Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「課金マウンティング」と少年隊ラジオ~劇団雌猫『浪費図鑑 ―悪友たちのないしょ話―』

2017年初刷なので、少し前の本になるが、各種の沼にハマってしまった人たちの「推し」への愛以上にその「出費」に目を向けた本。目次を見ると、どんな趣味が取り上げられているのかがわかる。

◎はじめに

◎第一章 浪費女の告白(匿名エッセイ)

  • あんスタで浪費する女
  • 同人誌で浪費する女
  • 若手俳優で浪費する女
  • 地下声優で浪費する女
  • EXOで浪費する女
  • ロザンで浪費する女
  • 乃木坂46で浪費する女
  • 宝塚歌劇団で浪費する女
  • 東京ディズニーリゾートで浪費する女
  • V系バンドで浪費する女
  • ホストで浪費する女
  • コスメカウンターで浪費する女
  • ●ン十年前の特撮作品で浪費する女(丹羽庭)

◎第二章 竹中夏海(振付師)スペシャルインタビュー

◎第三章 High&浪費ナイトイベントレポート

◎第四章 浪費女2000人アンケート

◎第五章 劇団雌猫座談会

◎おわりに

色んな沼にはまりお金を使う人は実際に見聞きすることもあるので、第一章の匿名エッセイは、そういう人もいるんだろうね~という感じで読んだが、面白いのは第4章の2000人アンケート。
勿論、「浪費」している自覚のある人へのアンケートだから極端な回答は出るであろうが、2000人に対して行ったアンケートで、「クレジットカードが止まったことがありますか?」の質問に「ある(限度額に達して)」11%、「ある(支払いの遅延)」11%はちょっと怖い。後者は、いわゆるブラックリストに載ってしまう状態。そして「貯金額はいくらですか?」という質問に「貯金なし」20%もすごい。
勿論、人生の中の数年の話なのかもしれないが、この辺りを読んで、怖くなってきてしまった。
たとえ自分で稼いだお金だったとしても、自分の恋人や子ども、もしくは子どもの恋人が、趣味に稼いだ金額のうち生活費以外を全て注ぎ込んでいたらどうしようか…。


自分がそうだから趣味にお金を使うのは全く問題ないけど、度を越している場合、どこまで寛容でいられるかと言われると自信がない。
さらに、「ある特定のジャンル」については、やっぱりこれはダメなんじゃないか、というジャンルがあった。そのジャンルに比べれば、ホストで浪費するのは、むしろ理解できる。若手俳優の舞台チケットがはけないことに心が痛み、貯金ゼロにも関わらず「追いチケ」してしまう、というのも分からなくもない。


絶対にハマってはいけないジャンルというのは、ずばり、ソシャゲ。


この本の最初で出てくる「あんスタで浪費する女」が凄すぎる。
あんさんぶるスターズ!」というスマホ向けゲーム、略して「あんスタ」の項で出てくるのが「課金マウンティング」という概念。
つまりは、ファン同士で「課金額を公言し、ガチャを回した記録をSNSにアップし、推しキャラのガチャや誕生日ガチャでは死ぬ気でガチャを回す」という、マウントの取り合いがコアファンの間では重要なゲームなのだという。(2017年当時:今は知りません)

課金マウンティングはしんどいです。Twitterでフォロワーがガチャを何十連もしたスクショを貼っている時、イベントランキング上位の画像を貼る時、コンテンツを愛しているならお金を落とさなきゃと語る時、頭のなかで、生活費をあとどれくらい削ればいいのかの計算がはじまります。けど、私も結局、言い訳しながらも、推しのえっちな絵が欲しい。そんなとき「課金マウンティングが大変だから仕方なく」の旗のもとに、課金のアイコンをタップするのです。
p11


別の場所ではこんなことを書いている。

「あんスタ」は、課金アイテムを使い続け、タップを延々と繰り返し、指紋と貯金をすり減らしてカードを手に入れるアプリです。そこにゲーム性は一切ありません。楽しいかって?別に楽しくねーよ。指紋減らすだけの作業がたのしいわけないだろうが。

そこまでわかっているのに何故…。


自分は高校生の頃に読んだ『メディア・セックス』(オカルト書に近い扱いなのかもしれない)では「サブリミナルコントロール」について繰り返し書かれていて、自分が「衝動買い」に慎重なのは、この本の影響がとても大きい。サブリミナルコントロールについては、コカ・コーラのCMの例がよく出される。

1957年9月から6週間にわたり、市場調査業者のジェームズ・ヴィカリー(James M. Vicary)は、ニュージャージー州フォートリーの映画館で映画「ピクニック」の上映中に実験を行なったとされている。ヴィカリーによると、映画が映写されているスクリーンの上に、「コカコーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」というメッセージが書かれたスライドを1/3000秒ずつ5分ごとに繰り返し二重映写したところ、コカコーラについては18.1%、ポップコーンについては57.5%の売上の増加がみられたとのことであった(Wikipediaサブリミナル効果

その後、このサブリミナル的な表現方法は世界的に禁止されているようだが、重要なのは、自分の内から出てきたはずの「ほしい」という気持ち自体が、商品を買わせたい他者からコントロールされているということがあり得るということだ。
実際、サブリミナル広告でなくても、テレビのCMがきっかけで飲食物を衝動的に購入した直後に、あまり飲みたくなかったな、食べたくなかったな、ということに気がつくということはザラにある。
また、よくよく考えてみると、モノが欲しいのではなく、お金を使うことそのものを欲している時もある。
深層心理的には、何か切実な欲求があり、例えばそれは人とコミュニケーションしたり、運動をしたり、何かの表現をしたりすることで満たされるものなのかもしれないのに、安易に消費欲求に置き換えてしまう、ということもある。


勿論、「本当に欲しいもの」ではないとわかっている「無駄なもの」を買うのが楽しいことはわかる。
しかし、欲求を他者からコントロールされていることがあからさまで、かつ、手に入るものが実質的にはコピー可能なデータであることを考えると、やはりソシャゲを楽しむのには節度が必要だと思う。
後半の座談会でも、1つのイベントのガチャで5万、10万、20万とかける方の話が複数出てくるが、他人だったら笑い話だが、家族にいたら勘当クラスだし、ショックで眠れないかもしれない。*1
しかも「課金マウンティング」は、ライバル(推し仲間)同志で命を削り合う、いわばチキンレース。ここから抜け出せないのは、欲望をつかさどる脳の機能がバグっているのだと思う。ギャンブル依存症と同じだ。
この本にはギャンブルが出てこなかったのは、ギャンブルを入れてしまうと凄惨な内容になるからだろう。でもソシャゲは限りなくそれに近い。
…と、ここまで書いてきて思い出したが、最近「あるアニメ」で、ソシャゲ中毒者の暗転する人生を見たから、ソシャゲに敏感になっているのだと思う。
ワクチン接種のように、中高生には、ソシャゲ中毒者のフィクション・ノンフィクションを見せるのがいいかもしれない。


なお、自分の思う、沼にハマり過ぎてしまった人たちの理想的なお金の使い方は、この、少年隊ファンのラジオの話。こんな風に多くの人が幸せになるようなお金の使い方だったら家族だって応援したくなる。趣味へのお金の使い方と、他者(家族)の「浪費」に対する寛容の心をどこまで持てるかという問題は、なかなか難しいなと思った本でした。
togetter.com

*1:いや、前言撤回するが、ホストに一晩でうん十万かけるのも嫌だな…

百戦百打一瞬の心 VS 脱走~橋本絵莉子『日記を燃やして』

百戦百打一瞬の心

久しぶりにテレビでしっかり高校サッカー準決勝「青森山田(青森)×高川学園(山口)」を見た。
元々スポーツ観戦はそれほど熱を入れて観ることはなく、現地で応援ということもほとんどしないが、高校時代にサッカー部に所属していたこともあり、国立競技場で1日2試合を楽しめるの高校サッカー準決勝はお得だと、大学生時代には数回応援に行った覚えがある。

それでも、最近はテレビ観戦からも離れていた。
今年、観てみようと思ったのは、やはりセットプレーでニュースに何度も取り上げられて気になっていた高川学園がまだ準決勝に残っており、相手がここ最近は決勝の常連チームとなっている青森山田だからだ。

www.soccerdigestweb.com


ところが、試合開始早々に青森山田が先制。
結局、高川学園は、ゴール近くではフリーキックどころかコーナーキックも蹴らせてもらえず、いわゆる「トルメンタ」や「列車」等の多彩は技を披露する機会すらない圧倒的な格の違いを見せつけられ、6-0という結果に終わった。

