Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

何度でも観たい~ポン・ジュノ監督『パラサイト 半地下の家族』

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『パラサイト 半地下の家族』90秒予告


最高の映画だった。よく言われるような後半の怒涛の展開だけではなく、色んな観点から「最高」だった。

箱庭的な世界と作品テーマ

まず、個人的に、空間を実感させてくれるような映画が好きというところが大きい。
家だけなら例えば『シャイニング』や『クリーピー偽りの隣人』等もあるし、もう少し入り組んでいるものなら『千と千尋の神隠し』も好きだった。『カメラを止めるな』も『ゲットアウト』もいい。
だが、それ以上に、もっと広い範囲での地形・空間を楽しめる作品が好きで、ここでも宮崎駿になるが『崖の上のポニョ』、そして『アス』や『君の名は。』もその流れで、家の外まで舞台は及んでいるのに、世界全体が閉ざされた感じ、いわば箱庭感があるのがいいのかもしれない。


『パラサイト 半地下の家族』がさらに優れているのは。まずメインの舞台となるパク社長の豪邸自体、階段、広い庭園、そして地下室等、空間的な広がりが多様であるだけでなく、絵的に美しいということがある。居住空間としての快適性が画面から伝わってくる、まさに「居心地の良さそうな」家だ。
それに対して半地下の家は、トイレよりも低く、道行く人の立ち小便に気を付けなければならない場所にあり、絵的に美しいとはとても言えないし、住みたいとは思えない。


この二つの家を直接繋げて見せる集中豪雨のシーンでは、主人公のキム一家が豪邸から自宅まで走ってみせるが、その間、何度も坂や階段を降り、さらに、怖くなるような勢いで大量の水が「下」に向かって流れ落ちる。
二つの家族の立場の違いを見せつけるだけでなく、清潔なもの、美しいものが上側にあり、そこから脱落した不潔なもの、汚いものは下側に行く、という社会の「動き」までが比喩的に示され、かつ、「下側」では安全性が担保されないことが分かる。そこは、皆が逞しく生きながらも、いつ家や財産を失うか分からない場所でもある。
つまり、舞台の空間的な配置が、物語のテーマと一致している点が、『パラサイト 半地下の家族』の秀でたところであり、自分の個人的ツボをつくところでもある。

二極化と不平等の表現

パンフレットでは、映画評論家の町山智浩さんが、韓国の現状について語っている。

  • 韓国では1997年のIMF通告以降、中小企業が潰れ、非正規雇用が拡大し、大企業に富が集中する構造が出来上がった
  • 2015年の調査によると、国民の1.9%が「半地下」に住んでいる-格差が広がった結果、今の若者たちは「三放世代」(恋愛と結婚と出産の3つを諦める)と呼ばれている
  • さらに、その先の世代として、正規雇用と家をもつことを諦める「五放世代」、加えて友人関係や夢さえも諦める「七放世代」という呼称さえある。

『パラサイト』では、確かに、この2つの層の衝突を描いている。パンフレットから監督の言葉を引用する。

この社会で絶え間なく続いている「二極化」と「不平等」を表現する1つの方法は、悲しいコメディとして描くことだと思います。私たちは資本主義が支配的な時代に生きていて他に選択肢はありません。韓国だけでなく、世界中が資本主義を無視できない状況に直面しているのです。
(略)
今日の資本主義社会には、目に見えない階級やカーストがあります。私たちはそれを隠し、過去の遺物として表面的には馬鹿にしていますが、現実には越えられない階級の一線が存在します。本作は、ますます二極化の進む今日の社会の中で、2つの階級がぶつかり合う時に生じる、避けられない亀裂を描いているのです。

その点では、『万引き家族』や『家族を想うとき』などよりも、『アス』や『ジョーカー』に似ている。
ところが、これら2つのの作品は、いずれもその衝突が大袈裟て、非現実的に感じられた点が不満だった。
二極化は事実だし、両者間の衝突が起きることもあるだろうが、それぞれが連帯することはないからだ。むしろ、現実世界でもっと頻繁に見るのは、「同じ層の中での衝突」だ。
しかも、社会を変えようとする者を、現状維持(貧困容認)派が邪魔するという形が、日本では最も多く見られるように思う。
『パラサイト』では、(『ジョーカー』や『アス』では描かれなかった)まさにその種の衝突が描かれている。再び町山さんの言葉を引用する。

グンセとキム家は互いの足を引っ張り合い、殺し合う。貧しい者同士が力を合わせて豊かさを目指した高度成長期は終わったのだ。
(略)
豊かになる希望がないグンセは金持ちのおこぼれに頼るしかないからパク家を「リスペクト」し、階級を這い上がろうとするキム家を邪魔する。

乗っ取ろうとした家に、既に別の「寄生家族」を見つけて争いになる、という中盤の「驚きの展開」は、単に作劇上だけでなく、作品のテーマを強く反映したものになっている。

配役と印象的な台詞、そして終わらせ方

そして、役者が素晴らしかった。
どの俳優も印象的なだけでなく、個性が配役と一致している。


まず、豪邸に住むパク家。美し過ぎる社長夫人と、可愛すぎる一人娘を支えるに値すると思わせる、声も顔もダンディでカッコよく仕事のできそうなパク社長。なお、やんちゃで時にエキセントリックな弟もおり、よく考えると、『アス』と同じ家族構成だ。
パク社長の奥さんが、英語を挟みながら話をするのが、ハイソサイエティな可愛さ表現として、印象に残る。


そして、ある意味、物語の核となる「臭い」まで漂うような生活感溢れるキム一家。ソン・ガンホは、いわばいつも通りだが、主人公となるキム・ギウ(役者はチェ・ウシク)がいわゆるハンサムな顔立ちではないところが良い。なお、こちらも『家族を想うとき』と同じ家族構成(我が家と同じ家族構成)だ。
キム家は皆、印象に残るが、家政婦になったお母さん(チャン・ヘジン)と、元家政婦(イ・ジョンウン)が立場の入れ替わりに合わせて、見栄えが大きく変化するのが良かった。


そんな中、やはり最も心に残ったのは、キム父が、避難所で息子に語る言葉。

「何かプランは?」長男の問いに父ギテクは答える。「何もプランはない。そうすれば失敗しないで済む」その言葉には、人生設計して努力しても裏切られてきた韓国の庶民の諦めがにじみ出ている。(再び町山さんの文章より引用)

