Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

観る側が「回答」を欲しくなるアニメ~『バビロン』最終回

バビロン[Blu-ray BOX]

バビロン[Blu-ray BOX]

  • 出版社/メーカー: バップ
  • 発売日: 2020/04/22
  • メディア: Blu-ray


(この文章はアニメ『バビロン』、映画『葛城事件』、小説『きみはいい子』をセットで語るシリーズ第1回です)
炎上気味に盛り上がっていたアニメ『バビロン』の最終回を見た。
覚悟していたが、まさかの悪が勝つ展開。
ただ、主人公やその仲間が成功しないからと言って「救いのない物語」と否定しない、というのが、先日『イノセント・デイズ』を読んで考えたことなので、まあ、悪が勝っても良しとする。
しかし、そうだとしても、やはり、この『バビロン』の最終回はダメ過ぎると思う。ゲームのトゥルーエンディングは伏せられてバッドエンドだけ見せられている感じがする。
観る側を嫌な気持ちにさせることが作り手の狙い通りなのだとしたら仕方がないが、『バビロン』の何がダメだったのかを少し考えてみる。

「生きることは善いこと」 その常識が覆される時代が訪れたら、あなたはどうする。 読む劇薬・野﨑まどが綴る衝撃作が、遂に禁断の映像化! 「その啓示は、静かにそっと訪れる-」 東京地検特捜部検事・正崎善は、製薬会社の不正事件を追ううちに、一枚の奇妙な書面を発見する。そこに残されていたのは、毛や皮膚のまじった異様な血痕と、紙一面を埋め尽くすアルファベットの『F』の文字。捜査線上に浮かんだ参考人のもとを訪ねる正崎だが、そこには信じがたい光景が広がっていた。時を同じくして、東京都西部には『新域』と呼ばれる新たな独立自治体が誕生しようとしていた。正崎が事件の謎を追い求めるうちに、次第に巨大な陰謀が見え始め--?

このアニメは中盤以降に登場するアメリカ大統領アレックスが特徴的で、彼が最善策を考える過程を見せながら、この作品は視聴者側に問いかけをしている。
「生きるって何?」
そもそも自殺を許容する「自殺法」という法律が作品全体の重要設定であることもあり、自殺したくなるほどの世界で、大統領が、そして作品自体が、どう「生きる意味」を説くのかを期待させる展開が最終回まで続いた。

「続く」ことが善いこと?

しかし、「続く」ことが善いこと、「終わる」ことが悪いこと、という大統領の「発見」は、まさに今自殺しようとしている人間にとって何の救いも意味もない言葉で、とても落胆した。
この世界が「続く」のが嫌で嫌で仕方がないから自殺を選ぼうとしている人が、到底納得できる理屈ではない。
終わり方が「救いがない」からではなく、「問いかけ」に対する大統領の考えが陳腐だったことが、『バビロン』を応援できない理由だ。この作品には「何かあるのでは?」と思って見てきた人を裏切った。特に、むしろ日々が辛い人に響くテーマだったからこそ、この裏切りの影響は大きい。


反対に、『自殺法』を推進する側の新域域長・齋開化の狙いも結局明かされなかった。もし、齋開化と“最悪の女”曲世愛の狙いが納得できる形で示されていれば、むしろ、大統領の陳腐な回答では二人に勝てないということが明確になり、同じ終わり方でも捉え方が違ったかもしれない。
『バビロン』は、観る側が、作品内で「回答」を欲しくなってしまう作品だった。(野崎まどの『正解するカド』も同じだったような気がする)
しかし、今回のテーマに対しては、「回答」が物語の中で示されるようなクローズエンディングはあり得ないのだから、大統領アレックスはもっと「考え続けること」の重要性を強調するべきだったように思う。
映画『葛城事件』の感想に続く)


それにしても、PVを見るにつけ、前半と後半で全く違う物語になっていたことに驚く。そして、「バディもの」になると見せかけて相棒が死に…という展開が繰り返すことも含めて、やはり作り手の「悪意」を強く感じる物語でした。原作も読んでみたい。

アニメ【バビロン】第一弾PV


バビロン 1 ―女― (講談社タイガ)

バビロン 1 ―女― (講談社タイガ)

バビロン 2 ―死― (講談社タイガ)

バビロン 2 ―死― (講談社タイガ)

バビロン 3 ―終― (講談社タイガ)

バビロン 3 ―終― (講談社タイガ)

『24時間戦争』vs『フォードvsフェラーリ』

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24時間戦争

24時間戦争

  • メディア: Prime Video

『フォードvsフェラーリ』があまりに面白かったので、Amazonプライムで観られるドキュメンタリー作品『24時間戦争』を観た。
よく言われるように 、『フォードvsフェラーリ』は、フェラーリの影が薄く、タイトルに偽りあり、なのだが、『24時間戦争』は、双方のオーナー、メカニックやドライバーなど関係者の言葉が、同程度に扱われており、「対決」感は映画よりも強い。特に、1968年のル・マンでは、両者が新開発のエンジンで競い合うというムネアツの展開で、F1ブームのときに楽しんでレースを観ていたときのことを思い出した。
また、『24時間戦争』を見ると、クライマックスの1967年のル・マンでの印象的なエピソードが実際に起きていたことが分かる。

  • スタート時に、ケン・マイルズの車はドアが閉まらないというトラブルに見舞われた。
  • ゴールは、独走していたケン・マイルズが嫌々ながらも、for the teamの精神で、フォードの「1-2-3フィニッシュ」を受け入れた。
  • しかし、スタート位置の関係から、最初にゴールしたケン・マイルズは2着となった。