なお、青森山田の圧倒的強さは、やはり高校サッカー界では問題もあり、ちょうど昨日亡くなった島原商業、国見学園監督だった小嶺忠敏との比較から、監督就任27年目の青森山田・黒田剛監督(51)について書かれた記事もあり、興味深く読んだ。
spaia.jp


ただし、青森山田の強さは、(全国から集められた選手の)個々の技術力・体格だけでなく、個々のプレーの集中力にあるのは見ていてよく分かった。まさに、チームのモットーである「百戦百打一瞬の心」が体現されている。
圧倒的にボールを支配できる力があるからではあるが、ダラけた局面がほとんどなく、常にゴールに向かって得点を狙うプレーが、観ている観客を熱くさせる。


勝戦の相手は、優勝候補だった静岡学園を下した関東第一にコロナ感染者が出たため、準決勝を不戦勝で勝ち進んだ大津高校。もともと地力の差があることに加えて、準決勝が無いことによる気力面のマイナスが泣きっ面に蜂となり、準決勝以上の圧倒的な試合になってしまう可能性がある。大津高校イレブンは、今頃、『ロッキー』を集中的に見てメンタルを整えているんだろうか…。


さて、話が飛んだが、繰り返すと、青森山田のプレーはまさに「百戦百打一瞬の心」というキャッチフレーズがそのまま表れているようで、いわゆる「勇気をもらう」「元気をもらう」=何かの目標に対して前向きな気持ちになる効果があり、こういうのが正月スポーツを皆が見る理由なんだよなあと思った。

脱走

ポップスの歌詞は前向きなものが多い。
だから、後ろ向きなものが耳に入ると、お!と思って聴いてしまう。
堀込高樹1人体制になったKIRINJI『crepuscular』の中でも「How old?曖昧だ 俺 今 いくつだっけ」(曖昧Me)とか「ネタバレしてる人生」(薄明)という歌詞に惹かれるし、このアルバムは、そういった内省的な歌詞が多く自分好みだ。


そんな中、年末に聴いた元チャットモンチー橋本絵莉子のソロアルバム『日記を燃やして』が、KIRINJI『crepuscular』を超える面白い歌詞と、統一したアルバムコンセプトで夢中になって聴いている。


中でも、年初に聴きたい楽曲は「脱走」「前日」。
それぞれの描く「百戦百打一瞬の心」と真逆な世界が良い。


「脱走」は毎日のルーティーンから外れて、好きなところに脱走してもいいじゃないかという歌で、練習のシュート一本一本にまで魂を込める「百戦百打一瞬の心」とは正反対の内容。
ここまで努力を重ねて成果を出してきた人だからこそ説得力があるとはいえ、サビは誰にでも当てはまる。

やってみて嫌だったらやめたらいいねって
やってみて飽きたらやめたらいいねって
ただやってみようと思ったから
やってみただけ
一年の中のたった一日さ
人生の中のたった一瞬さ

もしカレンダーめくるの忘れても
ただカレンダーめくるの忘れた日なだけで
止まってなんかいない
明日2枚めくろう
それだけの話さ

そして「前日」の、部屋を掃除しようと決意してから諦めるまでの変わり身の早さ!
2番では、笑って聞き過ごした他人から言われた嫌な一言に対して明日は何か言い返そうと決意する悔しい内容。それでも、最後は、前向きになれるいい曲。

わーめっちゃモノある
今すぐこの部屋大掃除したい
そういえばお腹すいたな
その前にたぬきち撫でよう
まー明日がんばるか
部屋は逃げんし
そういう体でいこう

それ以外の曲も歌詞が良すぎて全部引用したいくらいだし、これから聴いていくうちにもっと心に響いてくるんじゃないかと思う。

  • 初心には返れない(かえれない)
  • 解散はできないようにもうバンドは組まない(今日がインフィニティ)
  • 「誰ももらってくれんかったら 嫁にもらってあげるな」世界一嫌な曲ね(ロゼメタリック時代)
  • あんなに口うるさかったかあさんが 結婚したとたん何にも言わない さびしいよ それはそれで(あ、そ、か)
  • 少し年をとったね 順番通りだね(特別な関係)

スポーツでも仕事でも、これ!というときは「百戦百打一瞬の心」が重要だけれど、人生全体で考えると、いわゆるゾーン(『鬼滅の刃』でいう全集中)に入っていない時間の方がずっと長い。年を取ればとるほど、そういうダメな時の自分と付き合ってくれる歌の方に惹かれていく。
そして、物語ではなく、フレーズ単位で頭に入ってくる「歌詞」という媒体だからこそ、人は自分の気持ちを、人生を、そこに載せてしまうし、だから歌は楽しい。
しかも『日記を燃やして』は、方言交じりの歌詞やたぬきちという飼い犬まで登場する橋本絵莉子の、まさに日記的な内容で、曲ごとの切り売りではなくアルバムで聴くことに意味がある。


昨年半ばからまた音楽を少しずつ聴く習慣を取り戻しつつあるけど、その中でもアルバム単位で楽曲を聴く楽しさを最高レベルで味わえる一枚に出会えて嬉しいです。

小川淳也の感染力~大島新監督『香川1区』

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年末の12/28は、昼間に、いわば聖地のポレポレ東中野を訪れ『香川1区』を鑑賞し、夜はテレビ番組「SASUKE」を見た。


『香川1区』を見るタイミングについては少し考えた。2020年の映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』の続編と言える作品なので、『なぜ君』を見たあとの方が良いだろうという気持ちは勿論あったが、ついこの前にあった衆院選を題材にしているという速報性に重きを置いて、『なぜ君』は未鑑賞のままで行くことにした。

そういう意味では気持ちはアウェー。
おそらく『なぜ君』を見て、小川淳也に惚れ込んでファン目線で来る観客が大半であろう中で、「俺はまだそっち側ではない」という気概を持って半ば喧嘩腰に臨んだ。


だから、序盤はどうも焦点を絞り切れず退屈に感じるほどだった。
例えば、テレビのドキュメンタリーと比べると散漫。かといって、想田監督のドキュメンタリーと比べると、編集が多い割に、ぼんやりしている。
そもそも手持ちカメラの映像が動き過ぎでは…等々。


ただ、選挙戦開始直前のある事件をきっかけに一気に引き込まれる。
もともと一番の懸念は、選挙のライバルである自民党平井卓也議員のマイナス点ばかりを殊更にあげつらうような映画だったら、公平性という観点で気持ちが悪いのではないか、というものだったが、そうはなっていなかった。

むしろ、小川淳也のマイナスの部分が良く見える映画になっており、その点にこそ本作の特徴があるかもしれない。
その、小川淳也の短所の象徴が、マスコミにも批判的に取り上げられた維新の町川議員への「立候補取り下げ要請」の部分だ。
mainichi.jp
www.shikoku-np.co.jp
→後者は、平井卓也の母親が社主、弟が社長を務める四国新聞の記事。「マスコミ」かと言われれば違う気がする…


デジタル担当大臣となった平井卓也は「恫喝」騒動など選挙前に失点が多く、ある意味で小川淳也にとっては追い風が吹いていた。にもかかわらず、平井卓也小川淳也の一騎打ちだったはずの選挙戦の構図は、直前に「日本維新の会」の町川順子が立候補を表明して一変。
そこに小川淳也が、立候補取りやめを単独でお願いしに行き、マスコミには「圧力をかけた」という取り上げられ方をされることになった。


映画内でも繰り返される「いつも直球勝負」という性格の現れだが、辻本清美に叱られるだけでなく、この件を心配して事務所を訪れた政治評論家の田﨑史郎に対して激昂してしまうシーンは、映画の中でも印象に残る部分で、まさに政治家としては危なっかしい。


そういった危なっかしい部分も含めた彼の人間的魅力は、周囲の人間を惹きつけ、多くの人間が彼をサポートすることになる。特に、妻のみならず、社会人になった娘二人がマイクを持って選挙活動の正面に立って汗をかくのは驚きだ。
涙をこらえ切れなかったのは、「20時当確」が出て、小川淳也が御礼の挨拶をしたあとの、家族からの挨拶。娘の友菜さんは、泣きながら「これほど真面目で正直な人がこれまで選挙では勝てなくて…」という場面。*1

