるのも歴史を題材とした本を読むことの醍醐味だなあと感じた。


史実に基づいた松岡圭祐作品は、義和団事件を題材とした『黄砂の籠城』、太平洋戦争を題材とした『八月十五日に吹く風』などがあるという。このあたりは是非読んでみたい。


また、途中でも触れたが、「大津事件」を扱った小説はいくつかあり、その中では、吉村昭作品や山田風太郎作品(車夫に焦点があたる)が気になる。


なお、巻末解説では、ホームズ研究家の北原尚彦氏がお墨付きを与えており、日本に絡めたホームズのパスティーシュとしてやはりよく出来ているのだな、という気持ちを新たにした。シャーロキアンのいう「大失踪期間」(ホームズ死亡から復活までの期間)にホームズが来日していた、とする小説としては、加納一朗『ホック氏の異郷の冒険』があり、また、ロンドンで夏目漱石と会っていた、とする島田荘司漱石と倫敦ミイラ殺人事件』(漫画作品も!)があるという。このあたりにも是非手を伸ばしてみたい。

*1:最近、「図書館で借りた」「ブックオフで買った」を作者に伝えるべきでないというルールについてTwitter上で色々と意見を見ましたが、自分は伝えないし、ブログにもできるだけ書かないようにしています。というか、ここで感想を書く本の8割くらいは図書館で借りた本です。そもそも、本は「買うと読まないで積む」パターンが、これまた8割くらいに適用されるので、もうどうしようもありません。

*2:別名・湖南[コナン]事件というらしい