また、1967年のル・マン後のケン・マイルズの死についても取り上げられており、『フォードvsフェラーリ』の答え合わせとして、とても興味深く観ることができた。


しかし、『24時間戦争』は退屈だった。


やはり『フォードvsフェラーリ』は、クリスチャン・ベイルの映画だったということを改めて実感した。
先にも書いた通り、フェラーリとの対決ではなく、フォード内の実務vs上層部を描いた映画だが、1-2-3フィニッシュをはじめとする上層部からの馬鹿げた提案に対して、ケン・マイルズは決して激怒したりしない。むしろ口角を上げて冷笑する。あの表情!!
常に「あの感じ」だからこそ、たまに息子に見せる情熱や、キャロル・シェルビーとの喧嘩のシーン、奥さんとへの愛情が伝わる場面が強く印象に残る。


そして何と言ってもレースシーン。映画を観終えて3時間近く(映画は152分)経っていることに気がつき驚いたが、それは、念入りに描かれていたレースシーンを短く感じていたからなのかもしれない。あれほど手に汗握ってレースを見ることができたのは、ケン・マイルズというキャラクターの魅力あってこそだろうと思うと、改めてクリスチャン・ベイルの演技の良さが思い出される。
何度も書くが、自分が映画を観るのは、好奇心を「煽る」ため。モータースポーツや自動車メーカー、そして俳優としてのクリスチャン・ベイルに興味を持てたこと自体が、狙い通りで本当に良かった。

その「救い」は誰のため?~早見和真『イノセント・デイズ』

イノセント・デイズ (新潮文庫)

イノセント・デイズ (新潮文庫)

  • 作者:早見 和真
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/03/01
  • メディア: 文庫



(文章中にネタバレを含むので未読の方は注意してください)

正義は一つじゃないかもしれないけど、真実は一つしかないはずです

放火殺人で死刑を宣告された田中幸乃。彼女が抱え続けた、あまりにも哀しい真実――極限の孤独を描き抜いた慟哭の長篇ミステリー。

田中幸乃、30歳。元恋人の家に放火して妻と1歳の双子を殺めた罪により、彼女は死刑を宣告された。凶行の背景に何があったのか。産科医、義姉、中学時代の親友、元恋人の友人など彼女の人生に関わった人々の追想から浮かび上がるマスコミ報道の虚妄、そしてあまりにも哀しい真実。幼なじみの弁護士は再審を求めて奔走するが、彼女は……筆舌に尽くせぬ孤独を描き抜いた慟哭の長篇ミステリー。


あらすじにもある通り、この本の構成は見事で、章ごとに語り手が変わり、過去にあった同じ出来事も視点を変えて語り直される。その順序も絶妙だ。

  • 1章 丹下健生(産科医、6章の翔の父親)
  • 2章 倉田陽子(義姉)
  • 3章 小曽根理子(中学時代の親友)
  • 4章 八田聡(元恋人の友人、ブログ執筆者)
  • 5章 田中幸乃本人
  • 6章 丹下翔(幼なじみの弁護士)
  • 7章 佐々木慎一(もう一人の幼なじみ)

全7章をプロローグとエピローグで挟み、一番最初に田中幸乃の語りが入る。
この構成で面白いのは、誰が田中幸乃に手を差し伸べる人なのかがわからないまま読み進めるところ。言ってみれば3章までは前菜で、4章を読むと、八田聡こそが彼女を助けてくれるように感じられる。しかし、八田はそこまではいかず、5章で田中幸乃本人による文章を挟んだ6章で、真打として、2章で語られた小学校時代の幼なじみである丹下翔が登場する。しかし、彼女を救うのは彼の役目でもないのであった。


単行本の帯にあったという「ひとりの男だけが、味方であり続ける。」の言葉通り、7章で登場する佐々木慎一こそが、「ひとりの男」であり、ここで初めてタイトルの「イノセント」が「無垢」ではなく「無実」という意味で使われていることが分かる。つまり、彼女は死刑になるような罪を犯していない…。
にもかかわらず、エピローグでは、実際に死刑が執行されてしまう。


何と救いのない話なのだろうか。
そう思わざるを得なかった。


しかし、このような、この小説を「暗い」「救いがない」と表現する声に対して、解説で、辻村深月は、この小説を「救いがない」とは読まなかった、と説く。

私は見届けなければならないのだ。彼女が死ぬために生きようとする姿を、この目に焼きつけなければならなかった。(444ページ)


この一文を見た時に、胸の真ん中を強く掴まれ、揺さぶられた。少し読み進めて息を吸い、この場面のために著者は彼女の物語をここまで書き紡いだのだと圧倒された。
読者の心は、おそらく、彼女を見守ってきた女性刑務官と近い。彼女を救いたいと願う人がいるにもかかわらず、自ら死を選ぼうとする田中幸之は傲慢に見えるかもしれない。しかし、彼女に「生きていてほしい」と望む気持ちもまた傲慢でないとどうして言えるだろう。

ずっと自分を消し、幽霊のように実体のなかった彼女が唯一意志を見せ、抗おうとしたその瞬間が、たとえ自分の死を望むものだったからといって、それを間違っているなんて誰にも言わせたくない。


読み始めたとき、プロローグの語り手が女性刑務官であることに面食らったが、辻村深月の書く通り、各章の語り手とは違い、第三者的視点で田中幸乃のことを見守り続けた彼女こそが読者に最も近い。
だから、エピローグにおいて、願い虚しく刑が執行されてしまったあとで、彼女の次のようなセリフを通して、読者のやり場のない気持ちを、どこに向けるべきかを伝えようとする。

