Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

F先生作品のような親しみやすいSF短編集~キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』

著者あとがき、そして解説が素晴らしすぎると、自分の言葉で考えなくなるから 、 それはそれで問題だ。
特に短編集は、複数の作品に込められた作者の思いを読み解くのが、読後の「振り返り」の醍醐味ともいえるのに、ここまでしっかりしたあとがき、解説があると…
と地団駄を踏むくらいに素晴らしいあとがき、解説があるので、まずはそのまま引用する。

追い求め、掘り下げていく人たちが、とうてい理解できない何かを理解しようとする物語が好きだ。いつの日かわたしたちは、今とは異なる姿、異なる世界で生きることになるだろう。だがそれほど遠い未来にも、誰かは寂しく、孤独で、その手が誰かに届くことを渇望するだろう。どこでどの時代を生きようとも、お互いを理解しようとすることを諦めたくない。今後も小説を書きながら、その理解の断片を、ぶつかりあう存在たちが共に生きてゆく物語を見つけたいと思う。
(著者あとがき)

作者のキム・チョヨプさんは1993年生まれというから現在27才だろうか。著者近影の写真を見ると可愛らしい女性で、浦項大学の生化学修士号を取得しているというからバリバリの理系の人だ。
ただ、理系の硬さ、面倒くささは微塵も感じさせず、まるで藤子・F・不二雄作品のような素直な「SF」(少し・不思議)で、あとがきに書かれた熱い気持ちはどの短編にもストレートに反映されている。あとがきを最後に読んで、ひとしきり納得した。


彼女の思いを汲み取った解説(文芸評論家イン・アヨン)がまた素晴らしい。

科学技術がそれ自体としてより良い世界を担保しないなら、私たちにとって必要なのは、科学技術の発展が帰結する先がユートピアなのかディストピアなのかという二分法的な問いではないだろう。重要なのは、私たちの生きる世界と複雑に絡み合っているユートピアあるいはディストピアを具体的に想像してみる過程なのかもしれない。その過程において私たちは、これまで「異常」であると規定され、長いあいだ忘れられてきた存在を思い浮べてみることも可能だ。また異なるかたちをした存在それぞれに与えられるべき価値を見出すことも可能なら、科学技術によって誰も排除されず皆が共に生きられる世界に導いてもらえると夢見ることもできる。そのような美しい冒険の旅路を、キム・チョヨプの小説は私たちに示してくれる。

このあと、解説は、短編小説ひとつひとつを「異常」「正常」「共生」のようなキーワードを用いて読み解いてみせる。
本の中では最初に配置されている「巡礼者たちはなぜ帰らない」の解説が特に良い。短編の持つメッセージは明解で、読み解きは難しくないのだが、ここまで分かりやすく言語化されると心地よい。
この短編では、地球とは別の星に建設されたユートピアの「村」を舞台にしている。村の人は成人になると皆、地球への巡礼に旅立つが、主人公デイジーが、毎年の巡礼から帰らない人が多いことに気がつくという話だ。

(略)デイジーは、もしかするとこう思ったのかもしれない。本当のユートピアとは、身体的な欠陥が完全になくなった世界でも、障害を持った人たちだけを隔離した世界でもないのかもしれないと。むしろ障害と差別を、愛と排除を、完全さと苦痛を、共に携えて一緒に悩む世界なのかもしれないと。あるいは、捨て去るべきはマイノリティーたちの身体的な欠陥や疾病ではなく、それを克服すべきものとみなす「正常」という概念そのものなのかもしれないと。


もう、こんな風に書かれると、もう、ここで改めて書くことは何も無くなってしまう。それでも、それぞれの短編に一言ずつ感想をつけてみよう。

  • 「巡礼者たちはなぜ帰らない」:この問いへの答えは、ストレートに本文中に出てくる。書き方によっては陳腐になってしまう「真実」だけど、特徴的なユートピアディストピア設定が、伝えたいメッセージを説得力を持つものにしている。
  • スペクトラム」:地球外生命体とのコンタクトの話。コミュニケーションの取り方が面白く、もっともドラえもん的かもしれない。
  • 「共生仮説」:一番お気に入りの話。「リュミドラ・マルコフには一度も行ったことのない場所に関する記憶があった」から始まり、その場所が今はなき惑星であることがわかる、という序盤。その後の「脳解析研究所」による人間の思考の解析の話が興味深く、2つがつながる展開がスリリング。
  • 「感情の物性」:これは「感情」グッズの話で、技術的には未来、近未来と言わず、今年ニュースになってもおかしくない話。どの短編もその要素はあるが、まさに「思考実験」という意味合いが強く、悩みながら書いている感じが伝わってくる。
  • 「館内紛失」:人々が追悼のために図書館を訪れる近未来の話。「墓」の形が変わりつつあること、AI美空ひばりのような取り組みが実際に起きていることから、今の世の中の延長上に会っておかしくない未来の話。
  • 「わたしのスペースヒーローについて」:明確にマイノリティへの差別を扱った作品。「館内紛失」と同じく、亡くなってしまった誰かの考えを辿っていく話で、このように「他人の靴をはく」行為が物語の中心になっていることそのものが「共生」のあり方へのメッセージになっている。


そして、表題作「わたしたちが光の速さで進めないなら」。
これもタイトル勝ちだと思うが、「巡礼者たちはなぜ帰らない」と同様に、本文中(主人公アンナの台詞)にそのまま答えが書いてある親切設計が良い。

でも、わたしたちが光の速さで進めないのなら、同じ宇宙にいるということにいったいなんの意味があるだろう?わたしたちがいくら宇宙を開拓して、人類の外延を押し広げていったとしても、そこにいつも、こうして取り残される人々が新たに生まれるのだとしたら…
わたしたちは宇宙に存在する孤独の総量をどんどん増やしていくだけなんじゃないか。

