これは面白い、というより、自分の好みに合った新書だった。
表面的には「珍説を楽しむ」部分が確かにあるが、読み進めると、偽史やオカルト言説の問題は、ネットでデマが幅を利かせて選挙結果にも大きな影響を与える2025年現在、非常に大きな社会的問題であると感じられる。
もちろん、この本の中ではそこまで言及されないが、最終章に取り上げられるのが、保守言説に利用される聖徳太子なので、作者もこの問題意識を共有しているのだろう。
その意味でも今読むべき本だった。
読書案内として
本書の魅力の一つは間違いなくブックガイドとしての面白さ。
最初は、1904年の久米邦武の論考から始まり、大正から昭和、戦前から戦後へと、半ば研究論文の参考書的に論文や書籍の名前が並んで行く。しかし、地味な前半部分と比べると、1970年以降のラインナップが豪華で、読みたくなる本(読んで面白かった本)がズラリと並ぶ。
さらには、中学生時代に五島勉の一連書籍を大変楽しく読んだ自分としては、聖徳太子の『未来記』がコロナウイルスによるパンデミックを予言していた、等の、最近の本にも手を伸ばしたくなる。
- 『聖徳太子伝暦』(10世紀)
- 『平家物語』『太平記』(聖徳太子『未来記』への言及あり)
- 久米邦武「聖徳太子の対外硬」(1904:総合情報誌『太陽』への寄稿)
- 中里介山『夢殿』(中里は『大菩薩峠』で有名)
- 池田栄(書籍なし、「日本におけるネストリウス派」など英語論文)
- 司馬遼太郎『兜率天の巡礼』(1957:司馬名義での2作目の短編)
- イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』(1970)
- 手島郁郎『太秦ウズマサの神-八幡信仰とキリスト景教について』(1971)
- 梅原猛『隠された十字架-法隆寺論』(1972)
- 梅原猛『塔』(1976)
- コリン・ウィルソン『オカルト』(1973)
- 五島勉『ノストラダムスの大予言』(1973)※映画は1974
- 山岸涼子『日出処の天子』(1980)
- 五島勉『聖徳太子「未来記」の秘予言』(1991)
- 大山誠一『聖徳太子の誕生』(1999)
- 久保有政『日本とユダヤ 聖徳太子の謎』(2014)
- 中山康直『聖徳太子コード(上)』(2023)
- 田中英道『聖徳太子は暗殺された―ユダヤ系蘇我氏の挫折』(2023)
聖徳太子関連の書籍が主張する内容
副題では「偽史」と「オカルト文化」という書き方がされているが、この本の扱う「偽史」の主張の柱は以下の2つに整理できる。そしてこういった主張をする書籍の代表が梅原猛『隠された十字架』ということになる。
- 日本でのキリスト教伝来時期は仏教よりも早く、聖徳太子の本名「厩戸」の由来は、イエス・キリストの誕生場面の焼き直しで、太子信仰はキリスト教の影響下にある。
- 『日本書紀』などに登場する帰化人の秦氏は①ユダヤ人ではないネストリウス派のキリスト教徒②ネストリウス派とは関係ないユダヤ人③ユダヤ教からキリスト教への初期改宗者(ユダヤ人)*1が考えられる。
一方の「オカルト文化」というのは、聖徳太子の超能力、特にその予知能力を扱ったものを指し、その代表的な書籍が五島勉『聖徳太子「未来記」の秘予言』ということになるだろう。さらに言えば、「偽史」代表の梅原猛と「オカルト文化」代表の五島勉の中間にあるのが、山岸涼子『日出処の天子』というイメージだ。
影響連鎖
当然のことながら、紹介されている本や論文は、大体過去のものの影響を受けているのだが、特に直接的な影響が強かったり、繋がりが意外だったものを挙げる。
まず、文庫版の『日出処の天子』の解説で、梅原猛×山岸涼子の対談があったので知ってはいたが、『隠された十字架』⇒『日出処の天子』のラインは改めてしっかり履修しておきたいところだ。(梅原猛は未読)
そうして『隠された十字架』を読んだら、自動的に五島勉の書籍にも飛びたくなる、そんな、ぷよぷよ的連鎖が楽しみになる読書ガイドになっている。
押し寄せる語源エビデンス
「××は○○起源」を主張する際に、使われる言葉の語源を、こじつけ的に根拠に持ち出すのは、大好物。この本では、うんざりするほど大量ではなく、適度な頻度で出てくるので嬉しい。
以下に挙げたもののうち、前半はある程度、研究者内でオーソライズされているものだが、最後の2つは独自説。そのうち、特に、田中英道の「蘇我」=「我、蘇り」=「キリスト」の解釈は不意を衝かれた思いで、ある本のAmazonレビューで「蘇我馬子はどう考えてもキリストの異名ですよね」との書き込みを見て、まさか、そんなことが!と「ネットで真実」の疑似体験ができた感じがしました。
