Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

十和子の脳内キャストはこの人だ!〜沼田まほかる『彼女がその名を知らない鳥たち』

八年前に別れた黒崎を忘れられない十和子は、淋しさから十五歳上の男・陣治と暮らし始める。下品で、貧相で、地位もお金もない陣治。彼を激しく嫌悪しながらも離れられない十和子。そんな二人の暮らしを刑事の訪問が脅かす。「黒崎が行方不明だ」と知らされた十和子は、陣治が黒崎を殺したのではないかの疑い始めるが…。


表紙や挿絵で出てこないのに、小説の登場人物のビジュアルイメージを強く持って本を読むことがたまにある。
特に、直前に読んでいた漫画や、見たばかりの映画やドラマ、アニメに影響されるパターン。
今回も、最重要人物である佐野陣治は、登場直後から、先日最終回を迎えたばかりのアニメ『レクリエイターズ』のキャラクター「大西にしお」をイメージしていた。(⇒http://recreators.tv/character/19/
とても軽くて調子に乗りやすく、相手を不快にさせるタイプの人物で、イメージは近いと思う。


そして主人公の十和子。


このタイミングでなければ、十和子のビジュアルイメージを、「この人」に当てはめることは無かっただろう。
十和子のイメージを重ねた人物が、実在の人物で、あまりにインパクトが強烈な人だったため、自分でも、これでいいのか?この人でいいのか?と思いながら最後まで読み進めてしまった。


ところで、この文章を書いている途中に、映画化の話を知った。10.28公開とのこと。
映画「彼女がその名を知らない鳥たち」公式サイト
当然気になるキャストだが、陣治は阿部サダヲ。これは納得の人選。
問題の十和子は蒼井優


うーん。


蒼井優では、儚(はかな)すぎる。もっと強烈で病んでる感じの人の方がいいし、「可愛い」という感じをギリギリまで削ぎ落さなければならないと思う。
また、蒼井優のせいで、あと二人の主要キャストが引っ張られているのも気にかかる。
確かに、8年前の恋人である黒崎については、竹ノ内豊くらいカッコ良くても良い。
しかし、まさに今の不倫相手である水島が松坂桃李なのは違うだろう。水島は、もっとダメっぽい人に決まっているはずじゃないか。今回、主演を蒼井優が務めてしまったが故に、それに釣り合う相手を持ってきて全体的にレベルが上がってしまったのだと思う。
映画コピーでも書かれているように、もともとは、主要キャラクター4人が全員共感しにくい、好きになれない、いわば最低な人たちの物語だったのだ。それが、蒼井優を中心に据えることで、不快感のレベルが下がってしまっているように思う。
ちゃんと不快感を保てる人物を真ん中に据えるべきだった。


ということで、そろそろ自分の脳内キャストをそろそろ書くと、十和子は、ズバリこの人。


豊田真由子議員。


「このハゲー!」という音声で一躍有名になってしまった豊田真由子議員が3か月ぶりに姿を現した「涙の会見」を見た直後に、この本を読み始めたので、まさに、このタイミング以外では、成し得なかった「配役」だ。


最初に書いておくと、自分は、豊田真由子議員に対して強い怒りを感じてはいない。
ヒステリックで、怒っている自分にすら酔ってしまうナルシスト。
その性格の難点が、吉田戦車の「いじめてくん」みたいな秘書によって倍増して、あのような恥ずかしい失態に繋がってしまったのではないか、その程度に感じている。
(暴力云々の話は当事者でないと分からないので、ここでは触れない)


読み進めてみると、実際には自分が世話になっているはずの陣治に対して、湧いてくる怒りをとどめることができずに、罵詈雑言を繰り返す十和子というキャラクターは、豊田議員にとてもよく似ているように思う。
年齢的には少し上になってしまうが、美人度という観点から言えば、豊田真由子議員くらいがちょうど合っているように思う。(繰り返すが蒼井優では美人過ぎる)