町山智浩さんがパンフレットに寄せた文章はタイトルを「それでもプランを、夢をあきらめない」としているが、まさにラストシーンと直接繋がる重要なセリフだ。
この映画のラストは、予定調和的に無理にハッピーエンドにするものではないし、逆に、痛すぎる現実を突きつけるものでもない。そして、ラストで示されるギウの考え方は、まさに「資本主義」に毒されたものになってしまっており、ある意味では「間違い」だ。
しかし、観た側としては、現実を見据えながら強い気持ちを持ち、未来を良いものに変えていこうという気にさせられる作品だった。


勿論、ポスターや音楽も良かったし、wifiの電波を探すオープニング、食事シーンも良かった。語り切れないところが沢山ある。
今年、これ以上に面白い作品はないのではないか、と思いつつ、2020年もたくさん映画を観ていこうと思う新年初映画となりました。

責任と無責任と~杉山春『ルポ虐待-大阪二児置き去り死事件』×是枝裕和監督『万引き家族』

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

2010年夏、3歳の女児と1歳9カ月の男児の死体が、大阪市内のマンションで発見された。子どもたちは猛暑の中、服を脱ぎ、重なるようにして死んでいた。母親は、風俗店のマットヘルス嬢。子どもを放置して男と遊び回り、その様子をSNSで紹介していた……。なぜ幼い二人は命を落とさなければならなかったのか。それは母親一人の罪なのか。事件の経緯を追いかけ、母親の人生をたどることから、幼児虐待のメカニズムを分析する。現代の奈落に落ちた母子の悲劇をとおして、女性の貧困を問う渾身のルポルタージュ

昨年末から読んではいたものの、2020年最初に読み終えたのはこの本でした。
ケン・ローチわたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』*1からの流れで観た映画 是枝裕和万引き家族』と合わせて、一連のテーマの作品を立て続けに見ているので、併せて思うところを書きたいと思います。

怒り

同じ事件を扱い、おそらく実際に元ネタにしているであろうこの本を読んでしまうと、山田詠美『つみびと』は相当に読みやすかったように思います。
というのは、『つみびと』では、主人公や母親は、ダメ人間ではあるが、ダメ人間なりに同情を誘うような文章になっていたのに比べて、ルポルタージュとして書かれているこの本にはそれがないからです。
特に、2人の子の死亡と、それを放置した芽衣さん(仮)の行動が描かれた1章は、彼女に対する同情よりむしろ怒りを喚起します。
二人の子どもが死んでしまう一連の流れは、本当に信じられません。

  • 最後に顔を見たとき、既に二人の健康状態が損なわれている-にもかかわらず、50日放置し、遊びまわる
  • 異臭がするとの連絡が入り、50日ぶりに部屋に赴き、惨状を目のあたりにする
  • その後、混乱しながら知人向けにいくつかの電話をしたあと、それでも恋人とホテルに
  • 翌日逮捕

特に子どもの死を確認して以降の行動は、解離性障害の知識がなければ不可解過ぎます。
児童虐待の事件はあまりニュースを追ってみることがなかったので、この事件の報道のされ方もあまり知らないのですが、おそらくテレビを見て多くの人が感じたことを自分も追体験したのだと思います。
『つみびと』での予備知識があってさえ、1章を読んだ自分には、2人が死んでしまった彼女の責任が重いと感じるだけでなく、彼女の行動に怒りを覚えたのです。

誰が二人を救えたのか

しかし、2章、3章で、彼女の中高生時代から結婚まで、そして、両親との関係を知り、4章で離婚を巡る経緯を知ると、彼女への怒りの気持ちは揺らぎます。*2*3
特に、4章で長くページを割かれている「家族会議」のシーンが辛く、一審判決でも裁判長による以下の発言があったようです。

被告人が離婚して子供らを引き取ることが決まった際、子供らの将来を第一に考えた話し合いが行われたとはみられず、このことが、本件の悲劇を招いた遠因であるということもでき、被告一人を非難するのはいささか酷である。p183

「母親は自分は子どもが育てられないと言ってはいけない」という価値観の中で行われた話し合いでは、有無を言わさず、(しかも全員の前で誓約書まで書かせて)芽衣が2人の子どもを引き取ることに決まってしまうわけです。
しかも、夫側は、養育費を支払わない。


さらに、離婚後しばらく経ってから、インフルエンザに罹った子供を預かってほしいという、という芽衣の願いにも、元夫は「仕事が休めないから」と断ります。
「私たちのことはなかったことにしたいのかと思いました」(p216)という芽衣の言葉通り、ギリギリの生活の中で、彼女の両親も元夫の家族も、誰の助けも得られない状態だったのでしょう。


それでは、誰が二人を救えたのかという疑問に対して、この本では公的サービスの果たした役割についても検証しています。
これに対する本書の回答は、「公的サービスもギリギリの中で少しずつ改善しているが、圧倒的に予算が不足している」ということになります。
例えば、児童虐待ホットラインの電話を受け付ける児童相談所では、相談件数は増えてもそれに見合う職員の数が増えません。また、見逃しを防ぐため、通報があった場合には徹底的に聴き込みをするように決められる等、「きちんと役割を果たしているか」というチェックの目が児童相談所を追い立てます。すると、「子どもはちゃんと育てているか」という視線が、さらに母親を追い詰めるわけです。

このままいけば、子どもが泣いたら、通報されるからと子どもの口を押える母親が出てくるかもしれない。p56

という児童相談所職員の言葉は現実味を帯びています。


そんな中での著者の杉山春さんの主張は、最終章である「第5章 母なるものとは」に明確に書かれています。

芽衣さんは、離婚の話し合いの場で、「私は一人では子どもは育てられない」と伝えることができれば、子どもたちは無惨に死なずにすんだのではないか。そう、問うのは酷だろうか。だが、子どもの幸せを考える時、母親が子育てから降りられるということもまた、大切だ。少なくとも、母親だけが子育ての責任を負わなくていいということが当たり前になれば、大勢の子どもたちが幸せになる。p265

『つみびと』を読んでも、『ルポ虐待』を読んでも、「元夫」が出来ることがたくさんあったのではないか、と誰もが考えると思います。
つまり「父親がもっと責任を負うべき」ということで、このあたりには、昨年読んだ姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』など、一連のフェミニズム小説と同種の感想を持ちました。

