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「経済成長」を前提としない里山生活〜『里山ビジネス』

里山ビジネス (集英社新書)

里山ビジネス (集英社新書)

前回の「TBS RADIO 文化系トークラジオ Life」のテーマは、驚きの「経済成長」だったが、最後まで、メインの3名の意見が一貫しており、経済成長に対する態度が平行線を辿ったのが印象的だった。

  • 「経済成長って幸せな感じがしない。成長よりも、家に早く帰って家族との時間を大事にしたい」論で押し切る「反」経済成長の森山裕之さん(1974年生まれ)
  • 「国をうまく回していくには経済成長が大前提」と説く経済学者・飯田泰之さん(1975年生まれ)
  • 「“(経済成長なんていいから)そこそこの暮らしでいい”と思っている人の“そこそこ”のレベルはかなり高く、「反」経済成長の論拠にならない」と、森山さんのような意見に苛立ちを隠さないcharlieこと鈴木謙介さん(1976年生まれ)

経済については、身近な部分もあるだけに感覚にずれがあり、基本的な認識を一致させないと、その先の議論に一歩も進めないことがよくわかった。3人の中では、メインゲストの飯田泰之さんの話が分かりやすかったが、それ以上に、専門外の議論でも、基礎的な知識は持ち合わせた上で、滞りなく番組を進めたcharlieの手際のよさ、頭のよさが際立った回だと思う。
一方で、1974年生まれ、子持ちのという共通点の多い森山さんの、理論よりも実感を優先する物言いに共感する部分も多かった。仕事のために家族との時間をギリギリまで切り詰めたり、ストレスが原因で長期休職している人が身の回りにもおり、そういう話を聞く度、何のための仕事なのか?と自問自答してしまうからだ。
また、世界のニュースなんかを見ると、次はいつ国へ帰れるか分からない中、家族への仕送りのために単純労働に精を出す中南米や東南アジアの出稼ぎ労働者の話などもよく扱われている。それを見て、自分が恵まれていると思うと同時に、そういう人の存在を前提としている現代社会はどこかおかしいのではないか?という疑問を強く感じてしまうのだ。
放送中、「ああそうか」と思ったのは、「サザエさん」的な、一家団欒で夕食食べて・・・みたいな家族イメージは、時期的にも限られるし、そういう幸せを享受できたのおく一部であるという指摘。*1確かに、「理想の家庭」としてではなく「一般的な家庭」として、あのイメージがあることが、自分の生活を顧みたときに辛く感じてしまう原因にはなっていると思う。
ただ、「昔」や「海外」との比較の中で「今ココ」の暮らしがそんなにひどいほどでもない、と指摘されるのは、自分にとって何の救いにもならないのが嫌だが。


ここら辺で本題に入る。『里山ビジネス』でも、森山裕之的な「経済成長への疑問」は前提としてある。

経済こそ、拡大しなければ持続しない、最たるものです。
毎年、経済成長率の数字が示され、それはプラスであることを求められます。
しかし、地球上のすべての国と地域が、つねにプラスの成長率を示すことがあり得るでしょうか。
拡大する経済は、かならず衝突し、争いを生みます。それでも強者の拡大する経済を弱者が(臨まないにせよ)吸収する余地があった二十世紀まではまだしも、かつて弱者だった国々が立ち上がってその経済を急速に拡大しはじめると、資源も環境も、これ以上は持続できそうもないことが明らかになってきます。(P159)

本書の中で、何度も指摘されるように、企業活動は、そもそも拡大のモーメントを内包しており、有限な資源と環境の制約条件がある以上、(いくら「持続可能」のお題目を唱えてみても)それが真に持続可能かどうかには、かなりの疑問符がつく。
それでは、「持続可能」な生活(ビジネス)とはどのようなものか?作者が辿り着いた里山生活〜熊が徘徊する里山の森(八ヶ岳)の一角に個人で立ち上げたワイナリーとレストラン「ヴィラデスト」に、その答えの一端があるのだという。
(具体的な里山生活については、本書を参照してください。)