基本的には、この話は、読者が陣治を嫌うよう、嫌うように仕向けられている。
読者は、十和子視点だと知りながらも、陣治が登場するたびに、陣治の外見上の気に入らない部分や、動作の癖などを、繰り返し見せられるからだ。
しかし、一方で、十和子のダメな部分が次第に明らかになって来る、というのもこの物語の面白いところだろう。ただ、十和子のイメージとして豊田真由子議員を想定していた自分にとっては、十和子は最初からエキセントリックでダメな人間。意外なところは、ほとんどなかったと言えるかもしれない。
ちなみに、自分の脳内キャストでは、水島は松坂桃李からはほど遠く、子どもの学校公開でお見かけした江原啓之風の小太りな*1先生。松坂桃李豊田真由子議員と恋仲になるわけがないじゃないですか。

物語について(ネタバレ)

今回は、『ユリゴコロ』みたいに、早く続きをよまないと死ぬ!という感覚こそなかったが、物語の展開がどう進むのか全く読めず、その点にハラハラした。80ページを過ぎたあたりから小さな事件が積み重なるようにして物語が進むも、何が焦点なのかが分からず、落ち着かないのだ。

  • 修理に預けていた腕時計の代替品を家まで持参すると水島が言い出す。(p84)
  • 再び家まで来た水島と不倫が始まってしまう。(p130あたり)。
  • 警察が部屋に訪ねてきて、黒崎の行方不明を知らせる。(p185あたり)
  • 8年前の黒崎と付き合っていたころのこと(国枝との関係)が読者に明らかになる。(p200あたり)
  • 封じ込めていた記憶が蘇り、行方不明の黒崎は5年前に陣治が殺したのではないかと疑い始める(p217)

文庫本で全383ページの本なので、ちょうど中盤あたりで、この小説の一番のポイントが見えてくる。黒崎は、誰かの手によって殺されたらしい。十和子への思いが強過ぎる陣治が、昔の恋人である黒崎を殺してしまったのではないか。
ここからはあっという間だ。

  • 黒崎と別れたときの酷い仕打ちが読者に明らかになる。(p226あたり)
  • 水島のメッキが剥がれ始める?腕時計編(p245)
  • 水島の妻に密告電話(p247)
  • 黒崎の妻・カヨに会う(p265あたり)
  • 水島のメッキが剥がれ始める?地球丸かじり編(p245)
  • 水島のメッキが剥がれ始める?顧客データ盗難勘違い編(p327〜)
  • 十和子が陣治のガラス瓶から(黒崎から贈られた)ピアスを見つける(p332)
  • 十和子、ナイフを買う(p333)
  • 陣治が、黒崎の死体を埋めたときのことをしゃべり始める。(p339)
  • その翌日。陣治を殺すことを決意→考えが巡って、水島を電話で呼び出す(p356あたり)
  • 突如、水島を殺したいという自分の本心に気づいてナイフに手をかける(p365)


このあと語られる3年ぶりに十和子を呼び出した黒崎の酷過ぎるエピソードを読むと、本当になんて不快な小説なんだと改めて思う一方で、小説全体のミスディレクションの上手さに唸る。


ただ、ラストの陣治の選択は難しい。
自分のことは置いておき、とにかく十和子に幸せになってほしい。それだけが陣治の願いだということはよく分かる。しかし、たった一人で、この秘密を背負っていく十和子のことを思うと、陣治の選択は最後の最後で自分勝手になってしまったように思う。この8年間、そばにいた陣治を罵倒し続けていたからこそ正気を保てていたと言える彼女が幸せになれるとはとても思えない。
そして、ラストの一行からも、「幸せになって、俺を産んで、俺をとことん可愛がってくれぇ」という陣治の望んだ幸せが訪れなかったと読める。それが、十和子が負わされるべき「償い」なのかもしれない。そして、陣治の「気持ち」は純粋で人一倍強くても、その「行動」は、最期まで、カッコよく決まらないのだ。

十和子の一生の終わりまで、陣治の落下は続く。ゲボゲボ咳する陣治、どぜうの陣治、キンタマの小さい陣治、たった一人の十和子の恋人。

鳥たち

さて、タイトルの「彼女がその名を知らない鳥たち」とは結局何だったのだろうか?


