Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「空気」をめぐる希望と絶望~朝比奈あすか『君たちは今が世界』

2020年、難関中学の入試で出題多数!教室で渦巻く、悪意と希望の物語。

「文ちん、やれるよな?」人気者とつるむようになってから、文也は自分がクラスの中心にいるような気分がする。担任の幾田先生は地味で怖くないし、友達と認定してくれるみんなと一緒にいるのが一番大切だ。ある日、クラスを崩壊させる大事件に関わってしまうまでは――。(「みんなといたいみんな」)

今の自分は仮の姿だ。六年生の杏美は、おとなしい友人の間で息をひそめて学級崩壊したクラスをやりすごし、私立中学に進学する日を心待ちにしている。宿題を写したいときだけ都合よく話しかけてくる”女王”香奈枝のことも諦めているが、彼女と親友同士だった幼い記憶がよみがえり……。(「こんなものは、全部通り過ぎる」)

学校も家庭も、子どもは生きる世界を選べない。胸が苦しくなるような葛藤と、その先にある光とは。

2020年、難関中学校の入試問題に数多く取り上げられた話題作に、文庫でしか読めない特別篇「仄かな一歩」を加えた決定版!


購入するにしても、図書館で予約して借りるにしても、「読みたい」と思ったタイミングと実際に読むタイミングが大きくずれ、何故この本を?ということがよくある。
この本についても選んだ理由について全く記憶のないまま、裏表紙の「数々の入試問題に取り上げられた話題作」という惹き文句を読み、「世界」と書いて「すべて」と読ませる、こそばゆい感じから、なぜ小中学生向けの本を?と、やや舐めた気持ちで読み始めた。

ところが、結論から言うと、ミステリを読むように引き込まれる読書となった。
小学6年生にとって、教室は、雪の山荘のように関係者が限られ、辛くても逃げることの出来ない密室空間で、悪意ある言葉は、ときに生徒を、また先生の人生を左右するほどの影響を持つとも言える。ミステリは言い過ぎかもしれないが、一種の心理サスペンスを読んだ気になった。

構成

本は4章+エピローグの5章構成で、文庫本のための特別編としての1篇を加えた計6編の、それぞれで主人公が異なる群像劇タイプの小説となる。
尾辻文也が主人公の第一話「みんなといたいみんな」を読んだときは、そのことに気づかず、第2話で主人公が川島杏美に変わって本の構成を理解した。
いわゆる羅生門形式のように、同じ時系列を複数視点で語り直すのではなく、経時的に話は進む。その中でわかってくることが作品テーマと一致しているという構成の美しさは、ミステリ的という言い方ができるかもしれない。
(ただし、エピローグで上手くまとまっているため、追加の一話をエピローグの後に置いたのは少し気持ちが悪いのだが)

「空気」に加担するプレイヤー達

この本は、先生をいじり学級崩壊を起こす「空気」、特定の誰かを嘲笑してもOKな「空気」がどう生まれるか、について書かれた話と言える。
第一話(「みんなといたいみんな」:文也の話)は、その問題を提起して、第二話、第三話、第四話、エピローグでそれを検証していく流れとなっていると受け取ったが、出だしの第一話が結構重い。
カドカワのHPでの惹き文句は、その第一話の重い部分をさらっと書く。

六年三組の調理実習中に起きた洗剤混入事件。犯人が名乗りでない中、担任の幾田先生はクラスを見回してこう告げた。「皆さんは、大した大人にはなれない」先生の残酷な言葉が、教室に波紋を生んで……。

先生を困らせたい、という教室内の「空気」から、文也は家庭科の授業で、見本のパンケーキに洗剤を入れるという、いたずらというより犯罪的行為に走る。これに対して、激怒した担任の幾田先生が生徒を見捨てる発言をし、「空気」に冷や水をぶっかける。 
ところが、第二話で、その後の展開を見ると、結局「空気」は変わらず、幾田先生は休職、という酷い展開でさらに引き込まれた。

さて、第一話の文也は、中心メンバーでいる(「空気」を作る側にいる)ためなら、どんな頼まれごともやってしまうタイプだったが、

  • 第二話(「こんなものは、全部通り過ぎる」)の川島杏美は、バイスタンダー(傍観者)的な立場
  • 第三話(「いつか、ドラゴン」)の武市陽太は、こだわりが強く人づきあいが苦手で、いじめられる側
  • 第四話(「泣かない子ども」)の見村めぐ美はいじめる(「空気」を作る)側