家族からの(あきらめを含めた)信頼と、家族の協力という意味では、すべてを捨てて競技に打ち込む、SASUKEのアスリートを見ていて似たようなところを感じた。
代表的なのはキタガワ電気店長の日置将士さん。3人の子どもが応援してくれるだけでなく、自宅のセットで一緒にトレーニングしたりする映像を見て、この人も小川淳也同様に家族に愛される人なのだと思った。


しかし、異なるのは、周りの人間がどんどん小川淳也に「感染」されていく部分なのだろう。
パンフレットの中村千晶さん(映画ライター)のまとめが分かりやすい。*2

実は本作に小川氏の言葉はそれほど多くない。それ以上に雄弁なのが、彼に呼応した人々の言葉だからだ。(略)
そう、これは「小川淳也」の映画ではない。「小川淳也」という人を受け取った側の成長の記録なのだ。
それこそが「なぜ君」へのアンサーだ。「なぜ君」は「なぜ私たちは君のような人を総理大臣にできないのか」でもあったのだから。我々有権者が政治に無関心で忘れっぽいから。選挙に行かないから。しかし変化は起こっている。ラスト、東京・有楽町の街頭で女性が小川に言う。「がんばってください、ではない。(一緒に)がんばりましょう、だと気づかせてもらった」と。自分たちこそがこの国の政治の責任者だと気づく人が増えること。我々自身が変わること。それが「なぜ君」が問うた課題であり願いだった。そして起こった変化の芽を捉えたことこそが、この映画の大きな意義だと強く思う。

映画の中では、ボランティア団体「小川淳也さんを心から応援する会(オガココ)」のメンバーが何度も登場するが、ライターの和田靜香さんも選挙活動に協力し、小川淳也への信頼を熱く語っていたのが印象的だ。これについては、本が出ているようなので、こちらも読んでみたい。


さて、小川淳也の短所の部分に話を戻すが、維新立候補取り下げ騒動から、彼には多くの議員を味方にしていく能力に欠けているのでは?という疑問が湧く。だからこそ、映画の最後に、選挙後の立憲民主党代表選の模様までが収められているのは良かった。
結局、決選投票まで残らない4人中3位で終わるのだが、負けたことの報告含め、あくまで(一般市民を対象とした)青空集会メインで小川淳也は代表選を戦う。地方票を集めるために全国の議員に頭を下げに行くような「政治家っぽい」方法の対極にあるが、それで正しかったのか。


NHKのニュース記事では、その「新しさ」に刺激を受けた議員も多かったと書かれている。

小川陣営の議員の中には、今回初めて小川と身近で接したという議員も少なくなかったが、“青空対話集会”での小川の姿勢に「刺激を受けた」、「立憲民主党が目指す方向が明確になった」といった声が聞かれた。

中には、小川を「スター」とまで評するものもいた。
「小川は有権者との対話を通して、相手を包み込む力がある。あの包容力は才能だ。これからは、こういう『スター』を党として支えていくことが必要だ」

最後に、今後「仲間」を増やしていくために、会食の誘いなどに応じるつもりか軽い気持ちで聞いてみたが、小川は真顔でこう返してきた。


「『飲んだ』『食った』って重要だけど、それだけで一生やり過ごしている人は見たことがない。ないよりかは、あった方がいいが、もっと大事なのは、世界観とか社会観とか、将来構想を共有できるかどうかだと思う」

小川淳也は、やはりどこまでいっても小川淳也のようだ。
小川淳也 幻の勝利のシナリオ 立憲民主党代表になれなかった男 | NHK政治マガジン

記事のまとめ方に、記者が小川淳也に「感染」した感じが現れているが、周囲の政治家を「仲間」にしていくよりも、広く社会を取り込んでしまった方が早いということなのかもしれない。

ただ、記事の中で小川淳也の言う「世界観とか社会観」が、映画の中では見えてこなかったので、これについては、関連書を読んでみたい。*3
あとはやっぱり「なぜ君」を見ないと。



なお、野党第一党ということで、立憲民主党には何とか頑張ってほしいと思っている。
小川淳也を破って新しく代表になった泉健太は自分と同い年。党の路線変更の姿勢には自分の中でも賛否両論があるが、小川淳也をうまく使って何とか次の参院選で躍進してほしい。(著作がないのは残念)

補足

書き忘れたが、この映画のもう一つの魅力は、自民党平井卓也陣営の「恫喝」気質、限りなくブラックに近い集票活動がカメラに収められていること。
この辺りはもっと咎められてもいいと思うのだけど。

*1:なお、このシーンは、8時当確が出たという事実が映画の画面からは分からない不親切な場面だったように感じた。誰もがこの選挙の結果を知っているわけではないと思うのだが…

*2:パンフレットは例えば平井卓也小川淳也のこれまでの対決の戦績含めわかりやすいつくり。大島監督が大島渚の息子であることを初めて知った。

*3:パンフレットでは、大島新監督とノンフィクション作家の中原一歩との対談が収められており、政策面の弱点についても触れられている。そもそも前原誠司の下について希望の党からの出戻りということは、枝野ラインではなく立憲民主党の本流ではない(泉健太と同じライン)のだが、「格差」や「ジェンダー」の問題に疎いという指摘は、致命的な気がする。そのあたりがどうなのかを本を読んで知りたい。

関連本読後にまた読み返したい~品田遊『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』


この本を読むきっかけになったのは『変な家』。
話題になっていたということ以上に、やはり間取り図メインの本ということに惹かれた。
『変な家』の感想を簡潔に言うと、とても読みやすく、とても面白いけど、その面白さが「想定内」の範囲に留まってしまった。
特に、明らかになった事実を追記して同じ間取り図が繰り返し出てくる構成は、本当に読みやすく、さすがweb連載だと感じた。ただし、ホラーとしてもミステリとしても、あともう少し何かできたのでは?という感じが残ってしまった。



さて、webで活躍する人で、ということか、関連本としてAmazonに紹介されたのが『ただしい人類滅亡計画』。これだけ聞くと、岡田斗司夫『世界征服は可能か』や、架神恭介, 辰巳一世『よいこの君主論』を思い出すが、副題を見ると「反出生主義をめぐる物語」とある。
「反出生主義」は“私は生まれてこないほうがよかった”、“苦しみのあるこの世界に子どもを産まないほうがいい”というような考え方を指し、森岡正博が新書を出していたので気になっていた。が、そんな悲観的で暗い考え方が、この本のカバー表紙のように楽しい話にできるのだろうか?と、まず感じた。
そもそも作者の品田遊は誰?と調べると、オモコロなどで活動するライターだという。しかも過去の著作のAmazon評がものすごく高い。
ということで、まずは2冊の小説を読んでみる。
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com


確かに文体は軽いが、『変な家』よりも自分に合っている!この作家は信頼できる!と考え、やっと、問題の『ただしい人類滅亡計画』を読むに至った。


で、この本を読んだ感想。
確かに文体は読みやすいし、読んでみたいと思わせる設定。
基本情報をプレスリリースからそのまま抜粋する。


【あらすじ】
全能の魔王が現れ、10人の人間に「人類を滅ぼすか否か」の議論を強要する。結論が“理”を伴う場合、それが実現されるという。人類存続が前提になると思いきや、1人が「人類は滅亡すべきだ」と主張しはじめ、議論は思いもよらぬ方向へと進んでいく……。

【本書の登場人物】
魔王:全能の存在。人類を滅ぼす使命を持っているが……。
召使い:魔王の忠実なる僕。
〈魔王主催「人類滅亡会議」の参加者〉
ブルー:悲観主義者 —「生きていてもいやなことばかりだ」
イエロー:楽観主義者 —「生きていればいいこともあるわ」
レッド:共同体主義者 —「すべての人間は共同体に属している」
パープル:懐疑主義者 —「まだ結論を出すには早いようじゃぞ」
オレンジ:自由至上主義者 —「誰だって自分の人生を生きる自由がある」
グレー:??主義者 —「本当に存在するのは、このボクだけさ」
シルバー:相対主義者 —「どちらの言い分もある意味で正しいね」
ゴールド:利己主義者 —「とにかく俺様がよければそれでいい」
ホワイト:教典原理主義者 —「教典には従うべき教えが記されています」
ブラック:反出生主義者 —「人間は生まれるべきではない」