どの短編にも共通するが、作中のメッセージは限定的な意味ではなく、もう少し広い意味で取らえることが出来る。
例えばインターネットが世界中に広がり、誰もが自分なりのコミュニティを手に入れることが出来たとしても、直接声の届かない場所に、籠ってばかりの人が増えるのであれば「存在する孤独の総量をどんどん増やしていくだけなんじゃないか」と、やはり考えてしまう。
つまり、これだけ科学が発達しても、すべてに対して万能な力を持つことが出来ているわけではないし、今後もその見込みがない。むしろ悪影響の方が多いのではないかという諦めの気持ちだ。
ロシアがウクライナに侵攻を始めてからのここ数日、「戦争反対」「世界平和」といくら叫んでみたとしても意味がない、という冷笑的なコメントとそれに対するバッシングがネット社会で盛り上がっているが、上の引用における「諦め」は冷笑的なコメントと重なる。


しかし、アンナは自暴自棄になっているわけではない。

「わたしには自分の向かうべき場所がよくわかっているよ」
アンナは毅然としていた。

アンナは、そこに辿り着かないとわかっていながら「向かうべき場所」に向けて飛び立った。
どれだけ「戦争反対」と叫んでみても、言葉そのものには、ロシアの侵攻を止める力はない。
ただ、誰にとっても「向かうべき場所」は同じはずなのだから、毅然とした態度で、ロシアの侵攻に異を唱えるべきだろう。
そんなことを考えた。


その意味では、この物語のタイトルは「わたしたちが光の速さで進めないなら」ではなく「わたしたちが光の速さで進めなくても」であるべきかもしれない。


とても面白かった韓国SF。次は、以前のアトロクで宇垣美里さんが合わせて紹介していた『千個の青』かな。

参考

→『千個の青』は読んでみました!
pocari.hatenablog.com

義時ライジングの流れが理解できた~本郷和人『承久の乱』

今年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送直前の正月に「鎌倉殿サミット2022」という特番(NHKがあり、番組が立てたいくつかの「謎」に対して複数の歴史学者が持論を戦わせていた。
当然、時代考証の坂井孝一さんも出演者の1人だが、司会の爆笑問題をサポートする案内役として出ていたのは、この本を書いた本郷和人さんだった。大河ドラマの背景となっている歴史を『吾妻鏡』などの史実と照らし合わせて推理する行為そのものに興味を持つきっかけとなった、とても良い番組だった。
www.nhk.or.jp


今回、坂井孝一さんの『承久の乱』(2018年12月)と同タイトルの本郷和人承久の乱』(2019年1月)を読んでみると、番組で受けた印象と全く同じで驚く。
生真面目な印象の坂井孝一さんに対して、豪快な印象の本郷和人さん。大学教授には、研究ひとすじのタイプと、それ以上に広報やビジネスの才がある人がいると思うが、まさに二人はその両極端のように感じた。
勿論、このキャラクター付けは中公新書と文春新書というブランドの違いそのものなのかもしれない。とにかく本郷和人承久の乱』は読みやすく、さすが『東大教授がおしえる やばい日本史』の人だと感じた。


この本のポイントは「人」を重点に据えた説明で、第一章の冒頭でも鎌倉幕府の本質を「頼朝とその仲間たち」と一言で言い表す。
その後、「頼朝と…」は「義時とその仲間たち」に移行する。だからこそ、後鳥羽上皇は「義時を討て」=「義時とその仲間たちを討て」と倒幕を目的に承久の乱を起こす、という流れもわかりやすい。
なお、この部分が、坂井VS本郷で意見が分かれるところで、坂井孝一さんは、承久の乱はあくまで北条義時を排除することが目的で倒幕は考えていなかったという説をとる。どうもこの話は、2021年9月のNHK出版新書『鎌倉殿と執権北条氏』で、坂井さんが直接、本郷説を否定しているようで、そちらを読むのも面白そうだ。*1


さて、北条義時がどのような過程で鎌倉幕府を「義時とその仲間たち」にしていったのか、という話は2章、4章に分かりやすく整理されているが、短くまとめたのが以下の部分になる。

鎌倉を舞台に、梶原景時、比企氏、畠山重忠といったライバルたちを次々に謀略で滅ぼし、将軍・頼家までも幽閉した北条時政。その時政に従い、血なまぐさい政争に明け暮れながら、最後は父すら追い落とした北条義時。血で血を洗うサバイバルの最終商社となった義時こそ、知謀と武力、すなわち実力で勝ちあがった「鎌倉の王」であると、東国武士の誰もが認めたはずです。p131:4章

政子はいたものの、北条氏は源頼朝にとっては一番ではなく、梶原景時、比企氏、畠山重忠など有力なライバルが多数いたということがよくわかった。
中でも『吾妻鏡』『源平盛衰記』『曽我物語』などでも別格の存在として書かれ「鎌倉武士の鑑」「理想の勇者」として絶大の人気を誇った畠山重忠大河ドラマでは中川大志)は、強く印象に残る。結局この重忠は、(義時も反対したにもかかわらず)北条時政に無理筋の理由で滅ぼされてしまうので、この後の大河ドラマでは、中川大志の活躍を応援しながら北条時政へのイライラポイントを貯めたい。
さらにこの本の中で承久の乱までの流れの「影の主役」と書かれる平賀朝雅。まんが版日本の歴史だったか、四代将軍の名前として、突如この名前が出て来て???だったが、北条時政が後継者として考えていた人物だという。時政にとっては娘婿だが、そもそも平賀氏自体が源氏の名門で血筋が良いという。
結局、畠山重忠の乱も、この平賀朝雅がかんでおり、戦術の四代将軍の件(牧氏の変)で、北条義時が時政から権力を奪う流れになっているわけだから、かなりの重要人物。
大河ドラマで誰が演じるのか楽しみ。
なお、大河の追加キャスト発表で、気になっていた最終ボスの後鳥羽上皇、そして北条泰時、時房、源実朝が発表。イケメン配役は確定と読んでいた北条時房は、瀬戸康史ということで、予想通り仮面ライダー系のキャストが来ました。(キバは見ていないので、『グレーテルのかまど』の人という印象が強いですが)
www6.nhk.or.jp


ということで、この本では、北条義時ライジングまでの流れがよく理解できました。
「わかりやすく、おもしろく」を重視する本郷和人さんのモットーは、生真面目なタイプの坂井孝一さんとは合わないのかもしれないですが、一読者としてどちらも楽しく読めました。
人の名前も覚えながら坂井、本郷それぞれの続刊や関連本を読み進めたいです。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:なお、実朝暗殺についても、義時が大きく関与していたという本郷説と、義時との関連は薄いと考える坂井説は大きく異なる

