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「生活保護」をテーマにした児童文学の傑作~安田夏菜『むこう岸』

むこう岸

むこう岸

第59回日本児童文学者協会賞受賞作品。貧困ジャーナリズム大賞2019特別賞受賞作品。2019年、国際推薦児童図書目録「ホワイト・レイブンズ」に選定。
和真は有名進学校で落ちこぼれ、中三で公立中学に転校した。父を亡くした樹希は、母と妹と三人、生活保護を受けて暮らしている。『カフェ・居場所』で顔を合わせながら、お互いの環境を理解できないものとして疎ましく思う二人だったが、「貧しさゆえに機会を奪われる」ことの不条理に、できることを模索していく。立ちはだかる「貧困」に対し、中学生にも、為す術はある。児童文学作家のひこ・田中氏推薦。

ビブリオバトルで紹介のあった作品だが、「生活保護をテーマにした児童書」ということで読んでみたら、頭をガツンとやられる、真に教育的な小説だった。
真に教育的というのは、偽善的でなく、ご都合主義でもない形で「生活保護」という難しいテーマを扱い、かつ、貧困や、差別・偏見との向き合い方について、具体的なヒントがもらえる、ということだ。
何より、学ぶことの大切さ、なぜ勉強するのか、という説教臭い内容を扱っているという点では、いかにも児童小説的ではあるが、学ぶのに遅すぎるということはないのであって、むしろ大人が読むべき本と言える。


以下、児童小説的でないところを取り上げながら作品の具体的なエピソードからメッセージを読み解いていきたい。

天真爛漫ではない主人公

児童書で、生活保護をテーマにしていると聞き、真っ先に浮かんだイメージは、差別などとは無縁の天真爛漫な主人公(まさに『鬼滅の刃』の竈門炭治郎みたいな少年)が、まっすぐな正義感で、困っている人を助ける、といったもの。
しかし、その予想は大きく外れる。
主人公は、中学受験で一流中学に入学するも、中2でドロップアウトして公立中学に入り直した中3の山之内和真(かずま)。小説の語り手は二人おり、もう一人の語り手は、和真が転校先で出会った同級生女子の佐野樹希(いつき)。彼女は生活保護を受けながら、家事全般で幼い妹と病気がちな母親を支える。


和真は人から好かれるタイプではなく、勉強だけが取り柄の堅物なのだが、この物語の大きなポイントは、和真自身の生活保護や貧困に対する気持ちがどう変化していくかが描かれていることだ。
和真が、樹希とアベル君(樹希に頼まれて勉強を教えることになった中学1年生。父親はナイジェリア人)に出会った頃のモノローグを引用する。

はっきり言おう。ぼくは、生活レベルが低い人たちが苦手だ、怖いし、嫌悪感がある。中学受験塾にも蒼洋中学にも、そんな人たちはひとりもいなかった。彼らの生活も考えていることも、よくわからない。このアベルくんだって…。
(略)
ぼくには今まで黒人の知り合いなど、ひとりもいなかった、得体が知れず、ますます恐ろしい。
p64

和真は、自らの嫌悪感を認めているだけ、「客観性」があり、何も気がつかない人よりも一歩先に行っているような気もする。
しかし、「客観性」は重要ではない。
この物語を駆動するのは間違いなく和真の持つ「特性」によるのだが、それは、このような「客観性」であるとは思わない。

「むこう岸」にかける橋

「私はセクシュアルマイノリティに対する偏見を持っていませんが…」「私にも在日韓国人の知人がいますが…」
差別的発言をする人に限って、そういうことを口にする。
自らを客観視できる(と思っている)ことや、知り合いに当事者がいることは、差別・偏見を持たないこととは無関係である。
『むこう岸』の前半の展開を読んで、改めてそのことを考えた。


和真は客観的な見方が出来る人で、(おそらく独善的な父親を反面教師にしているせいで)すべてをすぐに決めつけずに相手の話を聞くことができる。
その和真でさえ、アベル君を目の前にして、最初は、黒人だからということで、恐怖を覚えてしまうが、勉強を教える中で、普通の友だちのように接することが出来るようになる。
つまり、自分のことを客観視できるだけでなく、相手と直接、共同作業をすることで、恐怖心や差別する心は減じることが出来る。…とも言える。
ただし、和真とアベル君との関係はかなり特殊だ。中3と中1というだけでなく、勉強を教える側と教えられる側ということで上下関係が成立し、かつ、アベル君は喋らない。


実際、アベル君以上に時間を共にし、話す機会の増えた樹希に対しては、なかなかギクシャクした関係が変わらない。
物語序盤には、会話のやり取りの中で樹希を苛々させてしまう決定的なシーンが登場する。