...と、6年3組の物語は、異なる立場の人間から語られる。

第一話、第二話で完全に「悪役」として描かれる見村めぐ美も、色々な事情を抱えていることが第四話になるとわかる。

であれば、作品全体としてのメッセージは「クラスメイトや先生の気持ちを考えて行動しよう」になりそうだが、そうはならない。
そのように行動することを「空気」の力が妨げるからだ。
さらにいえば「君たちは今が世界<すべて>」だからだ。
まさに、このタイトルに呼応する内容が、第二話で、優等生の川島杏美の口から語られる。

こんなものは、全部通り過ぎる。(略)
一生モノのランドセルなんて存在しない。ランドセルなんて、今だけじゃん。
恋焦がれたスターパープルが、六年も経たないうちに、こんなにどうでもよくなるみたいに、いつかこの瞬間も、どうでもいいものになる。
ほぼ確信的にそう思っている。
それなのに、馬鹿にしようとすればするほど、王国は眩しく輝かしく、杏美を閉じ込める。今この瞬間の生こそが全てだと、他の時間など存在しないのだと信じ込ませんとばかりに圧してくるから、酸欠になりそうな魚の必死さで杏美は居場所を探す。

小学生時代を「期間限定の王国」と理解していている杏美でさえ、そこから逃れがたい。


僕自身も「空気」からの逃れがたさは経験がある。

文也の視点で「空気」に乗る楽しさと、そこから抜け出す難しさが描かれている第一話を読んで、小学4年生の頃に「空気」に乗る、というより作り出す側で、友人のいじめに加担したことを思い出し、苦い気持ちになった。
「苦い気持ち」に懲りて、それ以降、「空気」を作り出す側になることは無かった。しかし、場の「空気」を盛り上げるために誰かが傷ついているにもかかわらず、愛想笑いで「通り過ぎる」のを待つ「バイスタンダー」となることは、社会人になっても経験した。酷いときは、やめさせるように働きかけたこともあるが、どこからがNGなのかのタイミングが難しい。
「空気が読めない」のは悪いことで、「空気を読んで盛り上げる」ことが、学校だけでなく様々な集団で求められる。


閑話休題
誰かを傷つけるような「空気」は、止めなくてはならない。しかし、大人にも難しいことを、子どもに求めることはできない。
それでは、この本の中では、どのようなメッセージとなったのか。

この本のメッセージ

エピローグは、小学校教師となった増井智帆が、当時のことを振り返りながら、小学6年生たちに語りかける。
彼女は、小学六年生の頃に教室を暴走させた主要メンバーを「切り捨てた」自分を思い返し、クラス全員を「切り捨てた」幾田先生のことを思い返しつつ、目の前にいる子どもたちを「切り捨てない」と、心に決める。

「皆さんにとって、わたしがどんな先生になれるかはまだ分かりません。でも(略)
わたしは皆さんを知りたいと思い続けます」
そう、君たちのことを知りたい。
お調子者、目立ちたがり屋…(略)
君たちはわたしの目に、今そんなふうに見えている。
だけど、わたしが見ている君たちの姿は、あくまで君たちをコーティングしている「個性」に過ぎなくて、ひとりひとりの内面に広がる海は、親も友達もそしてわたしも、知り尽くせないほどに深いのだ。
それは、「個性」というひと言でまとめられないくらい、尊い、おそらく君たち自身にもわからない「君」という存在。
知りたい。知ろうとし続けたい。

ここでの「個性」は、「みんなちがってみんないい」という言葉で理解した気になって、相手を知ろうとせずに「個性」というラベルだけ貼って中身を見ない、という悪い意味で使われている。
だから、次のように続ける。

「先生のことはね、おいおい分かっていくと思いますよ。(略)
「だけどね、分かったと思い過ぎないでくださいね。友達のことも同じ。分かったと思い過ぎないでください(略)
「全員、いつかは大人になります。それはつまり…、皆さんの隣にいる子も、後ろの席の子も、前の席の子も、皆大人になるということです。今、ここで分かったつもりになっている友達は、どんどん変わっていくし、自分も変わる。世界は、時間が経てば経つほど広がってゆく。ここ以外の場所のほうがずっと広いということを、どうか、覚えておいてください」

「空気」との関連で言うと、こいつは頭が悪い/いつもカッコつけている/いじってもいい人間だ…そういうレッテルを貼り、皆と共有することが「空気」の醸成に繋がる。だから、そういった決めつけ(相手を分かったと思い過ぎること)自体に疑問を抱く人が増えれば、「空気」が生まれにくくなる。
いや、生まれてしまったとしても、その見方が一面的であることが理解できていれば「空気」から逃れやすくなる。押し戻すことすらできるようになる。