心の傷と、解放感。その二つとともに私の中に取り残されたのは、やはり一貫して感じていた怒りだった。

でも、その感情の正体がどうしてもつかめない。私はいったい何に、誰に対してこんなに憤っているのだろう。真犯人か、警察か、裁判のシステムか、死刑制度そのものか。結局救うことのできなかった彼女の友人たちに対してか、それとも幸乃自信に対してか。

すべて当てはまる気がする一方で、すべて的外れだという思いも拭えない。ただ一つたしかなのは、どの方向に怒りの刃を投げつけてみても、結局はブーメランのように自分のもとに戻ってくるということだ。私自身、一度は幸乃を凶悪犯罪者と決めつけていたのだから。p454

6章までは、ほとんどの読者も、まさか彼女が無実とは思わず、凶悪犯罪者として読むだろうから、読者も同罪と指摘しているのだろう。

物語の中で、佐々木慎一も田中幸乃も、一人の人間を、人間性を無視した「凶悪犯罪者」や「死刑囚」という言葉で扱う/扱われることに非常に抵抗を示している。

確かに、事件に関わらない人が、マスコミの断片的な情報から、被害者や加害者をそれぞれが一人の人間として扱うことは不可能だ。しかし、だからこそ、安易にマスコミの「わかりやすい」表現をなぞるのではなく、そこに疑いの目を向ける必要がある。*1
先日読んだ、マスコミ批判色の強いルポルタージュ『モンスターマザー』は、一人の人間を「モンスター」に仕立てているという意味では、マスコミと同じ轍を踏んでいるような気がする。一読者としては、キャッチフレーズや分かりやすいエピソードに流されないで、少しでも自分の頭で考える時間を増やすしかないだろう。


辻本深月の解説は、『イノセント・デイズ』の根幹について次のように語る。

“感動”や“失望”、“暗い”や“明るい”、“”幸せ”や”不幸”といった言葉だけでは片づけられない、名付けられない感情や事柄を時に描くのが小説であり、物語であるとするなら、早見さんが描こうとしたものはおそらく、それらを超越した”何か”が起こる瞬間そのものなのだ。それは、わかりやすい“救い”の瞬間すら凌駕する。

(略)

“暗い”や“明るい”、“”幸せ”や”不幸”という一語だけの概念を超越した場所で彼女を救おうと格闘し、味方であり続けたひとりの作家の誠実さの熱。それこそが『イノセント・デイズ』という作品を支える根幹だと、私は思う。

その熱は、辻村深月の解説からも伝わってくる。


「救い」がない、と作品を評した場合、それは、誰にとって「救い」がないのか。
単に、ここまで読み進めた読者に対して「御褒美」をくれない、ことを指して、言っている言葉ではないのか。
読者も、本を読み、作中の登場人物とつき合うことに、どれだけ誠実であることが出来るか、その姿勢が問われている。

ということで、小説の読み方を改めて教えられるような熱い物語と名解説でした。

*1:ただ、最近の自分は、基本的には、こういうニュースに対しては「無関心」で接するようにしている。誰かが傷つく可能性のある噂話(の真偽の判断)に、限りある時間を費やすのは勿体ないからだ。

国家と国民と新型コロナウイルス~『一人っ子の国』



One Child Nation - Official Trailer | Amazon Studios

自分にとって映画を観る一つの大きな目的は「きっかけ」づくりだ。
特に外国のドキュメンタリー映画や史実を扱った映画は、その傾向が強く、『家族を想うとき』は、イギリスという国に興味を持つきっかけになったし、『国家が破産する日』や『工作』、そして『パラサイト』など一連の韓国映画は、韓国の歴史や現状について知りたいと思わせてくれた。
今回観た『一人っ子の国』も同様の目的で観た。
だが、その衝撃度は凄まじく、これまで、アメリカを抜く勢いの中国を、日本とそこまで変わらないのでは?と考えていた自分の浅はかさを思い知った。


そもそも、この作品は、TBSラジオたまむすびで、町山智浩さんが紹介していたのを聞いて知った。
ラジオの書き起こしページがあるので、冒頭から、作品の概要部分を引用する。

町山智浩)これ、監督は中国田舎で生まれてアメリカの大学を出てドキュメンタリー映画を作っている1985年生まれのワン・ナンフー(Wang Nanfu)さんっていう人がたった1人で中国に行って。自分でカメラを持ってたった1人で撮影をした映画なんですよ。
赤江珠緒)ええー。うん。
町山智浩)これね、たった1人じゃないとできない状態っていうのは見ていてわかるんですけども。彼女、子供が生まれたんですね。だからその2ヶ月かなんかの赤ちゃんを連れて、中国の田舎の親戚に見せに行くんですよ。で、自分が生まれた頃の話を聞いて回るんですけども、そのワン監督が生まれた頃っていうのはちょうど中国では一人っ子政策をずっと続けていたんですね。で、彼女自身が一人っ子政策というものはどうやって実施していたのか?っていうことがわからないから、それを聞いて回るっていう話なんですよ。自分のお母さんとかおじさんとかに聞いて回るっていう話で。
miyearnzzlabo.com

今読み返してみると、この紹介は、映画の内容をほぼ完全になぞっており、いわゆるネタバレ全開ではあるが、復習にはちょうど良いまとめとなっている。
上の引用の中でも書かれているように、自分も当然「一人っ子政策」という言葉自体は知っていたけれども、具体的に何が行われていたのかは想像したことが無かった。


