- 作者: 堀井憲一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/07/17
- メディア: 新書
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『落語論』と大きく構えたタイトルではあるが、落研出身であり、信じられないほどの数の落語をライブで見続けている著者の気合とプライドも随所に感じることができる落語評論である。
以下、読後感について、本文を引用しながら綴る。
落語はライブの中にしか存在しない。
聞く側からすれば、ライブで聞かないと意味が無い。
演者が、目の前にいる客に向かって話しかけてるときに初めて成立するのが落語である。
(略)
だから目の前にいる人たちを何とかしたい、という気持ちが落語そのものなのだ。
この部分が、結局は本書の主張の中心にある。
このあと、「落語を聴かせられるのは300人までだ、とよく言われる。」「1000人を超えると落語が届かなくなる」とあるが、やはり音楽でも、ホール、ましてや武道館でのコンサートに迫力を感じないのは似た理由からだと思う。しかし、落語を生で聞いたことのない自分が、こういう文章を延々と読むのは少しつらい(笑)
落語は体験である。身体で受け入れないと、感じることができない。あらすじ本は「落語は言語である。言語から落語はわかる」という方針で作られている。絶望的なおもいちがいである。落語側が主張すべきなのは、落語の文学性ではなく、身体性なのだ。P36
「第一部 本質論 2 意味の呪縛を解く」では、以下のように無い無い尽くしで、落語とは何かを突き詰めて行くが、それはすなわち、落語の語り口を狭めて行くこと、つまり批評していく側としては、自分で自分の手を縛っているようなものだ。
- 「正しい原文」はない
- 演題は符牒にすぎない
- 客はネタを選べない
- 名前は個人のものではない
- 登場人物の名前も意味がない
- キャラクターという幻想
- わかりやすいものだけが人の世ではない
- サゲの分類は無意味
- サゲがなくても落語は成り立つ
- ストーリーもない
- あらすじにも意味がない
- 落語の神さまはセリフに宿る
- フレーズに惹かれる
しかし、こうして、演じる側から見た落語と、観る側=批評する側から見た落語を往復しながら論じていくところが、この本の面白さ。両方があるから説得力が増す。
しかし、こうも「体験」だ「ライブ」だ、などと言われると、それ以外の方法はどうなのかと聞きたくもなるが、それについては非常に面白い、そして非常に共感できる指摘があった。
CDで落語を聞いているときは、情報が欠如しているのを意識しているために、欠如部分を補助しようと、落語そのものに近づいてゆく。落語に参加しようとする。ところが映像を見ると落語がほぼすべて再現されているとおもっているから、受け身で見てしまう。もともと欠如した情報であるのに、その欠如を埋めずに、本人が落語に参加しなくなる。それで落語に近づけるはずがない。P48
これはまさにその通りで、映像になると途端に集中できなくなることはよくある。というか、自分は音楽DVDを真面目にCD1枚分の時間見たことが無い。*1逆に、(最近は流石に少ないが)CD一枚くらいであれば、DVDよりも数倍集中して聞くことができる。落語はCDだと身振りが分からないので不利だと思いつつも、やはり映像があれば、集中力が切れるだろう。自分も、ソフトの内容ではなく、媒体自体の問題があるのだと思う。
演者は、客との融和を常にめざしている。
(略)
だから、エネルギッシュな落語家は、みな、客の気を読んでいる。元気な落語家ほど空気を気にして、和を考えている。客との和を気にしていない落語家は、まず元気がない。自分がうまくできたかどうかだけチェックしてるだけだから、エネルギーを生み出す要素がないのである。どこでも同じだ。人と和するためにエネルギーが必要であり、人と和すればまた大きなエネルギーが生まれる。P67
これまで音楽との比較で述べてきたが、この部分は、そのまま人と人とのコミュニケーションに当てはめて考えることが出来る。だから、自分なんかには耳の痛い部分だ。
「元気がない」「大きなエネルギーが生まれる」という表現がいい。元気というのは、自分を鼓舞して捻りだしたりするものではなく、他人との融和の中に生まれると考えれば、重要なのは心持ちや考え方ではなく、上っ面であっても、人との会話こそが、元気の素なのだろう。
何をもって落語をうまいと言うのか、万人の納得する答えはない。
うまさも評価も、各自、すべて自分で決めるしかない、ということだ。それはきわめて個人的な評価であり、人に認めてもらえないかもしれないが、各自がそれを自分で抱えているしかない、ということである。P157
好き嫌いの地平を越えて、まったく平等に落語を見ることは、地上の存在にはほぼ不可能である。越えようとすると、好き嫌いを抱えたまま、上からの視点の発言ばかりになる。神の視点だ。しかもおそろしくわがままな神の視点である。(略)
もし、客観的な批評が必要ならば「さほど落語を愛していないのに、おそろしい量の落語をライブで聞き、落語の歴史と知識を半端なく持っており、しかも冷静で客観的に分析ができるきちんとクレバーな人間」にやってもらうしかない。P168
ここら辺は、客観的に語る難しさについて書かれている。だからと言って、そこに甘えている訳ではなく、本書にも実名の落語家たちが出ているが、過剰に偏らないようにしようとしている作者の配慮を感じる。
また、こういった難しい点を踏まえて、敢えてなお落語を語るのだから、落語に関する非常に高いプライドを感じる。
人の作品を批評することの難しさと楽しさが伝わってくるだけでなく、せっかく東京近辺にいるのだから、落語をライブで聞きに行きたくなる一冊だった。
もう少し耳が肥えたらまた読みたい。