- 秦氏にゆかりの深い旧太秦村の「伊佐良井」と呼ばれる井戸の語源はイスラエル(p52、93)
- 太秦の大酒神社は元の漢字は「大辟」→「大闢」で、「闢」はダビデを示す(p93)
- 秦氏にゆかりの深い木嶋神社の特徴的な「三柱鳥居」は「三位一体」を意味する(p101)
- 太秦(うずまさ)の語源は、「イエス・メシア」(救世主イエス)(p113)
- 平安期の段階で全国的に広がっていた「八幡=ヤハタ」信仰の語源は「秦のヤハウェ」もしくは「ユダヤ」であり、秦氏が日本的一神教として広めたものである(p146)
- 寺の読み「てら」は、ラテン語のTERRA(地球、大地)が由来(p224:五島勉の解釈)
- 「蘇我」とは「我、蘇り」、つまりイエスを指し、その出自はユダヤ系のキリスト教ネトリウス派である(p243:田中英道の解釈)
いわゆる「トンデモ」主張の動機はどこにあるのか
さて、この本が面白いのは、こういった聖徳太子関連の主張の動機や一時的なブームの理由を、流れの中で考察するところにある。
聖徳太子の扱われ方は時代によって大きく移り変わる。
- 「十七条憲法」や「和」の思想は、戦前は「国体」思想の体現として、戦後は「民主主義」との関係で解釈されるようになった。また、太子の物語が多様化し、その「実像」も異なる視座から考察されるようになった。(p86)
- イメージは多様化したとはいえ、1970年代後半から80年代にかけての段階では、太子は日本を代表する尊い人物であった。しかし、1980年代以降は、それまでとは少し異なる側面から、さらなる偉人、一種の「超能力者」として評価される人物へと変貌していく。
そして、100年以上前から複数の立場の人が主張する聖徳太子の「異説」には、主張する人達の思いが反映されているという部分がこの本で最も面白かった部分だ。
- 20世紀初頭に広まった「日ユ同祖論」(古代日本への聖書的一神教の影響)は、主にキリスト教者によって提唱され、伝道の基盤形成を目的としていた。(p60)
- それ以外の佐伯などの主張の動機として、アジアにおける「大日本帝国」の優位性(脱亜論的心情)、つまり、日本文化はアジアの中で真に独自のものであり、その精神的基盤は西洋諸国と同様なものであるという主張がある。(p79)
- 正しい聖書の教理を広めるべく「キリストの幕屋」運動を起こした手島郁郎は、イスラエルへの憧れが強く、西洋を介さないキリスト教の体験を欲していた。その中で記紀神話など神道の古典を結び付ける気持ちが、古神道(ヤハタ信仰)はユダヤ教の影響下にある等の説を強く主張する底にある。(p147)
- 「オカルトブーム」の時代状況を敏感に受け止めた梅原は、当時の「売れるもの」を的確に理解し、それらを素材に自分なりの太子像を示した。(p173)しかし、1980年代以降、梅原が満たしたのと同様の社会的ニーズに応えるため、オカルト情報誌の創刊が相次ぎ、超古代史ブームが来ると、その著作へのスタンスを、センセーショナルなものから、オーソドックスなものにシフトして、自分をよりアカデミックなものと見せていく。(p175)
- 「ノストラダムスの大予言」の続編の中で五島勉は「1982年に日本から救世主が出現する」と主張する。それに呼応した「我こそ救世主だ」と考える人たち(麻原彰晃、大川隆法など)が現れ、1980年代に彼らの社会的影響力が高まるのを見た五島勉は自身の責任に気がつき、こう考える。「仮想の日本人救世主」ではなく「具体的な日本人救世主」を出す必要がある(p217)
このようにして、著作による社会的影響やニーズも踏まえながら、それぞれの思いの中で、太子像がつくられていく、というのがメインの話なのだが、近年の事例として田中英道の事例が興味深かった。
田中英道は「埴輪=ユダヤ人」説を唱えた人、と聞くと笑ってしまうが、「新しい歴史教科書をつくる会」の二代会長をかつて務めた人物。したがって、その主張は、「日本文化の主要な起源は朝鮮や中国ではなく、ユダヤ人だ」として、一種の文化ナショナリズムの語りの道具として「秦氏=ユダヤ人」説を利用するものだ。
ここで「蘇我」=「我、蘇り」の話に繋がるのだが、田中英道のストーリーでは、蘇我氏はひそかに「日本のキリスト教化を目論見、仏教の名を借りて日本を支配」しようとした。聖徳太子はこの計画に反発した結果殺されるが、大化の改新によって蘇我氏の計画は最終的に止められた。つまり、有害な外国人をこの国から追い払うために犠牲となった英雄が聖徳太子ということになる。