映画の中でその実態が次々と明らかになる中、やはり一番驚いたのは、赤ん坊の写真。

それで、また写真家が1人、出てくるんですよ。その人はジャーナリスティックなアート写真を撮っていて。中国ではその当時、ゴミがそこら中に捨てられていて。産業廃棄物とかの不法投棄がひどかったんですね。で、その実態を撮ろうとしてゴミ捨て場の写真を撮っていたら、そこに人形みたいなものがあることに気がついて……よく見たら普通に出生した赤ん坊の死体なんですね。

映される写真も衝撃的だが、「当時は道端に赤ん坊が捨てられていた」と思い出話を語る人たちの淡々とした語り口も恐ろしい。生まれた子が女の子だったら捨ててしまうということは数多く行われていたとのことで、映画の中での語りによれば少なくとも2000年代初めまではその状況があったようだ。(さすがに一人っ子政策の終わった2015年ギリギリまでそういう状況だったということはないだろうと信じたい。)


後半では、そのような赤ん坊が外国に養子として「売りに出される」話が出てくる。
中国計画出産協会?に奪われて養子に出された双子の姉がアメリカに住んでいることが分かり、SNSで繋がることができたという事例も出てくるが、アメリカの姉には、経緯を知らせることは出来ないため、再会を素直に喜べず、これも辛い。


そして、全体を通して、国の関与、プロパガンダは、もっと怖れなくてはならないものだと感じた。
強制中絶や強制不妊手術の話も出てくるが、それらに携わった医師や産婆が国家に表彰された話に加え、歌や寸劇による一人っ子推奨の広報など、映し出される映像は、どこか昔の話のようにも感じる。
しかし、2015年以降に掌を返して始まった「二人っ子政策」においても同様に、歌や寸劇による広報が行われている状況を知ると、今現在でもこの調子で通じてしまっている中国という国を遠くに感じてしまう。
第一、今となっては「間違い」と分かる「一人っ子政策」について誰も怒らないのだ。

町山智浩)でも、どこでもそうですけども、一度始めるとそれがたとえ間違っていたとしても突き進むんですよ。一旦やり始めるとどんなに間違っていても突き進んじゃうんですよ。で、いま中国はもうギリギリになって2人っ子政策を始めているんですけども、遅すぎるでしょうね。かなり。で、その間に殺された子たちっていうのは一体何だったのか?っていうことですよね。それでも、お母さんとかやった人たちに聞くと「私たちは間違っていない。政府に言われた通りにやっていたんだ。他にどうしようもなかった。それが正しいことだと思わされていたし、思っていた」って答えるんですよ。

インタビューに出てくる人たちは、皆が口をそろえて「仕方がなかった」と語る。もちろん、都会と田舎では人の考え方も大きく違うのかもしれないが、ここまでネットが発達した世の中でも、徹底した情報統制によって「政府のいいなり」を作ることが可能なのであることにとても驚いたし、誰もが「正しく疑い、正しく判断する」ことが出来るわけではないことを改めて知る。


ちょうど、ここ数日で状況が大きく変化しているが、3日ほど前のテレビでは、中国政府を信頼しきって、新型コロナウイルスの被害が大きく広がることはないのでは、と語る中国の街頭インタビューの様子も映されていた。春節を控えて戦々恐々としている日本と対照的で驚いたが、マスコミだけでなくSNSも政府のPRが強く広がるように調整を受けているのかもしれない。
とはいっても、原発問題以降の日本は、政府発表のほとんどに疑ってかかるタイプと、「過度に疑うのは馬鹿」だとばかり、考えなしに政府を信頼してしまうタイプに、大きく二分されてしまったように思う。*1結局、 「正しく疑い、正しく判断する」ことが出来ていないのは日本も変わらないところがある。


こういったドキュメンタリー映画を観て歴史を知ることで、国家と国民の関係について考え、国民の側として、どのような判断を、そして行動をしていく必要があるのかを学んでいきたい。今後、映画や本を選んで行く中で、軸となるテーマをひとつ与えられた一本となった。

*1:ただ、現政権は、隠すだけでなく、統計を偽装したり、文書の改変もするということがどんどん明るみに出てきているので、政府不信になる方が自然だとは思うが

裕太君は自らの不運を呪うしかないのか~福田ますみ『モンスターマザー』

報道による「加害者」と「被害者」の逆転の怖さを描いた本ではあるが、いくつかの面で、これは少し面白いバランスで書かれたルポルタージュだと感じた。
まず、あらすじは以下の通り。

不登校の男子高校生が久々の登校を目前にして自殺する事件が発生した。かねてから学校の責任を異常ともいえる執念で追及していた母親は、校長を殺人罪刑事告訴する。弁護士、県会議員、マスコミも加わっての執拗な攻勢を前に、崩壊寸前まで追い込まれる高校側。だが教師たちは真実を求め、反撃に転じる。そして裁判で次々明らかになる驚愕の事実。恐怖の隣人を描いた戦慄のノンフィクション。

3章までの違和感

ノンフィクションと言えども、構成としては、最初に「謎」が提示されて、読み解くことによってそれが明らかになっていく形を取ることが多いと思う。
しかし、『モンスターマザー』には謎がない。
平凡な少女が、複雑な家庭環境の中で「モンスター」に育ってしまった、というような裏話も、裁判を通して、自らの行為を反省するようになった、という後日談も全くない。
最初から最後まで、モンスターマザーが「モンスター」のままで終わる本なのだ。


