Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

ぼくのかんがえたさいきょうの「竜そば」ラスト~細田守監督『竜とそばかすの姫』

今回ほど予習せずに見に行ったのも久しぶり。難しい話だったら困るからと、映画館の席に座ってから公式HPであらすじを確認したくらいだ。
というのも、「賛否両論」という評価をいくつか聞いていたので、見る前に「否」の部分を入れてしまいたくはないという意図があったのだ。
また、細田守監督の映画で観たことのあるのは『サマーウォーズ』『時をかける少女』『おおかみこどもの雨と雪』だけで細田作品にそこまで思い入れがないということもある。

ところが見始めると、冒頭のベルの歌に引き込まれ、リップシンクのアニメーションに感動する。絵も華やかで楽しい。
その後の現実のシーンでは、すずの自宅周辺そして仁淀川に架かる潜り橋などの美しい風景に目を奪われる。
ちゃんと面白い映画では?

ミュージシャンの中村佳穂が主人公を演じるのは知っていた。すずという陰キャの女子高生と、そのアバターで歌姫のベル。日常パート(すず)は少し不慣れな感じは受けながらも自然に作品に入りこめた。
そして歌の表現力に対しては底知れぬ印象を受けた。何より、歌えないすずが「竜」のために歌を作ろうとメロディを口ずさむシーンは、素晴らしすぎて鳥肌の立つ思いがした。(Amazonプライムミュージックで聴けるサウンドトラックでは「心のそばに(鈴)」というタイトルで収録されている。)

ところで、声優陣に、いわゆるプロの声優がほとんどいないことは驚き。
染谷将太が演じる男子高校生・カミシンは、かなりアニメ的なキャラクターなのに、細田作品では常連ということもあってか上手。
そして、すずをサポートするヒロちゃん。彼女こそ、いかにもアニメ的なキャラクターなのに、演じているのはYOASOBIのボーカル幾田りら。
今回のメインテーマを作曲している常田大希(millennium parade、King Gnu)、そして勿論、中村佳穂と合わせて、今回の映画は、これまであまり聴いてこなかった新しいミュージシャンの楽曲にチャレンジするいいきっかけをもらったように思う。



さあ、賛否の「賛」はこれくらいにして、以下は「否」に。

対話なしで成長する主人公

繰り返しの引用になるが、山口裕之さんは著書の中で、学生たちの中に「対話」を拒否する態度が蔓延していることを問題視し、その原因として「個性尊重」によって、注意が外部に向かわず内面だけに集中してしまっていることを挙げる。

問題は、現在、社会全体が「心」を重視する方向に進んでいるということである。大学入試や就職活動で「自己分析」が活用され、テレビをつけたら「もともと特別なオンリーワン」という歌詞が流れる。テレビアニメでは、あまりぱっとしない主人公が「強い思い」だけで勝利を収めるような話が放送されている。私が子どものころには、「根性」で練習を重ねて強くなる、という話が多かったように思うが、昨今のアニメでは、「思い」さえ強ければ、練習は不要のようである。そういう風潮もあってか、国会で異論に耳を傾けず、「強い思い」で強行採決を繰り返す首相を、「ブレない」とかいって称賛する人たちがいる。「思い」は強ければよいというわけではなく、「何を思うか」を反省することのほうが大切であろうに。
(山口裕之『人をつなぐ対話の技術』p173)

これを読んだとき、テレビアニメに関する指摘は言い過ぎだと思った。それは偏見だろうと。
しかし、『竜とそばかすの姫』を見てしまうと、図星…というか、仰る通りです、と土下座して謝りたくなってしまった。
まさに、主人公すずは、「U」の世界に入った途端に50億のユーザーから発見され、フォロワー数も激増する。普段は表に出せない内面を外に出す、他者との接触はなく、ただそれだけで。


さらに突っ込んで批判をするとすれば、すずには「対話」がない。(話すのは仲良しのヒロちゃんのみだが、彼女からも厳しく叱られたりはしない)
すずは父親とのコミュニケーションをほとんど断っているし、思いを寄せるしのぶくんにも自分の心は明かさない。*1クラスメイトのルカちゃんとも初めて話をしたくらいだ。
それどころか、仮想空間である「U」でもベル(すず)は「竜」以外とは話をしない。

そして肝心の「竜」は、正体不明者で、相手は心を閉ざしているので、事実上は、ベルからの一方通行の語りかけで「対話」にはなっていない。

これは、通常の物語の作法も外しているのではないだろうか。
普通は、誰かとの約束を無視して行動して失敗したり、直接喧嘩することで、相手がいかに自分を大切に思っているかに気が付く。ほんの1週間や1か月の出来事であっても、他者との接触(つまり「対話」)が成長につながる。

