Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「所有」しない=縛られない生き方~伊藤雄馬『ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと』

就活から逃げ出した言語学徒の青年は、美しい言語を話す少数民族・ムラブリと出会った。文字のないムラブリ語を研究し、自由を愛するムラブリと暮らすうち、日本で培った常識は剥がれ、身体感覚までもが変わっていく……。
言葉とはなにか? そして幸福、自由とはなにか? ムラブリ語研究をとおしてたどり着いた答えとは……?
人間と言葉の新たな可能性を拓く、斬新極まる言語学ノンフィクション。

今まであまり読んでこなかったジャンルだが、ニッチな学問の紹介をベースとしつつ、その本を書いた学者自身のキャラクターが立ち過ぎているという種の本が世の中には多くある。すぐに思いつくものだと『バッタを倒しにアフリカへ』など。


『ムラブリ』は、元々、副題にある「文字も暦も持たない狩猟採集民=ムラブリ」に興味を惹かれて読み始めたが、読み終えてみると、まさに上に挙げたようなジャンルの本で、副題後半の「言語学者が教わったこと」に重きが置かれた内容だった。

このあたりは、「はじめに」の部分にも触れられている。

この本では、ムラブリたちの言語や暮らしや考え方と、それらに触れてぼくが考えたこと、そしてどのようにぼくが変わってきたかを語りたい。
この本は論文ではない。しかし、紛れもなくぼくの研究成果だ。より正確に言うと、ぼく自身の在り方自体が研究成果であり、この本はその在り方の一部だ。

今さらだが、「ムラブリ」とは何か、等の基本情報は、Amazonの紹介ページの記載がよくまとまっている。

【ムラブリとは】
タイやラオスの山岳地帯に暮らす少数民族。人口は500名前後と推測される。
「ムラ」は「人」、「ブリ」は「森」を指すため、「森の人」を意味する。タイ国内では「黄色い葉の精霊」とも呼ばれる。
かつては森のなかで狩猟採集をしながら遊動生活をしていたが、定住化が進んでいる。
ムラブリ語には文字がなく、話者数の減少にともない、消滅の危機にある「危機言語」に指定されている。言語学的に希少な特徴が複数確認されている。

【ムラブリ(語)の不思議】
・あいさつがない?
・「上」は悪く、「下」は良い?
・暦も年齢もない?
・過去と未来が一緒?
・意図的に方言をつくった?
・数を数えるのは宴会芸? etc……

【内容の一部抜粋】
・初調査は突然の「帰れ」で終了
・お金がなさすぎて、ムラブリにおごってもらう
・5年かけて、ムラブリの「家族」になる
・人食い伝説によって分断されたムラブリのグループに100年越しに再会してもらい、その様子を映画にする
・ムラブリ語を話せるようになったことで、身体もムラブリ化していく
・日本でムラブリのように暮らしてみる etc……

ここにも書かれているが、ムラブリ独自の考え方の中で特に驚くのは、数についてだ。

  • ムラブリ語には数詞が1から10までしかなく、「4」は「たくさん」の意味にもなる
  • したがって、自分の正確な年齢を知らず、「大人」はみんな「4歳」なんだという
  • さらには、数詞を1から10まで数えることができる人は稀で、数を数えるのは宴会芸に近いという

この数の概念は、ムラブリの「所有」の感覚と関連が深いのだろう。
つまり、個々人が所有するという感覚がムラブリに希薄なため、数を比較したりする必要性があまりない。故に、ムラブリ語では、通常の言語の文法で基本となる「所有」という概念が無い。
作者がムラブリ語を研究する中で、「所有」そのものに疑念を抱いていく様子が文章からも伺える。

物も人もただ存在しているだけなのに、そこに所有関係の線を見出そうとするのは、いつも人の頭だ。森の中で焚き火を囲むとき、そのような直線的な思考に出番はないように思える。それぞれの存在は煙のように漂っており、燻し燻され匂いを共有し混ざり合っている。煙と匂いの織りなす森での存在のあり方を感覚するのに、所有の概念は潔癖で幾何学的過ぎるようだ。
p148