是枝裕和監督『万引き家族

万引き家族

万引き家族

  • メディア: Prime Video

年末に観た『万引き家族』は、端的に言えば、(芽衣さんと同様に)積極的に応援できないダメな大人たちが子どもを育てる映画でした。
彼らは、非合法なやり方ながらも「疑似的な」家族として逞しく生きていました。
そして、後半部の展開から言えば、そこに「絆」はなかったし、解体可能なものでした。
万引き家族で描かれる「家族」のあり方は、芽衣さんが(そして『万引き家族』の「りん」の本当の母親が)責任を背負い込んだのとは対照的です。
勿論、無責任であってはいけないけれども、責任を背負い込む、背負わせることが、より「家族」(特に母子)を生き辛くさせているのは間違いありません。
そうであれば、「公的サービス」も「地域」も、皆がそれにあたる「周りの人々」も、どんどん「母親」や「家族」を見る目を変えていく必要があるというのが『ルポ虐待』の杉山春さんのメッセージだと受け取りました。
しかし、実際には、他人に求める数々の「自己責任」視点が、どんどん社会全体の生き辛さを増しているように思います。
社会を良くしていくための法制度の土台の部分に影響を与えていくのが本や映画の大切な役割であり、それをしっかり受け取り、考え方を見直していくのが、本や映画を享受する自分たちの役割なのではないかと改めて思いました。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:また改めて書くこともあると思いますが、2019年に観た19本の映画の中でベスト映画が『家族を想うとき』でした。2位、3位は『スパイダーマン:スパイダーバース』『主戦場』です。

*2:この部分について、『つみびと』では、被告人(芽衣)と、その母親に焦点を当てて描かれましたが、この本では、母親については、問題を抱えた人物であることは分かりますが、その家庭背景にまで触れられてはいません。

*3:また、「芽衣さん」は、高校教師でラグビー部の顧問としての活動に心血を注ぐ父親が、非行に走る中学生の娘を更生させる話としてテレビ番組にも出演していたということで驚きました。

2019年一番面白かった小説~砥上裕將『線は、僕を描く』

そろそろ2019年も終わりが近づいてきましたが、今年一番面白かった小説に出会えました。
直前に見た映画『家族を想うとき』から真逆に触れる内容のため、やや過大評価な気もしますが、自分は、結局こういう前向き青春小説が大好きなことを自覚しました。

線は、僕を描く

線は、僕を描く

  • 作者:砥上 裕將
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/06/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


きっかけ

まず、本を知ったきっかけから。
この本は7月に出た本ですが、何と言っても「あの」メフィスト賞受賞作ということで、気になりました。
メフィスト賞と言えば、森博嗣西尾維新、最近では早坂吝や柾木政宗など、正統派ミステリとは一線を画す、「変なミステリ」が多い賞で、過去にも多くの作品を好んで読んでいます。
それなのに、どうもミステリではなく、青春小説らしいということにまず驚きました。
そして、さらに、題材としているのが「水墨画」で、著者自身が水墨画家というところに二重の驚きがありました。
で、結局、読みたいと思い続けて後回し後回しにした結果、この年末に読むことになったわけです。

あらすじと名言

あらすじはこんな感じです。

両親を交通事故で失い、喪失感の中にあった大学生の青山霜介は、アルバイト先の展覧会場で水墨画の巨匠・篠田湖山と出会う。なぜか湖山に気に入られ、その場で内弟子にされてしまう霜介。それに反発した湖山の孫・千瑛は、翌年の「湖山賞」をかけて霜介と勝負すると宣言する。
水墨画とは、筆先から生みだされる「線」の芸術。
描くのは「命」。
はじめての水墨画に戸惑いながらも魅了されていく霜介は、線を描くことで次第に恢復していく。


もう、これはずるいとしか言えないけれど、水墨画の小説を読むのが初めてなので、表現の使い古し感が薄く、読書体験自体が新鮮に感じました。
喩えるならば、初めて『美味しんぼ』を読んだときの感動に近いですが、『美味しんぼ』のような蘊蓄型に偏らず、水墨画の知識を入れていく流れが、とても自然で素晴らしいものとなっています。
最初は、アルバイト先として水墨画に初めて触れることになる主人公の青山君ですが、彼は生きようとする意識が希薄で、篠田湖山の突然の「内弟子宣言」を受けても、水墨画について能動的に調べたりしないのです。通常であれば、漫画でもドラマでも、それをきっかけに主人公が水墨画について調べ、その流れで読者も水墨画の基礎知識を仕入れていくことになるはず。
しかし、青山君は、知識ゼロで湖山先生のもとを訪れ、謎かけのような湖山先生の教えを受けながら少しずつ水墨画についての知識を得ていきます。
読者としては、それ以外に、青山君の同級生である古前君や川岸さんに千瑛が教えるシーンや、西濱さんと青山君の会話の中からも、水墨画について理解を深めていきます。


最初の講義での湖山先生の言葉は強く印象に残ります。

「でも、これが僕にできるとは思えません」
「できることが目的じゃないよ。やってみることが目的なんだ」
p51

「水墨の本質はこの楽しさだよ。挑戦と失敗を繰り返して楽しさを生んでいくのが、絵を描くことだ。」
p53


以降、湖山先生や登場人物の名言。まず、二回目の講義での湖山先生の言葉。

いいかい。水墨を描くということは、独りであるということとは無縁の場所にいるということなんだ。水墨を描くということは、自然との繋がりを見つめ、学び、その中に分かちがたく結びついている自分を感じていくことだ。その繋がりが与えてくれるものを感じることだ。その繋がりといっしょになって絵を描くことだ。
p67


西濱さんも。

「何も知らないってことがどれくらい大きな力になるのか、君はまだ気づいていないんだよ」
「何も知らないことが力になるのですか?」
「何もかもがありのまま映るでしょ?」
p81

千瑛も。

水墨画はほかの絵画とは少し違うところがあります(略)
線の性質が絵の良否を決めることが多いということです。水墨画はほとんどの場合、瞬間的に表現される絵画です。その表現を支えているのは線です。そして線を支えているのは、絵師の身体です。水墨画にはほかの絵画よりも少しだけ多くアスリート的な要素が必要です。(略)
それからもう一つ、その線の性質というのは生まれ持ったものがあります。たくさんの線を眺めていると、それがどんな気質のどんな性格の持ち主が描いたのか、というところまで推察することができるようになります。(略)人の声に似ています。
p128

