Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

モヤモヤ感あり〜スコセッシ×ディカプリオ『シャッター・アイランド』

公開時に話題になったこともあり、いわゆるネタバレのある映画ということは知っていた。
Wikipediaには、この映画のキャッチコピーについて以下のように説明されているが、まさにこれを宣伝で見ていたからだろう。

「精神を病んだ犯罪者だけを収容する島から、一人の女性が消えた―。」
「この島は、何かがおかしい。」
「全ての謎が解けるまで、この島を出ることはできない。」

日本では「衝撃のラスト」という触れ込みで宣伝され、上映前には「この映画のラストはまだ見ていない人には決して話さないでください」「登場人物の目線や仕草にも注目しましょう」という旨のテロップが入った。また映画の謎解きに集中するために「二度見キャンペーン」や原版に忠実な「超吹き替え版」の上映も行われた。
シャッターアイランド|Wikipedia

自分は騙されるのは大好きなので、疑わず物語の導くままに作品を鑑賞して、スコーンと騙されてスッキリすることを期待して映画を観始めた。


物語を観ていると、ディカプリオ演じるテディの容態がどんどん悪化していくとともに、どうも、飲まされた薬、もしくは貰ったタバコによって、幻覚を見せられているようだ、という(偽の)「真実」が明らかになって行く。
ここら辺は上手くできており、テディが、施設の連中から騙されてはいけないと思っているのと同様に、観客も、騙されないようにしながら物語の中の「真実」を追い求めているので、このミスリーディングに引っかかりやすい。
中盤で登場する、洞窟に身を隠して生活している医師のレイチェルの解説によって、この施設がどのような目的で運営されているのかを知らされ、ディカプリオは、「真実」に気がつく。
気づいてしまえば、さあどのように逃げ出すか、すぐに逃避行が始まるのかと思うと、テディは島に同行した保安官チャックを助けに行くことを決意する。
自分は観ていて、「えー、この状況で助けに行くのかよ…」と思うと同時に、どうもディカプリオが「信頼できない語り手」の物語のようだという考えに傾いた。

  • 崖を命綱なしで降りて、レイチェルの住む洞窟に入り、さらに崖を上まで登り切ってしまう
  • チャックの居場所は不明なのに、もう一度崖を降りるリスクを負って、ロボトミー手術の行われているという灯台にまで行ってしまおうとする

特に、崖のシーンが、風景が非常にリアルであるだけに、テディの行動のあり得なさすぎなさが際立つ。さらに、洞窟に行方不明だった女性医師が隠れている、という状況は、まさに「妄想」の中でしか起こり得ないだろう。したがって、映画を作った側も、この辺のシーンで、ラストへのヒントを大盤振る舞いしているつもりなのだと思う。


そして、最後に、テディが、自分の本名が「レディス」であること、自分は保安官ではないこと、そして、妻のドロレスが子ども3人を殺してしまったこと、その妻を自分が殺したことを思い出す。相棒保安官と思っていたチャックは、担当医師だったのだ。
ラストシーンは、結局、また妄想世界に戻ってしまったというふりをして、ロボトミー手術を受けることにするテディが映される。

モヤモヤしてしまう理由

しかし、観客をだまして最後に驚かせるタイプの映画なのに、どうも鑑賞後は、スッキリしないモヤモヤ感が残ってしまう。それは、現実世界と妄想世界の境目が分かりにくいことが一番の原因であるように思う。(勿論、半分は狙ってやっているにしろ)

強盗返・龕灯返(がんどうがえし)とは歌舞伎で用いる舞台用語で場面転換の方法である「居所変(居所替, いどころがわり)」の1つ、若しくは強盗返を用いた仕掛け。一般的には短時間で行う場面転換で用いられる。

どんでん返しという言葉(もともとは強盗返)は、上のような意味だというが、つまり、場面が切り替わることが、どんでん返しであって、場面の切り替わりが不明なので、素直に感動できない部分がどうしても残ってしまう。
何故、その切り替わりが不明に映るのか。

  • 崖の上り下りや、洞窟の中のレイチェルは妄想に違いないが、テディが真実を知らされるのは、崖を超えた場所にある灯台である。灯台にいるテディが現実だとすれば、どうやって辿り着くのか。

ー物語の重要な核である、ダッハウ強制収容所の虐殺に、テディが関わっていたことすら、テディの妄想ではないか、というような指摘が物語内でなされる。この経験が妄想であるとすると物語の核がなくなり弱くなるので、妄想であってはならないが、どちらなのか。
こういう部分が積み重なり、「ラストで知らされる真実」さえも疑いの目で見ることを強いられる。


ただ、どちらが現実なのかよく分からない話、というのも自分は嫌いではない。現実世界と妄想世界の境界が曖昧になってしまう、というのは、当事者の感覚としても正しいのかもしれない。
したがって、『シャッターアイランド』がモヤモヤしてしまう理由は、もう一つあると思う。
それは、この物語が、精神疾患を扱っているということ。例えば、VRなどの最先端技術を前提として現実と妄想の境界があやふやになる、という展開であれば、ほとんど問題を感じなかったように思う。
しかし、施設に収容されているのは犯罪者だとは言っても、実際にそれで苦しんでいる人がいる「精神疾患」を題材にしているということで、映画を純粋に楽しみたいと思っているエンタメ脳にブレーキがかかってしまう。
さらには、全編を通じてだけでなく、ラストにも、ロボトミー手術が登場することで、この映画をどのように受け取っていいのか、よく分からなくなってしまう。
強制収容所の問題にしてもロボトミー手術の問題にしても、問題を投げかけるなら、しっかり投げて欲しかった。それがないからモヤモヤしてしまう。
(そして、それらの展開への納得のいかなさが、自分の理解力不足に原因があるかもしれないところが、またモヤモヤするところ)


ディカプリオが、片頭痛に、ダッハウ強制収容所での記憶に、そして、妻の幻覚に悩まされる表情と、虚実ないまじりのシャッターアイランドの閉じられた美しい風景など、ストーリー以外の部分でもとても魅力的な映画だったが、やはりストーリーの詰めの部分が気になって仕方ない。