そんな「ムラブリの身体性」を持った作者が、どのように人生を進んでいくのか、を示す6章が、なんというか、素っ頓狂だ。

  • 2022年2月。プロ奢ラレヤー『嫌なこと、全部やめても生きられる』を読んで大学教員を辞職することを決心。
  • しばらくいちご農家でアルバイト。大学院生時代に買った甲野善紀・光岡英稔『武学探求』を読み、光岡先生(武術家)の講座に参加し、その言語観を学び、ムラブリとの関係性を再確認する。
  • その後、梶川泰司所長(アメリカの発明家であるバックミンスター・フラーの唯一の共同研究者)に出会い、梶川所長が提唱する「4つの無」(無線、無管、無柱、無軌道⇒ざっくり解釈すると大量消費社会から離れた生き方)という生き方に共鳴する。
  • 梶川所長の影響を受け、2022年1月に、フラー式ドームの簡単な施工方法を発明。
  • ドキュメンタリー映画『森のムラブリ』の上映が始まったため、ドームの研究は一時停止。
  • 2023年2月、この本を出版。現在、フラー式ドームをさらに進めて、地球のどこでも一人で生きていけるテクノロジー「自活器」の開発に取り組んでいる。


そもそも、大学教員になり、初めて給料をもらった頃から、すでにムラブリに「侵略」されていたのだろう。「自分の給料がなぜこの金額かわからない」から始まり、「モノやコトに値段がついているのもよくわからない」「ぼくが生きるのに必要なモノはなんだろうか?」まで考えが及ぶ。
ムラブリの身体性から考えれば、大学教員としての生活が馴染まないのも、大学院生時代に結婚し子どももいたのに離婚したというのも、そりゃそうだろうと思ってしまう。


通して見ると、この本は「言語」の本ではなく「生き方」の本で、しかも最終章に行けば行くほど、内容がスピリチュアルなものになっていく。
毎日忙しい生活を送っている身からすると、羨ましく感じるところもある。彼の言う通り「自由」を求めていくと、「所有」からどんどん離れたところに行くのかもしれない。自分が「スピリチュアル」という言葉を使ってしまったのは、その境地を表現する言葉を持っていないからかもしれない。
そんな風にして、特に「所有」の概念の違いから、言語~身体性が人の生き方に大きく影響することを知ることが出来る本だった。これを読むと、知らないうちに、自分も日々使っている言語(日本語)の枠組み・メカニズムに縛られた考え方になってしまっているのだろうことがよくわかる。
そういう意味で、言語の習得は、コミュニケーション以外にも自我の確立に関する大きな意味があるのかもしれない。


この先読みたい本として、最も危険なのは、教員を辞めるきっかけとなった本だろうが、それ以外の紹介本もどれも面白そうだ。また、映画『森のムラブリ』は何かの機会に是非見てみたい。

イランとトー横と境界線~アリ・アッバシ監督『聖地には蜘蛛が巣を張る』


聖地マシュハドで起きた娼婦連続殺人事件。「街を浄化する」という犯行声明のもと殺人を繰り返す“スパイダー・キラー”に街は震撼していた。だが一部の市民は犯人を英雄視していく。事件を覆い隠そうとする不穏な圧力のもと、女性ジャーナリストのラヒミは危険を顧みずに果敢に事件を追う。ある夜、彼女は、家族と暮らす平凡な一人の男の心の深淵に潜んでいた狂気を目撃し、戦慄する——。

楽しみにしていた毎年恒例のコナン(映画を観に行った前日の4月14日公開)は、家族で観に行くので、少し先延ばしにして、こちらの映画を。
いや、実を言うと、観たい映画がかなり詰まっており、その中でこの映画を選んだのは、アリ・アッバシ監督の前作『ボーダー』が良かったというのと、イランを舞台にした映画というところが大きい。22歳の女性が拘束中*1に死亡したことをきっかけとする女性たちの抗議運動(反スカーフデモ)をニュースで見る機会が多く、まさに作品テーマと一致するからだ。

感想

映画の惹き文句として「クライム・サスペンス」という書き方もあったが、実際に見てみると、それは映画前半部のみを指す言葉だ。
この映画は、最初こそ、殺される娼婦の視点から描かれるが、その後は、殺人犯サイードと、殺人犯を暴く女性ジャーナリスト(主人公ラヒミ)の2人の視点で描かれる。