【人類滅亡会議の基本ルール】
1.これから「人類を滅ぼすべきか否か」を話し合う
2.結論が出たら魔王にその内容を申し出る
3.魔王は結論を受け入れ、そのとおりに実行する
4.ただし、結論が理を伴わない限り、それを認めない

実際の議論は、反出生主義者であるブラックが「人類は滅ぼすべき」という自分の理論を展開し、他の9人は、それを批判したり影響されたりしながら進んでいく。
ただ、後半になればなるほど、議論はより原理原則的なところ(道徳とは何か)に向かっていき難しくなっていく。おいおい、これはガチなやつじゃないか…。


でも、話の難易度にかかわらず、読んでどんどん理解が深まれば、やはり面白いはずなのだ。しかし、そういう感じは全くしない。
論理展開そのものには納得できないわけではないが、そもそも“私は生まれてこないほうがよかった”、“苦しみのあるこの世界に子どもを産まないほうがいい”という反出生主義の基本的な考え方自体が腑に落ちない。*1
その後、もはや、反出生主義の考え方自体から興味を失くしつつ、この物語をどう「落とす」のだろうという方にばかり気が行っていた最終盤の第18話で、それまで寡黙だったグレーが語りだす。ここで自分はやっと共感できるキャラクターが出てきた、と感じた。

ブラックの主張の根本には「人を傷つけてはならない」という原則があるよね。その原則をどこまでも伸長させて「人類を滅ぼすべき」という主張に改造してるみたいだけど…その「人を傷つけてはならない」っていうルール自体、行ってみればただのルールにすぎないわけさ。みんな、そんなルール大して重視してないんだよ。
「ただのルール」にすぎないものを過剰に神聖視して人類全体に守らせようっていう思考がもう、ふつうの人達からしたら胡散臭くて仕方がないってことだよ。そりゃあ、人生をこじらせた奴にしか共感なんて得られないよ。p176

そういう道徳的な教えってのはいわば「指針」であって、目的地じゃない。北極星の方向を目指して夜の太平洋を航行する船が、空を飛んで北極星に到着しちゃったら、それはもう一般論としては航行失敗なんだよ。ボクたちはルールを教わることで「ルールを守ること」を学ぶんじゃなくて「ルールの守りかた」を学んでるんだけど、たまにその差異がわからない奴が出てくる。
あのさ、これは知ってる奴なら誰だって知ってることだから、いまさら言うまでもないかもしれないけど、悪いことをしても別にいいんだよ。p178

ここから第20話で魔王がどう決断するか(人類を滅ぼすのか滅ぼさないのか)までは、それまでとは全く違った熱の入り方で読み込んだ。
なお、この本では、最終盤にスポットライトのあたるグレーの意見が「正解」としてではなく、アンチ反出生主義の強力な意見として挙げられているに過ぎない。
「あとがき」にも書かれている通り、この本のひとつの大きな特徴は、10人それぞれがそれぞれ別々の意見を持っていて根本的には噛み合わないというところにある。やや難しい「道徳」についても考えさせながら、「何が正しいか」から離れた部分に読者の視点を向かわせるところに、品田遊の書く力と誠実さを強く感じた。
関連書籍を読んだあとで、またこの本を読み直そうと思ったし、品田遊の次回作もものすごく気になる。

本書は「人類を滅亡させるべきか否か」について10人が議論する様子を描いた小説であり、反出生主義について考えるための補助線です。対立する意見の応酬を読みながら自分もその会議に参加しているつもりで考えてみてほしいと思います。自分の意見を持つ必要はありません。それよりは、食い違う主張について「どちらが正しいのか」ではなく「異なる種類の”正しさ”がそれぞれどんな水準で成立しているのか」を考えることをおすすめします。
(あとがき)


なお、巻末の参考資料の中には、本家本元のディヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』や『現代思想2019年11月号』、森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』などど真ん中の本と合わせて、永井均『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』、中島義道『後悔と自責の哲学』、川上未映子『夏物語』(!)が挙がっている。この辺も読みたい、というか川上未映子『夏物語』が気になるなあ…。

後悔と自責の哲学

後悔と自責の哲学

Amazon

*1:このあたりの「論理展開は合っているように聞こえるが、共感できるできないとは別」という感覚は、ネットで見かけるフェミニズム論争を読んでいる時の感覚に近い

「羅生門」形式 or not ~『悪なき殺人』×朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』

ドミニク・モル監督『悪なき殺人』

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とても見ごたえのある映画で、大満足だった。
この映画は、同一の事件を 、 登場人物それぞれ別の視点から描くことで、事実が明らかになっていく「羅生門」スタイルを取る。同一事件を語るので、時系列は行ったり来たりするが、あまり混乱もせずに伏線が回収されていく、その構成が見事過ぎて「傑作!」と言いたくもなる。

が、これが、フランスのみを舞台にしていたら、これほど「大満足」な作品ではなかっただろう。自分がこの作品を好きなのは、やはりもう一つの舞台であるコートジボワールにある。

監督もそれを意識しているのであろう。冒頭のシーンはコートジボワールの喧騒の街アビジャンから始まる。しかし、最初の1~3章「アリス」「ジョゼフ」「マリオン」はあくまでフランスが舞台で、「いつになったらアビジャンの街に戻るのか」と観客は焦らされる。
ラストとなる4章目でやっとアビジャンの街に移るのだが、そこでの映像がドキュメンタリー風なのも良いアクセントになっている。

ネタバレは後半に回すが、『悪なき殺人』は、舞台がフランスとコートジボワールと大きく離れた場所にあるのに、「羅生門」形式が成立してしまうという意味でも面白い作品だった。

朝井リョウ桐島、部活やめるってよ

朝井リョウの著作をよく読む人にとっては「今さら?」という話だが、これまで読んだ朝井リョウ作品は、すべて複数の登場人物の視点で同じ時期の出来事を語るスタイルが取られ、これは『悪なき殺人』と似ている。

しかし、これが「羅生門」スタイルなのか、と言えば、それは違うということになる。
朝井リョウの複数主人公形式は、叙述方法のトリックによって、真実を徐々に浮かび上がらせる効果をそこまで狙っていないからだ。
彼の作品は、「真実」や「伏線回収」よりも、「人それぞれで見ているもの、考えていることが違う」ことそのものに重きが置かれる。
そして『桐島、部活やめるってよ』の最大の特徴である「桐島が出ない」ことも、「桐島は桐島で別のことを考えていた」という結論に辿り着くように書かれている。
つまり、真実というゴールが一つあり、そのかけらをそれぞれが持っているのではなく、誰もが別々のゴールに向けて生きていることが描かれる。


だから、作者の分身なのかもしれない菊池に少しだけ重きが置かれていても、彼がメインということではなく、6人(文庫では7人)は対等に書かれているように感じる。
読む前は、スクールカーストが描かれているというイメージがあったが、例えばスクールカースト上位者を悪者に仕立て上げ、下位者が救われるというような話には全くならない。誰もが17歳の人生を悩んでいる。


文庫版解説は、映画版を監督した吉田大八。名解説から、この小説の驚きのポイントを引用する。

当時19歳の作者が同世代の気持ちをここまで徹底的に対象化、描写し得たことには素直に驚く。その頃の自分の余裕の無さなんか思い出して、さらに。もちろん「気持ち」を意識しない訳じゃないんだけど、それをほぼリアルタイムで精細に出力するパワーとコントロールのバランスが絶妙。

大人になってから(安全圏に逃げ切ってから)、ある程度の余裕をもって振り返るのとは訳がちがう。美化された回想でも、現場からの荒々しいレポートでもなく、ギリギリの距離感で触れたか触れないか、そんな生々しさ。そりゃ第二十二回小説すばる新人賞くらい獲って当然、だったのかもしれない。


まさにその通りで、19歳でこれを!というのは衝撃だった。
作中で頻繁に、チャットモンチーRADWIMPS、『ジョゼと虎と魚たち』や『百万円と苦虫女』…etc、具体的な音楽、映画のアーティスト名、作品名が出てくるところは、最初はあざとい感じもしたが、吉田監督の書くような「ギリギリの距離感で触れたか触れないか」のバランスが絶妙で、もはや、取り上げる音楽や映画よりも、「そんな音楽が好きな彼ら一人一人」の方に思いが向かう。作者の狙い通りに、自分はこの小説を読んでいるな、と、してやられた気持ちになりながら楽しくなる。


