Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

傑作!でも終わり方がしっくり来ない~柚木麻子『BUTTER』

結婚詐欺の末、男性3人を殺害したとされる容疑者・梶井真奈子。世間を騒がせたのは、彼女の決して若くも美しくもない容姿と、女性としての自信に満ち溢れた言動だった。週刊誌で働く30代の女性記者・里佳は、親友の伶子からのアドバイスでカジマナとの面会を取り付ける。だが、取材を重ねるうち、欲望と快楽に忠実な彼女の言動に、翻弄されるようになっていく―。読み進むほどに濃厚な、圧倒的長編小説。

途轍もなく面白い。
にもかかわらず、終わり方がしっくり来ない作品だ。


もともと、『BUTTER』を読んだきっかけは、ビブリオバトルで北関東連続不審死事件を題材にした小説『どうしてあんな女に私が』を紹介したときに、同じ事件を題材にしているこの本について質問を受けたことだった。
実は、それまでこの本を知らなかった。メジャー作家にもかかわらず、柚木麻子に全く馴染みがなかったことで、直木賞本屋大賞の候補にもなっていたにもかかわらずスルーしていた。


したがって、どうしても2作品を比較してしまうのだが、しっくり来ない一因は、『どうしてあんな女に私が』がエンタメに徹して切れ味鋭い終わり方が特徴だったのに対して、『BUTTER』が、尺が長めで、もう少し「文学」寄りで、切れ味が悪いからかもしれない。
それ以上に、「あれ?」と思ってしまった原因は、最後に主人公・里佳がカジマナとの直接対決を経ないままで物語の幕を閉じてしまったことにある。これの良し悪しについては、後述するが、「読み切ったー!(ガッツポーズ)」という読後感では無かったのは間違いない。

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素晴らし過ぎるタイトル、素晴らし過ぎるカバーイラスト

小説のタイトルは、多義的である方が良い。
読後にタイトルの意味を思い返したときに、「こういう解釈もできるのでは?」と色々と思いを馳せられる方が楽しい。
カバーも同様で、タイトルの文字と合わせて未読の際は想像を掻き立てられ、読後も、解釈の幅を持たせられるようなものが、読みたい気持ちを引き起こす。
『BUTTER』を読んでいて、先日読んだ『むこう岸』(生活保護をテーマにした児童文学)を何度も思い出したが、前者がいわば無駄が多く、色々な方向から楽しめるのに対して、後者は(児童文学ゆえに)メッセージが出来るだけ正しく届くように工夫を凝らされている分、誤読のしようがない。それは、タイトルと表紙にも表れていて、『むこう岸』のタイトルと表紙は、自分には、「あそび」の少ない、苦しくなるようなものと感じた。

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話を戻すが、『BUTTER』において、バターは、食材としてのバターでありながら、カジマナという一人の登場人物、そしてカジマナの生き方を象徴するアイテムになっている。
そして、作中でも何度も引用される絵本『ちびくろさんぼ』では、木の周りを回った虎が液体化してバターになり、最後にホットケーキになって登場人物の胃に収まる。
ちびくろさんぼ』は視覚的に食欲を刺激する絵本であり、『BUTTER』の表紙も、女性の髪がバターになっているだけでなく、その滴りがやはり視覚的に食欲をそそる。まさにこの小説にピッタリのイラストだと言えるし、読後に作品を振り返るときにも雑音にならない。

似ている3作品

この本を読むと、いくつかの本・映画を思い出す。
まずは、何といっても漫画『美味しんぼ』だ。
本当に美味しいものを知らなければ人生は楽しめない。
カジマナのそういう考え方だけでなく、「お前はわかっていない」というダメ出しこそが海原雄山*1的なのだ。

「私は亡き父親から女は誰に対しても寛容であれ、と学んできました。それでも、どうしても、許せないものが二つだけある。フェミニストとマーガリンです。」(略)
「バター醤油ご飯を作りなさい」
「バターはエシレというブランドの有塩タイプを使いなさい」
(p37-38)

上から目線の畳みかけるような命令口調が、むしろ快感に繋がる。
なお、バター醤油ご飯のバターは「冷蔵庫から出したて、冷たいまま」が正解だという。このあたりのディテールが本当に細かいし、やはり海原雄山的だと思う。