再び湖山先生。

「才能やセンスなんて、絵を楽しんでいるかどうかに比べればどうということもない(略)
絵にとっていちばんたいせつなのは生き生きと描くことだよ。そのとき、その瞬間をありのままに受け入れて楽しむこと。水墨画では少なくともそうだ。筆っていう心を掬いとる不思議な道具で描くからね。
p141

芸術の本質的何か

という風に名言を振り返りながら読み直して、やはりこの小説の面白さは文章にあることを再確認しました。
読後しばらくたって思い返したとき、色々なご都合主義的展開やキャラクターの立ち方も含めて、とても「漫画」的で、流れるようなストーリーの巧みさに、この小説の本質があると、自分の中で位置付けていました。
しかし、読み返してみると、むしろ、流れるようなストーリーの中に、主人公の精神的な恢復と、何より「芸術の本質的何か」が、織り込まれているところが、この小説の凄いところです。


水墨画の単なる「分かりやすい解説」を入れていくなら誰でも出来るのかもしれません。
しかし、芸術家が、作品に何を込めているのか、何が作品の価値を決め、評価されるのか、という部分は、やはり、その芸術に長い時間をかけて向き合った者にしか分からないのでしょう。例えば、最初から芸術家然としておらず、「頼りになるお兄さん」キャラだった西濱さんが、初めて筆を握ったとき、その作品から青山君が受けた衝撃を、説得力を持った言葉で表現することは、誰もが出来ることではありません。
それは、翠山先生や湖山先生のような巨匠が描くときの描写も同じで、相当の筆力がなければ、その人物像と合わせて作品の特徴を細やかに表現していくことはできないでしょう。


そして、最初に「ミステリではない」と書きましたが、湖山先生が青山君にかける言葉の中に数々の「謎」が含まれていて、青山君の恢復過程とともに、その謎が解き明かされていくのは、実は、とてもミステリ的と言えるのかもしれません。
水墨画ではないですが、芸術を扱った小説は多く、今年映画化もされ、続編小説も出た恩田陸蜜蜂と遠雷』などは未読なので、これらの作品が「芸術の本質的何か」をどう描いているのかも気になりました。
なお、既に2巻まで出ているコミック版も気になります。というのは、実際の水墨画のビジュアルが出てこないことが、小説の強みだと感じたからです。
漫画では、その手法が取れず、それだけでなく、どうも、一部(すべて?)の水墨画を、著者の砥上裕將さん自身が描いているということで、是非そちらも見てみたいです。

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(下) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(下) (幻冬舎文庫)

祝祭と予感

祝祭と予感

線は、僕を描く(1) (講談社コミックス)

線は、僕を描く(1) (講談社コミックス)

線は、僕を描く(2) (講談社コミックス)

線は、僕を描く(2) (講談社コミックス)

線は、僕を描く(3) (講談社コミックス)

線は、僕を描く(3) (講談社コミックス)

辛いけどそれが現実…なのか~山田詠美『つみびと』×ケン・ローチ『家族を想うとき』『わたしは、ダニエル・ブレイク』

キングオブコメディ』を観て一度収束したはずの『ジョーカー』評の補足を、また改めて書いてしまいました。
今年観た映画では、『アス』も『ボーダー』も社会の分断を描いてはいるけれど、あくまで比喩としてなので、そこまで違和感はありませんでした。『ジョーカー』の描き方は、ギリギリまで直接的に分断を描いておきながら、最後にスルリと逃げる感じがして、そこが嫌だったのではないか、と、同じく直接的に現代社会のことを描くケンローチの映画と、直前に読んでいた本のことを思い出して綴ってみました…。

山田詠美『つみびと』

つみびと (単行本)

つみびと (単行本)

特に書かなかったが、『ジョーカー』を観る直前に山田詠美『つみびと』を読んでいた。
『つみびと』は、「大阪二児置き去り死事件」という呼び名で知られる実際に起きた事件を題材にした本で、『彼女は頭が悪いから』と同様、周辺事実や取材から関係者の内面に踏み込んで描かれた小説ということになるだろう。
山田詠美が、このような小説を書くのは初めてなので、そこに興味を持って本を手に取った。


語り手が複数いる小説はいくつかあるが、『つみびと』が特殊なのは、その語り手が、母(琴音)ー娘(蓮音)ーその息子(桃太:幼児)という3代の親子であるということだ。
勿論、悲惨な最期を遂げる桃太の描写はひたすら健気なのだが、平行して語られる母娘の生い立ちは、そろって家庭環境に問題がありキツい。
虐待が親から子に連鎖するということは、よく話に聞くし理解した気になっていたが、実際の話として読んでしまうと、「虐待の連鎖」という言葉が背後に抱える重い現実に打ちのめされる。
人生に絶望し、毎回「生まれ変わる」ためにリストカットを繰り返す琴音もきついし、蓮音が、ミスターチルドレンの「フェイク」を歌いながら2人の子どもの面倒を見て「なんとか今日を生きてる」のを見るのも辛い。
タイトルの「つみびと」は吉田修一『悪人』などと同様、誰が一番の「つみびと」なのかを問いかける内容だが、蓮音を除けば、子どもたち二人の餓死の直接の引き金になったのは、父親(蓮音の夫)である音吉とその両親だろう。
蓮根に育児能力がないことが分かっているのに、別れる際に、彼は子ども達を引き取らない。「血」を怖れて。
結局、蓮音は、たった一人で問題と向き合う(もしくは向き合わない)しかなく、このような結末を迎えるしかなかった。
本当に救われない話でやるせないが、それと同時に、自分の住む世界と地続きの現実が描かれていることに暗澹とした気持ちになった。


『ジョーカー』も確かに、やるせない現実が描かれており、その意味で、自分は電車内の事件までは、熱中して観ていた。
しかし、ジョーカーフィーバーとテレビ出演は、自分にとっては地に足のつかない「現実離れ」した展開で、それが『つみびと』を読んだ直後の自分には受け入れにくかった。
しかも、ラストで、物語の構成にフェイクが入ることは、不誠実に思えた。