文庫解説は以下のような文章で終わる。『正欲』という作品を読むと、吉田監督の期待通りの作家に、朝井リョウはなっているのだと思う。

もしこの先世界がもっと深い闇に迷うことがあったとしても、微かな「ひかり」をすくい上げる朝井さんの感覚は、ますます研ぎ澄まされていくに違いない。
それが学校の外へと向けられたとき、僕らが感じるのは救いだろうか。それとも徹底的に救いの無い何か、だろうか?
個人的には、後者にも期待している。

映画版も見返したい。


『悪なき殺人』ネタバレ

この映画の面白いのは、やはり第4章だ。
アリスが主人公の第1章「アリス」が終わり、そこに出てきたジョゼフが主人公の第2章「ジョゼフ」が始まる。
第3章は「マリオン」だが、冒頭からそれまでに出てきていなかった女の子が登場し、彼女がマリオンだとわかる。そしてこの3章では、アリスの夫ミシェルが、それまで何の接点もなかったマリオンに接触を図る謎展開で終わる。
普通に考えれば第4章は「ミシェル」のはずなのに4章タイトルとして、突如「アマンディーヌ」という聞きなれない名前が初登場。そして舞台はアビジャンに飛ぶ。


章の名前と舞台が一気に飛んで、カメラは、街の不良グループが「ロマンス詐欺」を働く現場を映す。観客は、3章ラストの謎展開までの流れが一気に理解できるので、アマンディーヌという架空少女になりすましたアルマンとミシェルのチャットのやり取りが面白くてたまらない。画面を眺めてニヤニヤするミシェルの名演も素晴らしく、この時点で5億点だ。

さらに楽しいのは、本当に不良にしか見えないアルマン(実際、本当に不良をスカウト…)が、ミシェルから振り込まれたお金でクラブでパーティを開き、DJから「将軍」とはやし立てられるシーン。アビジャンでの映像はドキュメンタリーっぽい撮影になっているのも併せて最高に上がる映像。


パンフレットを見ると国をまたいだロマンス詐欺は、広く行われていており、コートジボワールでは、詐欺先進国のナイジェリアとガーナから手口を学び、フランス、ベルギー、カナダのケベックのフランス語圏をターゲットにしているという。
日本では言語の壁からあまり問題になることは無かったが、最近は変わってきているというので要注意。

そんな中、日本語を話す中国語圏のロマンス詐欺師が、日本人男性をカモにするケースが増えています。中国語話者は漢字がわかるので、日本語の習得が容易です。そして、このパターンの主流は、ロマンス詐欺とFX投資詐欺を融合させたハイブリッド型です。恋愛関係を構築した後、FX投資させ、投資金を詐取します。

実際、好きになった相手が実在しないと知ったら大ショックだろう。スクリーンの中に映るミシェルは馬鹿な男だが、詐欺によって受けた金額以外の打撃は計り知れない。


なお、英題は『Only the Animals』、邦題は『悪なき殺人』で、どちらもピンと来ないし、あとから思い出せないタイトルだと思う。邦題のつけ方によっては大傑作になっていたのでは?と思うと、ちょっと残念だ。

桃鉄に欲しい「保安条例」カード~なだいなだ『TN君の伝記』

前半の感想はこちら↓
pocari.hatenablog.com


『TN君の伝記』の後半の話は、特に今の政治の風景と重ねながら読んだ部分が多かった。
日本の歴史をしっかり辿ったのは中学校時代以来だが、当時は政府側目線で学んできたものが、庶民目線で見返すと違って見え、今の政治とリンクしてくる。
以下では(1)天皇の政治利用(2)言論統制(3)帝国主義の時代の3つのトピックを挙げるが、いずれも政府側が「政府を否定しにくい状況をどう作るか」に腐心しているあからさまな様子がよくわかる。
今の政府にも「あからさま」な人がいるが、この頃の政治状況は頭に浮かんでいるのだろうかと思う。

(1)天皇の政治利用

『TN君の伝記』を読むと、明治時代の薩長藩閥政治の得意技、というか最後の武器は「天皇」だったことがよくわかる。
以下、征韓論の否定、西園寺公望の籠絡、国会開設の詔勅の3つの事例を挙げて、それぞれについて説明する。


岩倉使節団が帰国する前の明治6年1873年)、外交上の問題と士族の不満が重なり征韓論が盛り上がり、西郷隆盛は、朝鮮へ使節団を送る(実際にはそれに伴い難癖をつけて出兵する)ことを決定してしまう。
帰国した岩倉、大久保はこれに反対し、西郷隆盛をはじめ圧倒的多数の征韓派を抑えるために天皇を利用する。

参議の多くは、多数決で、ことがきまったと思っていた。だが、天皇に結果を伝え、天皇の意志を再議たちに伝えるのは、太政大臣代理岩倉の役割である。(略)天皇に参議たちは直接に会えない。だから、天皇の意志を確かめられない。そして、自分の意見を天皇の意見として、決定をひっくり返したのだ。だが、西郷派の参議たちは、天皇の意志というものが、全くの形式であることを知りながら、それを拒むことが出来なかったのである。p134

これによって、西郷隆盛(薩摩)、板垣退助後藤象二郎(土佐)、江藤新平肥前)たちは辞職して政府を去り故郷に戻り、大久保が独裁的な権力を握ることになる。
この流れで、大久保に対抗する手段として、板垣・後藤(土佐)、江藤・副島(肥前)らが「民選議院設立建白」をまとめ、国会開設を求めることにつながる。
本に書かれているように「建白の出発点は、明治政府内部の権力争いから生まれた、政争の道具だった」というのは、あーそうだったのか!という感じだ。
とはいえ、建白によって、一般の人々が広く議論をかわすきっかけとなり、TN君がはじめた私塾も大いに盛り上がることになる。


物語の中で、次に岩倉が「天皇の意志」を使うのは、大久保利通暗殺後、伊藤博文が内閣を仕切るようになっていた頃、東洋自由新聞に対してだ。
東洋自由新聞は、既にルソー「民約論」の翻訳で有名になっていたTN君が社説を書き、TN君がパリから呼び寄せた西園寺公望(「日本のミラボーフランス革命で貴族ながら庶民の立場で運動した)」になろう!と口説かれた)が社長を務める。
社長が名家の公家ということもあり影響力が強く、それによる民権運動の盛り上がりを恐れた政府は、西園寺を新聞から切り離そうと手を尽くす。
色んな脅しの手を使っても屈しない西園寺。しかし、「天皇の意志」には折れてしまうのだった。

結局、西園寺は、天皇の意志という言葉から自由になれなかったのだ。
当時でも、天皇の意志にそむく罰というものは法律になかったのだが。p247

結局、西園寺退社に関する国の圧力の公表をめぐる厳罰等をきっかけに新聞は廃刊になる。


廃刊の3か月後に大きな出来事が起こる。
北海道開拓使の官有物払い下げのスキャンダルだ。政府の中で孤立しかけていた大隈が新聞社に漏らしたこの事実に日本中は怒り心頭。(『青天を衝け』でもその様子が見られた。)
盛り上がった反政府運動に対して、伊藤、岩倉らは、開拓使官有物払い下げの中止と、国会開設の詔勅(10年後の国会開設を約束)、また大隈重信を辞めさせることを決める。(明治14年の政変
この後の動きを見ると、この詔勅が非常に有効な「天皇の政治利用」だったことがわかる。
詔勅のアイデアを出したのは、TN君が以前から警戒していた井上毅(こわし)。
TN君の伊藤博文井上毅評が印象的だ。

伊藤博文、彼は小賢しいだけの男だ。有能な役人だが、大臣の器じゃない。彼の権謀術数は、下手な魚釣りだ。(略)
まじめで横着でなくて、ずうずうしくない人物は、日本で二人しか見たことがないが、その一人が井上毅だ。p276