長野県立丸子実業で起きた自殺事件の鍵となる「かねてから学校の責任を異常ともいえる執念で追及していた母親」に焦点が当たる内容で、タイトルが『モンスターマザー』。
しかも、全10章構成の1章目から、モンスターマザーのモンスターぶりは全開だ。

  • はじめに
  • 第一章 家出
  • 第二章 不登校
  • 第三章 悲報
  • 第四章 最後通牒
  • 第五章 対決
  • 第六章 反撃
  • 第七章 悪魔の証明
  • 第八章 判決
  • 第九章 懲戒
  • 終章 加害者は誰だったのか

少し丁寧に書くと、犠牲になった高山裕太君は、入学した2005年4月以降、家出や不登校などの問題を抱え、これについて、母親(父親は離婚で不在)が学校側に物申すことが何度もあったが、2005年12月に自殺してしまった。ここまでが3章となる。
裕太君の死後の裁判の様子を追ったのが、4章以降となるが、読者は、3章までに「真実」を見せつけられるような構成になっているので、あらすじで書かれる「裁判で次々明らかになる驚愕の事実」として何が残っているのか、首を捻りながら読み進めることになる。


一方、問題の「モンスターマザー」は、服役している人ではないのに「実名」で、「途轍もなく悪い奴」として描かれているので、読んでいる側としては居心地が悪かった。
今もそうなのか知らないが、数年前、夕方のワイドショー的ニュース番組では、近所の迷惑おじさん、迷惑おばさんを紹介するようなコーナーが立て続けに放映されているのを見て驚いた覚えがある。
悪を叩きたい視聴者におもねるようにして、全国から「悪い奴」を募集して取材するようなコーナーに感じたのと同種の嫌悪感を、3章までの『モンスターマザー』には感じてしまったのだ。

4章以降の展開

ところが、4章以降、それらの懸念は払拭され、次第に読みやすくなっていく。
それは、モンスターマザー以外の「悪」が意外なところから現れるからだ。しかも、これも実名で。


一人目は、社会正義の実現と弱者救済に心血を注ぐ人権弁護士の高見澤昭治。
彼はいじめ被害者に対する学校側の態度が許せない。読者としては3章までの顛末を見ていて、これは誰も「モンスターマザー」の味方にはつかないのでは?と思っていたが、彼女は高見澤弁護士をはじめ、「支援する会」を味方につけ、一大勢力となって、学校側を攻撃する。*1高見澤弁護士は、本当だったら「自分も騙された側の人間」と途中から方向転換してもいいはずだが、裁判の過程でモンスターマザーの正体がわかっても持論を曲げない。


そして二人目は、著名なルポライター鎌田慧で、「週刊金曜日」には、バレー部でのいじめや暴力が真実であるかのような記事が載り話題になる。
彼は高見澤弁護士ほど、のちのちまで事件には関わらないが、『自動車絶望工場』など、徹底的な取材にもとづいた文章を書く人でさえも、「真実」を見抜けないのか、と驚いた。


なお、鎌田慧の記事や、(モンスターマザーが実質的に運営している)「高山裕太を支援する会」のHPは、検索すればネット上でしっかり確認でき、4章以降は、この本以外の情報も合わせて立体的にこの事件を検証することができる。ネット情報が多く残っている時代に起きた事件であるため、それだけでも非常にスリリングだ。

6章以降

あらすじで書かれる「裁判で次々明らかになる驚愕の事実」は6章以降に判明する。
「モンスターマザー」は、2番目の夫と離婚係争中であり、3年前にも周囲の人間を非難し攻撃する等の問題を起こしていたのだ。
この2番目の夫との訴訟記録や、インタビュー取材からわかる彼女の暴言・暴力・虚言壁はまさに「モンスター」で、裕太君に関する彼女の証言の信ぴょう性が低いことが納得できる根拠となっている。
そして8章で地裁勝訴となり、9章では、高見澤弁護士の懲戒についても提訴し、これが認められる。裁判にかけた時間や、マスコミに貶められた高校やバレー部の名声は戻るものではないが、両裁判に勝つことで、溜飲が下がる展開となった。


終章では「加害者は誰だったのか」というタイトルになっているが、全体を通して裕太君の自殺の直接の原因が母親であることは明確で、むしろこの本が書かれた理由を考えると、終章で言いたかったことは、「被害者は誰だったのか」ということなのかもしれない。
ここでは、バレー部の2年生部員のある父親が法廷に提出した陳情書の締めくくりの言葉が引用されている。

現在、世間の多くの人はマスコミの報道のせいでバレー部でいじめがあったものと思い込んでおり、高山さんが被害者、バレー部が加害者と思い込んでいます。しかし、真実はバレー部の子どもこそ本当の被害者であり、高山さんが加害者なのです。

ここでも「バレー部の子どもこそ本当の被害者」と書かれているが、本の中では、彼女が過剰に糾弾した担任やバレー部の先輩など、多くの被害者について多くのページが割かれている。
最初に、3章までの「モンスターマザー」こそが「悪」という一方的な書きぶりに居心地の悪さを感じたと書いたが、むしろ当時のマスコミの論調が、数多くの「被害者」を出してしまったことへの怒りがそうさせているのだろう。また、6章以降の「驚愕の真実」を知ると、むしろ、3章までの描写は、抑制して書かれているのかもしれない。