特にがっかりしたのは(すずを気にかけながら半ば放置の)父親だ。
新幹線で東京に向かう際にメールで「お母さんに育てられて、君は人を思いやれる優しい人間になった」みたいなことを書く。
いやいやいや、すずが6歳の時に母親は亡くなって、その後父娘2人での生活が10年あるのに、なぜ「お母さんに育てられ」になるのか?ちょっとよく理解ができないし、ほとんど話をしないのに「お前の気持ちはお父さんがよくわかっている」みたいな思い込みは、後半に出てくる、あの「父親」とどこが違うのだろうか。
しかも、ここに役所広司を使いますか?

しのぶくんも結局はそれと変わらない。クライマックスになって突然「ベルの正体は、すずでしょ」と言う。こちらも「話さなくてもお前のことは一番僕がわかってる」みたいな感じで、これこそが「キモい」のでは?
とはいえ、すずは、しのぶくんのことを好きなのだから、普通に考えれば、新幹線(高速バス?)に乗っていくのは、すず一人ではなくて、偶然でもかまわないから、しのぶくんが一緒に行くべきだったとも言える。(父親でも可)

無条件に肯定される主人公

単に才能のある主人公の話には抵抗がある。
でも、ちゃんと面白いものもある。例えば、先日、平手友梨奈主演の平手友梨奈のための映画『HIBIKI』を見たが、あれも才能が爆発している高校生小説家が主人公の映画だ。しかし、主人公の響には才能はあるが全く常識がない。そこが面白さの一つ目のポイント。
そして何より重要なのは、常識はないが主張(メッセージ)はあるということ。
彼女は、大勢の「わかっていない読者」に認められるよりも、「その本に救われた」というような読者が一人でもいることが大切と思うタイプ。「大人の対応」など許さず、気に入らない相手には暴力で対応し、多くの人から非難を受ける。
ただ、暴力を含めたコミュニケーションの中で、登場人物は成長するし、彼女の「まっすぐさ」が作品としてカタルシスを産む。

先ほどの「対話」の話とも共通するが、すず(ベル)は(主張はないが)誰からも非難されない。「竜」の正体である「恵(けい)」から拒絶されるシーンのみではないか。
それどころか相容れない相手からの暴力もない。
「自警団」のリーダー・ジャスティスは結局ベルに直接攻撃しない。そして、クライマックスでの、恵の父との対決のシーン。最初に顔を傷つけられるものの、その後はすずが一睨みすると、恵の父親は子犬のように尻尾を巻いて逃げ帰っていく。
さすがにここには言葉が必要だろうと思った。響は口数は少なく、すぐに暴力に訴えるが、ラストのクライマックスシーン(踏切のシーン)では語っている。

名前も知らない子を救うために自らの命を犠牲にした母親。
すずは、その子どもだから、直接知らない子どものために自ら高知の田舎から東京まで向かう…。
わからないでもないが、行動自体は勝算のない無鉄砲なものに映るし、恵(竜)の父親にはその辺は全く伝わらず、面倒くさい女子高生にしか見えないはず。
なのに、(実の父親やしのぶくんだけでなく)彼にさえ以心伝心で何かが伝わってしまうのは、テレパシー能力なのでは?


そして、自分が一番「無条件に肯定される主人公」は嫌だなと思ったのは、恵(竜)が心を開くきっかけになった「歌」のシーン。
ここで、アバターが解かれてベルの正体が明らかになる。まさにシンデレラの魔法が解ける状態になっても、聴衆は彼女を受け入れる。それどころか涙を流し、心の明かりが輝き始める。
自分は「歌は世界を救う」みたいなTVの特番は好きではないし、五輪の開会式にはとりあえず「イマジン」歌っとけ、みたいなものは大嫌いだ。(このあたりは響だったら暴力が発動してしまう場面だ)
ここはそうではないでしょう。正体が美女とはかけ離れた容姿であることに皆が怒って「金返せ!」みたいに非難囂々になっても、「竜」だけにはその思いが届いている、ということにしないと、ベル(すず)は何もリスクを冒していないことになり、感動も薄れてしまう。