これを読んで腑に落ちたのは、タイトルがすごいと思って調べた『聖徳太子は蘇我入鹿である』という本のAmazonレビューで見た書き込み「蘇我馬子はどう考えてもキリストの異名ですよね」が何故か怒り口調だった理由。事情がわかれば、これは、蘇我氏=排除すべき外国人という立場の人が、聖徳太子と蘇我を一緒にするな、という怒りを表したものだったのだということが理解できる。
こういった言説からは、どうしても、川口のクルド人の問題などが思い起こされ、「真実」を知ってしまう人たちを、どうにかして減らせないかと考えてしまう。
著者は、結び近くの文章で次のように説く。
つまり、娯楽という目的で必ずしも描かれるわけではないようなアカデミックな歴史叙述と、愉快な読書体験を重視しつつ構想される偽史的物語との間には、当然、形式や内容のレベルでは差異があるものの、モチーフとしての太子の“真実”が反復される中、物語の新世界が生み出されていく。言い換えれば、偽史は読者にとっての“歴史の常識”が存在しているからこそ成り立つものであり、いわゆる“主流の語り”に依拠しつつも、それへのオルタナティブとして、過去の異なる可能性を提供するわけである。聖徳太子の異説の場合は、まさにそうだ。佐伯や池田のように、キリスト教は日本文化の伝統に反しているものだと捉える人々へ。梅原のように、「真の日本学」を目指さない戦後の知識人へ。彼らはそれぞれの立場から、異なる目的で、各々が認識した主流へのオルタナティブな物語を描こうとした。だが、それらの物語が転じてオカルト文化の主流を成していくのは皮肉なことである。
「偽史は読者にとっての“歴史の常識”が存在しているからこそ成り立つ」というのは、まさにその通りで、逆に言えば、歴史の常識つまりこれまでの積み重ねに対する理解も経緯もなければ、偽史を楽しむというスタンスは採り得ない。したがって、偽史を“真実”と捉えるしかない。そこが怖いところだ。
このあたりは、「偽史」を唱える側の思惑も知っておきたいところであって、大真面目に研究するのではなく、「騙す」ために偽史を利用する人たちがいるところが怖い。それどころか、「思想戦」と捉えて、本当か嘘かよりも勝つか負けるかを重視するスタンスの人もいる。
こういった人たち(特に政治家や文化人)のことを、加藤直樹『TRICK』や、映画『主戦場』で知ったが、アメリカ大統領選や、昨年の都知事選の石丸現象、そして兵庫県知事選 や立花孝志を扱った先日の報道特集を見ると、今後、これまで以上に大きな問題になってくるのだろう。
報道特集で取材を受けた、「金を稼ぐための手段」として切り抜き動画を作成した大学生の発言が怖い。まるで評論家のように自分の行為を客観視して語りながら、全く悪びれることがない。
「真実かどうかよりも、極端なコンテンツほどたくさん見られるし伸びるし、それがたくさん見られると伸びるから、それが真実になる。極端なコンテンツほど真実になりやすいという特徴がSNSにはある。
同じようなコンテンツがもう無数にあるので、その数の分だけ本当に罪の意識が薄れていくのかなとは思います。薬物の運び屋って、あくまでも自分は何かを運んでいるだけ。麻薬ルートの一端になっているって気づかないじゃないですか。
自分は(動画を)作っているだけ。でもまさかそれが、大きな仕組みの一つになっていて、それが悪い影響を与えているか想像もできない」
newsdig.tbs.co.jp
聖徳太子の本を読んで、こんな話に繋がるとは思っていなかったが、聖徳太子が「代表的日本人」のポジションにいるから、外国人が引き合いに出されるのは自然だ。そして、太平洋戦争や関東大震災のことですら、人によって見える景色が違うことを考えれば、1500年近く前のことであれば、それぞれが、見たい物語を「歴史」に託してしまうのだろう。
そして時代は、本や文章が大切にされない時代に入り、数日前に起きたことですら声の大きい人間が「偽史」を主張し(もしくはAIが「偽史」を生成し)、しかもそれが幅を利かせるようになってしまった。そう考えると、嘘と知りつつ『大予言』を楽しんでいた80年代は、牧歌的な時代だったということなのかもしれない。
どうすればいいんだろう?と思いつつ、まずは、「目覚めて」しまった人たちや、自分とは意見が異なるが多数派の人たち(例えばトランプ支持の人たち)の考え方についても本を見て知りたいと思った。(なお、動画は苦手なので、こういうときに「動画で調べてみよう」という発想はない)
*1:3つの説についてはp129の分類説明がわかりやすい