もうひとつ欲しかった視点

文庫版あとがきでは、著者の福田ますみさんが、前作『でっちあげ』と合わせて、マスコミの責任を追及する。

この2つの事件で、マスコミは見事に二人の母親に騙された。
メディアがが基本的に、弱者の側に立とうとする姿勢はもちろん正しいと思う。問題は、権力VS弱者などという図式に固執して、あいかわらずのステレオタイプな弱者像にとらわれていることだ。
(略)
真実は思いのほか地味であったりする。メディアの役割とは、虚心坦懐に対象を見つめ、一歩一歩地道に着実に真実に迫ろうと努めること、これに尽きると思う。とんでもない冤罪を生まないためにも。

この本は、その目的に対して誠実に、あくまで真実を検証しようとする本ではある。
終章では、現在(2014年)のモンスターマザーに対するインタビューにも成功しているが、彼女は今も反省するわけでなく、当時の主張を繰り返すばかりだ。


しかし、ここまで来てしまうと、彼女がモンスター過ぎて不憫に思えてきてしまう。
ストーカー事件の加害者は、憎むべき存在でありながら、「治療」の対象として扱われることも多いことを考えると、彼女のような存在に対しても何らかの「治療」的アプローチが必要なのではないか。裕太君のような被害者を増やさないためにも。
これについては、解説で東えりかさんが、次のようにコメントしている。

(彼女は人格障害(パーソナリティ障害)ではあるが、治療対象となるところまでは行かないようだ)確かに病気でない以上、プライバシー保護の問題で表沙汰にはなりにくかったかもしれない。しかし情報が伝わっていないことで、子供が犠牲になるニュースは絶えないのだ。
精神障害者移送サービス業の押川剛の本『子供の死を祈る親たち』では「家族の問題」に公的機関や医療機関の介入が難しいとしている。子供の虐待や育児放棄についても、本来尊重されるべき「子供の意思」や尊厳は守られず「親の意思」が第一優先されるのだ。
(略)
貧困、教育現場の荒廃、いじめや虐待などなど、子供を守るための法整備が必要だということは、多くの人が主張している。なかなか実現に至らないのは忸怩たる思いがする。少子化問題が喫緊の問題である以上、この問題は多くの人に考えてもらいたい。本書はそのための必読書であると言える。

自殺してしまった高山裕太君の立場からすると、自らの不運を呪うしかないのだろうか。やはり犠牲者を増やさないために何が必要なのかは、色んなもので勉強していきたい。


子供の死を祈る親たち(新潮文庫)

子供の死を祈る親たち(新潮文庫)

  • 作者:押川剛
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/08/09
  • メディア: Kindle
「子供を殺してください」という親たち(新潮文庫)

「子供を殺してください」という親たち(新潮文庫)

  • 作者:押川 剛
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2015/12/25
  • メディア: Kindle

*1:彼女が、人を惹きつける魅力があることは、裁判中に3人目の夫と結婚していることからも分かる。

努力しなくても音楽は楽しい~岩井澤健治監督『音楽』


アニメーション映画『音楽』特報予告【2020年1月劇場公開】

これは、何だろう。
作中登場人物の森田(古美術)が、3人の音楽を評したように、初期衝動というか、原初的な喜びに満ちた作品になっている。
製作期間7年以上、すべて手描きという製作の裏側を知らなかったとしても、大橋裕之の特徴的すぎる「目」がそのままのキャラクターが、描き込まれた背景の上で動くのは、それだけで面白く、どこか癒される感覚がある。ただ、自分は直前に、1月から始まったアニメ『映像研には手を出すな!』を見て、手描きや絵コンテの上でキャラクターが動く、かなり特殊なスタイルも楽しんでいるので、その点で少し新鮮味には欠けてしまったが、特にクライマックスのフェスシーンなどは大迫力だった。
なお、途中、驚いたのは、バンドメンバーのひとりでリーゼントの太田がサンドバッグに向かってシャドーボクシングをするシーン。実はシャドーボクシングは経験者以外ではすぐにボロが出る。*1アニメとは言え、そのフォームがあまりにちゃんとしていて何だこれは!と思ったが、 HPを見ると、全体的に「実写の動きをトレースする“ロトスコープ”という手法を採用」しているとのことで納得だ。

アニメーション映画『音楽』の原作は、「シティライツ」(講談社)、「夏の手」(幻冬舎)などで人気を集める漫画家、大橋裕之による「音楽と漫画」(太田出版)。楽器を触ったこともない不良学生たちが、思いつきでバンドを組むことから始まるロック奇譚です。

というような説明を事前に読んで知ってはいたが、主人公の研二からは、音楽への情熱は感じられない。だけでなく、努力をしない。自分は『はじめの一歩』のような、ダメな主人公が努力して上達する話が好きなので、それとは正反対だ。
しかし、よく考えてみると、この映画は「努力をしない」ことで成り立っているのではないか、という気がしてきた。
通常、物語は、始める→努力する→挫折する→乗り越える→達成する、という流れで出来ているが、『音楽』は、その展開を避ける。
3人が始めたバンド「古武術」の演奏は、楽器に触ったその日からフェスの日まで何も変わらない。唯一、研二が楽器をベースからリコーダーに持ち替えているが、フェスまでにリコーダーを練習した成果ではなく、単に研二はリコーダーが得意で、リコーダーを吹くのが大好きだったのだろう。
つまり、努力をするから、上達するから、達成するから、音楽は楽しいのではなく、楽器自体に触って音が出ること自体が楽しい。そういうことだろうと思う。
例えば、絵を描いたりスポーツをやることも同じで、実は上達がなくても楽しいことはたくさんある。
自分は、3日坊主という言葉が嫌いだ。それは、何かを始めないことの言い訳として最もよく使われる言葉だからで、自分が何に向いているのか、何が得意なのかは初めてみないとわからない、と思っているからだ。でも、この映画を観て、得意でなくても向いてなくても、もっと「楽しめるかどうか」を重視していい気がしてきた。