井上の書いた意見書の内容とその背景解説が、詔勅の意図を理解するのに分かりやすい。

「この人心動揺の際、詔勅を出しても、挽回はおぼつかない。言い換えれば、人心の多数を政府に籠絡することはおぼつかない。
しかしこの詔勅は、たとえ、急進派をしずめることができなくとも、十分に中立派の気持ちを鎮めることが出来る。全国に中立派は多い。今、詔勅を出さねば、これらの中立派まで急進派にさせてしまうだろう。この詔勅を出せば、中立派、急進派の色分けが、はっきりつくはずである。そこで、孤立した急進派だけを潰せばいい」
詔勅は、こうして井上の意見を聞いて出されたのであった。井上の頭の中では、天皇も、詔勅も、全く政治の道具だった。井上は、自分では天皇の権威を全く信じていなかった。だが、反対派の中に潜んでいる天皇の権威に対する弱さを、完全に読みとっていた。(略)
詔勅が出て10日もすると、板垣派の人たちは、大隈派の人たちを抜きにして、急いで自由党をつくり、役職をほとんど独占してしまった。後から参加してもいいという態度はとったが。(略)
こうして、板垣たちは、井上の思った通り、自分たちで、国会期成同盟に集まっていた者を、急進派と穏健派に色分けしてしまったのだ。
政府は機を逃さず、自由党の弾圧を始めた。集会条例を強めて、全国組織が作れないようにし、新聞条例も厳しくして、新聞が政府の批判を出来ないようにした。p278

ところで、この本を読むと、(板垣死すとも自由は死せず!の)板垣退助が「自分たちが努力して広めてきた自由民権の運動の成果を大隈たちに横取りされたくなかった」政治家であることがよくわかる。
さんざん批判した政府の藩閥政治をなぞるようなことをやっており、それと比べるとTN君は政争からは「自由」な立場で、あくまでも思想を広めることに努力したことが理解できる。

そして、結局、詔勅が出てから国会開設までの10年は、民権派の分裂(板垣率いる自由党と大隈率いる立憲改進党の対立だけでなく、自由党内部でも分裂が生じた)に乗じて、政府が根こそぎ弾圧してしまおうとする動きが続き、井上毅の意図通りの状態になったのだった。


天皇の政治利用ということでは、近年では、改元(昭和から令和)をめぐる流れにそれを感じる。井上毅が言うような「天皇の権威に対する弱さ」は、「令和だから」という何となくのお祭りムード(国への批判を許さないムード)作りに利用されていたのではないかと思う。

(2)言論統制

この時代の言論統制の状況は恐ろしいものがある。
時代はさかのぼるが、明治8年(1875年)に大久保利通は、国会を開く準備のために元老院を設け、地方会議を開くという約束をする。
その一方で新聞への締め付けを厳しくし、新聞紙条例の改定と讒謗律(ざんぼうりつ)というものを法制度上で決めてしまう。

讒謗律というのは、事実のあるなしにかかわりなく、役人の職務について悪口を言う者を罪にするというものだし、新聞紙条例の改定では、投書の文章を載せる場合でも、変名は許さず、住所姓名を書かねばならないとされていた。p158

こういった締め付けは大久保暗殺後、伊藤があとを引き継いでからさらに厳しくなる。
明治11年1878年)に伊藤博文が内務卿(今の首相よりも大きな権力があった)になって最初にやったのは、日刊新聞(「朝野新聞」)の発刊停止で、これは大久保でさえやらなかったことだという。また国会開設を求める人々に対し、逮捕、禁獄など厳しい処置を始めた。さらに、自由に集会も開けないし、政治団体を作ることも出来なくなった。(西園寺公望がパリから戻り東洋自由新聞が発刊になったのはその頃になる。)

そして、明治14年1881年)の国会詔勅のあとのいわば政府による自由民権派弾圧キャンペーンの中では、さらにレベルが増し、何でもありの状態になってくる。
以下は福島事件で河野広中(こうのひろなか)が受けた事例。

  • 何の理由もなく逮捕
  • (理由のないまま)半年拘留する中で罪を自白するよう拷問(毒殺すら計画)
  • 具体的な計画や行動の証拠がないまま、密告者の意見から内乱予備罪で起訴
  • 高等法院で検事は「内乱の陰謀が問題。陰謀とは、思想にまで立ち入って罰するものだから、別に行為があったかないかは問題でない」と説明。そして有罪の判決。
  • 7年の禁獄(当時の刑務所の衛生状態は最低で、獄死するものが多かった)(p284-286)

とにかく酷い状態で、各地で反乱も起きたという。(TN君で取り上げられるのは「加波山事件」、まんが日本の歴史で取り上げられているのは「秩父事件」)
行っていない犯罪で裁かれる、また、内乱の「予備」の段階で裁かれる、という点で思い出すのは、少し前に話題になった、いわゆる「共謀罪」の話だ。(共謀罪の創設を含む法律は2017年7月に施行されている)
日弁連のHPから問題点を引用すると

日本の刑法では、法益侵害の結果を発生させた行為(既遂)を処罰するのが原則です。ただ重大な犯罪については、結果発生の現実的危険のある行為を行ったが結果発生に至らなかった場合を「未遂罪」として、未遂にも至らない犯罪の準備行為は「予備罪」として、例外的に処罰しています。予備罪は例外中の例外です。ところが「共謀罪」は、277種類もの犯罪について、予備罪よりも更に前の段階の「計画」(共謀・話し合い)を処罰するもので、処罰の範囲を飛躍的に拡大するものです。
日本弁護士連合会:日弁連は共謀罪法の廃止を求めます

共謀罪は、「計画」(共謀・話し合い)と「準備行為」(銀行でお金を下ろす、下見をするなど)といった法益侵害の危険のない行為を処罰するものです。「計画」の対象となる犯罪には、マンション建設反対の座込みに適用される余地のある組織的威力業務妨害罪なども含まれています。そのため、通常の市民団体や労働組合等が処罰の対象となるおそれが否定できません。また、「組織的犯罪集団」かどうかの調査という名目で、警察などによる日常的な情報収集が広く行われるおそれもあります。表現の自由、とりわけプライバシーの権利をおびやかしかねません。
日本弁護士連合会:日弁連は共謀罪法の廃止を求めます

このあたりの文言は、話題になっていた当時はあまりイメージできていない部分もあったが、1880年代の弾圧の歴史を知ると怖さが倍増する。
最初に書いたようにこの頃に行われていた新聞への圧力という手法は、形は変わったが、安倍・菅政権が得意としてきた部分でもあり、このあたりはどうしても今の政治状況を想像せざるを得なかった。

(3)帝国主義の時代

伊藤博文の内閣は、反対勢力を弾圧しつくして、憲法発布まで、自由気ままに日を送ることができるかに見えた。しかし、思わぬところに、落とし穴があったのである。それは、条約改正の問題だった。p313

不平等条約についての諸外国との交渉はあと少しで調印できるところまで進んでいたが、そのタイミングで法律顧問だったフランス人のボワソナードが、条約改正が日本の損失になるので外交交渉を中止すべきと忠告して、それが漏れたのだ。
それまでの不満もあり、民権派が(1)言論の自由の確立、(2)地租軽減による民心の安定、(3)外交の回復(対等な立場による条約改正実現)を柱とした建白書(三大事件建白)を出すと多いに盛り上がる。
そして勢いをそのままに、反政府派の代表として、片岡健吉と星亨の二人が、1887年12月26日に伊藤博文に面会することとなった。
これは、どうなるのか!
政府、今回は負けを認めて建白書を飲むのか!!
…と読み進めると…


12月25日に政府は「保安条例」を出す。


保安条例について全く知らなかったが、この本でも説明が少ないので、Wikipediaの説明を引用する。

保安条例(ほあんじょうれい)は、1887年12月25日に制定、発布され、即日施行された勅令である。(略)
自由民権運動を弾圧するための法律で、治安警察法治安維持法と列んで戦前日本における弾圧法の一つ。集会条例同様、秘密の集会・結社を禁じた。また、内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の人物が、同条例第4条の規定に従って皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられ、3年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止された。これにより退去を命じられた者は、12月26日夜から28日までに総計570人と称されている。この条例により東京を退去させられた主な人物には、尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民、片岡健吉、北川貞彦、光永星郎、中島湘煙、中島信行、横川省三、山本幸彦、岩崎万次郎、奥村多喜衛らがいる。

『TN君の伝記』によれば、「政府は、この建白運動の中心が高知にあると考え、東京にいる高知の人間は、誰もかれも退去させようとしたのだ。左官や大工を、自由党員から区別する暇が無かったのである」ということで、左官屋も東京を去るように命じられたという。

制定、発布、即日施行という専制的なふるまいも含め「保安条例」は衝撃的過ぎた。これがもしノンフィクションで、クライマックスでこんな展開になったら本を放り投げている。また、東京から離れることを命じる(しかも高知県民は)という特殊性は、桃太郎電鉄の特殊カードのようで、本当に現実世界で起きたこととはとても思えない。