  • 若い妻と二人の子、両親など家族にも恵まれながら凶行を重ねる殺人犯
  • 女性であることを理由にした障害を乗り越えて事実に迫る女性ジャーナリスト

2人がいつ対面し、殺人犯がいつ捕まるのか、という緊迫感に満ちた展開は、ドキドキしつつも、まさにクライム・サスペンス過ぎるため、先が読めて少し退屈を感じた。


しかし、捕まってからの後半が、全く読めない展開で、ここにこそ、この映画のメッセージが詰まっていると感じた。
特に、ラストでもフィーチャーされる息子のアリ君の「変化」が怖い。

  • 連続殺人の容疑で警察に連行される父親を、泣いて追いかけるアリ君
  • 家では「お父さんはいつ帰って来るの?」と心配を隠さないアリ君
  • 八百屋にお使いに行ったら「お金はいらない。皆お父さんの見方だ。」と言われて満足気なアリ君
  • 父親との面会時に「どうやって殺したのか?」と方法を学ぼうとするアリ君
  • ラヒミからのビデオ取材に、わざわざ幼い妹に娼婦役を任せてまで、殺害に至る具体的方法を説明し、「後を継ぎたい」と言うアリ君

見た人誰もが感じるように、怖いのは、普通なら「嘘って言って!お父さんがやったんじゃないよね!」と泣き叫ぶはずの殺人犯の家族(アリ君だけでなく、若い奥さんも)が、サイードの殺人の事実を知ってなお、むしろ「浄化」を賛美し誇りに思っていること。16人殺したことを知り認めつつ「無実」を求めるという、あり得ない展開に混乱する。


一方、これに対して被害者家族は、自分たちは「浄化されて当然」と認めてしまっているし、娼婦たちは、辛さをやり過ごすために薬に頼っている後ろめたさもあり、怖いことがあっても警察に訴えられない。
監督が「一部の人たち、中でも女性に対する人間性の抹殺は、イランに限ったことではなく、世界中のあらゆる場所で起きていることです」(パンフレット)と述べているよう、似た構図は日本でも見られ、全く他人事に思えない。(後述)


後半のもう一つの見どころは、一部の民衆の熱狂的支持を得たサイードが、その考えをどう変え、どのように罰せられるか、だ。
もともと殺人後に新聞社に自ら電話を掛けたりするほど自己顕示欲の強い性格ではあったが、平凡な男が、大衆から英雄視される中で「教祖」のような喋り方になっていくのがまた怖い。
結局彼は死刑になるのだが、省略しない死刑描写、省略しない絞殺描写(ダメージを抑えるため片目で見た)には戸惑いつつも、監督のこだわりを感じた。
その後、映画について取り上げたWEBの記事を読むと、元々のドキュメンタリー映画自体が、被害者女性の遺体や犯人の絞首刑の映像が含まれるというので、その影響も大きいのかもしれない。以下の記事にリンクがあるように、Youtubeで確認できる(ただし英語字幕のみ)ので見てみたい。

『聖地~』もかなりセンセーショナルな映画ではありますが、監督がそれを観たおかげで製作を決意したという『And Along Came a Spider』(2002、マジアル・バハリ)という同じ題材のドキュメンタリーを観たら、被害者女性の遺体のみならず、犯人の絞首刑の様子までもが映されているのに驚かされました。

フィクションは検閲のせいでかなり制約があるのに、どうしてこんなものが映像として残せるのかというのも不思議でした。監督はイラン系カナダ人ジャーナリストの方ですが。

実際の犯人、妻、息子が『聖地~』と顔や雰囲気がとても似ているのもゾッとさせられました。

www.tokyoartbeat.com

報道特集のトー横キッズ

映画を見た日の夕方にTBS『報道特集』を見たら、「トー横に集まる若者達」の特集をしていて、どうしても映画と結びつけて考えてしまった。
(以下のリンクから内容を確認できる)
www.mbs.jp