これ以外にも、ウエストのクリスマスケーキや、恵比寿のジョエル・ロブションを指定して食べてみろ、とカジマナ様からの命令が下るが、何といっても真骨頂はこれだろう。

新宿の靖国通りにTっていうラーメン屋さんがあるんだけど。そこの塩バターラーメンを食べて、どんな味だったか正確に教えてもらえないかしら?(略)
はっきりいって、普通に食べたんじゃ、たいして美味しくもないのよ。個々のラーメンを飛躍的に美味しく食べるには、ある状況が必要なの(略)
セックスした直後に食べること。夜明けの三時から四時の間。
(p164)

こういう無茶な要求をして、また、里佳がこれに従っちゃうからすごい。
このように、里佳はカジマナから事件のことについて話してもらおうと必死になるあまり、彼氏の話や自らの悩みについても語るようになる。


もちろんカジマナは殺人容疑で東京拘置所から出ることはないので出来ることは言葉を語ることだけだ。
里佳の拘置所訪問は、取材目的と言いつつも、頭の中のモヤモヤをカジマナであれば晴らしてくれるのではないか?「答え」を持っているのではないか?と、カジマナの言葉を欲する部分がある。
この状況に似ているのは『羊たちの沈黙』だろう。
里佳にとって、カジマナは、レクター教授のような存在なのだ。
行方不明になった里佳の親友・伶子の居場所を、カジマナに聞くシーンは最もレクター教授的な大きな見せ場になっている。


そして最後の一つ。
カジマナは、『夢をかなえるゾウ』におけるガネーシャ(関西弁を話す象の形をした神様)によく似ている。
最後にも述べるが、『BUTTER』は、短くまとめれば、主人公・里佳が、カジマナの指令に翻弄されながら自らの生き方を模索する自己啓発的な物語と言える。
つまり、人生に必要なものは、実は身近にあって、「気づき」によって自分をどんどん更新していけるという基本的な思考が軸にある。
言い換えれば、お使いRPGのように、淡々とタスクをこなしていくことで、「前に進んでいる」感じ。 
この本におけるカジマナというのは、倒すべき相手(海原雄山)であり、「答え」を知っているメンター(レクター教授、ガネーシャ)でもある。


女性の役割

首都圏連続不審死事件が多くの人の、とりわけ多くの女性の興味を引いた理由は、それが(女性に不利の多い)日本の性別役割分担の問題を意識させるから、というのがこの小説での分析ということになる。(以下に引用するp550)

特に、中堅記者として働きながら、結婚についてもぼんやり考えている主人公の町田里佳にとって、それは、自身の生き方と密接に関係するテーマとなる。
小説内では、カジマナを説得する中で、親友・伶子との会話の途中の独白で、そして、新居として購入する物件を紹介してくれた山村さん(弟が事件の犠牲者)への言葉の端々に、このテーマが現れる。

日本女性は、我慢強さや努力やストイックさと同時に女らしさと柔らかさ、男性へのケアも当たり前のように要求される。その両立がどうしても出来なくて、誰もが苦しみながら努力を強いられる。でもあなたを見ているとはっきり、わかるんです。そんなもの、両立できなくて当たり前だって。両立したところで、私たちは何も救われないんだって、いつまで経っても自由になれっこないんだって。p151(里佳のカジマナへの言葉)

でも、きっと…。何キロ痩せても、たぶん合格点は出ないのだろう、と里佳は、とうに気付いている、どんなに美しくなっても、仕事で地位を手に入れても、仮にこれから結婚をし子供を産み育てても、この社会は女性にそうたやすく、合格点を与えたりはしない。こうしている今も基準は上がり続け、評価はどんどん先鋭化する。この不毛なジャッジメントから自由になるためには、どんなに怖くて不安でも、誰かから笑われるのではないかと何度も後ろを振り返ってしまっても、自分で自分を認めるしかないのだ。p540(里佳の独白)

家庭的ってそもそもなんなんでしょうか。家庭的な味とか家庭的な女性とか。(略)
これだけ家族の形が多様化している現代で、そんなのもう、なんの実体もないものです。そんな形のないイメージに振り回され、男も女もプレッシャーで苦しめられている。実はこの事件の本質はそこにあるような気がします。p550(里佳の山村さんへの言葉)

このような状況に対して、(結局別れてしまう)恋人の誠は鈍感だ。
小説内でこのような物言いをしてしまう男性キャラクターは多く、もはやテンプレだが、実際、男性の方がそう考える人が多いのだろうし、自分も勉強しない子どもを怒るときは同じような論調になってしまう。