ケン・ローチわたしは、ダニエル・ブレイク

わたしは、ダニエル・ブレイク (字幕版)

わたしは、ダニエル・ブレイク (字幕版)

  • 発売日: 2017/09/06
  • メディア: Prime Video

「わたしは、ダニエル・ブレイク」予告編


わたしは、ダニエル・ブレイク』は、誰かの『ジョーカー』評の中で言及があった映画として興味を持った。
実際、公的サービスを求めて面談する場面など、絵的にも似ているシーンがある。
しかし、『ジョーカー』との比較で言うと、映画の色が出ているのは、「お役所仕事」過ぎる役所の対応と複雑すぎる制度にうんざりした帰り道、壁に「わたしは、ダニエル・ブレイク」と描く場面。
ここで、周囲の見知らぬ人たちが彼の意見に同調する。映画全体の中でも、辛い生活を送っている人たちの連帯を感じる良い場面だ。
しかし、決して、それが社会全体を巻き込んで運動にはなることはない。社会の熱(フィーバー)となった『ジョーカー』に比べると、こちらの方が現実に近い。少なくとも、日本社会で感じる限り、『ジョーカー』の終盤の盛り上がりは圧倒的にファンタジーだ。(おそらくイギリスは日本と似ている部分があるのでは?)
皆、自分が生きることに精一杯で、「社会を変える」ということ自体に関心を持てずにいる。


ただし、ダニエル・ブレイクは、自分が苦しい中でも、(元々見ず知らずの)シングルマザーのケイティを助けてあげる。助けることで自らも救われる。

ダニエルが教えてくれたこと
隣の誰かを助けるだけで、人生は変えられる

映画のキャッチフレーズになっているが、まさにこれこそが映画のメインメッセージであり、メッセージだけで言えば、先日見た『殺さない彼と死なない彼女』にも近い。
映像は過酷な現実をひたすら描き続けるが、登場人物たちがお互いを助け合う気持ちが、物語を明るく照らす。
そう、『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、「後味の良い」作品だったのだと思う。

ケン・ローチ『家族を想うとき』


ケン・ローチ監督最新作『家族を想うとき』12.13(金)公開/90秒予告篇

舞台はイギリスのニューカッスルターナー家の父リッキーはフランチャイズの宅配ドライバーとして独立。母のアビーはパートタイムの介護福祉士として1日中働いている。家族を幸せにするはずの仕事が家族との時間を奪っていき、高校生の長男セブと小学生の娘のライザ・ジェーンは寂しい想いを募らせてゆく。そんな中、リッキーがある事件に巻き込まれてしまう──。

ちょうど我が家は、夫婦に中学生の長男、小学生の妹というリッキーの家と似た家族構成。言うことを聞かない長男と、しっかり者の妹、という子ども2人の性格も似ていて、仕事の都合をつけられるかつけられないかで喧嘩することもあるので、全く他人事には思えない話だった。*1


『家族を想うとき』で描かれるイギリス社会は、さらに辛い。
ダニエル・ブレイクでの引退を撤回して、この作品を作ったのは、より現実が厳しくなっていることへの危機感からなのだろうか。
二つの作品の比較で言えば、前作で強調されていた「見知らぬ人同士で助け合う」シーンがあまり出てこないのが特徴的だ。

  • リッキーは、宅配の仕事に穴を空けて他のドライバーに助けてもらっている部分もあるのだが、そこは具体的には描かれない。
  • リッキーの妻アビーは、介護福祉士として、色々な人の手助けをするが、「仕事」としての側面がより強調されている。
  • そして家族同士での助け合いは、いつもすれ違ってしまう。共働きのふたりがあまりに忙しいためだ。

リッキーのその後を予見するように、宅配会社でマロニー(本作で一番の悪役)に罵倒されていた男性ドライバーは「14日間連続勤務だぞ!」と憤っていたが、彼もまたいっぱいいっぱいだったのだろう。
怪我をしたリッキーが訪れた病院にかかってきたマロニーからの電話に、妻アビーがブチ切れてみせるシーンでは、ダニエル・ブレイクだったら、待合室の患者から同情・共感の声が聞けたかもしれない。しかし、周囲の患者は遠巻きに見つめるだけ。周辺の登場人物も皆がギリギリの生活を送っている空気が満ちている。
ダニエル・ブレイクで描かれた過酷さをさらに厳しくして、優しさを感じる部分を大幅に減らした(「家族愛」に絞った)のが『家族を想うとき』だと思う。


また、『わたしは、ダニエル・ブレイク』にも『家族を想うとき』にも万引きの場面が出てくるが、両者の扱いは少し異なるように感じた。
ダニエル・ブレイクでは、人としての尊厳を守るためには、万引きや売春をしてはいけないという線引きがある。真っ当な仕事をして暮らすことが尊厳を守るために重要なのだ。
しかし、『家族を想うとき』では、「真っ当な仕事」自体が、変質してきていることの方にスポットが当たる。リッキーとアビーが従事する仕事は、むしろ、万引き以上に人間の尊厳を奪ってはいないか、という疑問を投げかける。


それが一番胸に突き刺さるのが、溜息が漏れてしまうようなラストシーンだろう。『わたしは、ダニエル・ブレイク』は「オチ」のある映画だった。「オチ」があることで、観客は、映画の世界からログアウトして、すぐに現実世界に切り替えることができる。
しかし、『家族を想うとき』には「オチ」がない。
色々なことが起きてしまったあとなのだから、正直、自分は、リッキーが宅配ドライバーを辞めて、家族と一緒に過ごす時間を大事に出来る新たな職を探す、という形で終わるものだとばかり思っていた。そうすれば、とりあえずの「オチ」がつく。
しかし、そうはならない。リッキーは、宅配ドライバーを続けることを選んでしまう。*2


ここにこそ、現実との「地続き感」を最も感じたし、自分がリッキーの立場だったら、と考えると、同じ行動を選択してしまうかもしれない…と、唸ってしまった。
ダニエル・ブレイクのように独り身で高齢であれば、違う考え方もあるだろうが、リッキーは、アビーとともに家族を養わなくてはならない。
そういった家族構成の違いもあるが、リッキーの家族がこんな事態に陥ったのは、このような形での雇用が蔓延している社会の側に問題があるのではないか。そういう社会批判が前作に比べて明らかに強くなっている。
観終えてしばらく考えてみると『家族を想うとき』は、「怒り」の映画だったのだなと思った。