僕は、この本のメッセージは、小学生だけでなく、広い範囲に有効だと思うし、何かを禁止する言い方ではなく、希望を与えるポジティブな言い方で「空気」の醸成・拡大を防止できるのが素晴らしいと思う。

残された課題

しかし、そんなことは絵空事だ、という批判はあり得るだろう。
勿論、作品内ですべてを解決したり、すべてにポジティブなメッセージを与える必要はない。
しかし、小学生に向けたメッセージ、という点で考えた場合に、「そんな言説は役に立たない」と考える、つまり「メッセージが届かない小学生」もいるのではないか。
具体的には、この物語の中に登場する親は、ダメな親も多く、子どもを縛り、悪い意味で「空気」づくりに大きく加担している。「親ガチャ」などの言葉がよく話題になる昨今、親ガチャに外れたと思っている子どもに向けて、増井先生の言葉は、ちゃんと「希望」として響くのかどうか、ということだけは気になった。(増井は、登場人物の中では親に恵まれていると言える)


なお、「空気」の問題は、日本の組織の問題として根深い問題があると思う。

入管収容中に死亡したウィシュマさんの監視カメラ映像公開ニュースに関連して、元入管職員の弁護士の方が以下のツイートをして炎上。アカウントを消すに至っている。

元入管職員として、あの動画を観て感じたこと。職員たちは彼女を苦しめようとも、死を望んでいたわけでもない。あの職員たちが特別なのではなく、私も含めて多くの職員が3年もすればあのような感覚になってしまう。それをふまえた改善をしないと、これからも不適切な対応が繰り返される

このツイートをもう少し細かく説明した内容が、昨年記事になっており、こちらも問題がわかりやすい。
この記事はツイートを削除した方ご本人で、元入管職員で、現在は弁護士として在留資格のない外国人の方の案件等に携わっている渡邉祐樹さんだ。

日本の入管問題の今 −元入管職員と支援者、2つの視点から−|公共訴訟のCALL4(コールフォー)

私が勤めていた当時は、外国人に私がフレンドリーに接していると、先輩たちに「そんな接し方ではなめられる」と怒られていました。どこの国でも、入管は無愛想ですが、それは元々サービス業ではなくて、審査だからです。例えば裁判官が、「被告人の方どうぞこちらに」、「今日はどこから来ましたか」、などと接客のような振舞いだと逆に信用できないですよね。審査だからといってきつい言葉を使っていいわけではないですが、「ちゃんと書けよほら」といった問題のある言動も許される空気でした。

さらに私が勤務していた1990年代には、外国人の方を殴っている職員もいました。多くの人が並んでいる入国審査のブースでは、1人に長時間をかけられないので、少し見て問題があると思ったらブースで審査している職員がボタンを押すと事務室の職員が来て、取調室のような個室に連れて行って一対一で調べます。そこで態度が悪いとか、偽造旅券を持ってきたのではないかとか理由をつけて殴っている職員もいました。他の職員は、殴っているのはわかっていましたが、まずいなという空気はなく、当時はむしろ熱心にやってるなという雰囲気でした。問題視する人はいなかったと思います。

(略)

入管にはもちろん、いい人もいます。私が入管にいた当時でも、問題がある人は2、3割でした。普通の会社であれば、問題がある職員は退職・異動させることができますが、入管ではそういう人がむしろ幅をきかせています。すると周りも、「あいつがやっているなら俺も」といった感じで、問題のある人たちにどんどん感化されていきました。誰もそれを非難せず、むしろ丁寧に対応している人のほうが非難されていました。

いくつか抽出したが、入管が「空気」が支配する空間であることがよくわかる。
その上で、この元入管職員の渡邉祐樹さんは、「入管はもう内部からは変えられない。外から圧力をかけていくしかないと私は思っています。」と結論付けており、ここに少し絶望する。
入管職員にとっても「今が世界<すべて>」で逃げ道がないのであれば、人を死に至らしめてもなお「空気」にしたがうしかないのだろうか。
人の命を奪ってもOKな「空気」くらいは、内側から変えるべき、という声は上がらないのだろうか。


とはいえ、自分が属する集団(企業や家族、遊び仲間)の「空気」に飲み込まれていないか、悪い「空気」を変える努力をしているか、と言われれば、なあなあにして続けている部分は間違いなくあるだろう。
たとえ「今が世界<すべて>」と感じてしまうほどギリギリの生活を送っていたとしても、「今」を変えることから逃げ続けてはいけない。
この本は、大人(作中の登場人物の親たち)に向けては、もっと変わることを求めている部分もあるのかなと思った。


支離滅裂になってしまったが、「空気」をめぐる課題は、今後も折に触れて考えていきたい。