ということで、気まぐれに何かを始めたくなるという意味で、素晴らしい映画だったように思います。
ちなみに、観た人は誰もが好きになるだろうと思いますが、森田、いいですね。


なお、岡村靖幸が声で出演ということで、ずっと気にして観ていたら、ここしかない、という場面で登場して、とても納得した。ただ、終わったあとで、ヒロインのアヤを駒井蓮が演じていることを知り、これには無駄遣いでは?という感想を持った。これ、原作はどんな感じなのか、気になる。

音楽 完全版

音楽 完全版

  • 作者:大橋裕之
  • 出版社/メーカー: カンゼン
  • 発売日: 2019/12/09
  • メディア: コミック

*1:これまで観た中で一番しっくりきたのは、『1円の恋』の安藤サクラ

ワンクリックの向こう側~ジェームズ・ブラッドワース『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

労働市場規制緩和や移民政策で先を行くイギリス社会は、 日本の明日(みらい)を映し出している ――ジャーナリスト・横田増生氏推薦
私たちには見えない〝底辺(向こう側)〟の真実

聞こえのいい「ギグ・エコノミー(単発の仕事)」の欺瞞
● アプリ提供者が儲ける「プラットフォーム資本主義」
アルゴリズムという「ビッグブラザー」 の出現
● 成果と行動が監視される中での〝自由な個人〟
● 労働者の基本権が与えられない「パートナー」
● 全員が〝対等な仲間〟と錯覚させる「アソシエイト」
● 〝明るさ〟〝楽しさ〟をアピールして現実を隠蔽

これは「異国の話」ではない
英国で〝最底辺〟の労働にジャーナリストが自ら就き、体験を赤裸々に報告。働いたのはアマゾンの倉庫、訪問介護、コールセンター、ウーバーのタクシー。私たちの何気ないワンクリックに翻弄される無力な労働者たちの現場から見えてきたのは、マルクスオーウェルが予言した資本主義、管理社会の極地である。グローバル企業による「ギグ・エコノミー」という名の搾取、移民労働者への現地人の不満、持つ者と持たざる者との一層の格差拡大は、我が国でもすでに始まっている現実だ。

昨年末に観て、結果としては2019年で一番印象に残った映画となった『家族を想うとき』の副読本として挙げられることの多い本。
翻訳の問題なのか、文化の違いの問題なのか、強くうなずきながら読む部分と、首を捻りながら読む部分が両方あり、途中は飛ばし読みをしてしまったが、内容は刺激的で、非常に勉強になることの多い本だった。

目次を追うだけでも、色々なキーワードが出てくる。

はじめに

  • 第1章 アマゾン
    • ルーマニア人労働者
    • 懲罰ポイント
    • 人間の否定
    • 炭鉱とともに繁栄を失った町
    • ワンクリックの向こう側
  • 第2章 訪問介護
    • 介護業界の群を抜く離職率
    • 観光客とホームレスの町
    • 介護は金のなる木
    • ディスカウント・ストアの急伸
    • 貧困層を狙うゲストハウス
  • 第3章 コールセンター
    • ウェールズ
    • 「楽しさ」というスローガン
    • 古き良き時代を生きた炭坑夫たち
    • 生産性至上主義
    • 世界を均質化する資本
  • 第4章 ウーバー
    • ギグ・エコノミーという搾取
    • 単純な採用試験
    • 「自由」の欺瞞
    • 価格競争で失われる尊厳
    • 労働者の権利と自主性
  • エピローグ

これらのキーワードについて、備忘録的なメモを整理するだけでも大量になってしまうので、以下の3点に絞って本文を引用しつつ思うところを簡単にをまとめた。

  • 生産性と評価
  • 古き良き時代とグローバル
  • 貧困と時間

生産性と評価

映画でも父親が勤務中に身に着けていたが、アマゾンの倉庫では、携帯端末によって逐次行動を管理される。(しかもこの端末が高額…)
労働者は、ミーティングのたびに「アイドル・タイム(怠けている時間)がいかに忌むべきことか」についてライン・マネージャーから指導されるが、そこにはトイレに行くといった些細な行為も含まれ、生産性のためには、生理現象さえ犠牲にしなくてはならない労働状況にある。また、遅刻などに対して与えられる懲罰ポイントが貯まるとクビにされるという仕組みも厳しい。(それも映画にあった…)
ウーバーでは、乗客とドライバーがお互いを1~5の星で評価する評価システムがあり、評価が低い状態が続くと、ウーバー・アプリの使用が禁止される。
ウーバーを利用する側からすると安心な仕組みではあるが、ドライバー側からすれば、数名の厄介な客による低評価で職を失いかねず、ギャンブルのようなところがある。


確かに度を越した怠け者を除外するには、アマゾンやウーバーの評価システムは効果的だろう。
一般企業でも生産性を上げるための評価の導入に熱心だが、それによって、こぼれ落ちてしまうものも多いように思える。ある程度の「あそび」があることが、いわゆる「働き甲斐」を支えているし、評価が大きな影響力を持つと、日々不安を抱えながら働く必要が出てくる。アマゾンの倉庫での状況は、その究極の形を目にした気分だ。