まとめると、『つみびと』『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』の3作に流れる「地続き感」に、自分は打ちのめされたし、構成やルックも含めてカッコ良過ぎる『ジョーカー』にはそれが欠けていることが不満だったのだと思う。
そして、映画は次の一歩を踏み出しやすいメディアだと思うので、関連書籍もしっかり押さえてもう少し社会問題を考えていく必要があると思った。

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)


*1:役者も4人とも良かったが、特に、長男セブの、本当は優しいのに気分にむらのある性格が印象的。極端に低い声が、思春期の不安定な感情を上手く表現するだけでなく、(リッキーを悩ませるような問題を起こす度に「何でお前…」と)観客の苛々を募らせた。

*2:だからこそ、ラストシーンの前に出てくる「Sorry,We Missed You」(宅配便の不在票の決まり文句)という原題が効いてくる。

映画のメッセージに、そして、撫子ちゃんの告白11連発にやられました~『殺さない彼と死なない彼女』

www.youtube.com
(↑これは良い予告編!長回しの楽しさもあり、変なネタバレもなし)


これは大好きな作品となりました。
元々、『国家が破産する日』を見るタイミングで、映画comでの高評価に釣られ、『ひとよ』と合わせて候補に挙がったのがこの作品。
その際に、桜井日奈子間宮祥太朗が主演+漫画原作だが泣ける、という情報を仕入れ、それ以上の情報は入れないようにして劇場に観に行きました。

長回し

色々な部分で撮影が特殊で、無意味に引き伸ばす長回しや、逆行気味の太陽の映し方、焦点の移動など、何となく素人っぽくもあるのですが、映画の内容にはとても合っていたように思います。
特に、会話シーンの長回しは効果的で、八千代君と撫子ちゃん、きゃぴ子と地味子、そして、鹿野と小坂、2人の会話(とモノローグ)は、長回しであることで、とても緊張感を保ちながら伝わってくるものとなりました。
長回しで好きなのは、鹿野が校門に向かって走り去り(オタク走り)、画面上では小さくなってから校門を跨いで越えていくまでが映される場面。鹿野の可愛さが詰まっています。

口調

特に撫子ちゃんに顕著ですが、「〜だわ」等の非現実的な「女言葉」の多用、また、小坂や鹿野が連発する「死ね」「殺す」は、いかにも漫画っぽくて、作品によっては白けてしまうようなセリフ回しですが、この作品には合っていたように思います。(同じように、身振りやせりふ回しが漫画過ぎるのにわざとらしさが気にならない麻雀映画『咲-Saki-』を思い出しました。)
特に「殺すぞ」の連発は、パンフレットの解説で、斉藤孝(なぜこの人選?)が語っている通りです。

でも決して語彙が少ないわけでも、愛情が枯渇しているわけでもない。むしろ彼は語彙が豊富だし(略)。照れくささもあり、うまく距離感がつかめず、むしろ距離の近さの親愛の情としての「殺すぞ」。クラスの女子に「消えろ」と言う際のそれとはまったく意味が異なることからも、言葉は関係性の中で初めて意味を持つものだ、ということがわかります。

斉藤先生の言うとおりで、後半になればなるほど、鹿野と小坂の「殺すぞ」「死ね」「死にたい」は愛情表現であることが観ている側にも伝わってきて、むしろその台詞を聞いて2人が愛おしくなるほどです。

3組のふたりの話とその繋ぎ

八千代君と撫子ちゃん、きゃぴ子と地味子、そして、鹿野と小坂、 3組のふたりの話は、ほぼ別個のものとして話は進み、最後に予想外の形で繋がる、というのが、この映画のひとつの仕掛けになっています。しかし、その3話が並行して進む構造自体は、最後までほとんど意識せずに見進めることができたのも良かったです。
話のバランスも良かったし、同じ学校での出来事ということで、連続性があるのでしょう。
デートの帰り道、田んぼのあぜ道で、撫子ちゃんが上から目線で八千代君を説得するシーンは、かなり突然だったので違和感がありましたが、そこからの「未来の話」には、長回しの雰囲気もあり、泣いてしまいました。
そして、この「未来の話」こそが映画全体のメッセージであることが、終盤にわかってきます。
「未来の話」をする小坂→鹿野、そして、鹿野→撫子の場面、これらは、いわば「ネタ晴らし」の機能を果たすのですが、そのこと以上に、そのメッセージに感動しました。
そのことこそが、この映画の一番すごいところだと思います。(その後、原作漫画も読みましたが、基本的には原作通りの映画でありながら、付け足し部分に非常に大きな意味を持たせていることがわかりました。)


この映画のメッセージは、自分が誰かを救おうとした言葉が、結果的に他の誰かを、もっと多くの人を救うことになるかもしれない、ということなのだと思います。
死んでしまった人であっても、その残した「思い」は、色々な人の励みになる。だからこそ「死んでおしまい」とするのではなく、死ぬギリギリまで人と関わり合うことが大切なのでしょう、
このあたりは、オリジナル・ラブの「bless You!」という曲で歌われていることとも繋がって来ます。

俳優陣

映画を観に行った当初の目的のかなりの部分が桜井日奈子(鹿野)だったのですが、そこも期待通りでした。 
そう、この映画のすごいところは、桜井日奈子は、本当に最後の最後まで、「ブス」なところ全開で、仏頂面で変な喋り方をするオタクに徹しているところです。そこにわざとらしさ(あざとさ)を感じずに観ることができたのは、彼女の演技が上手いのか、映画としての演出の巧さなのかは分かりません。
むしろ、ラストシーンで登場する大学生になった鹿野は、CMに出ている桜井日奈子過ぎて、可愛さの代わりに、鹿野としての魅力を失っていると思いました。


いや、それ以上にその他の3人の女優が素晴らしかったです。ルックはあまり似ていませんが、同じ高校生活を追った作品として『桐島、部活やめるってよ』を思い出しました。
橋本愛みたいな地味子(恒松祐里
山本美月みたいなきゃぴ子(堀田真由)
松岡茉優みたいな撫子(箭内夢菜
特に、撫子ちゃんは、告白11連発を観てしまったので、好きにならずにいられない存在です。1月からの『ゆるキャン』のドラマでは犬山あおい役で出演するようなので、楽しみに待つことにします。