「逃げちゃだめだ!」ではなく~千早茜『ひきなみ』


この感じ!この感じだよ!小説を読んでる感じは!そう思う読書だった。

これまでずっと自分にとって「面白い」のは、どういう本だろうというのが読書のテーマで、今もそれは変わらないが、今年初めの「フィクションが社会に与える影響」論争(後述)を受けて、小説家は何を考えて作品を書いているのか、という部分も気になってきた。角川のホームページにあった『ひきなみ』のインタビュー記事は、その興味に十分応えてくれる内容だったので、今回、これを長く引用する。

kadobun.jp


インタビューの中で特に興味深く感じたのは、千早茜さんが、登場人物の行動や心理について「~だと思う」と友人の話のように答えるだけでなく、自作を「読み返して胸が痛くなりました」と言う部分。そうか、そこまで作家の手を離れるのか、と思ったが、もっと直接的に書いてある部分があった。

――「陸」の部は、「海」から約二十年後です。葉は入社十年の会社員で、観劇が趣味。SNSに載せている感想にはいいねもつきます。真以は、いわゆる職人の世界で生きていて、それがとっかかりとなり、葉と真以は思いがけない再会を果たします。しかし、すんなり打ち解け合ったりしません。特に、葉は子ども時代同様、真以の本心をつかみかね、悩むこともありますね。

千早:ふたりがもっと腹を割り合ったらどうか、とは担当さんからも指摘されたんです。私自身も、まどろっこしいな、「寂しかったよ」とか素直に言うシーンがあってもいいよねと思うんですが、ふたりは思うようには動いてくれないんです。『さんかく』という三角関係を描いた作品でもそうでしたね。じれったいと思いつつ、自分の好きなようにはできない。書いているときは、何よりも整合性を優先しています。こういう人物はこの程度では態度を変えないとわかっているので、そこまでのプロセスがきちんと踏めていないとどんなに筋を進めたくても動いてはくれない。つくづく自分は創作物の奴隷で、書くもののいいなりにしかなれないのだなと思います。

葉と真以が、心を通わせていない雰囲気は、前半の小学生時代もだが、後半の再会後は本当にもどかしく思っていた。が、作者自身が「まどろっこしいな」と考えているのでは仕方がない。インタビューでは、2人の関係性についても「言葉にしにくい関係性」を大事にしたいという言い方をしており、これも本を読んだ印象と近い。

――関係性の物語を多く書いていらっしゃいますね。本作でも、葉と真以の間にあるのは友情だと言い切れないというか。

千早:我ながら、しつこいくらい関係性の物語ばかり書いていますね。ありとあらゆる関係性を、許される限りそればかり書いていたいと思っているくらいです(笑)。女同士の友情や、シスターフッド(連帯)の物語が流行っていますが、私は言葉がつけられてしまった関係にはそれほど興味がないんです。むしろ、同志でも友だちでもない、言葉にしにくい関係性を見つめていきたいのかも。


インタビューでは終わらせ方やメッセージについても話が及んでおり、ここも興味深い。

――この作品でどんなエンディングにするか、あらかじめ決めていらっしゃいましたか。

千早:小説として、最後くらいすっきりしたオチとか、苦しんでいるひとのための解決策とか、明示できるならやってみたいとは思うんですけれど、難しくて。ハラスメントは労働基準監督署に訴えたほうがいいよというのがいちばんの正論だとしても、正論が鬱陶しいとか、正論だけではどうにもならないとか、そういうときもありますよね。「海」の部で葉が真以の母親のストリップを一緒に見に行ったときの帰りに「きれいだったね」と言うんですよね。そういう邪気のないやりとりの方が気持ちを楽にさせてあげられるときもある。いえ、そういう向き合い方しかないんじゃないかとも思ったりしました。

読み終えた後、改めてポイントを読み返してみた。
確かに、最後はハラスメントの解決策の話に収束しており、ある意味ではスッキリする終わり方になっている。しかし、苦しいところからどう抜け出すかという以上に、苦しんでいる人にどう手を差し伸べられるか、と言う部分がもう一つのテーマとなっている。

葉は真以を助けたかった。
長野くんは同期女子を助けたかった。葉も助けようとした。
真以は「お兄さん」を助けたかった。
平蔵おじいさんは奥さん(真以の祖母)を助けたかった。


一方で、皆が逃げたかった。
それについても語られているが、口数の少ない真以が葉に畳みかける終盤のシーンの圧が凄い。

「わたしはずっと自分が女であることが嫌だった。(略)
葉の言う通り、逃げたい気持ちはずっとあったよ。でも」(略)
「別に逃げなくても良かった」(略)
「人の目を変えるのは難しい。みんな、見たいように見る。児玉健治とのことでもよくわかった。わたしと彼が思う真実も違うみたいだ。逃げるってことは、自分じゃない人間の見方を拒絶しているようで、受け入れてしまっている。逃げて選んだものは選ばせられたものだから」(略)
「手を動かすのはいい」(略)
「手でなにかを作るっていうのは、ひとつひとつの工程を順番に進めなきゃいけなくて、ひとつも飛ばすことはできない。逃げることはできないんだってわかる。手を動かして、自分がきれいだと思うかたちを作っているときは、逃げて選んでいるかたちはひとつもない」(略)
「わたしの作品を見て、誰かが『女らしい』と言ったとしても、それについてわたしはもう肯定も否定もしない。その人の見ている世界はわたしの世界とは関係ないから」(略)
「偏見や悪意には抗うけれど、そのためにわたしがわたしの性別を拒絶することは違う」p245-246

つまり真以は「逃げない」ことが重要なんだと説く。葉は、それをそのまま受け入れられない。

私は梶原部長の嫌がらせを拒絶することも無視することも笑い流すこともできない。どう捉えて、どう対処したらいいのか、答えがみつからないままだ。
「闘わなきゃいけないのかな…なんで、私なんだろ…」

これに対する回答は難しいと思う。
ちなみにお節介な後輩の長野くんの回答は、「闘うべき。敵を傷つけることを第一に考えて」というところだろうか。
真以の答えはこうだ。

「闘わなくていいよ」(略)
「闘えなんて、誰かに言うのも暴力だよ。聞かなくていい。女性の代表になんてならなくていい。どうにかしようと思われなくていい。自分を変えようとしなくていいよ。間違っているのは相手なんだから」
「じゃあ、どうしたら…」
葉は葉のやり方で、生きて