取材対象は複数いたが、特に16歳の少女に対する複数回のインタビューが心に残る。
彼女は家族からの虐待もあり家出し、トー横でたむろしていた*2が、一度補導されるも、親が引き取りを拒否し、またトー横に戻ってきた。
11月頃の取材で、彼女は、その日泊まる場所のために仕方なく売春(彼女自身は「案件」と呼ぶ)でお金を稼ぎつつ、将来はネイリストになりたいと、16歳の少女らしく夢を語っていた。
しかし、1月に改めて取材をしてみると、ネイリストになる夢はなくなった、という。10年後、20年後のことはもう考えられず、生きていくために今日のことだけを考えているのだと。普通の生活のことはもう忘れてしまい、売春にも慣れ、心理的な抵抗もなくなったのだという。
表の社会で働こうとしても、家族から縁を切られ保険証も渡してもらえず、身分証明のできない身では、裏の社会で稼ぐしかない。
別の少女は、日常を忘れるために薬物の過剰摂取(オーバードーズ)に逃げるが、危険な状態になっても「救急車は呼ばないでほしい。警察に行きたくない」と言う。


このあたりは、まさに映画で見たイランの娼婦や被害者遺族の声に近い。
実際、映画の冒頭シーンからもわかる通り、生活に困窮する、いわゆるシングルマザーが日々の暮らしのために娼婦をしているというのが、連続殺人犯の犠牲になったイランの女性たちだ。確かに、彼女たちを殺すことを「浄化」と表現するような状況は日本にはない。一方で、売春をしてその日暮らしをする少女たちへの支援は薄く、そのような状況に陥ったのは「自己責任」もしくは「家庭の責任」としてしまっているのではないか。

それこそ新設省庁の名称を「こども庁」でなく「こども家庭庁」とし、何かと言えば家族の絆を優先する日本では、政府は(家族との絆が切れた)「トー横に集まる若者達」の問題に対して消極的に見えるし、国民も、彼女たちを救おうとする民間の活動に対して過剰にバッシングしてしまうなど、少女がネイリストになる夢を捨ててしまうのも仕方が無いように感じてしまう。


このように、イランにおける、誰が「浄化」されても良いのか、という問題と、日本における、誰を救って誰を切り捨てるか*3という線引きの問題は、地続きの問題だと思う。


この「線引き」についての別記事での監督の言葉が、非常に興味深いものだった。

アッバシ:ぼくたちはまさに、そのようなかたちで「モンスター」や「他者」を定義づけているのだと思います。ルールをつくり、そのルールを破った者を「外側の存在」とみなす。たくさんのルールを破れば、より「外側の存在」だとみなされるし、ルールの約束やシステムを壊せば特別なカテゴリに収められる。そういうふうにして「モンスター」は生まれるんです。

だからこそ、ぼくたちはモンスターや連続殺人鬼、精神異常者、犯罪者に惹かれ、同時に嫌悪もするのでしょう。多くの人と同じく、ぼくも彼らに危険な魅力を感じます。ただしどちらかといえば、彼らのなかに「人間らしさ」を見出したいし、人間性の境界を発見したい。「人間とは何か、人間と人間ならざるものの違いはどこにあるのか」。それらは時代や文化が変化するなかで、絶えず再定義されてきたものだと思うのです。


アッバシ:例として挙げられるのはペドフィリア小児性愛)でしょう。歴史上、ペドフィリアは長らく犯罪ではなかった――少なくともイラン・アラビア文化ではそうで、古典的な詩にも男の子への愛を綴った作品がありました。尖った表現でさえない、ひとつの愛の表現だったんです。

しかし時が流れ、いまではタブーになりました。何を言おうが、何をしようが、その一線を絶対に越えてはいけない。子どもに猥褻行為をしたり、児童ポルノをつくったりしていたら、その人はもはや人間ではないのです。
(略)
アッバシ:ぼくは何かをジャッジし、善悪を語っているのではありません。ペドフィリアは本当にひどいものだから、子どもたちが守られるのは素晴らしいこと。これはあくまでもメカニズムの話で、ぼくたちは社会として他者を必要としているのです。

「ここまでは自分たちと同じ、ここからは違う」という境界線を求めている。そうでなければ、ぼくたちは「我々」を定義づけることができません。だからこそ境界というものは存在するのだし、ぼくは人間と非人間の境界に関心があるのです。

www.cinra.net

この「人間と非人間の境界」をメインのテーマにしたのが、前作『ボーダー』だったが、言われてみれば、本作におけるサイードやその家族の立ち位置も、境界線上にある、ということだろう。監督は、境界線が時代や文化によって変化する相対的なものであり、だからこそ、モンスターのなかに「人間らしさ」を見出したいし、人間性の境界を発見したい、と言っているが、その姿勢に共感する。