古き良き時代と移民問題

第1章で舞台となるルージリーは、かつて炭鉱の町として栄えていた。ここでの労働党の地方議員の言葉が印象的だ。

40年前、この町にはいい仕事があって、町全体が活き活きとしていた。それに比べたら、いまはひどい状況だ。当時は毎晩、クラブはどこも客でいっぱいで、パブもいつも混み合っていた。町じゅうに人があふれ、どこも活気に満ちていた。いまはまったく別世界になってしまった。若者たちはむかしの町の姿をまったく知らない。経験したことがないんだから、仕方のない話さ。だからといって、それが正しいということにはならない。この状態が正しいはずがない。(P81)

かつての炭鉱の町での現在の最大の雇用主はアマゾンとスーパーマーケット大手のテスコだ。
しかし、アマゾンのひどい労働環境では地元民は誰も働きたがらず、そこで働く人の多くはルーマニア人だった。
本の中では、現在の東欧がどのような状況かについて詳しく触れられているわけではないが、アマゾンで働くルーマニア人の言葉からすると、食べるのにも困る状況のようだ。

ここで動物のように働くこともできます。4日間働けば、240ポンドを手にできる。ここでは、ぼくはただのつまらない人間です。でもルーマニアに戻ったら、ぼくは食事代もないつまらない人間になるんです(p39)

そのような覚悟で移民たちが働くことは、イギリス人の職を奪う(奪うというより残り物をカバーしているのだが)だけではなく、労働環境をどんどん悪化させることに繋がる。

介護の世界でもアマゾンと同じような状況が生まれていることがわかった。多くの介護事業者は、イギリス人労働者には期待できない恐ろしいほどのレベルの服従を東欧人労働者からは得られることを知っていた。私が話を聞いたほかの会社のイギリス人介護士たちによると、東欧からの従順な移民-お金に困り、会社の言いなりになってじっと我慢する人々-に仕事を奪われるという脅威が、介護業界にはつねに蔓延しているという。会社側もその状況を利用し、それとなくイギリス人スタッフに脅しをかけてくることもあった。p143

このような状況の中で、例えば、自分のことに限らず知人や家族が職にありつけない状態にありながら、あずかり知らぬところで移民が大勢働いていることを知ったら、移民を恨めしく思う気持ちが強くなるのはよくわかる。イギリスの世論が、EU離脱に賛成票を多く投じたのは、このような背景があって故のことなのだと理解した。

貧困と時間

また、EUや移民、ひいては地球温暖化のような、規模の大きな問題を理解するのにはある程度の時間をかける必要がある。
この本では、富裕層を除いたイギリス人を、優雅に暮らす「中流階級」と、低賃金労働にあえぐ「労働者階級」に分類しているが、労働者階級には、そもそも時間がないのが大きな問題だ。

中流階級の生活を特徴づける「迅速さと効率」という概念は、多くの労働者階級の家庭には存在しない。貧困はあの手この手で労働者から時間を奪いとろうとする。例えば労働者は、バスや大家が来るのをひたすら待たなくてはいけない。突然、残業を言い渡される。…p87

「時間」は『家族を想うとき』の物語の核となる部分だ。映画の夫婦は、家族のためを想って稼ぎ、稼ぐために時間を使い、ミスを補うためにまた金を使ったにもかかわらず、結局、どの程度が「家族のため」に使われているのかもよくわからない。明らかに非効率な生活を強いられてしまう。
そんな生活をしながら、生活改善よりも広い範囲のことに目を向け、勉強する時間を取ることなどは出来ない。不安定な生活をする国民が増えれば、政治における「国民主権」は、ときに国をどんどん悪い方向に向けて行ってしまうことに繋がってしまうだろう。

次に読む本(継続して勉強していくために)

例えばコンビニフランチャイズの「個人事業主」が、営業時間などについてオーナーと争うニュースを目にすると、日本でもこの本で起きているのと同様の問題がそこかしこに見られることが分かる。
ましてや今やコンビニのアルバイトは外国人留学生なしにはやっていけない状態にあり、「移民」問題も、小規模ながら似た状況にあるとも言えるだろう。
インターネットの発達で、快適さ、便利さが増していく現代社会で、快適で便利な生活は何によって支えてられているのか。時間に少しでも余裕があるのであれば、そこに思いを至らせる必要がある。*1
グレタさんのように、悪い影響を与えるのであれば「便利な暮らし」さえどんどん手放していく、そういう覚悟は今の自分にはないが、ワンクリックの向こう側に常に目を向け、今後も継続して問題について考えて行きたい。
なお、この本では、ルージリーのような地方都市の衰退の一方で、ロンドンへの人口集中による住環境の悪化についても扱われる(第4章のウーバーの舞台はロンドン)。ちょうど『パラサイト 半地下の家族』で扱われていたのも、こういった富者と貧者が隣り合う地域で暮らす社会だった。
これ以外にもサッチャーやイギリスにおけるリベラルなどイギリス政治の話題、ルーマニアポーランドなどの移民についてなど、面白い話題もたくさんあった。EU離脱問題にも興味があるので、もう少しイギリス政治や歴史についても勉強した上で、改めて読み直してみたい。

労働者階級の反乱 地べたから見た英国EU離脱 (光文社新書)

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分解するイギリス: 民主主義モデルの漂流 (ちくま新書 1262)

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潜入ルポ amazon帝国

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*1:そこに目を向けるように、やや上から目線で警告する映画が『アス』だと思う。