これを受けた葉の行動は「闘って」いるようにも見えるし、「解決策」になっていないようにも見える。
でも、長野くんとのやり取りから、真以のアドバイスと整合した答えを葉は自ら見出していることがわかる。

「思う壺じゃないですか」と長野くんは溜息をついた。「あんなクソに正攻法で歯向かうっていうんなら、ただの馬鹿ですよ」
「そうだね」と頷く。それでも、いままでの私は梶原部長の目を見返すことすらしなかった。俯き、過ぎるのを待っていた。その状態よりはずっと生きている気がする。もう目を逸らすのはやめる。p257

「葉のやり方で生きて」という曖昧な言葉の意味の補助線は、和紙職人となった真以のセリフの中にもあった。
「手を動かして、自分がきれいだと思うかたちを作っているときは、逃げて選んでいるかたちはひとつもない」。
長野くんのネット頼みの「炎上計画」は、自分の手を動かして、自分がきれいだと思うかたちを作る方法とは最も離れたもので、小説の構造的には、長野くんのアドバイスの対比があるからこそ、真以の言葉が効果的に響く。


いや、すべてにおいて、それが言える。平蔵が「逃げたかったもの」「助けたかったもの」が戦争や、呉の特殊慰安施設に関連する重い内容であることから個々人の問題と、社会全体の問題が関係していることも示唆されているので、読者も大きなものと向き合わざるを得ない。
とにかく用意周到で精緻なつくりの小説だと感じた。そんな小説への感想・批評に対しても、「わたしの作品を見て、誰かが『女らしい』と言ったとしても、それについてわたしはもう肯定も否定もしない。その人の見ている世界はわたしの世界とは関係ないから」と真以に先回りして言わせているように見える。


インタビューの終わりでは、「私自身にそんなにメッセージがあるわけではない」と言っているけれど、記事の中で述べられている小学生のときにザンビアから帰国した時に感じた日本の閉鎖的な学校空間の話を読めば、「モノ申したい!」という気持ちは伝わってくる。一方で、作者本人が読み返して作品のテーマを推定する形にはなっているが、「たくさんの道が作られていけば、この先の社会も変わるのでは」という願いをタイトルに込めていることも分かる。

――ところで、タイトルにもなった「ひきなみ」というのは、船が起こす白波、航路の跡のことだそうですね。

千早:島も島に暮らす人も、海に囲まれているから閉ざされているように見えますが、海の上に船がつける道があると思えば閉ざされていないとも言えます。私は、この作品を読み返してみて、見えないところに道を作る物語だと思いました。インターネットなども、ある意味では見えない道ですよね。真以が駆けたテーブルの道も。そういうたくさんの道が作られていけば、この先の社会も変わるのではないかなと期待しています。

――最後に、読者へひとことお願いします。

千早:こういうインタビューで、いちばん伝えたいことはなんですかと聞かれることがあります。でも私自身にそんなにメッセージがあるわけではないんです。逆に、この小説で何が伝わってしまうんだろうとそちらが気になります。特に、この作品はいろいろな要素が入っていて、男女間の友情とか、香りと記憶の相関だとかテーマがはっきりしているわけでもないので、どこがいちばん強く伝わるんだろう、読んでくださった方はどんな物語として受け止めてくださるのだろうと、どきどきしつつ楽しみにしています。


今年1月に、劇場版の『SHIROBAKO』の話に端を発した論争の中で「多くの創作者は『社会に影響を与えよう』などと思って作品を作っていない」という発言をした小説家の方がいて、自分はショックを受けた一方で、その人の作品はあまり好きではなかったので納得する部分もあった。

togetter.com


今回、千早茜さんのインタビューを読んで、社会に影響を与えようと思っているのは小説家自身ではなく、登場人物なのだと少し考えをあらためた。
今の社会から辛い、逃げ出したい、という登場人物の思いが強ければ強いほど、社会に影響を与える小説になる。
小説家の仕事というのは、イタコのようにそれを汲み取って書き出すのことなのかもしれない。
そして、自分の思う、面白い小説は、(社会に影響を与えるかどうかと関係なく)登場人物の思いが真摯で、その思いを抱えている人が自分の身の回りにもいると感じさせる小説だ。『ひきなみ』は、まさにそんな小説だった。
千早茜さんの本はもっと読んでいきたい。

次はこのあたりでしょうか。

レジ応援お願いします!~町田康『ギケイキ2』


相も変わらずの『鎌倉殿の13人』関連作品。
まだドラマには出ていない源義経が主人公で、南北朝時代から室町時代初期に成立した『義経記』を元に町田康がいわば超訳した小説。
だいぶ前に一巻を読み今回は2巻目。
pocari.hatenablog.com

ダウナー義経

2巻の印象は実は1巻とは大きく異なる。
1巻は、「早業」に代表される超人的な能力を持った義経が向かうところ敵なしで、仲間を増やしながら快進撃し、そしてついに兄・頼朝に会って平家打倒へ!という、いわば「義経ライジング」。
ところが2巻では、その「ライジング」はすぐに消え失せ、全編に渡って「ダウナー」な空気に覆われていて、まさに、「奈落への飛翔」の副題通りの内容だ。


何故こうなってしまうのか。
その大きな理由はひとえに頼朝の存在にあるのだが、物語上の断絶による影響も大きい。


というのも、2巻冒頭で頼朝との出会いが描かれたあと、突然平家は滅亡してしまっているのだ。つまり、一の谷の合戦も壇ノ浦も描かれない。
文庫巻末の高野秀行の解説を読むと、一番の盛り上がりを描かないのは、そもそも元の『義経記』がそういう話だからとのこと。つまり『義経記』は、『平家物語』などで源平合戦が一般常識になってから登場したので、そこで描かれなかった話がメインになっており『裏・平家物語』『源平合戦スピンオフ』という意味合いが強いらしい。