「あんた、金に困ったことあんの?」
(略)
「貧乏は…、たしかに知りません」
「ほら、見な」
「それは…、気の毒だとは思います」
「はぁ?」
p84

「気の毒」と言われたことに樹希は激怒するが、この段階では、和真の方は樹希を怒らせた理由に気がつかず、むしろ樹希の態度に苛々している。
こちらから見る「むこう岸」と、対岸から見る「むこう岸」が対等で同じ見え方をしていると思っている。

きみとぼくとのあいだには、きっと広くて深い川が流れているのだろう。その川に橋をかければいいのかもしれないが、はなから喧嘩腰の対岸に、なぜ渡っていかねばならないのか、ぼくにはその必要性がわからない。p89

序盤では、和真は「むこう岸」に橋をかけることすらしようとしない。
しかし、繰り返すが、和真の「特性」によって、「むこう岸」に橋がかかり、それが樹希を救うだけでなく、和真の世界を拡げることになる。

スティグマとエンパシー

恥ずかしい話だが、差別や偏見についての説明の中に出てくる「スティグマ」という言葉が長い間よくわからなかった。概念としての意味は理解できないわけではないが実感がわかず、ここ10年くらいでやっとわかった。それだけ幸せな生活を送ってきたということなのかもしれない(ただ鈍感なだけなのかもしれない)が、意味を伝えにくい言葉であるように思う。
『むこう岸』の中では、それは概念ではなく、「体操服」という実体を持って登場するので、理解がしやすい。
樹希は、小5のときに、生活保護を受けている ことが同級生の齋藤にバレる。両親が共働きで、裕福な家庭ではない斎藤は「得してるくせに隠してんのはずるい。生活保護受けてるやつは全員、生活保護Tシャツ着ろ」と樹希を罵る。
それを聞いて頭に血が上った樹希は、体操服の前面いっぱいに「生活保護」と大きく書き、背中に「ありがとう」と書いたのだった。

みんなから養ってもらっている。
施しを受けている。
そのことはうっすら感じてはいたけれど、はっきりと言葉にして突きつけられると、つくづく卑屈な気持ちになった。p43

このように生活保護を受けることを恥ずかしいこと、悪いことと捉えるのが「社会的なスティグマ」で、それが「生活保護」と書かれた体操服に具現化されている。樹希は、同級生からだけでなく、生活保護ケースワーカー(市職員)からも、繰り返しスティグマを刻まれるようなことを言われる。常に「生活保護」と書かれた服を着ている気持ちで生きていくことを強いられる。


樹希の抱くスティグマは自ら壁を作り、他人の干渉を拒む方へ働く。
それにもかかわらず、和真が「むこう岸」へ橋をかけようとする気持ちになったのは、和真の「エンパシー」の能力による。

エンパシーは、自分はブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で初めて知ったが、シンパシー(同情、共感)に似ているが異なる意味を持つ。

エンパシーと混同されがちな言葉にシンパシーがある。(略)
つまり、シンパシーのほうは「感情や行為や理解」なのだが、エンパシーのほうは「能力」なのである。前者はふつうに同情したり、共感したりすることのようだが、後者はどうもそうではなさそうである。

ケンブリッジ英英辞典のサイトに行くと、エンパシーの意味は「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」と書かれている。

つまり、シンパシーの方はかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。

ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』p75)

エンパシーは感情の動きというよりは一種の「能力」であるが、和真はその能力が優れている。ブレイディみかこさんの息子は「エンパシーとは何か」というテスト問題に「自分で誰かの靴を履いてみること」と答えるが、この小説は、和真の心の動きを見せることで、読者に「他人の靴を履く」ように仕向けていると言える。


例えば、アベル君に寄り添って接することが出来たのは、間違いなく和真のエンパシーによる。
「ぼくはバカだから」と言う(書く)アベル君に対しては、蒼洋中で落ちこぼれて、自分のことをバカだと思い続け、惨めな気持ちになった自分自身を思い出すのだ。


蒼洋中の優等生・桜田君が、道で、かつての同級生である自分を見つけて、 屈託のない笑顔で話しかけてくるのに対して、和真は、いたたまれない気持ちになり、樹希のことを思い出す。このときの和真の考え方こそが、まさに「他人の靴を履く」ことの実践だ。

ああ、とぼくは思う。
きみにとってのぼくは、ぼくにとっての桜田くんなのかもしれない。
自分にないものをみんな持っていて、無邪気そうに微笑んでいるもの。気がつかない無意識で、他者を哀れんでいるもの。
哀れんでいるものは、自分の放つ匂いに気づかない。
哀れまれているものだけが、その匂いに気づくのだ。
p93

