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「答え」を求めないラストが素晴らしい〜梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』

僕は、そして僕たちはどう生きるか

僕は、そして僕たちはどう生きるか

梨木香歩は『西の魔女が死んだ』の印象があまり良くなかったので避けてきた。
例によって内容は忘れてしまったものの、当時の感想を読みなおすと、ダメだった理由は期待が高すぎた点と、期待の方向性が誤っていた点で、それ以外には「自然っていいよね」的なロハスっぽい雰囲気を感じてしまったところもあったようだ。


今回久しぶりに読んだ『僕は、そして僕たちはどう生きるか』は、今は亡き(親友の)おばあちゃんが守っていた屋敷の森などの自然を舞台として、14歳の迷える主人公コペル君の生きる道を探っていく、というストーリーで、もしかしたら西の魔女に似ているところも多いのかもしれない。
しかし、それほど拒否感を覚えなかったのは、何よりもまずは過大な期待をせずに臨んだから。また、『西の魔女が死んだ』を読んだ頃以降、いくつかの女性作家の作品を読んで、それらの作品の読み方(物語への期待の仕方)が分かってきたのも大きい。
ここでいう男性作家、女性作家の典型的なイメージは以下の通りで、この分け方では『僕は、そして僕たちは〜』は、いかにも女性作家的な作品だった。(勿論、確たる根拠があって言っているわけではなく、自分の読んだ限られた冊数の本からの印象論です。)

  • 最後に辿りつくかどうかは別として、ここではないどこかにある、何か明確な形のゴールを目指すのが男性的
  • 別世界にゴールを設定するのでなく、今ある身の回りの現実社会の中で他人との関係性にテーマを持ってくるのが女性的

思えば、30過ぎるくらいまで読む本がほとんど男性作家のものだったため、その差を他の人より強く感じているのかもしれない。(逆に、思い込みが激しくなっているのかもしれない)



(以下ネタバレ含む)



この作品のテーマは、「集団」の中で、「大勢」の中で、「人はどう生きるか」というもの。
テーマに対して複数の事例、複数のアプローチを経ながら、コペル君が「僕はどう生きるか」を掘り下げる。それによって、読者すなわち「僕たち」も「どう生きるか」について問いかけられるのだ。

  • 開発の流れに逆らって、自然を守ることに力を注ぐユージンのおばあちゃんのエピソード
  • 徴兵拒否のため、大勢の目から逃れ、洞穴に籠って終戦を迎えた米谷さんのエピソード
  • コペル君とユージンで屋根裏部屋で夢中になって読んだ少年倶楽部の中で、当時の「普通」が一斉に変わっていくことへの違和感
  • 同じく、ヒトラーを賞賛して自国に迎えた戦時中の日本への違和感
  • ユージンがひよこのときから飼っていたニワトリの「コッコちゃん」にまつわるエピソード(命の教育と称して、熱血教師によって調理されてしまう・・・)
  • AV監督の書いた十代向けの一冊(「よりみちパンセ」シリーズあたりを意識?)に影響されて誤った行動選択をし、人生に絶望するインジャのエピソード

この中で米谷さんのエピソードは、戦争と集団というテーマの中では中心に来る内容で、この本のタイトルも彼が洞穴の中で考えていた内容そのままである。(p179)
しかし、最もメインとなるエピソードは、コペル君にとって、我が身がバラバラになるほどの辛い思いをした実体験である「コッコちゃん」の話だ。
親友のペットが殺されてしまう状況を、自らの愛犬「ブラキ氏」(ゴールデンレトリバーの愛称)と重ねて考えることで、ただでさえ辛い思い出に向き合うコペル君の後悔はより際立ち、読む者の胸を強く打つ。その思い出は、当時の判断ミスだけでなく、今の自分が「親友さえ裏切って大勢の側につく人間」(p243)であることを自覚することに繋がるから、コペル君にとって、「人生で初めて遭遇するくらいの、クライシス」に陥ってしまったのだった。


なお、インジャのエピソードは、ファンタジーからほど遠く、衝撃的なインパクトを与える悲惨な内容だが、メインではない。この部分は作品全体を通しても異質で、13章と14章の間に挟まるようにして「インジャの身の上に起こったこと」と題された章は、ここだけがブロック体で書かれており、「あとで知ったこと」という扱いのため、物語の時系列からも浮いてしまう。作品のメインテーマからも少しずれていて、これを除いても基本的な物語は成立するのだが、やはり必要な話だ。
これを置くことで、ラストのコペル君がいうような「群れの体温みたいなものを必要としている人たち」が明確になるだけでなく、戦争という巨大すぎるテーマよりも現実のものとして、切迫感を持って考えることを促す。だから、物語の中心にどーんと重しのように残ってくる。