この「持続可能なビジネス」のイメージがある程度、具体化しているのが、この本の見どころだ。
正直に言えば、本書を読む前は、団塊世代引退後の「セカンドライフ」に対して感じるような、また「ロハス」という言葉に対して感じるような薄っぺらいイメージを「里山ビジネス」に対しても感じていた。しかし、以下のような内容を読むにつけ、何らかの答えがそこにはあるのかも、という気持ちは強くなった。

農業的な価値観にもとづく里山ビジネスでは、できるだけ拡大しないで持続することが大切です。
これは机上で考えると難しいことのように思われるかもしれません。
ふつう、拡大の目標をもつとき人は高揚しますが、持続だけを目標とするには、強い意志か、さもなければある種の覚悟ないしは諦観が必要です。(P145)

「覚悟ないしは諦観」という言葉は、かなり重いものである。拡大を前提としない生活は、死ぬまでの勤労と、上がる保証のない給料をも意味しているからだ。

里山の暮らしに学ぶ里山ビジネスは、新しい企業のありかたや持続可能な開発の可能性を示唆しています。
しかし、問題は、おそらく死ぬまで、ずっと働き続けなくてはならないことです。
企業規模が拡大しない里山ビジネスでは、上に立つ経営者もラクはできません。トップも部下と一緒に、いつまで経っても同じように働かなければならないのです。
(中略)
(ヴィラデストの場合、拡大しようにも物理的に限界があるため)その場合、経営者はよいとしても、雇用されるスタッフも給料がかならず上がっていく保証がないわけですから、モチベーションを保つにはどうしたらよいのか。
(P155)

これに対して、作者は、ブルターニュの塩掻き職人を例にあげ「職人的仕事観」が、こういった里山生活を支えるのだとしている。

カネを稼ぐためにやっている仕事でも、カネを稼ぐことだけを目的とは考えず、その過程である仕事の作業そのものによろこびを見出すのです。(P158)

これに対しては、自分の中にもさまざまな反論がある。仕事の作業そのものによろこびを見出すことができ、かつ、「そこそこのカネ」を得られる仕事自体が限られるし、そもそも、「よろこびを見出すことのできない作業」というものが確実に存在し、そういうものほど低賃金しか得られないという現実がある。逆に、たとえば農業という仕事によろこびを見出すことができたとしても、(それだけでは)カネを稼ぐどころか生活費もまかなえないという状況が実際にある。
結局、ここで持続可能として挙げられている「里山ビジネス」などというものは、たまたま成功した理想論だ、という風にも言ってしまうこともできる。
それでも、里山ビジネスが魅力的に思えてくるのは、里山での「生活」の描写が非常に魅力的であるのと同時に、一生を里山生活に捧げる作者の「覚悟ないしは諦観」というものも強く感じるからだ。そして、地球規模で世界を考えたときにも、今の都市生活の延長に「持続可能性」は未だ見えてこず、全く新しい技術革新がなければ、一部の人は都市生活を捨てる(里山生活などへ移行する)必要があるのではないか、と思えてくるからだ。

それによって私たちが生まれた、それがなくては生きていけない、私たちがその一部であるところの自然。その自然とうまく折り合いをつけながら、この里山で永続的な暮らしを営むこと。
この里山における私たちの営みを、世界のさまざまな思惑や駆引きと関係なく、画然として自立した姿のまま、次の世代に手渡すこと。
それが私の願いです。
(P185〜あとがき)

あとがきを読んでも、作者の視点が、ビジネスとしての通常考えるスパンよりもかなり長い、一世代、二世代後までに渡っていることが窺える。
自分が里山生活に関わることはないのかもしれないが、こういう取り組みは応援したいし、自分の属する組織に応用できるところを取り入れて行ければと思う。そして、是非、八ヶ岳にあるワイナリー・ヴィラデストには行ってみたい。

http://www.villadest.com/

*1:part6で「中流イメージ」の功罪について語られている部分→http://www.tbsradio.jp/life/2008/10/928part6.html