そして、樹希のことを説明したとき、(信頼していた)母親から出た「あー、びっくりした。生活保護んちの女の子と、おつきあいしているのかと思ったわ」「やっぱりうちとは、違う世界の人だと思うじゃない」という言葉には落胆し、激怒した上で、そこに少し前の自分自身を重ねる。

そうだ。少し前までのぼくも、母さんと同じだったんじゃないのか?
「生活レベルが低い人」の世界に、嫌悪や恐怖すら抱いていた。
そういう世界とは、一生関わりを持たずに生きていくものだと思っていた。
今の生活が、決して楽しくもうれしくもなく、居場所すらなくしていたくせに。
p167


このように、ある時はアベル君に、ある時は樹希に、そしてまたある時は母親の立場に自らの立場を置き換えることで、和真は、未知なるものに対する嫌悪や恐怖を克服していく。「他人の靴を履く」重要性を概念として示すのではなく、何度も別の形で例示されることで、読者は、それが生きていく上で重要な意味を持っていることが自然と理解できる。


そして、樹希にかけられた呪い(スティグマ)を解くような言葉も二度登場する。

ずるくはない。それは権利だ。(略)
貧乏は自己責任だと言う人もいるけれど、この法律はそんなふうには切り捨てない。努力が足りなかったせいだとか、行いが悪かったせいだとか、過去の事情はいっさい問わない。
(p189:和真の言葉)

きみは施しを受けているんじゃない。社会から、投資をされているんだよ。
(p229:エマの叔父さんの言葉)

このように、この小説は、スティグマやエンパシーという重要な概念を示しつつ、人生の中でそれとどう向き合い、どう生かしていくかを教える。道徳的というよりは、技術家庭科のように実利的な意味で「教育的な」本だと思う。

「思いやり」は困難を解決できない

小学校の道徳の授業では、人との付き合いの中で最上級に重視されるのが「思いやり」なのではないかと思う。
しかし、この本が後半に提示する最も大きな考え方は、貧困という具体的な困難に対して「思いやり」が何の役に立たないことだ。

樹希の小学生時代からの唯一の友人であるエマは、生活保護を受けるようになった樹希と心の距離が離れていくことに対して無力感を覚えていた。
エマは優しく「思いやり」のある子だが、それが樹希に対して何の意味も持たないことを知っていたのだ。

しかし、物語後半で、エマは、どのようにすれば、樹希が前向きな気持ちを取り戻すことを手伝えるのかを理解する。
必要なのは「思いやり」ではなく「知識」だった。


和真のアプローチによって、エマの叔父(社会学が専門の大学講師?)のアドバイスも受けながら、樹希は、生活保護制度について、具体的な知識を増やしていく。
また、子ども食堂にボランティアで参加していた看護学部苦学生からの奨学金について教えてもらうなど、具体的な情報が、どんどん樹希に希望を与えてくれることになる。


そして、「知識」は、樹希だけでなく、和真にもいい影響をもたらし、この物語は、世界のことをもっと知りたい、学びたいという和真の決心で終わる。

ずっと父さんに言われるがまま、勉強してきた。高得点をとるため、小さな解答欄に学んだことを書き入れ続けてきた。その作業に疲れていた。
けれど、ぼくの知識や思考を、もっと大きな場所に向けて放っていくとしたら?
今を生きる人々の中へ。
もがきながら、迷いながら、それでも生きていく人々の中へ。
p253

実際には、ひどく理不尽な事件が起きもするのだが、これ以上ない前向きなラストだと思う。
「なぜ勉強するのか」ということに対してはいくつもの回答があるのかもしれないが、「知識」「学び」が二人を前向きな気持ちにさせたこのラストは、その中でも、とても有効な回答だと思う。
そして、この本を読んで「勉強しなくちゃ」と思うのは子供だけではない。大人も常に勉強を続けなくてはならない。そんな気にさせられる。

差別や偏見を否定しない

そして、もう一つ、この小説で特徴的なのは、差別・偏見を持つ者が悪という描き方をしていないことだ。
例えば、スーパーで難癖をつけられたアベル君を助けたのは樹希の「生活保護体操服事件」のきっかけになった、斎藤のお母さんだった。彼女は正義感が強いが故に、無知から生活保護に否定的な見方をとることになった。
ケースワーカーも、前半部では樹希や母親を苦しめる一因という描き方をされていたが、エマの叔父の話すケースワーカー経験をはじめとして、その職業自体の困難さも見えてくる。


