就活から逃げ出した言語学徒の青年は、美しい言語を話す少数民族・ムラブリと出会った。文字のないムラブリ語を研究し、自由を愛するムラブリと暮らすうち、日本で培った常識は剥がれ、身体感覚までもが変わっていく……。
言葉とはなにか? そして幸福、自由とはなにか? ムラブリ語研究をとおしてたどり着いた答えとは……?
人間と言葉の新たな可能性を拓く、斬新極まる言語学ノンフィクション。
今まであまり読んでこなかったジャンルだが、ニッチな学問の紹介をベースとしつつ、その本を書いた学者自身のキャラクターが立ち過ぎているという種の本が世の中には多くある。すぐに思いつくものだと『バッタを倒しにアフリカへ』など。
『ムラブリ』は、元々、副題にある「文字も暦も持たない狩猟採集民=ムラブリ」に興味を惹かれて読み始めたが、読み終えてみると、まさに上に挙げたようなジャンルの本で、副題後半の「言語学者が教わったこと」に重きが置かれた内容だった。
このあたりは、「はじめに」の部分にも触れられている。
この本では、ムラブリたちの言語や暮らしや考え方と、それらに触れてぼくが考えたこと、そしてどのようにぼくが変わってきたかを語りたい。
この本は論文ではない。しかし、紛れもなくぼくの研究成果だ。より正確に言うと、ぼく自身の在り方自体が研究成果であり、この本はその在り方の一部だ。
今さらだが、「ムラブリ」とは何か、等の基本情報は、Amazonの紹介ページの記載がよくまとまっている。
【ムラブリとは】
タイやラオスの山岳地帯に暮らす少数民族。人口は500名前後と推測される。
「ムラ」は「人」、「ブリ」は「森」を指すため、「森の人」を意味する。タイ国内では「黄色い葉の精霊」とも呼ばれる。
かつては森のなかで狩猟採集をしながら遊動生活をしていたが、定住化が進んでいる。
ムラブリ語には文字がなく、話者数の減少にともない、消滅の危機にある「危機言語」に指定されている。言語学的に希少な特徴が複数確認されている。【ムラブリ(語)の不思議】
・あいさつがない?
・「上」は悪く、「下」は良い?
・暦も年齢もない?
・過去と未来が一緒?
・意図的に方言をつくった?
・数を数えるのは宴会芸? etc……【内容の一部抜粋】
・初調査は突然の「帰れ」で終了
・お金がなさすぎて、ムラブリにおごってもらう
・5年かけて、ムラブリの「家族」になる
・人食い伝説によって分断されたムラブリのグループに100年越しに再会してもらい、その様子を映画にする
・ムラブリ語を話せるようになったことで、身体もムラブリ化していく
・日本でムラブリのように暮らしてみる etc……
ここにも書かれているが、ムラブリ独自の考え方の中で特に驚くのは、数についてだ。
- ムラブリ語には数詞が1から10までしかなく、「4」は「たくさん」の意味にもなる
- したがって、自分の正確な年齢を知らず、「大人」はみんな「4歳」なんだという
- さらには、数詞を1から10まで数えることができる人は稀で、数を数えるのは宴会芸に近いという
この数の概念は、ムラブリの「所有」の感覚と関連が深いのだろう。
つまり、個々人が所有するという感覚がムラブリに希薄なため、数を比較したりする必要性があまりない。故に、ムラブリ語では、通常の言語の文法で基本となる「所有」という概念が無い。
作者がムラブリ語を研究する中で、「所有」そのものに疑念を抱いていく様子が文章からも伺える。
物も人もただ存在しているだけなのに、そこに所有関係の線を見出そうとするのは、いつも人の頭だ。森の中で焚き火を囲むとき、そのような直線的な思考に出番はないように思える。それぞれの存在は煙のように漂っており、燻し燻され匂いを共有し混ざり合っている。煙と匂いの織りなす森での存在のあり方を感覚するのに、所有の概念は潔癖で幾何学的過ぎるようだ。
p148
そんな「ムラブリの身体性」を持った作者が、どのように人生を進んでいくのか、を示す6章が、なんというか、素っ頓狂だ。
- 2022年2月。プロ奢ラレヤー『嫌なこと、全部やめても生きられる』を読んで大学教員を辞職することを決心。
- しばらくいちご農家でアルバイト。大学院生時代に買った甲野善紀・光岡英稔『武学探求』を読み、光岡先生(武術家)の講座に参加し、その言語観を学び、ムラブリとの関係性を再確認する。
- その後、梶川泰司所長(アメリカの発明家であるバックミンスター・フラーの唯一の共同研究者)に出会い、梶川所長が提唱する「4つの無」(無線、無管、無柱、無軌道⇒ざっくり解釈すると大量消費社会から離れた生き方)という生き方に共鳴する。
- 梶川所長の影響を受け、2022年1月に、フラー式ドームの簡単な施工方法を発明。
- ドキュメンタリー映画『森のムラブリ』の上映が始まったため、ドームの研究は一時停止。
- 2023年2月、この本を出版。現在、フラー式ドームをさらに進めて、地球のどこでも一人で生きていけるテクノロジー「自活器」の開発に取り組んでいる。
そもそも、大学教員になり、初めて給料をもらった頃から、すでにムラブリに「侵略」されていたのだろう。「自分の給料がなぜこの金額かわからない」から始まり、「モノやコトに値段がついているのもよくわからない」「ぼくが生きるのに必要なモノはなんだろうか?」まで考えが及ぶ。
ムラブリの身体性から考えれば、大学教員としての生活が馴染まないのも、大学院生時代に結婚し子どももいたのに離婚したというのも、そりゃそうだろうと思ってしまう。
通して見ると、この本は「言語」の本ではなく「生き方」の本で、しかも最終章に行けば行くほど、内容がスピリチュアルなものになっていく。
毎日忙しい生活を送っている身からすると、羨ましく感じるところもある。彼の言う通り「自由」を求めていくと、「所有」からどんどん離れたところに行くのかもしれない。自分が「スピリチュアル」という言葉を使ってしまったのは、その境地を表現する言葉を持っていないからかもしれない。
そんな風にして、特に「所有」の概念の違いから、言語~身体性が人の生き方に大きく影響することを知ることが出来る本だった。これを読むと、知らないうちに、自分も日々使っている言語(日本語)の枠組み・メカニズムに縛られた考え方になってしまっているのだろうことがよくわかる。
そういう意味で、言語の習得は、コミュニケーション以外にも自我の確立に関する大きな意味があるのかもしれない。
この先読みたい本として、最も危険なのは、教員を辞めるきっかけとなった本だろうが、それ以外の紹介本もどれも面白そうだ。また、映画『森のムラブリ』は何かの機会に是非見てみたい。