間宮祥太朗は、初めて見たのですが、この人も存在感がすごいです。
直後に『帝一の國』を観たのですが、こちらも金髪ロン毛の漫画過ぎるキャラクター、氷室ローランド役を、実在感を持って演じていました。
ジョジョの奇妙な冒険』の映画次作がもしあれば、出てほしい存在です。(あと、『帝一の國』は、ふんどし太鼓シーンがすごかった笑)


ゆうたろうは、普通の男子高校生役として、そして撫子ちゃんが恋する相手として、はまっていました。
ゆうたろうと聞くと、これまで石原裕次郎のモノマネの人を思い出してしまいますが、自分の記憶のメモリーを更新しました。

パンフレット

最後にですが、パンフレットがとても良かったです。
糸電話、桜、蜂をデザインした表紙の印象が最高であるのに加えて、伏線回収を図に整理してあったりして、映画を思い返すにも役に立ちます。
そして、撫子ちゃんをはじめとする出演者インタビューもあり、ページをめくるのが楽しいです。


12月はこれが最後かな。あと一本くらい観たいですが…。

殺さない彼と死なない彼女 (KITORA)

殺さない彼と死なない彼女 (KITORA)

  • 作者:世紀末
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/03/23
  • メディア: 単行本

この本でしか得られない視点がある~山崎ナオコーラ『ブスの自信の持ち方』

ブスの自信の持ち方

ブスの自信の持ち方


山崎ナオコーラさんの小説は、これまで何冊か読んでいます。
心の奥底に深く刺さるような作品を書くわけではなく、社会派テーマをぶち上げて世に問いかけるようなタイプではないですが、自分にはとてもピッタリくる、生活について、人について考えたくなる、そういった印象を持っていました。
そんなナオコーラさんが、小説ではなく、エッセイでどんなことを書くのか。荻上チキのSeesion22で何回かに分けて、この本の紹介で出演していたのを聞き、興味を持ちました。
読み終えて一番印象に残ったのは、番組で聴いたときと同じで、この本のメインの主張です。
曰く、

違う、と私は言いたい。「ブス」は個人に属する悩みではない、社会のゆがみだ。社会は変えられる。(あとがきより)

「ブスと言われた」という私の悩みは、決してコンプレックスではなく、社会へのうらみだ。劣等感に悩んでいるのではなく、社会がおかしいから悩んでいる。正直、自分が変わるよりも、社会を変えたい。p268

自分は完全に、コンプレックスの問題だと混同していたので、言われてみれば、そうなのか!と腑に落ちました。
また、誰もが美しくありたいと思っている「はず」というのも一種の思い込みで、そこに重きを置く人もいればそうでない人もいる、という当たり前のことに気づかされた思いです。


山崎ナオコーラさんが、このテーマを選んだ理由は、2004年のデビュー時に、Y新聞のインタビュー記事に載った写真に対して、「おぞましい中傷や卑猥なからかい文句」が躍り、本人が非常に悩んだ経験によります。*1
このY新聞の写真については、本の中で繰り返し取り上げられていますが、相当大変な思いをされたのかと思います。


この本のスタンスとしては、ナオコーラさんが女性の代表や「ブス」の代表として発言しているのではなく、あくまで、彼女自身の考え方を整理しているということです。
これにとどまらず、差別と区別、痴漢、強者と弱者、左と右などのテーマについて、書かれた文章は、どこかのテンプレ的な言葉ではなく、ナオコーラさんの考え方が非常に伝わってきます。
面白いのは、フェミニズムに関して、彼女が女性=弱者という考え方をかなり嫌がっているということです。
以下の文章には、まさに自分を言い当てられたような気になりました。

性別についての文章を発表していると、男性読者から「女性から怒られたい」という欲求を持っているのを感じることがよくある。「男性は駄目だ」「女性は素晴らしい」「女性は頑張っているので、男性に応援してもらいたい」「女性を理解し、男性に変わってもらいたい」といった叱咤激励の文章を男性読者から求められている雰囲気がある。おそらく、「男性対女性」という簡単な構図を描き、それが逆になるように頑張っていく、というストーリーだと、わかりやすいからだろう。
p246


ナオコーラさんは、女性が強者になっている(自らが差別する側になっている)場面も思い起こしながら、何が問題なのかを、広過ぎない範囲で考えていこうとします。
痴漢の問題も、基本的には、自らの経験をベースにして語っていることで、テンプレ感のない内容になっていると思います。
杉田水脈の『新潮45』での「生産性がない」という発言についても触れていますが、主語を大きくし過ぎません。
このあたりの距離感が、全体として文章を読みやすくしているのですが、かといって「社会を変えたい」というナオコーラさんの思いとも矛盾しないことに感動しました。



あとがきにも書いてありますが、彼女が「自分はブスだ」と書くのは、「ブスですが、文章がうまいです」という、(英語が喋れない、○○が不得意などと同様に)単なる不得意分野を示したものに過ぎず、むしろ「文章がうまいです」ということを主張したいのだと言います。
これに呼応するように、最後の著者紹介には次のように書いてあります。

目標は「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」


『ブスの自信の持ち方』は、まさに、山崎ナオコーラさん独自の視点に溢れた、彼女にしか書けない内容だと思いました。
社会を変えることを、政治に期待し過ぎない。そこではないところからでも社会はきっと変わって行ける、そういう希望に満ちた文章でした。
エッセイもですが、山崎ナオコーラさんの小説も、もっと読んでみたくなりました。

*1:勿論、デビュー作の『人のセックスを笑うな』というタイトルが、小説を読まない人の興味を惹いたのでしょう。

全く他人事に思えない韓国映画~『国家が破産する日』


『国家が破産する日』予告編


観終えたあとは、溜息が出てしまいました。1997年の韓国の通貨危機を描いた映画ですが、終着点が12/3のIMFとの覚書締結で、ちょうど映画を観たのと同じ日付(11/20)の場面も登場するので、季節的にはまさに地続きです。それだけでなく、政府がひたすらに資料の開示を拒み、経済指標をいじってまで経済の好調をアピールし続ける現代日本*1では、とても他人事として見られない怖さがありました。映画が終わっても映画の世界から抜け出せない感じです。
「選挙を控えたこの時期に、国民に破産の可能性なんて言えない」等、作中の官僚側の人物の台詞は、霞ヶ関で何度も交わされているように思えました。