さて、成り立ちは別として、義経活躍のメインのシーンは描かれないことで、「ダウナー義経」の幕が開く。
武勲を挙げた義経は、鎌倉に凱旋報告に来たが鎌倉の目の前(腰越)で足止めを食う。このシーンから再開となる。
義経は、頼朝が自分自身を疎ましく思っていることは既に分かっている。しかも、1巻からそうではあるのだが、物語は21世紀の現代から義経自身が 800年以上前を振り返って語る、という形式になっている。結末を分かっている義経が、梶原景時の悪口を(頻繁に)入れたりしながら、くどくどと語る、この形で話が明るく成りようがない。


腰越から京都に戻った義経を討つべく、頼朝が土佐坊正尊(とさのぼうしょうぞん)を差し向ける話が中盤の山場なのだが、頼朝の意図が分かっている義経は飲んだくれて、もう完全にダメな人になっている。
そんな中でもスーパールーキー喜三太の孤軍奮闘の大活躍、そして遅れてきた武蔵坊弁慶の協力による勝利、その後の「都落ち」行でも、常陸海尊片岡八郎経春など、チーム義経の強さを味わうことは出来る。おかげで義経もやる気を出す。
高野秀行も触れているが、この巻の名シーンの一つは、元々ぺーぺーだった喜三太が弁慶を「店長」と呼び、援軍を呼ぶよう命じられて「現在応戦中ですが大変、混雑しております。レジ応援、お願いします」と叫ぶ場面だ。)
しかし、一行が乗った船は嵐に見舞われ大変な状態となり、静御前とは別れることになる。2巻ラストは静御前が吉野の山寺で捕まるところまで。やっぱり辛い。このあと彼女は北条時政経由で頼朝に会い、舞を舞うことになるのか…。

中世社会がわかる『ギケイキ』

文庫巻末解説で高野秀行は、清水克之・明治大学教授(日本中世史専攻)の言葉も挙げながら、『ギケイキ』には中世人の心性と中世社会の仕組みがひじょうに鋭く描かれていると主張する。
実際、この時代の制度について現代語で分かりやすく書かれている場面は多い。


例えば、義経が正尊を殺してしまい、頼朝との対立が決定的になってから頼朝討つべしの「宣旨(せんじ)」をもらいたかったという話。頼朝が持っていた「令旨(りょうじ)」との違いをこう説明する。

宣旨とか綸旨というのは天皇が出す。院宣というのは上皇(含む法皇)が出す。令旨というのは皇太子とか皇后とか親王が出す。
つまり、宣旨とか綸旨とか院宣に比べると一段落落ちというか、宣旨とか綸旨とか院宣がロイヤルストレートフラッシュだとしたら令旨はただのストレートとかフラッシュみたいな感じでカードとしてはかなり弱い。p257

この物語前半・正尊との話のキーとなる起請文(きしょうもん)の説明。

神に嘘を言っていないことを誓った文書を提出する、と言い出したのである。というと現代の読者は、「あ、なんだ、そんなことか」と思うに違いない。けれどもあの頃、起請文は実際に効力があった。具体的に言えば、起請して神仏に誓ったうえでこれを違えた場合、文中にある通り、というのは、これが嘘だったら滅ぼしてください、と書いてある通り、その人は確実に滅んだ。これが形骸化したのはあれから大分と時が経ってからの話だ。p100

起請文は、義経が頼朝に向けて書いている手前、他の人が書いた起請文であっても「実際の効力」があってもらわないと困る。「テキトー」なものではないのだ、という話は、このあと何度も出てくる。
さらには、義経一行が乗った船は平家の死霊から成る黒雲にも見舞われるし、中世社会が信仰や怨霊が支配する世の中であるということを改めて感じる一冊だった。


なお、義経を討ちに京都に行った土佐坊正尊が見つかって言い訳に使った(義経のところが目的地ではなく)「熊野詣に向かう途中だった」。
北条政子が卿二位のところに密談をしに行く際にも同じ言い訳をしていたことを思い出した。鎌倉から熊野までなんて大変な道のりだが、同時代の話で出てきているのは当時の流行なのか、このあとずっとそうなのか。熊野詣にも興味が出てきた。
それとは別だと思うが、先日ランニングで大山街道を走ったときに大山詣りも気になる。
色々と興味は広がるが、巻末解説で高野秀行が触れている、『ギケイキ』も扱ったこの本は読んでみたい。

やはり目立たない北条義時~坂井孝一『承久の乱』


今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代考証担当の坂井孝一さんの著書。
ということは、歴史の勉強になるだけでなく、これから大河ドラマで描かれるストーリーを探る上でもヒントになるだろうと思って読んでみた。

既に漫画2冊で予習済*1みということもあったが、非常にわかりやすく書かれており、理解が深まった。
本書の文章を引用しながら、主要登場人物の印象について、これからの大河ドラマへの期待も込めながら綴ってみた。

源実朝

坂井孝一さんは、本書の前に源実朝の本を書いているということもあって、もしかしたら抑え気味にしているのかもしれないが、熱が入っていることがよくわかる取り上げられ方。悲劇の天才歌人という一般イメージから離れて、幕府を治める将軍としての実朝について理解できた。
特に、「東国の王権」構想は興味深い。

尊敬する亡父頼朝と同じく王権を意識し、また自分に子供ができないと自覚した実朝にとっても、名付け親であり政治・文化の模範である後鳥羽の皇子を将軍に推戴し後見するという策、つまり王権という公家政権の伝統的権威を新興のの武家政権に取り込み、幕府をいわば親王に譲ってその後見になれば、後鳥羽が譲位して自由を謳歌したように、実朝も前将軍の権威を保ちつつ、将軍が果たすべき公務から解放され、遠隔地に足を延ばすなどの自由を謳歌できる。(略)いわば、実朝による「幕府内院政」である。p96

一方で、2冊の漫画の中でも脈絡なく挟まる、謎の渡宋計画がかなりよくわからなくて笑ってしまうのも確かだ。
本書の中でも「実朝の夢は実によく当たった。一種のカリスマ性を醸し出すほどであった。」(p90)*2と書かれているが、夢のお告げで巨大な船を建造し、それが浮かびすらしない…。
このエピソードが大河ドラマでどう取り上げられるか。そして、この不思議な雰囲気を演じられる俳優が誰なのか。坂井孝一さんが専門家として一番思い入れのある人物であろうことも含めて気になる。
ただ、京都から正室を取り、側室を取らず、子を持たずに若くして亡くなってしまう、という生涯は徳川家茂と重なる。とすると、『青天を衝け』で家茂を演じた磯村勇斗(針ネズミ)が似合う気もする。