さらにWikipediaにはこのように書かれている。

また、保安条例は拡大解釈によって、民間で憲法の私案(所謂私擬憲法)を検討する事を禁じた。結果、私擬憲法が政府に持ち寄られて議論されず、逆に弾圧の対象となったため、『大日本帝国憲法』には一切盛り込まれなかった。

これも酷い話で、国会開設の前提となるからとこぞって作成した、五日市憲法などの憲法草案がことごとく無駄になってしまうだけでなく、参考にすらしない政府が国民の意見を聞く気が全くないことがよくわかるエピソードだ。

保安条例を受け、TN君が活躍の場を大阪に移して、明治22年(1889年)についに伊藤博文らの手による大日本帝国憲法が発布となる。

TN君は、大体のところ、どのような憲法が出されるか、予測していた。そして、その予測を人に話したり、新聞に書いたりしていた。憲法は、ほとんど、考えていたものと変わりがなかった。確かに、思った通りでなかったところもある。そして、そこは、TN君が予想していたよりも悪かったのである。(略)
しかし、それからTN君の絶望的な活躍が始まったのだ。自由民権派たちは、一年後の国会を頭に置いて動き出した。p334-335

その年(1890年)に第一回の総選挙が行われ、周囲から押し立てられたTN君は代議士になる。しかし、政府が議会の解散をほのめかし、議員を買収することで、2度否決された予算案を通してしまうのを目の当たりにして絶望し、議員を辞職する。
さて、議員を辞めるも自由党の機関紙の主筆として運動を続けるTN君に対して世間の目はどんどん冷たくなっていく。

自由民権なんて、もう古い。日本の外を見ろ。今や帝国主義の時代だ。日本はいつまでも混乱を続けてはいられない。日本は、まとまって力を強めていかなければだめだ。国会を開いたばかりなのに国会をまともに運営できんようでは、世界に恥をさらすことになるぞ。p348

この後、自由民権の同志が政府から買収されていくのを悲しんだTN君は、結局は金が必要だと間違った方向に行ってしまい、さらに辛い状況になる。このあたりは読んでいて『あしたのジョー』のドサまわり時代を思い出した。


そんな中でも、国会は一部機能し、第四議会では藩閥政府が追い込まれる展開になったのだが、そんなときに日清戦争が始まる。そうなってくると、国会では、政府の攻撃をやめ、政府の提出する案件は、ほとんど審議もしないままに通る状態になってしまった。
愛弟子にあたる幸徳秋水がTN君に語った言葉が感慨深い。

藩閥政府は、これまで言論の自由を、法律だの条令だので、圧迫してきました。それでも、反政府派を黙らせることが、できませんでした。しかし、戦争が起こると、政府が何もしないでいても、あの勝った勝ったの熱狂が、ごくあたりまえの真実さえ言えないように、黙らせてしまうことが出来るんです。

このあと、明治33年(1900年)に、これまでずっと政府と敵対関係、というより弾圧を受け続けていた旧自由党憲政党)が、よりによって伊藤博文を総裁として新党・立憲政友会を結成する。政党ができても超然としているべき(超然主義)だと言った伊藤も、これからの政治では、政党を抜きにし、国会を無視しては行えないと考えるようになったことを意味しているが、これも驚きだ。TN君評では、「ただ小賢しいだけ」とされていた伊藤博文だが、勝つためには手段を選ばないしたたかさを感じる。


この状況を受けた幸徳秋水とTN君の対話が最終盤にある。

「どこがいけなかったのだ」
「先生は、理想ばかり見過ぎたのです。そして、相手を、つまり敵を見るのを忘れたのです」
「いや、わしは見ていたつもりだ」
「いいえ。確かに、先生は敵を見ていたでしょう。だが、それは昔の敵です。そして、敵が昔のままだと思い続けていたから、敗けたのです。先生は、伊藤をとりまく藩閥が敵だと思っていたでしょう」
「そうだ」
「しかし、その裏にもう一つの敵がいるのです。帝国主義という敵が。しかも、これは、先生の仲間たちの心の中でも育っていたのです。その敵を、はっきりと見届けないで戦っても、負けるばかりでしょう」
「それは、何だね。その帝国主義とは」
「それは、愛国心というやつを縦糸とし、軍国主義を横糸として織り上げた政策です。先生の敵としていた専制政府も、味方だった民党も、いつのまにか、その帝国主義におどらされている、操り人形にしか、過ぎなくなっていたのです」p378

これを読むと、国会開設後にTN君が言われた「自由民権なんて、もう古い。日本の外を見ろ。今や帝国主義の時代だ。日本はいつまでも混乱を続けてはいられない。日本は、まとまって力を強めていかなければだめだ。」という言葉の中にある「もう一つの敵=帝国主義」の強さがよくわかる。
そして、この空気は、与党の失政や汚職咎められずに温存されたまま、野党が「批判ばかり」と叩かれる現在の政治状況と似ているところがある。最初に挙げた「天皇の政治利用」もそうだが、日本における「お上意識」の強さは100年前も今も変わらない。

こういった「お上意識」のような精神的な縛りから外れることが、TN君の説く「自由」の本質にあったようだ。以下、同時代を生きた福沢諭吉と比較した部分、また、東洋自由新聞の第一号の社説から抜粋する。

TN君は、日本に自由な人間をひとりでもふやすことが必要だと考えた。しかし、その頃の啓蒙学者と呼ばれた、自由を説き、自由を教えようとした人々、福沢諭吉をはじめとした明六社の学者たちとは違っていた。TN君は、自由は人に説いて教えられるものではない、自由は抵抗の中で自覚されるものでしかない、と考えるようになっていた。
日本人が、英国風なマナーを身につけ、演説の技術を身につけ、討論採決し、それにしたがう訓練が十分にできたときが、日本に国会を開くに適当な時期だというのが、明六社の人たちに共通した考えだった。(略)
だが、TN君は、紳士のマナーなんて問題にしなかった。自由に生きることが第一だった。p164

TN君は、まず、囚われない精神、囚われのない思想を持つことを強調した。これがなくては、人間はたとえ自由を与えられても、自由になれない。精神の自由のないところに、自由を求める気持ちも起こらない、というのだった。
このことは、当時の自由民権家たちの忘れていたことだ。それは、国会が作られれば自由になる。さまざまな政治的な束縛がなくなれば、それでいいと、ただひたすらに政府を攻撃している人たちに、諭すような口調で書かれていた。縄をほどいてやったとしても、犬がすぐ自由になれるか。自我の確立のない人間は、根を切られた草や木も同然だ。この主張は、当時の若者たちの心を揺さぶった。p244

この本は、以上に、精神の自由、自我の確立を基礎として世の中を眺めるTN君の主張に共感して書かれた本だと感じた。
そして、それは、TN君という、権力の外側から明治維新、そして自由民権運動を生きた人の視点で歴史を見直したからこそ可能になったことだ。あとがきで、なだいなださんは、「見えないから歴史がないというわけではない」と言い、陰に隠れてしまったような人の伝記を「君たち」にもいつか書いてもらいたい、としている。
大河ドラマもそうだが、確かに、一人の視点で歴史を見る、ということは、教科書で勉強するのとは全く違う発見があることを身をもって感じる読書体験だった。これまで以上に歴史を題材にした小説や伝記を読む楽しみが増えたように思う。
また、今回、登場した人物たちの本も、新約版で読みやすくなっているので、そちらにも手を出してみたい。

『大奥』と『ベルばら』をつなぐ一冊~なだいなだ『TN君の伝記』

先月11/6・7に行われたビブリオバトルのWebイベント「Bib−1 グランプリ 2021」(ビブワン)はいつも以上に色々な本の紹介があり、とても楽しく視聴した。
『TN君の伝記』は、児童書という形式だったこともあり、これまで全くその存在を知らず、ビブワンの紹介で初めて知った本。
しかし、個人的には、歴史への興味がカンブリア爆発のように激増した2021年に読むべくして読んだ、自分にとって大きな一冊だった。


そもそも今年のGW頃に『大奥』と『ベルサイユのばら』を連続して読んで、以下のような疑問が湧いたのが始まりだった。

  • 同じように新しい時代の始まり(革命、維新)を描いているのに、なぜ日本の革命には「市民」が出てこないのか。
  • フランス革命(やアメリカ独立宣言)で確立されたような「人権」の概念は日本にいつ生まれたのか。

→参考:『大奥』と似てるとこ・似てないとこ~池田理代子『ベルサイユのばら』(3)~(5) - Yondaful Days!