暗いエピソードも多いこの物語で一番良かったのは終わり方だ。途中のコペル君の言葉にもあったように、答えを得ることよりも考え続けることに重きを置きつつ、最終的に辿りつきたい場所は一応明示されるのがいい。そして、自分が誰かの支えになることを目指していく姿勢がまぶしい。
自分も考え続けて生きる道を選びたい。そして「ここが君の席だよ」と、ときを逸せず言えるようになりたい。

僕はショウコみたいなヒーローのタイプじゃない。
けれど、そういう「群れの体温」みたいなものを必要としている人に、いざ、出会ったら、ときを逸せず、すぐさま迷わず、この言葉を言う力を、自分につけるために、僕は、考え続けて、生きていく。


  やあ。
  よかったら、ここにおいでよ。
  気に入ったら、
  ここが君の席だよ。


その他考え続けるコペル君の軌跡。

  • 僕が「どっきりカメラ」みたいなものにもつ嫌な感じは、それなのかもしれない。実験している感じ。対等な場所からでなく、相手より安全な場所から、その相手を観察している感じ。やってる本人に明確な悪意はないんだろうけれど、その「無邪気さ」を隠れ蓑にして、人を笑いものにする。そう、こいつのことみんなで笑おうよ、みたいな妙ななれなれしさと媚び。人一人犠牲にして簡単に仲間意識を捏造しようとするお手軽さと無理矢理さ。笑いの質の不健全さ。演出する方にも見せられてつい笑う方にも、後ろめたさみたいなものが必ずあると思う。後味の悪い笑い。p39
  • 大勢が声を揃えて一つのことを言っているようなとき、少しでも違和感があったら、自分は何に引っ掛かっているのか、意識のライトを当てて明らかにする。自分が、足がかりにすべきはそこだ。自分基準で「自分」をつくっていくんだ。他人の「普通」は、そこには関係ない。p144
  • 群れのために、滅私奉公というか、自分の命まで簡単に、道具のように投げ出すことは、アリやハチでもでやる。つまり、生物は、昆虫レベルでこそ、そういうこと、すごく得意なんだ。動物は、人間は、もっと進化した、「群れのため」にできる行動があるはずじゃないか p189
  • あそこにいた人間の中で、君がどんなにコッコちゃんを可愛がっていたか、僕ほどよく知っていた者はいない。僕は、裏切り者以外の何者でもないじゃないか。そうだ。僕は軍隊でも生きていけるだろう。それは、「鈍い」からでも「健康的」だからでもない。自分の意識すら誤魔化すほど、ずる賢いからだ。p223


次は当然これを読まなくてはいけないわけだが…。(読みました→吉野源三郎『君たちはどう生きるか』感想

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

参考(過去日記)

既読本では、生態系や地球の歴史を踏まえた上での自然観という意味で、長野まゆみ『野川』と共通する部分があったように思う。ただし、『僕は〜』で登場するのは川ではなく池だけ。流れていかずに溜まっていくような物語の雰囲気は、そういった舞台設定にも関係があるのかもしれない。
→-心の教育と想像力〜長野まゆみ『野川』


ズバリ徴兵拒否の話も含め、全体的なテーマとしては、江川紹子『勇気ってなんだろう』にかなり近いものを感じた。自分の考えを殺して大勢の中に埋没するのではなく主張することを大切にするという点を、さまざまな事例から掘り下げるアプローチも含めて。あと、主要登場人物にショウコも出てくる。(笑)
中学生は当然、大人にもオススメの本〜江川紹子『勇気ってなんだろう』


そして、考え続けることを大切にするというメッセージは、河合香織『帰りたくない 少女沖縄連れ去り事件』の角田光代の名解説でも書かれていたことだ。「解答例」を見つけてすぐに溜飲を下げるのではなく、どんどん疑問点(ブラックボックス)を増やしながら、考え続けて行くことが重要だ。
考え続けることこそが「今を生きること」〜河合香織『帰りたくない 少女沖縄連れ去り事件』


一方、『西の魔女が死んだ』の悪印象は、冒頭に述べたとおりだが、もしかしたら教訓めいたことが多くて、長い説教を聞くのが疲れてきた生徒みたいな読後感だったのかも…と思えてもきた。それにしても“うな丼食べに来たら「ゆば」出されたみたいな感じ”という批判の仕方は酷い。
梨木香歩『西の魔女が死んだ』