「そんな風に批判されないように、里佳がせいいっぱい努力すればいいじゃないか…。」(略)
里佳は悲しくなった。彼は面倒だから、こう言っているわけではない。おそらく本当に努力さえすれば、物事は解決すると思っている。この世界で起きる悲劇はすべて個人の責任であり、誰しも人に甘えてはいけないと思い込んでいる。
「あなたや世間を喜ばせるような努力の仕方を、四六時中、出来る自信はないの。もう若くなくなってきてるし、もう他人に消費されたくない、働き方とか人との付き合い方を、自分を軸にして、考えていきたいの」p427

ただし、このテーマは、作品全体としては、やや尻すぼみで、投げっぱなしの印象。
これも読後の印象がスッキリしない理由のひとつではある。

里佳VSカジマナの対決の勝敗

『BUTTER』の物語は、里佳が新居のお披露目パーティーで、七面鳥をふるまうシーンで終わる。
先ほど引用した山村への言葉の中にも「家庭的ってそもそもなんなんでしょうか」とあるが、里佳は、カジマナとの対話を通して、理想の生き方、理想の家庭のあり方を模索したと言える。
そして、辿り着いたのが、作り付けの立派なオーブンのある部屋であり、大勢にふるまう七面鳥料理、そしてそのレシピだった。


この落としどころが『BUTTER』という作品の一番わかりにくいところだ。
里佳VSカジマナという対決で見た場合、ラストに至るまでの勝ち負けはこんな感じだ。

  • 伶子の居場所を聞くために、里佳は自身の父親との関係(自分のせいで父親が死んだという思い込み)について告白せざるを得なくなる(p378、カジマナ勝)
  • カジマナが料理教室サロン・ド・ミユコに通ったのは、友達を作るためだったという言葉を引き出し、インタビュー記事の連載開始。(p436、里佳やや勝)
  • いつか七面鳥料理の集まりに来てほしいという言葉で、カジマナを嗚咽させる。(p502、里佳勝)
  • 獄中結婚をしたライバル誌編集者のスクープ記事により、里佳のインタビュー記事が嘘だというのと合わせてプライバシー暴露による精神攻撃を受ける(p513、カジマナの圧倒的勝利~虚実入り混じるこの展開は震えた…)


このあと、二人は顔を合わせていないし、里佳の受けた傷は深く、彼女の破滅を願う敵(里佳にとっての敵)は、カジマナだけでなく、ゴシップ大好きな「その他大勢」すらいる状況となってしまった。
しかし、この大敗のあとで、里佳は、カジマナが逮捕直前に、七面鳥料理の招待状をサロン・ド・ミユコの面々に出していた事実を突き止める。したがって、カジマナが望んで作れなかった七面鳥料理を作り、カジマナが呼べなかった大勢の客を招待してパーティーを開くことで里佳がカジマナに対してマウントを取る構図にはなっている。

そもそも生き方勝ち負けを求めてしまう考え方に疑問を呈するのが、このラストの流れなのだろうが、もう少し掘り下げる。

カジマナの弱点

カジマナの弱点は、「いつか」がないことだ。局面局面では、相手をコントロールし、死に至らしめるほどの言葉を持っているが、虚偽が多いので長続きしない。里佳が指摘した通り「今目で見たもの、今すぐ確実に手に入るものしか信じることができない」(p501)ので、いつか来る日を楽しみにして努力や準備をすることが出来ない。
そう考えると、七面鳥料理は、パーティー当日のためだけのもので、里佳の「マウント的勝利」の決定打ではない。そもそも「料理」は、「いつか」「誰かに」ではなく、今ここにいる人、そして自分のためにつくるものなので、カジマナと相性が良い。


だから、二人の圧倒的な差は、ダメージが大きく敗色濃厚な里佳が「いつか」のために新居を買ったことに現れている。
作中に書かれている通り、里佳が新居購入に踏み切ったのは、「いざというときの駆け込み寺」を求めたからだ。料理自体は「今ここ」のためのもの*2だが、そこに行けばみんなと料理を食べられるという期待感は、やはり「いつか」のためのものだ。

ふいに、ここと同じくらい、広いマンションを手に入れたいと思った。いや、一部屋の大きさよりも、一人になれる部屋がいくつもあるといい。複数のプライバシーを尊重できるように。(略)
ひょっとすると、自分にできる唯一の仕事は…。
近しい人たちのいざという時の逃げ場を作ることなのではないだろうか。p442