共感できないネット観①協力と分断

そもそも、舞台となっている仮想空間世界が『サマーウォーズ』のときとあまり変わっていないのは何故なのだろう。
多数の人がアバターを作って現実世界と同様に暮らしている世界というのは「セカンドライフ」的で、「サマーウォーズ」の2009年の時には、もてはやされたのかもしれないが、今もこういうのは流行っているのだろうか。
web2.0なんていう言葉が2000年代中盤に流行し、ネット社会に希望を抱いていた『サマーウォーズ』の時代とは様変わりし、今の自分には、ネット空間は、フェイクニュースや誹謗中傷で社会の「分断」を促す悪い面ばかりが目についてしまう。
したがって、今の時代に2009年と変わらない牧歌的なネット観が出てしまっているのは自分にとっては気持ちが悪い。
サマーウォーズ』のときは、ネット空間の直接会ったこともない老若男女が協力して問題を解決する、という「新しい希望」がまだあった。(2004年の『電車男』等も同じ構造)
今なら「協力」ではなく「分断」をどう描くかがポイントだと思うのだが、ベルが「U」の50億ユーザーの大部分から支持を受けるという設定だけで非現実的で「分断」とは程遠い。そもそもベルが日本語の歌を歌うことを考えると、日本人のみが利用する仮想空間とした上で、歌ジャンル限定の仮想空間とする等、範囲を狭めた設定にしないと、現代のタコツボ的ネット社会と符合しない。
『竜とそばかすの姫』の「U」で描かれるネット空間は、全国民が知っているヒット曲を紅白歌合戦で見ていた昭和的世界観だと思うし、コーラスグループの仲良し5人組が仮想空間でも一緒にいるのを見ると、なんて不自由な社会という印象しか抱けない。

共感できないネット観②匿名と実名

先ほどの話もそうだが、自分にとってネットはTwitterを中心としたSNSであることから、Twitterを前提として「U」の空間を考える。
その観点から見た場合、実名にこだわりすぎる「U」の状況がよくわからない。

ベルが人気者になり、皆が「あれは誰?」と気にする。一時的にはあり得るだろう。
竜が皆から嫌われて、「あれは誰?」と話題になる。さらに、その正体を暴こうとして、有名芸術家やプロ野球選手に疑いの目が向けられる等、報道が過熱していく。あり得るだろうか?

そもそも、「竜」がここまで不人気になる理由が理解しにくい。格闘スポーツ?の世界で一悶着起こしたようだが、それであればアカウントがBANされてそこで終わりだろう。実際に死者が出たり、実生活に支障をきたす人が多数出るのならわかるが、一般ユーザーに害が及ばないルール破りには、多くの人が関心を持つことすらないだろう。
それに対して実名を暴こうとする理由がわからない。

また、自警団のリーダーであるジャスティンが、ビーム砲を当てて正体を暴く武器「アンヴェイル」を使って脅す。あり得るだろうか?
TwitterInstagramがそうであるように「U」の世界でも実名と紐づいている人はたくさんいるようだ。アンヴェイルが効果を持つのは特定の人だけだろう。
ましてや、ジャスティンのアバターも非人間的(手塚治虫石ノ森章太郎の悪役キャラクター風)で、姿はオリジナルと紐づいていないようだ。そんな彼がアンヴェイルという武器を持っていること自体が説得力に欠けるし、スポンサーが多数つく状況も不明だ。
また、自警団は、悪と認定したターゲットを集団で叩くという今のネットの問題点を視覚的に表現しているのだろう。しかし、それを白い制服の集団として描いているのは明らかにイメージとずれている。さっきまで猫を可愛がっていた「普通の人たち」が次から次へとターゲットを変えながら「悪」を叩くのが今の現代ネット社会の怖いところであって、そこには白い制服の自警団はいない。
物語の中での描かれ方も、ジャスティンは、雑な典型的「悪役」として描かれており、主要キャラなのに、実名暴きに偏執的な情熱を燃やす狂った人にしか見えない。

共感できないネット観③アバター問題

物語の重要な鍵となる「U」の特徴は、各個人のアバターを「U」側が自動的に決定することだと言える。劇中では、当人の願望や深層心理、潜在能力を読み取ってAIが自動判定するというような説明があった。
そもそもこのようなサービスはアウトではないか。思想や心理をもとに外見を決めるような怖いことは、宗教ともかかわってくるし、特に世界に開かれたアプリであれば受け入れられるはずがない。
宗教など難しいことを考えなくても、自動判定のアバターが納得行かない人もいるだろうし、不快な外見をチェンジすることがもし可能だとしても、不快な外見の根拠が自分の中にあると言われたら良い気持ちはしない。
いやいや、「皆がなりたい外見になって満足する」、そういうサービスだという設定なのかもしれない。だとしたら、自警団の人たちの同じ制服、同じ仮面の外見は何なのだろうか。
また、多々あるアバターの中でひときわ目立つ外見の竜とそばかすの姫(ベル)。他のアバターとの差は明らかで、今のスマホゲームなどの感覚で言えば、「課金」しないとあの違いは出ない。
そもそも一般ユーザーなら到底持つことを許されないだろう「竜の城」。そして城を守る守護AI。あれも「課金」ではないのか?父親のクレジットカードを使って月に何十万も課金して、父親が憤慨しているのでは?とさえ思ってしまう。