まず最初に、それ以外のキーワードとして「におい」を振り返る。
この小説は、とにかく食事シーンが多い。しかも、その食事にまつわる味、におい、音、動きがことごとく不快。
そしてその主役は陣治。
大量過ぎて引用するとキリがない。例えば、チャッ、チャッと音を立てて食べ物を咀嚼する様子や、とろろを食べるシーンは「不快な食事」描写としては一般的だと思うが、今回、自分が「これは嫌だ」と気づかされたのは、牛乳の飲み方。
陣治は、牛乳パックの注ぎ口が上手く引っ張り出せず、破いてしまう。破けた注ぎ口に直接口をつけて飲む。飲み終わってから手の甲で口を拭って、そのまま缶ビールに手を付ける。最高だ(最悪だ)。


しかし、陣治関連の描写を除いて、におい、味の描写を取り出すと、序盤から重要なヒントが出ていたことが分かる。
その「におい」が登場するのは、美鈴との電話のシーンが最初だが、その直後、十和子が陣治の部屋にあった壜からピアスを見つけたシーンから引用する。

フレテハイケナイ……。
頭のなかで囁く声がある。
思わず壜から手を離し、その場にへたりこむ。落ち着きなく周囲を見回す。身体の内側が外側にめくれ返っていくような特異な感覚に襲われる。するとあの路地のにおいがする。埃っぽいアスファルトのにおい、下水のにおい、ひねこびた植物と土のにおい、猫の尿のにおい。ピアスを最後につけたあの最後の夜のにおいが、部屋にこびりついた煙草のにおいと陣治の体臭をつきぬけて十和子の鼻孔に届く。
p76

その後、十和子は食事中に噛んだ舌が、自分の舌と思えないほどグロテスクなものになっていることを鏡で確認する。舌が気になって仕方のない頃、水島から最初に電話があると、舌からのにおいが気になってくる。

路地のにおいがする。だがこれは舌のにおいだ。立ち上がってまた洗面所に行き、舌の表面を隅から隅まで調べる。二時間足らずの間にまた変化している。前にはなかったはずの舌の中央部にまで、赤らんだ発疹が幾つか散らばっている。
p86


壜の描写で出てくる「最後の夜」というのは、十和子が黒崎を殺した日で、「路地のにおい」というのは、殺人の記憶と切り離すことができないものだ。水島との関係が深まるにつれて、舌の状態は変わっていく。
水島と最初に口づけを交わし、彼が部屋を出て行ったあとのシーン。

反射的に足が洗面所に向かう。鏡に映った舌は全体に赤みが増している。そのせいかブツブツが、減ったわけではなくてもあまり目立たない。でもそんなこととは別に、もっとどこがどうと言えない種類の変化が生じているように思える。確かにどこか変わった。その証拠に今はあのおかしなにおいがしない。
p132

一方、その直後に、十和子はこんな感覚にも襲われている。

現実が、ほんとうに十和子の目に見えるとおりのものなのかどうかが急にわからなくなる。部屋も、テレビも、かたちの崩れたラブソファも、花瓶に挿した花火の束も、実際にはもっと言語を絶するほどグロテスクな姿、似ても似つかない真実の姿を剥き出しにしてそこに存在しているのではないのか?十和子の視覚がたまたまそれを捉えられないだけ?
p134


つまり、これまでグロテスクで、路地のにおいがした「舌」が、その強烈な存在感を潜めたのは、十和子の感覚が捉えられなくなっただけなのだ。十和子は、潜在意識下では持っている「殺人の記憶」を、再び記憶の底に押しとどめることに成功した。


しかし、それは見せかけだった。
十和子にとって、恋愛感情自体が、既に「殺人」と切り離せないものとなっている。
頭から離れない殺人の衝動は、後半では、カラスとセットになって登場する。