私、結婚ってまだよくわからないけれど、浮気とか不倫っていう意味じゃなくて、逃げ場があった方が辛くならないように思うんですよね。行き詰った夜に、ふらりと散歩して珈琲を一杯飲めるような場所。そこに、旦那さんがふっと迎えに来てくれたら、十分なんじゃないでしょうか。p496

珍しい形のオープンエンド

という風に、里佳とカジマナの対決に注目すると、物語の結末は、それなりに上手く「落ちている」=クローズしているような気がする。
しかし、やはりこの終わり方は、2つの理由でしっくり来ない。おそらく、クローズエンドに見せつつ、読者にテーマを放り投げるオープンエンドの作品なのだと思う。

しっくり来ない一つ目の理由は作中でも言及されている。

里佳が中心に居ると、みんな役割から自由になれるんだよ。性別とか地位が関係なくなるの。磁場が歪むっていうのかな。昔からそういうところあったけど、最近は特に…。p440(伶子の言葉)

いいですよね、大手マスコミの記者さんは。結局のところ、あなたたちはどんなに世間から糾弾されても、出来心でひと一人の人生をめちゃくちゃにしても、セーフティネットがある。そんな職業、この世界にどれだけあると思います?ふと思い立って30年近くのローンを堂々と組める独身女性が、今日本にどれだけいると思います?p549(山村さんの言葉)

この小説が最後に持ってきている新居購入&七面鳥料理パーティーというのは、里佳の性格と財力を持ってこそ成り立つ特殊過ぎる解決策で、現実感が薄い。
読者としても、こういう人がいたらいいなあ、こういう場所があったらなあ、とは思うが、参考にするのは難しい。これは『夢をかなえるゾウ』のつもりで『BUTTER』を読んできた自分としては納得がいかない(笑)
…というのは冗談だが、里佳の精神力の強さとコミュニケーション能力、財力を見せつけられると、読者が身近に感じていた里佳との距離は遠くなってしまう印象だ。


もう一つも個人的な理由だが、里佳が次の一歩として企画している「カジマナによって日常を狂わされた女性たちのインタビュー記事」に賛同できない。
そもそも、カジマナ事件に関連付けた記事を書くことは、引用した山村さん(弟が事件の被害者)の言葉にあるように「ひと一人の人生をめちゃくちゃに」しかねないリスクが確実にある。里佳本人も傷を負っている。
この物語の流れから考えれば、カジマナ事件から出来るだけ離れて、人と集まる場の特集記事や、男女の役割を離れた人間関係に関する記事であれば説得力がある。
つまりは、小説としてとりあえずのエンディングは用意するけど、多分しっくり来ないだろうから、あとは読者自身で考えて、という特殊なかたちのオープンエンドだと解釈した。
この作品のように、女性差別をテーマに含む作品(例えば↓の松田青子『持続可能な魂の利用』)は、作中での解決を求めず、ファンタジーに吹っ切るか、オープンエンドにすることが多いと思う。好みとしては、男性社会と政府をディスって終わってもらった方が落ち着く。
そうしないのは、読者は置いてけぼりにしても里佳という主人公を救いたかったからなのかもしれない。

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木嶋香苗現象

考えてみれば、同じ首都圏連続不審死事件を扱った花房観音『どうしてあんな女に私が』も、編集者が事件の取材をするスタイルで事件に対するアプローチは似ている。取り上げたテーマは、それぞれ「嫉妬」「家庭」と異なるが、どちらも、木嶋香苗という圧倒的キャラクターとそれにまつわる「木嶋香苗現象」をどう読み解くかという要素が、作中の重要な位置を占めている。
特に、本文中に本人(カジマナ)が登場する頻度の多い『BUTTER』では、読後に心に一番残っているのはカジマナの台詞だったりする。(「バター醤油ご飯を作りなさい」)
一方で、これはフィクションではなく、既に実刑が下っている犯罪事件で、実際に命を落とした被害者がいることは忘れてはいけない。
このままでは、首都圏連続不審死事件について、間違った認識をしてしまうこともあるかもしれない。
やはり、乗りかかった船なので、改めて木嶋香苗本人に関する本を読んでみようかと思う。

お、もう一冊、柚月違いでこちらも首都圏連続不審死事件にインスパイアされているのか。こちらも読みたい。


*1:美味しんぼ』の主人公・山岡士郎の父親で美食家・陶芸家。個人的な名言は「ポン酢のポンとはなんのことだ!」

*2:詳しく書かないが、この小説では「レシピ」も重要な意味を持っている、料理自体は「今ここ」のためのものだが、レシピは「いつか」「誰か」のためのものだ