そんな問題意識をもって見始めた大河ドラマ『青天を衝け!』の序盤は、(武士にはなるものの)主人公・渋沢栄一の農民視点からの「日本を良くしたい」という気持ちの描写が多く、自分の興味に応えてくれる内容とも言えた。
しかし、時代が明治へと移り、栄一が新政府の官僚として働くようになると変わってくる。登場人物は教科書に出てきたような「偉人」ばかりで、ドラマとしては面白味を増したが、市井の人の出番は徐々になくなり自分の興味を外れてしまった。
栄一の視点も、「欧米に追いつく」という気持ちが強くなり、基本的人権や民主主義に関する内容はほとんど出て来なくなった。(養育院の話については、序盤の「市民」目線が残っていたが。)


そんなときに読んだ、この『TN君の伝記』は、渋沢栄一と同時代における草の根の民主主義の状況が、当事者の視点からよくわかる内容だった。
作者のなだいなださんの意図*1に沿えば、TN君とは誰かを伏せたまま説明するのが良いが、最初だけ書いておくと、TN君というのは、「東洋のルソー」とも呼ばれた中江兆民(1847~1901)のことだ。ルソーの名からもわかるよう、フランス革命との関わりも大きく、まさに、『ベルサイユのばら』と『大奥』をつなぐ一冊という意味で、「俺得」な一冊だった。


以下、いくつかに分けて引用等を。

『青天を衝け』のキャラクター

TN君は岩倉使節団のメンバーでもあったので、岩倉具視伊藤博文、福地源一郎*2などが登場する。中でも、政府の中枢であった大久保利通の登場が多い。
ドラマの中のイメージ通り、大久保利通は能力は高いが敵を多く作るタイプの人だったようだ。
また、西郷隆盛征韓論から西南戦争までの流れについては、民権運動的側面があったという興味深い要因分析含め多くのページが割かれていてとても勉強になった。この辺りの人物イメージは、これまで全く歴史に興味がなく、明治維新に関する小説や漫画をほとんど読んでこなかった自分にとっては、『青天を衝け』のドラマが非常に役に立った。
なお、この本を読むまで知らなかったので恥ずかしいのだが、西郷隆盛(薩摩)、大久保利通(薩摩)、木戸孝允(長州)を維新三傑と呼び、このうち木戸孝允は『青天』には登場しない。(今回、小学館版学習まんが「日本の歴史」も読み返したが、そちらでもほぼ登場しない。)何故?

フランス革命とTN君

さて、ここからが個人的にはメインの内容となるフランス革命に関連する部分。

TN君は、岩倉使節団で日本を発つ前(1871)に、明治維新後の日本の外観の大きな変化に驚き、そして嘆く。(以下、引用は一部、仮名を漢字に修正)

十年前の、新しい世の中をつくる、というかけ声の結果が、これなのか、多くの若者たちが、命をなげだそうとしていたのは、鉄橋や人力車や牛肉屋や洋服のある新しい生活のためだったのか。そう思うと、なんだかむなしい気がした。人々は、もう政治のことは考えていないようだった。政治をわすれ、新しい生活のことばかり考えていた。
p75

このあたりは、自分が『青天を衝け』にかけた期待がドラマの中でうやむやにされかけていると感じたことと全く同じで、心が読まれているのかと感じた。(笑)
そんなTN君だが、岩倉使節団でフランスに行って何を得たのだろうか。


フランスに渡ったTN君は、「上流社会」ではなく「下流社会」のフランス人たちの話をよく聞いた。「両方知らなければ片手落ちで、フランスを知ったことにならない」(p92)のだそうだ。

居酒屋にあつまる労働者たちは、よく政治のはなしをした。そして、一人一人が意見をもっていて、すぐに議論になった。議論が熱して、はては口論から、つかみあいにもなりかねないところがあったが、TN君は彼らの姿を見ながら、この国の政治を動かしているのは、どうも彼ららしいと思った。実際、このフランスの19世紀の政治は、パリの庶民たちの手で何度か大きく揺り動かされたのだ。p93

そして、ある日、古本屋で見つけたジャン・ジャック・ルソー『社会の契約』を読んでみると、その中の言葉のいくつものフレーズを居酒屋で口論していた労働者の言葉として既に聞いていたことを思い出す。

この言葉も、別の労働者の口から聞かれたものだった。彼はそれを、まるで自分の言葉のように、自然に叫んでいた。おそらく、それがルソーのものだとは、自分でも知らないのではないか。
TN君は、思わずつぶやいた。

      • この本は生きているぞ。この言葉は、まだ生きているんだ。p100

TN君には、1873年のパリの街では、これまでの100年の歴史が古い建物に刻み込まれているようで身近に感じられたという。その中で、1762年刊行のルソーの書物の言葉が「まだ生きている」ことは大変な驚きであったに違いない。国民の啓蒙に力を入れようと決意したTN君の気持ちもよくわかる。
しかし、その一方で、2021年に生きる自分にとっては、日本人がここまで「歴史」や「個人」の「人権」に疎いのは、教育よりも国民性の問題ではないかという疑問を捨てきれずにいる。

TN君が抱いた「明治維新」への疑問は、そのまま日本人の国民性を表しているようにも思えるのだ。

明治維新は、たしかに、古い日本の体制を新しいものに変えねばならないという考えに支えられて起こった。そして、今の指導者たちも、日本を変える努力はしている。(略)
しかし、それらの近代化とか、改革とかは、いったいなんのためだったのだろう。誰のためだったのだろう。(略)
明治維新は、もう一つの目的を持っていなかっただろうか。人民ひとりひとりの、古い制度に縛られてきた生活からの解放の期待を、担っていなかっただろうか。いや、そちらこそが、人民の願いだったのだ。自分たちの国をつくる、自分たちのための日本をつくる。それが新しい日本をつくることではなかったのだろうか。それはTN君自身が、あの激しく揺れ動いた時代に感じていたことなのだ。(略)四民平等も、最初のうち、政府の旗じるしでもあったのだ。だが、そうした維新の夢は、いつのまにか強い国をつくるため、日本をヨーロッパふうにすることが目的だったようにすり替えられてしまっている。しかし、日本にいる人間たちは、そのことに気がついていないようだ。p116

このような日本人の「健忘症」的なふるまいは、このあと、大日本帝国憲法発布の際にも発揮される。完全に政府寄りの内容であっても、憲法ができてしまえばお祭り気分になってしまうのは、2021の東京五輪をめぐる日本の状態と似ているのかもしれない。


さて、TN君は、問題は「日本人の国民性」ではなく「教育」だと考える。
TN君が日本に帰る頃(1873)、日本では民権運動としては重要な出来事である「民撰議院設立建白」が提出される(1874)。しかし、これは、征韓論の騒動が招いた政治的対立から生まれたものである(中央から退いた板垣退助らが大久保らへの対抗手段として講じた)ことをTN君は残念に思った。
所詮それらは「パリ留学時代に居酒屋でめぐりあった労働者たちのような、無名の人々の心の中に根を張ったもの」(p137)ではなかったのだ。
国民一人一人が人権意識を育てていく必要があると考えたTN君は、ヨーロッパから戻って私塾を作る。

わしは、日本に自由がないのは、遅れているからだ、そこまで進歩していないからだと考えた。これまで、ずっとそう考え続けてきたのだ。だがね、今になって、それが間違っていたことがわかった。文明開化は進むだろう。ほっといても、大久保がやろうが、西郷がやろうが、進むだろう。しかし、ほっといたら、自由はこない。大久保にやらせてただ待っていても、日本に自由はこないだろう。

より自由になるということは、より進歩することではない。より文明開化することではない。ひとりひとりが、より自己に目覚めることだ。誰もたよりにせず、誰に支配されずに生きることに目覚めることだ。TN君が、そのとき悟ったことはそのことだった。p163


本の後半では、日本の民権運動とその弾圧、TN君の成功と挫折について描かれ、とても面白かった部分だが、今回はここまで。

*1:ぼくの知ってもらいたいのは、彼の名前ではなくて、彼がどんなふうに生きたか、ということだからだ。そのためには、名前なんてじゃまになる。そう思ったから、名前は出さない。p11

*2:『青天を衝け』では仮面ライダービルドの犬飼貴丈が演じた。