後鳥羽上皇

日本の歴史の漫画2冊で、後鳥羽上皇が文武両道で実朝にも目をかけていたという基本的な部分は把握できていても、実朝暗殺後、承久の乱に進むまでの唐突な心変わりがよくわからなったが、この本を読むと経緯がよくわかった。


特に漫画2冊で抜けていた重大な事件は、大内裏焼失だ。
実朝横死のあと「次もしかしたら俺が将軍かも」と思っていた摂津源氏の名門で政所別当に就任していた源頼茂(よりもち)は、三寅が後継将軍となり「切れて」しまった。召喚に応じない頼茂を追討するため在京武士が駆け付け合戦に及んだが、籠って火をつけ自害し、その火が広がったという。

しかし、そもそも頼茂を追討しなくてはならなくなった責任は、実朝の暗殺を許し、将軍職をめぐる内紛を起こした幕府にある。摂関家の子を後継将軍にするという妥協までしてやったのに、権力闘争を都に持ち込むとは何事か。後鳥羽は思いをめぐらすうちに、コントロール不能な実朝亡き後の幕府に敵意を募らせていったのではないか。p121

大内裏が焼失した原因は幕府の内紛が都に持ち込まれたことであり、幕府は地頭を指揮して積極的に再建に協力すべきである。そう後鳥羽は考えたであろう。にもかかわらず、地頭の抵抗を幕府に訴えても埒があかない。後鳥羽からすれば、今の後鳥羽からすれば、今の幕府はコントロール不能なのである。
もともと頑健な肉体と抜群の身体能力を持ち、乗馬・水練・笠懸などの武技に秀で、自ら太刀の焼き入れをしたと伝えられる後鳥羽には、幕府や武士の存在そのものを否定する気などなかったと思われる。ただ、日本全土に君臨する王が、幕府をコントロール下に置けないのは問題であった。なぜコントロールできないのか。幕府の中に元凶がいるからである。その元凶とは誰か。p135

で、その元凶とは北条義時なので、北条義時を追討せよというのが承久の乱の始まりだ。ただ、後述もするが、この本の中でも北条義時は存在感が薄く、なぜ元凶なのかよくわからなかった。

三浦義村北条泰時北条時房

漫画2冊では、何度か「裏切者」として名前が出て気になっていたのが三浦義村和田義盛の乱の際はまさに裏切者としてだが、公暁による実朝暗殺の黒幕説にも名前が出る。(公卿の乳母夫=後見人が三浦義村

しかし、承久の乱の序盤から重要な役割を担う。本書での評価も以下の通り。

和田合戦の時も、三寅下向の方針を打ち出した時も、キーパーソンは三浦義村であった。和田合戦では同族の和田義盛との約諾を破り、承久の乱でも弟胤義の勧誘に乗らなかったことから、義村は権謀の人と評価されがちである。(略)
しかし、別の角度からみれば、義村は一貫して北条義時の側に立っており、ブレはない。p169

これを読むと、大河ドラマ三浦義村山本耕史が演じることに納得感が生まれる。
そして、承久の乱の戦全体と戦後処理で重要な役割を果たしたのも北条泰時北条時房三浦義村だったというから、大河ドラマでも出ずっぱりになるのだろう。実質的に主役に近いのかもしれない。


なお、ここで挙げた3人のうち3代目執権で御成敗式目で有名な北条泰時は義時の息子として知っていたが、北条時房はかなり気になる人物。都の教養を身につけ、蹴鞠を得意として後鳥羽上皇からも一目置かれたという。北条義時の12歳下の異母弟で、泰時とは、承久の乱でともに活躍し、ライバル関係にもなったという。Wikipediaを見ると「容姿に優れた人物」などとも書かれている。仮面ライダー枠として、ドラマ『最愛』が素晴らしかった高橋文哉(ゼロワン)を期待したい。

追記:よく考えると、先に挙げた磯村勇斗仮面ライダー枠であること、また、年齢について改めて精査が必要なので考え直してみる。生年を調べると…
北条政子:1157
北条義時:1163
北条時房:1175
北条泰時:1183
源実朝:1192
仮面ライダー俳優で固めてしまえば、実朝はやはり磯村勇斗北条時房高杉真宙北条泰時が高橋文哉でどうでしょうか。

北条義時

この本を読むと、やはり北条義時は地味だ。
そもそも言及が少なく、承久の乱では北条義時は鎌倉にいただけだったということがわかった。

一か月前の五月二十二日、嫡子の泰時を先頭に鎌倉方の軍勢を出撃させてからというもの、義時は戦勝と世の平安を願う祈祷を鶴岡八幡宮勝長寿院永福寺大慈寺で行わせてきた。p201

館に雷が落ちて凶事ではないか!と不安ばかりが募っていたとのことで、とても格好悪い。


本の中では、京方が「後鳥羽ワンマンチーム」だったのに対して、鎌倉方が「チーム鎌倉」として結束力・総合力を十二分に発揮したことが勝敗の分かれ目だったとされているが、「チーム鎌倉」に占める義時の割合はいかほどだったのだろうか。
なお、大河ドラマでは、二代将軍頼家を修善寺に幽閉し殺害する流れや、関連して比企氏を滅亡に追い込み、また、実朝暗殺後に源氏の血を引く者を次々と誅殺した北条の怖さがどう描かれるかはもっと気になる。
もしかしたら北条義時はそういった冷酷な部分で評価されているのか。

とにかく義時の凄さが感じられない本だったが、このあたりは、最近出たこちらに書かれているのかもしれない。
引き続き大河ドラマを楽しみながら、歴史を勉強していきたい。

そして、もう一冊の新書『承久の乱』も。

*1:なぜ北条義時は「学習まんが日本の歴史」に登場しないのか~『鎌倉殿の13人』時代の日本史漫画2冊読み比べ - Yondaful Days!