その後、改めて公式HPを観直してみると、ストーリーのあれこれよりも「キャラ立ち」が強い映画でした。HPから引用します。

韓国銀行の通貨政策チーム長ハン・シヒョンは、政府が楽観的な見通しを語る中、国家破産の危機を予測し、対策を考える人物だ。保守的な官僚社会で女性への偏見と闘いながら、強い信念と専門知識で危機に対応する彼女は、国民に現状を知らせるべきだと主張する。中小企業や庶民の側に立つ彼女の姿は、危機のとき本当に必要な人は誰なのかを考えさせる。
かたや、危機に乗じて経済構造改革を主張する財政局次官のパク・デヨンは、エリート主義的思考でハン・シヒョンと事ごとに対立。またIMF専務理事は、韓国政府に過酷な支援条件を提示して一切の譲歩を拒否し、圧倒的な緊張感をもたらす。
金融コンサルタントのユン・ジョンハクは、世間の危機を自分のチャンスと見る。勤務先に辞表を出し、顧客を集めてギャンブルのような投資に乗り出した彼は上昇気流に乗るが、自分の予想を一寸も外れない政府を苦々しくも思う。
そして政府の発表を素直に信じたばかりに苦境に陥るガプスは、当時の平凡な庶民を代表している。
映画『国家が破産する日』オフィシャルサイト

中でも財政局次官のパク・デヨン。
出た直後から「感じ悪い」オーラが漂う人物で、物言いも考え方も官僚的、説明に「保守的な官僚社会で女性への偏見と闘いながら」とあるように、彼からの主人公へのセクハラ含む言動には本当に苛々します。
映画のラストでは、20年後、つまり2017年の韓国が描かれますが、普通の映画なら落ちぶれているはずの悪役にあたる彼は銀行のCEOとになっており(彼の腰巾着と一緒に)成功者として描かれます。このあたりもリアルで本当に嫌な感じです。竹中平蔵的なポジションでしょうか。


また、どこまでがフィクションなのか分かりませんが、IMFとの覚書締結ギリギリになって、主人公のハン・シヒョンが、IMFの背後にアメリカが手を引いていることに気がつき、これを機会にアメリカが韓国市場に手を広げようとしていることを追及するシーンが印象的です。
ハンの前に立ちふさがる大ボス=IMF理事のヴァン・サン・カッセルが、また別の「嫌な感じ」を出していました。


物語は韓国政府とIMFとの協議の舞台裏以外に2つ、合計3つのストーリーラインで作られます。
まず、ピンチをチャンスに変えようと積極的に行動する金融コンサルタントのユン・ジョンハクの話。もう少し深みのある話に繋がることも期待しましたが、危機に乗じて儲ける人もいた、というエピソードにとどまっていた感じです。でもユン・ジョンハクを演じるユ・アインの笑顔が素敵だったので良しとします。
そして、町工場のガプスの話は、本当に辛かったです。結局「国に騙される」かたちになった彼は家族を置いて飛び降り自殺を考えるシーンもあり、本当にドキドキしました。しかし、20年後、彼が生き残って工場を続けていたのには救われたし、映画全体の前向きな印象を強めました。

そう、悪が裁かれずにのさばる結末という、勧善懲悪とはかけ離れた内容にもかかわらず、20年後の3人が、1997年と変わらない考え方で生きているのを見ることで、観て言いる側も「やってやろう」という気持ちになれる映画になっていたと思います。


事実を踏まえた全体のまとめについては、ニューズウィーク大場正明さんの映画評論が、非常にまとまっていてタメになりましたが、この記事の中では最後にハンとユンの言葉が引用されています。

ユン「政府はIMFを選ぶ。連中は市場原理主義者です。危機を脱する際も、大企業や財閥が何とか生き残れる方法を選ぶでしょう。金融支援を要請して、それを口実に大々的に構造調整を進める。危機を機会として利用し、富める者を生かす改革を試みるはずです」
ハン「貧しい者はさらに貧しく富める者はさらに富む。解雇が容易になり非正規雇用が増え、失業者が増える。それがIMFのつくる世の中です」
韓国通貨危機の裏側を赤裸々に暴く 『国家が破産する日』 | 大場正明 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

つまり、政府は大企業を守ろうとし、IMFも貧富の差を拡大する政策を取ろうとする中で、国民は、これらのプレーヤーの基本的な姿勢を念頭に置いて慎重に選択していくべきということでしょう。20年前の出来事とはいえ、韓国政府だけでなく、IMFも米国も敵に回す内容となっており、やっぱり韓国映画は凄いなと思わざるを得ませんでした。

ちょうど、国会では「桜を見る会」のゴタゴタの中で、日米貿易協定が衆議院を通過していますが、自動車関税についての交渉内容は不明で、韓国政府がIMFとの覚書締結について、ギリギリまで伏せていたのと重なります。韓国の歴史について学ぼうという気持ちで映画を観に行きましたが、改めて日本の問題点を意識せざるを得ない映画でした。日本映画も『新聞記者』の「その先」のレベルに行っているものが観たいです。



なお、関連作品する韓国映画として、今年観た『工作』と合わせてセットで語られることの多い以下の映画も早く観たいです。



また、これを含めた韓国の歴史については『知りたくなる韓国』が読みやすかったので復習しておきたいですが、併せて、大場正明さんの記事でも紹介されていたIMFのノンフィクションも読んでみたいですね。

知りたくなる韓国

知りたくなる韓国

IMF 上

IMF 上

IMF〈下〉―世界経済最高司令部20ヵ月の苦闘

IMF〈下〉―世界経済最高司令部20ヵ月の苦闘

下半期の映画ランキング

今年下半期(7月以降)に観たのは8本となりました。
ランキングを付けるとしたら以下の通り。(上3本は順位が付けがたい感じです)
あと2本くらい観られたら幸せだなあ。

  1. ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
  2. 工作 黒金星と呼ばれた男
  3. ボーダー二つの世界
  4. 国家が破産する日
  5. アス
  6. ジョーカー
  7. 天気の子
  8. 新聞記者

*1:明石順平さんの『国家の統計破壊』を少し前に読んだので怖いです