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人物、言葉、終わらせ方、全て文句なし〜夢枕獏『神々の山嶺(下)』

神々の山嶺(下) (集英社文庫)

神々の山嶺(下) (集英社文庫)


物語的には、上巻で中心に位置していたマロリーのカメラの話は一旦落ち着き、代わりに、羽生の挑戦…「エヴェレスト南西壁、冬期無酸素単独登攀」という前人未踏の挑戦の話が立ち上がってくる。上巻では、マロリーのカメラの行方と、羽生丈二の人生をひたすら追いかけていた深町の役割も、「羽生の挑戦を写真に残すカメラマン」というふうに大きく変わる。


未踏の地に向けて出発した二人。途中までは、攀る羽生を、深町が追いかける流れで物語は進む。
しかし、普通のバディものとまったく異なり、彼らは連絡を取らないし、能力的に劣る深町は、途中で引き返さなければならない。二人の人間がどこでクロスするのか、というのが、ひとつの見どころになる。
そして、勿論、羽生がこの偉業を達成できるのか。
文字通り、一歩足を踏み外せば命を失う、だけでなく、高山病で幻覚を見るくらいに意識が朦朧としている中で、正しい判断ができるのか。
羽生と深町の挑戦が、物語全体を強く駆動し、それだけで、この小説は十分に面白い。


しかし、この小説で一番驚いたのは、その終わらせ方だ。
これほど、ちゃんとした終わらせ方があるのかと驚いた。
夢枕獏というと、キマイラや餓狼伝のイメージが強すぎて、読者としての自分は「終わらせ方」に特に重きを置いていなかったし、今回も読んでいて、メインの登山「エヴェレスト南西壁、冬期無酸素単独登攀」の話が終わったあとは、後日談みたいなものがあって作品は閉じられるのだと思っていた。
実際、それだけでも十分満足できただろう。
ところが、最後の「もう一山」が素晴らしかった。
伏線回収というほど、伏線の多い小説ではないが、もやっとした部分に全て「蹴りをつける」終わらせ方が、まさに、夢枕獏がこの小説にかけた意気込みを象徴するようなものになっているように思う。


自分が夢枕獏作品、特に、その文体が好きだった理由は、独り言が過剰なところにあった。
そして、その独り言が、日常生活や家族の問題ではなく、キャプテンハーロック的な「男の美学」を追求するような内容であること、ほとんど気違いじみているところで、己と戦っている感じが、中学生の自分には、とても大人に見えた。
神々の山嶺』の主人公・深町は41歳で、現在42歳の自分よりも年下の主人公ではあるが、その気持ちは変わらない。勿論、深町は家族がいない独り者で、自分と立場が全く違うが、それでも「馬鹿げている」「青臭すぎる」「理想に囚われ過ぎている」という感想にはならない。
ひたすらに、カッコいい。
いや、カッコ悪いところまで含めてカッコいい。
例えば、深町の女性についての悩みも、羽生と関わる間に、その相手が、いつの間にか以前つき合っていた加代子から岸涼子(羽生の元恋人)にスライドしている。その、潔くない感じもカッコいい。


脳内をめぐる、そんな独り言の洪水に、名言が多い。
そして、時折饒舌になる羽生丈二の言葉も良い。今回、やり出すと止まらないから引用はしないでおこうと思ったが、解説で市毛良枝*1も引用している部分から。

「何故、山に登る?」
羽生が、また訊いてきた。
「わからない…」
深町は、静かに首を左右に振った。
「あのマロリーは、そこに山があるからだと、そう言ったらしいけどね」
「違うね」
羽生は言った。
「違う?」
「違うさ。少なくとも、おれは違うよ」
「どう違う」
「そこに山があるからじゃない。ここに、おれがいるからだ。ここにおれがいるから、山に登るんだよ」
p254


これを口にしてもサマになるキャラクターであるということも凄いことだ。
自分にとって忘れがたい傑作。
すぐにでも谷口ジローの漫画版にチャレンジする予定なので、また、深町や羽生に会えるのが楽しみです。

*1:なぜ?と思ったが、調べてみると著作等もあり、山に詳しい方。Numberのインタビュー記事がわかりやすい。→<私が山に登る理由> 芸能界随一の登山家・市毛良枝 「自立できたときの喜びはかけがえのないもの」