踏み台にされる「ネット」と「虐待」

細かいことを抜きにすれば、物語は、主人公のすずが、ネット社会での経験を通じて、自分の内面を外に出せるようになって、周囲との関係が改善した、という話であり、「いい話」という見方も出来なくはない。
ただし、作品のテーマとなっているように見える「ネット」と「虐待」は、すずの「成長」の踏み台として利用されているようにしか見えないのは問題だ。つまり、この映画の経験を通して、すずは「ネット」と「虐待」を卒業して、新しい自分に生まれ変わったと見えてしまう。

そもそも今回のクライマックスでは『サマーウォーズ』的展開を避けたように見える。恵(竜)の居場所を突き止めるのにネットの集合知は利用せず、その場にいる人だけで解決し、さらには現場に直接駆け付けることを最重要視する。

「U」は全世界で50億ユーザーが利用していることを考えると、すずが「50億から一人を探し出すなんて無理」と言っていたように、「直接会う」のはハードルが高く、設定と展開が矛盾している。
「直接会う」ことがどうしても必要で、その高いハードルを乗り越えるためにネットの集合知を使うという展開なら理解できる。

ましてや今回は世界が舞台。「カムチャッカの若者がきりんの夢を見ているとき、メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている」という谷川俊太郎『朝のリレー』の若者たちが直接つながることが出来るネット空間の良さはどこに行ってしまったのか。
この作品では、ネット世界の住人たちは、ベル(すず)が人気者になるというそれだけのために使われていて、物語の問題解決には参加できない。50億のユーザーに意思はなく、背景に過ぎない。


「虐待」の件については多くは書かない。
女子高生が現地に行くことでは何も解決しない。
ましてや、継続的な関わり合いの可能性が描かれず、それが女子高生の成長の踏み台にされてしまう状況は、不快に思う人の方が多いのではないか。

「ネット」と「虐待」を踏み台にしないラスト改変

そもそも「U」の設定にダメ出しをしているのだから、簡単に納得できる物語には代えられないのだが、ラストだけ変えていいとすれば、例えば自分ならこうする。

  • しのぶくんとともに高知から東京都大田区まで駆け付けたすず。でもどうしても家は見つからない。カミシンの見立てはどうも間違いだったらしい。
  • そんなとき、恵が虐待を受けるシーンをネットで偶然ネットで見ていたベルのファン(ブラジル)が、この家は日本ではなく、ニューヨークにある、と場所を特定する。(夕焼け小焼けの音楽はラジオだった…)
  • 素顔をさらしたベルの勇気に感動した多数のファンに語り掛けると、その中にニューヨークに在住で弁護士として活動している日本人女性がいることがわかる。
  • 実は、すずの母親が助けたのは彼女だった。(ちょっと年齢が合わない気もするが)
  • そして彼女は、「U」の世界でもベル(すず)のことを窮地で救っていた人物であることがわかり、すずのわだかまりも解け、日本とニューヨークでの協力作業で、二人の子どもは今後の居場所を確保できることになり、継続的なサポートを約束する。
  • すべてが終わったあと、すずは、人の命を救うことのできる職業を目指して頑張ることになる。(それが父親の職業だったり…)


ちょっと書き残した点を一点。
最初にすずがバスに乗って通学する場面で、運転手席の背後に、「この路線は9月から廃線」みたいなことが書いてあった。そうなると、すずは学校に通えなくなってしまうわけで、この重大事態が作品内で解決されないのはモヤモヤが募る。実際にロケハンした場所がそういう状態なのであれば、通学に使用している学生はどうするのかということを、やはり画面の隅の掲示板にでも示してほしかった。
過疎が進む土地ですよ、ということを示したいだけのサインなら、作中の登場人物どころか実際の土地への思いやりに欠ける設定であるように感じ、作品への不快感がさらに強まってしまう。
このあたりは小説版を読むと解消するのかもしれない。


今回は宇多丸評も耳に入れることなくここまで書いてきたが、基本的には「褒め」に重点を置いた映画評を行うアトロクの映画評。この作品をストーリーの面でどう褒めるのか、自分には想像がつかない。

参考

今回を含めて3度のエントリのベースとなった山口裕之『人をつなぐ対話の技術』は、自分にとって大きな意味を持った本でした。
多くの人に読んでもらいたい本です。
pocari.hatenablog.com
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*1:驚いたことに、これはラストまで!