- 作者: 大塚英志,ササキバラゴウ
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2001/05
- メディア: 新書
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先日のエントリで言いたかったことの一部は、大塚英志が本文中で語るタイトルの意味の中にも表れている。
目の前にある一つの書物や作品を以下に読み継いでいくか、というとても当たり前の努力や試みこそが、崩壊したとされる「教養」*1が決定的に欠いていたことのようにも思えます。だからこそ、ぼくたちにとってのまんがやアニメがただの「知識」や「薀蓄」としての「教養」と化していってはならないという自戒を込めて、本書は『教養としての<まんが・アニメ>』と名づけられました。P8
表面的な魅力だけでなく、作品がかたちになるまでの試行錯誤の過程や、ルーツ、ジャンル全体の過去・歴史に敬意を持って触れることこそが、作品への「愛情」なのだ、と自分は思ってしまうのだ。
言い訳も含めて書くが、過去の作品をすべて読破しているとか、登場人物や台詞をすべて覚えているなどという物理的な問題は、「愛情」の先にあるものだ。知識ではなく「姿勢」が問題だ。
面白い作品に触れれば、周辺知識や歴史背景に必然的に目が向く、そういう嗜好のベクトルこそが、「愛情」の発露としてまずあるべきだろう。
「愛情」進化のイメージ(ジャンル問わず)
1.周辺知識への興味 ⇒ 2.同一ジャンルでの知識拡大 ⇒ 3.カルトQ的知識
大塚英志が「教養」として説く部分は、実は1⇒2の過程の部分だと思う。
コチラで岡田斗司夫がガンダム芸人としてのU-turnの土田、品川に「心許せない」「信じられない」*2と考えるのは、そこの部分だろう。ここで彼らに求められているのは2⇒3の部分なのかもしれないが、「愛情」は、詰め込み知識によって測られるものでは決してない。
ちょっと前に行われた「ラオウの葬式」も含めて、なんだか、そこら辺の「おたく」の感覚が、ずれてきているのかと思う。それこそ、そこには大塚英志が説く「教養」は全く無い。*3行けば「ファン」のお墨付きを与えてあげるよというような、話題づくりのイベントにノコノコ出かけていくことが、かえって「愛情」の無さを自ら示しているように思える。
なお、本書だが、「アトムの命題」(死に行く身体をどう描くか)と、その先にある「フロルの選択」(女性性をどう描くか)の問題を軸に戦後から2000年代までの漫画を紐解く大塚英志の「第一部 まんが論」は圧巻。一方「第二部 アニメ論」を担当したササキバラゴウも、虫プロと東映動画の話からガイナックスまで、アニメの表現技術と主題について、わかりやすい言葉で説明されており、非常に読みやすかった。
図書館で借りた本だったが、手元に置きたい一冊かも。