ぐるぐると同じことを考えるのをやめたい、やめよう、強くそう念じる。それなのにまた、振出しにもどって考えはじめている。陣治が殺したのか?なぜ殺したのか?どうやって殺したのか?
カラスが鳴く。ここにはカラスしかいない。カラスどもはいつも群れをつくって飛びまわっている。今も数羽の黒い影が、飛ぶというより上空の烈しい風に吹き散らされて、翼を広げたままどこかへ流れていく。夕闇が降りてくるまでにはまだ間がある。
p275


腕時計の代替品の件、シルクロードのガイド本「地球丸かじり」の件があった上で、顧客データの紛失が水島の勘違いだとわかったときに登場する「カラス」は、まさに殺人衝動の隠喩だ。

「そうだ、例のもの、昨日見つかったんだ」
(略)
カラスが急にやかましく鳴きだして、十和子の気持ちはそっちへ逸れていく。なぜいつもカラスしかいないのだろう?カラスではない鳥たちはみんな、どこへ行ってしまったのか?黒い影が幾つも頭上を横切っていく。それが警告だったみたいに、無風の静けさを破って断崖の下から強い突風が吹き上げてくる。木々の枝が揺れる。
「どうして知らせてくれなかったの?」
風音に消されないよう大声で言うが、風はすぐに途絶える。
p363


ここでも書かれている通り、十和子は「カラスではない鳥たち」の名前を知らない。
十和子の目に見える現実とは、人間関係の「愛」「憎」しかなく、それがどちらも殺人と結びついている。彼女は、それしか知らない。それ以外の生き方を知らない。
それでは陣治が知っているのかと言えば、それも違う。この小説のラストで陣治の取った行動は、彼も「彼女がその名を知らない鳥たち」の名前を知らなかったことを意味しているのだろうと思う。


小説の中では、十和子と対照的な生き方を見せる登場人物がいる。
姉の美鈴だ。
それは、十和子の美鈴評によく表れている。

東京に行こうとどこに行こうと、家庭を切り盛りし、趣味の習い事をし、ボランティアとして社会参画を果たす。まっとうな姉。姉のまっとうな生き方。結婚を放棄した女たちを、すべての放棄を憎む美鈴、決して離婚しない美鈴が断固として支援する。

途中、夫の不倫が発覚し、一時は別居していた美鈴だが、ラスト近くで、十和子が電話したときは、「私、中国語習いはじめたの」と、不仲問題は解決済み。十和子だったら、完全に殺人に至っているシチュエーションだ。
つまり、普通の人間関係では「愛」も「憎」も極めなくていいし、美鈴の見る現実世界は、十和子とは違って、恋愛以外のことに満ちている。
彼女がその名を知らない鳥たち」は、恋愛関係以外の楽しみ、例えば、中国語を習うことである、といっていいのではないか。
ただ、沼田まほかるは、この小説の中では、だから、美鈴の生き方が正解だ、とはしていない。
美鈴のような生き方は鼻につく、と感じているようにも読めるし、美鈴は、この小説でテーマとしている「愛」とは無関係に生きている、とも読める。
そう考えると、映画がことさら「究極の愛」と持ち上げているのも違うように思う。
少なくとも、タイトルが指す「鳥たち」は、エキセントリックな十和子、そして陣治を否定するものだという解釈は間違っていないはずだ。とすれば、「究極の愛」ではない部分で、何か価値のあるものを見せなければならないと思う。映画が、どこにそれを求めているのか。つまり、タイトルに対して、どう落とし前をつけているのか、がとても気になる。


映画としては、『ユリゴコロ』も気になるけど、『彼女がその名を知らない鳥たち』は、より作品解釈が気になる作品だ。そして、両作品に出る松坂桃李が、どう演じ分けているのか、というのもとても気になりますね。

*1:読み直したら、水島は「ほっそりした」体型のようなので、小太りは誤り