*2:ちょうど今日放送された第三話では、頼朝が、夢枕に立った後白河法皇からのお告げがきっかけで挙兵の決意をする場面が出てきた。怨念や祈祷、夢などがドラマの中でどう取り扱われるのかは楽しみ。

なぜ北条義時は「学習まんが日本の歴史」に登場しないのか~『鎌倉殿の13人』時代の日本史漫画2冊読み比べ

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が始まったこともああり、小中学生時代に読んでいた『学習まんが少年少女日本の歴史』(以下、小学館版)と石ノ森章太郎『新装版マンガ日本の歴史』(以下、石ノ森版)を比べて読んでみた。

同じ内容のものを2冊読むのは面白い。だけでなく、以前も不思議に思った「小学館版は何故、主要キャラクターで登場しない人がいるのか」についても少し突っ込んで考えることが出来た。*1
ざっくり言えば、(ビリギャルが推薦するほど)小中高の「学習」を意識した小学館版に対して、石ノ森版は、物語としての歴史の面白さを重視しているということになるが、以下で簡単に説明する。

なぜ義時は「まんが日本の歴史」に登場しないのか

『鎌倉殿の13人』で主人公となる北条義時は、小学館版では登場しない。
これは、おそらく時代区分ごとに、「似顔絵」としてのビジュアルのインパクトを強く印象付けるメインキャラクターを絞っているためだ。
そして、それは、中学校の学習内容と比較したときに過不足ない内容を限られたページで、という制約条件を強く意識しているのだと思う。
たとえば、この期間の歴史的重要事項、1219実朝暗殺、1221承久の乱、1232御成敗式目の中で、御成敗式目を成した北条泰時の前の世代の北条氏としては、政子と時政を出せばよく、義時は不要だ。実際、「石ノ森章太郎」版では義時の顔は出ているし、名前は何度も登場するが、書き文字での説明は「義時=政子体制」となる。二人のうちで目立つのは政子なので、わざわざ義時は顔を出す必要はないというのが小学館版の判断なのだろう。
なお、このシリーズは目次部分で主要人物の顔が出るが、上に挙げた北条3人はいずれも登場する。(繰り返すが義時は登場しない)
f:id:rararapocari:20220116152654j:plain
また、そもそも承久の乱は、北条義時が朝敵と名指しされて戦が始まったが、もう一つ和田義盛(鎌倉殿の13人の1人。ドラマでは横田栄司)が義時を討とうとした「和田合戦」についても、小学館版では、義時の顔を全く出さずに話を進める強引さがあり、徹底している。*2
f:id:rararapocari:20220116152708j:plain

卿の二位(卿の局)

石ノ森版で目立つのは、後鳥羽院の取りつぎとして絶大な権力を持ったと言われる、乳母の「卿の二位」(藤原兼子)の存在だ。
第3章と第4章の間に「間章 女人入眼(にょにんじゅがん)の日本国」という章を設けて、北条政子と卿の二位という東西の女性実力者の歴史的会見(1218年)について取り上げているが、彼女の存在は大きかったようだ。
二人の会見では、実朝の世継ぎが見込めないことから、次の将軍を「皇子将軍」としようということで話が決まる。しかし、その後1219年に実朝が暗殺されたことをきっかけに、この話がご破算になり、さらにこじれて承久の乱になる。
f:id:rararapocari:20220116152727j:plain


小学館版では、この流れは描かれておらず、後鳥羽院が実朝に目をかけ、和歌(新古今和歌集後鳥羽上皇勅撰和歌集)についても、面倒を見てやろうとしていたことが描かれる。可愛がっていた実朝が死んでしまったので幕府との対立関係が顕著になったという流れだ。
石ノ森版の解説(歴史学者村井章介さん)では、後鳥羽上皇についてこう書かれている。

彼はなんでもできる百科全書的な人間で、『新古今和歌集』の編集をリードしたのをはじめ、蹴鞠、管弦、囲碁、将棋などにも堪能で、朝儀の故実にも詳しかった。(略)
注目すべきは彼が武芸を好んだことで、みずから刀の鍛造もやったといわれる。

刀の鍛造!
幕府側の人間だったとしても驚きなのに、朝廷側でそんな人がいるとは…。


なお、先日、Twitterでも友人と話をしたが、ドラマ『鎌倉殿の13人』で誰が後鳥羽上皇を演じるか、というのは気になる。生まれ年は以下の通りなので、後鳥羽院が義時よりも17歳下ということを考えると、小栗旬よりも少し若い役者がやることになる。*3
北条政子 1157
北条義時 1163
後鳥羽院 1180
源実朝 1192
敵役のメインキャラクターということもあり、ある程度名の知れた俳優であることを考えると、中村倫也はいい線だと思う。NHKが積極採用するかどうかはわからないが、東出昌大とかもいいんだけど…。

政子の母子関係、父娘関係

もう一つ、石ノ森版で面白かったのは、政子の母子問題、父娘問題の顛末がどちらも似た図式になっていること。
不良息子の源頼家は、息子の一幡の待遇への不満から、病中にもかかわらず北条を討とうと決める。これは頼家の妻(若狭局)とその父・比企能員(鎌倉殿の13人の1人。ドラマでは佐藤二郎)の差し金で、結果として比企一族はほぼ全滅、頼家は出家させられる。
北条時政は、やはり後妻の牧の方(ドラマでは宮沢りえ)にたぶらかされて、1205年に、忠臣・畠山重忠を無実の罪で討ち、実朝暗殺も企てる。これが発覚して時政は出家させられ、表舞台から去り、義時=政子体制が確立する。
二人とも身内であることを考えると、政子は本当に頼朝第一で、父や息子には、それほどの愛情は向けられなかったのだろうなと感じた。


このように一連で見てみると、やはり、『鎌倉殿の13人』の時代の実質的主人公は北条政子であることを強く感じる。没年も義時は1224年、政子は1225年でほぼ同じながら政子の方が少し長く生きているし、義時が日本史の中では目立たないキャラクターであることがよくわかる。
『鎌倉殿の13人』の初回でも、義時(この時点では13歳)が「このまま平家の世の中でもいいんじゃないですか」みたいなことを言うが、あまり熱くないキャラクターだからドラマの主人公とするのに面白いのかもしれない。
この時代はどんどん関連作を読んでいきたい。

*1:以前、維新の時期のを読んだら木戸孝允がほぼ登場しないことを不思議に思った。

*2:なお、小学館版のすごいところは、「行間」に色々な歴史事実や解釈が含まれた箇所が多いこと。勉強してから読むと、「あ、さらっと書いているここには深い意味が…」と気づくことがよくある。

