わたしは軍国少女だった。
満州での敗北、難民生活と壮絶な引き揚げ体験。
自身の「戦争」を、いますべて綴る。「昭和」を見つめ、一貫して戦争や国家を問うてきた著者の原点となったのは、一九四五年、十四歳での敗戦体験だった。家族と渡った満州・吉林。敗戦後の難民生活は一年に及ぶ。「棄民」ともいうべき壮絶な日々、そして一家での日本への引き揚げ……。
十四歳という多感な少女が軍国少女となり、日に日に戦争に巻き込まれていく様を、自身の記憶と膨大な資料から丁寧に回顧し綴る。
少し変わった雰囲気を持った本だ。
いわゆる「戦争」に関する本ではあるが、個人の体験がベースとなっているため、俯瞰的に歴史が語られる部分が少ない。
また、澤地久枝さん本人が昔を思い出して書いた文章でありながら、主人公の呼称は「少女」になっている。この、自分に起きたはずのことなのに、自分とは無関係のことのように引いた視点で書かれるので、過剰に感傷的になることもなく、淡々と読んでしまう。
前半で特に印象に残っているのは、敗戦前の学徒動員に関する部分。(「第5章 学徒動員・無炊飯」、「第6章 水曲柳開拓団」)
昭和20年になって、少女の通う学校(満州にある学校)では授業がなくなり、無炊飯(インスタント御飯)の作業を行う。フリーズドライのような過程で保存食を作り、詰めた箱に密封し塗料を塗る。その塗料が、気持ちが悪くなるようなにおいだというのが印象的だ。
無炊飯作業が終わると、農場で働くことになる。校庭に身丈を超えるような大きな穴を掘らされ、そこに馬糞を拾い集める。これもにおいの話だ。特に幼少期は、記憶とにおいが密接につながっているということなのだろう。
そのあと、開拓団に一か月の泊まり込みに行く。満州で暮らした日本人は、豊かな生活を送っていた人が多いようだが、開拓団の暮らしは水道も電気もない生活。それどころか窓ガラスもない「泥づくりの家」だったという。
「泥づくりの家」というのが衝撃的過ぎて、検索するといくつか出てきたがこんな感じだろうか。
citypromotion.okazaki-kanko.jp
アフリカの家も出てきたが、これは、ついこの前、犬山のリトルワールドに行ったときに見た建物と同じだ。
natgeo.nikkeibp.co.jp
そうしているうちに、少女は8月15日を迎える。
敗戦を人づてに聞き「あ、神風は吹かなかったのだ」と思ったという。
敗戦後、少女の生活は大きく変わるが、文章の中に悲壮感は少なく、辛いこともありながら何だか淡々と過ぎていく日々が描かれる。
いや、ひとつだけ、未遂に終わったが、どうしても「いやな記憶」があった。(「第8章 いやな記憶」)
少女はなにも起きなかったとはっきり言える。しかし、あのとき犯されていたら、少女の人生はどうかわることになったのだろうか。
親子関係はこわれ、近隣のひとたちのヒソヒソ話から、級友たちにジワジワと噂はひろまってゆき、傷をかかえて孤独な日々があろうこと、理に合わないと言っても、通らないであろうし、なにもなかったと言って、通るだろうか。あえて、うばわれ、犯されたと言うことがどんなに勇気を必要とするか、少女は想像できる気がする。この「傷」には、時効はないのだ。
あの日のことを、それから生きた歳月に、両親も少女も、ひとことも口に出したことはない。
母には「ありがとう」と言うべきだったのかも知れない。しかし、親も子も、この話題にいっさいふれない日々を送っている。
実は、この場面を読んでも思い出さなかったのだが、読後に、これを完全になぞるような本を読んでいたことを思い出した。
pocari.hatenablog.com
自分のブログを読み直すと、『14歳』と同じ吉林市付近が舞台になっている。
2つの本で状況が大きく異なるのは、中国、ソ連の統治状況がモザイク状になっていたのか、それとも同じ国でも現場の担当によるのか。
澤地さんの本では、中国共産党の支配下に入ってから治安が良くなったのだという。
ソ連軍が撤退し、治安はよくなった。あの日の「当局」のよびだしが中国語でなされたように、吉林市は中国共産党の支配下に入っている。
働いて賃金を得、一日も長く生きのびるため、父はソ連大使館の日やとい労働に通いはじめる。少女にも、勤めに出る話がもたらされる。
太馬路のいちばん大きな四つ角にデパートがあり、たいこ焼の店が出る。その店員にと言われる。月給は四百五十円。
どんなに治安がよかったかの証明のように、父は乗り気であり、少女は喜んで女店員になった。
このあと、中国の内戦が激しくなる中で、少女たちは日本に引き揚げることになるが、中国人との交流も含めて、生活の様子には、明るい面もあり、壮絶、悲惨という感じからは離れている。
一方、敗戦後、満州では、日本からの情報は半ば途絶し、少女が知らないうちに、新しい憲法の草案が出され、新選挙法による衆議院選挙で、初めて女性が選挙に参加するなど時代は激しく動いている。今から考えると、情報が途絶したまま1年を過ごすことなど、とてもできない気がするが。
その後、昭和21年の8月に少女たち家族は、無事に日本に戻る。
このあたりもトラブル続きだった『ソ連兵へ差し出された娘たち』と比べると、同じ満州で敗戦を迎えても、全く異なっていた。満州での敗戦と言えば漫画『凍える手』も読んだが、これもさらに悲惨な話だった。
このように、他と圧倒的に読後感が異なるのは、「少女」が14歳だったからなのかもしれない。昭和20年頃、起きたことに、もしくは、何だかわからなかったことに、イデオロギー抜きに、そのままの眼差しを向けるという、不思議な体験が得られる本だった。
なお、今、時間があるときに*1オーディブルで半藤一利『昭和史』を聴いている。『14歳』の中では、70年後から振り返って当時の政治状況についてコメントする記述もあるのだが、『昭和史』で出てきた話や人物が出てくると、得した気分だ。
また、日本の比較対象としてドイツの負け方について示す部分で半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』も引用が出てくる。
半藤一利は、澤地さんと同じ年の生まれ(つまり敗戦時に14歳)で、鼎談本もあるようなので、これらの本も読んでみたい。
*1:時間がないので全く進まないのですが