かといって、『鬼滅の刃』のように、悪者の悪行にすべて理由があるというわけではなく、小説の中で解決されていない困難も多い。
例えば、「努力は人を裏切らない(だから貧困はその人自身の問題が招いたものだ)」 と考え、和真の苦しみのすべての原因である父親は、小説内では、その父権的な態度を崩すことはない。
また、樹希と母親(樹希は、彼女のことを他人であるかのように「ハハ」と呼ぶ)との関係も全く進行しない。


最後は家族そろって前を向く結末というイメージのある児童小説において、この小説の中では、 素晴らしい家族に恵まれなくても、家族の理解がなくても、当人の気持ち一つで前に進むことが出来るということが示される。


そして、「すべての人がもがきながら、迷いながら、それでも生きていく」、その中でどうしても差別や偏見が生じることについて、和真は「優越感」という言葉で説明する。

そう、優越感…。プライドというより優越感だ。
他人との比較でのみ得られる、この感情。
十二歳の春、塾の仲間たちがぼくに向けた羨望のまなざし。
多くの中から、自分が選び抜かれたという甘美な気持ち。
蒼洋中学をクビになっても、あの時の気持ちはまだ胸の奥底にへばりついたままだ。捨てたほうが楽だとわかっているのに、捨てられない。自分はやはり人より優れている、恵まれていると思っていたい、この厄介な感情。
ぼくも、母さんも、そして父さんも、おばあちゃんも。
自分の中のこの気持ちを、どこかでつっかえ棒にして生きているのかもしれない。
ぼくらは幸せなのだろうか。それとも哀れなのだろうか。
p167

物語の中では、誰も「差別・偏見をなくそう」とは言わない。
むしろ、それを「つっかえ棒」にして生きている人さえいる、とまで描いている。
この話は誰かを断罪する物語ではない。
個人的には、和真の父親には物申したい気持ちもあるが、差別・偏見の塊のような人でさえも、そこに「つっかえ棒」がある可能性があるし、物語で最も理不尽な事件は「つっかえ棒」が外れた人によって起こされた。

その意味では、物語は、個々人が死ぬまで抱える「優越感」「劣等感」とどう付き合って生きていくかという、重い課題を読者に残しているのだと思う。

最後に

ここまで、色々な面から見た『むこう岸』の良さについて説明してきたつもりだが、唯一文句を言うとしたら、(装画を担当した西川真以子さんには大変申し訳ないが)この表紙は個人的には好きではない。
「むこう岸」に行くということは、「今を生きる人々」の中へ飛び込んでいく、それによって世界を拡げるということ。その意味では歩道橋から見下ろした都市の風景は作品のイメージ通りかもしれない。
そして、小説の中では、取り返しのつかない事件が起きたりなど暗い話題も多く、ある程度暗いイメージの表紙にするのは決して間違いではない。
しかし、前向きな終わり方が印象的な本で、かつ児童書でこの表紙はないのではないかと思う。


特に、児童書であれば、実際に本を手に取って読むかどうかを決めるということが多い。その際、どんな人に『むこう岸』を手に取ってほしいと思うのだろうか。自分だったら、男女が描かれたシンプルな表紙、という程度が適切だと思う。
「恋愛関係の本かと思ったら、生活保護を扱っていて、考えさせられた」というくらいの本との出会い方がベストだと考える。
この表紙では、「怖い」「悲惨な話なのでは」「真面目な本っぽい」という第一印象が邪魔して、偶然この本を手に取る可能性をかなり下げていると思う。
読後の印象も違ってくる。ラストを読んだ後の前向きな印象は、表紙を見てむしろ打ち消されると思う。自分の読んだのは「可哀相な話」だったような気がしてくる。表紙を見ても「むこう岸」に渡ってみたいと思えない。
この独特な表紙を評価する声もあるようだが、大人向けということであれば理解できる。小中学生の頃の自分を考えてみると、この表紙は推せない。


と、最後に少し不満を書きましたが、児童小説として大傑作でした。
おそらく大人も読みやすい形で文庫化されるのではないかと思います(望みます)。
そのときに表紙をどうするかというのは興味があるところです。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
→この本の「はじめに」で「私はセクシュアルマイノリティに対する偏見を持っていませんが……」という枕詞について触れられています。勉強のためにもう一度読み直したい本です。


pocari.hatenablog.com
ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は感想を残していないのですが、この映画の感想でも「エンパシー」について掘り下げています。2019年の本ですが、年末に読んだので、「エンパシー」は2020年の個人的流行語大賞に入りますね。