*3:勿論、朝ドラで深津絵里が10代の役を長く演じているように、俳優の年齢を特に気にする必要はないという考え方はある

熱くなれる新書~中川裕『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』


これは名著。

タイトルから見ると、漫画『ゴールデンカムイ』の謎本、考察本の類かと思ってしまうところもあるが、著者は『ゴールデンカムイ』のアイヌ語監修を行っている千葉大学文学部教授で、いわば「中の人」。

ただ、その教授も1955年生まれで自分よりも20も年上の人であることから、偉い先生の「ご高説」を伺うような本になっているのかと予想したが、全くそのようになっていない。

この本は、著者の中川裕さんの、アイヌ文化の専門家としての立場、『ゴールデンカムイ』の制作裏話を教えてくれる「中の人」としての立場、そして何より、『ゴールデンカムイ』の物語を楽しむ読者としての立場、3つの立場のバランスがよく取れた本になっていると思う。


中川さん自身、序章で野田サトルゴールデンカムイ』がいかに特別な漫画であるかについて、ストーリー、演出力、作画技術、魅力的なキャラクターを挙げたあと、以下のように書いている。

それに加えて、私たちのようなアイヌ文化に興味を持ち続けてきた人間にとっては、特別な意味をもたらす漫画でした。

ゴールデンカムイ」はそれまでの漫画と違い、明治末期のアイヌ社会を真っ向から漫画の中に組み込み、強い意志と高い能力を持ったアイヌを何人も中心的キャラクターとして登場させながら、高度なエンターテインメント性で広い読者を獲得していった、初めての作品だと言えます。

本書は、著者の中川さんが指摘する『ゴールデンカムイ』という作品の間口の広さ、エンターテインメント性は出来るだけ生かした形で、その上にアイヌ文化の解説がついているという絶妙のバランスのもとに出来ているように感じる。

このことは、あとがきでも書かれている通りで、本の中での「アイヌ文化」と「ゴールデンカムイ」の比率は、専門家なら8:2、7:3くらいにするのが普通だと思うが、この本は5:5もしくは4:6くらいの比率になっている。

ゴールデンカムイ」においてアイヌはひとつの素材であり、そこにはフィクション*1も多々含まれています。だから本書のタイトルも『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』なのであって、『「ゴールデンカムイ」で学ぶアイヌ文化』ではありません。でも、この本はどっちからどっちにでも行けるようになっています。


ということで、一旦まとめると、この本は、読めば漫画『ゴールデンカムイ』を読み直したくなる、そして、中川さんの指摘を受けて動作やセリフを追加した部分もあるというアニメを見返したくなる名著で、本編完結後には、必ず続編をつくってくださいと切実な気持ちでお願いをしたくなる。

新しいアイヌの未来

扱われているアイヌ文化について、ここで一つ一つ取り上げることはしないが、8章で語られる「アイヌ語の現在そして未来」という項がとても熱い内容だったので、それについて。

母語としてのアイヌ語が話せる人の数はそれ*2からも減っていますので、母語話者としてのアイヌ語話者は、もういないと言ってもよい状況です。
しかし、母語話者の数にこだわる必要はありません。英語が世界で最も力のある言語であるのは、母語話者の数が多いからではありません。母語話者数で言えば中国語のほうがはるかに上です。英語の力の源は、英語が母語ではない世界中の人が英語を学ぼうとすることにあるのです。そして、学ぼうという力が働けば、消滅危機と言われた言語でも力を取り戻すことができます。ハワイ語がそのとてもよい例です。
ハワイ語1893年アメリ海兵隊によってハワイ王国が崩壊させられ、1900年にハワイ諸島全体がアメリカに併合されたことにより、母語話者がほとんどいなくなるという状況に陥りました。しかし、その後ハワイ大学を中心に復興運動が進められ、現在、ハワイ島には幼稚園から大学まで、完全にハワイ語だけで授業を行い、教員同士の会議までハワイ語で行うというような状況ができあがっています。(略)家に帰れば英語で生活をしているのですが、ハワイ語を身につけることによって、自分たちの歴史や文化に誇りを持つことができ、ハワイ人であることに胸を張って生きる社会を作りつつあるのです。

このあと、アイヌ語もその道を目指して取り組んでいるという話が出ている。
義務教育の過程の中で行うのは問題があるだろうが、興味・関心を持った人がそこに積極的にアクセスして学んでいける状態を作ることが出来れば、母語話者がいなくなっても、アイヌ文化は滅びない、ということだろう。
実は『ゴールデンカムイ』という作品は、アニメで途中まで見てしばらく時間が経った今年の夏に、WEB上で全話無料キャンペーンがあり、一気に読んだのだが、一番感動したのは、樺太に移ってから、アシリパアイヌ文化をどう遺し伝えていくかを考えていく場面だった。
一線で活躍するアイヌ文化の専門家と、青年漫画誌にのっているアクション漫画が、同じ問題意識で動いているところに、とても熱いものを感じる。8章の締めの一文はそのまま物語の本編に続くものになっているのだ。

アシリパという名前は「未来」と読むこともできます。彼女が現代に生まれたら、今いる人たちとともに、新しいアイヌの未来に向かって突き進んでいくことでしょう。


なお、本の中にはコラムが2つ挟まれており、それぞれ、小樽市総合博物館館長と札幌大学教授が別々の視点から『ゴールデンカムイ』という作品を絶賛している。
それほどまでに専門家に愛され、期待されている(にもかかわらず、他には類を見ないほどの変態キャラクターが頻出する)漫画『ゴールデンカムイ』が、このあとどのように完結を迎えるのか楽しみであり、終わってほしくないという気持ちもある。

そして、この『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』を読んで、ウポポイ(2020年にアイヌ文化の復興・創造・発展のための拠点として開業した施設:札幌から約1時間)にも行ってみたくなった。
勿論、関連書籍も読んでみたい。安心と信頼のヤマケイ文庫からこんな本が!

*1:例えば、動物の肉を細かく刻んで食べるチタタプは漫画の中で登場回数が多いが、「チタタプ、チタタプ」と言いながら刻むという習慣は野田サトルの創作とのこと。p168

*2:2009年の「消滅危機にある言語・方言」というユネスコ報告で最高レベルの深刻度に分類