アリ・アッバシ監督の考え方は、岸田首相襲撃事件(ちょうど映画を観たのと同じ日(4月15日)に起きた)について、物議を醸した、自民党議員による以下のようなツイートとは正反対のものだろう。


国が進めた政策の中で増加した貧困や格差などの問題、今までは見えにくかったが、色々な人が声を上げることによって見えてきた問題(宗教2世の問題だけでなく、LGBTQや、#metooに端を発する女性の人権運動なども含む)、日々変わっていく諸問題の中で「境界線」をどう引くのか、それは、個人個人の人間性の話から広く国の福祉政策まで、共通して常に考え続けなくてはいけない問題である、と改めて感じた。

ということで、関心のある社会問題と結びつけて思考を深めることが出来たという意味で、自分にとって傑作映画だった。
ただ、タイトルは全く覚えられないため、短い原題『Holy Spider』をわざわざ長くする効果があるのか疑問。
また、ポスターの女性は娼婦の1人であるソマイェで、ビジュアルイメージとしてのインパクトはあるのだが、映画の印象とは異なるので、宣伝としてはモヤっとする。その2つだけは残念だ。

今後読む本・見る映画

アリ・アッバシ監督については改めて興味が湧いたので、未見の『マザーズ』を見てみたい。また、『ボーダー 二つの世界』は改めて観てみたい作品となった。
さらに、イランの文化について興味・関心を持つきっかけとなる良い映画体験だった。本作は、イランを舞台といいつつ、イランでは撮影が許可されず、ヨルダンでの撮影となっているので、通常のイラン映画の撮影された話題作についても観てみたいし、イランについて書かれた本も読んでみたい。

マザーズ(字幕版)

マザーズ(字幕版)

  • エレン・ドリト・ピーターセン
Amazon
友だちのうちはどこ?(字幕版)

友だちのうちはどこ?(字幕版)

  • ババク・アハマッドプール
Amazon


参考(過去日記)

↓やっぱりこの映画は衝撃的でした。
pocari.hatenablog.com

↓2017年に書いた内容なので若干古いですが、イランに関する新書(2016年出版)を読んで感想をまとめていました!
pocari.hatenablog.com

↓ナディがイランの人だということは全く覚えていませんでした…。
pocari.hatenablog.com

↓冒頭に、『アルスラーン戦記』のテレビアニメがイランの若者に大人気であるというニュースに触れています。確かにこれを知って以来、イラン(ペルシャ)のイメージは、まずアルスラーン戦記でした。
pocari.hatenablog.com



*1:映画中でも「道徳警察」という名称が出ていたが、まさに道徳警察(風紀警察)の取り調べ中の出来事だったという

*2:本当は、家族から逃げ出してきた人たちの最初の受け皿であるはずの「保護施設」が上手くフィットすればいいのだが、どうもそこから零れ落ちる人たちがトー横に向かうということのようだ。

*3:少し脱線するが、「差別解消」どころか、ほとんど実効性がない「理解増進」法の「議論」すら先延ばしにする岸田首相の姿勢からは、性的マイノリティの人権は切り捨ててOKというのが、日本政府の考え方なのだろう

何度聴いても飽きないUNION~『SSSS.DYNAZENON』全12話×『SSSS.GRIDMAN』全12話の感想


大好きだったグリッドマンの劇場版。
当初は続編の『ダイナゼノン』を観ていないのでパスするか…と思っていたが、あまりに評判が良いので、『ダイナゼノン』全12話を見て、さらに全部見るつもりのなかった『グリッドマン』全12話を見返し、劇場版に備えた。その感想メモ。

SSSS.DYNAZENON(ダイナゼノン)全12話

特徴的な瞳(虹彩)の描き方を見て、この感じだよ!とすぐにアクセルがかかり、楽しく鑑賞。

全体を通した感想としては、グリッドマンに比べると、破天荒な盛り上がり方には欠けるが、うまくまとまった話だった。

例えば、ゴルドバーン登場回(第9話)では、話数的にも話が展開するタイミングだったので、ゴルドバーンの撃墜→ちせの闇落ち、という怖い流れを想像(期待)したが、そうならなかったのは残念。
また、ガウマとオニジャ(怪獣優生思想)のキャラが被り過ぎていたので、「ヒメ」の設定も含め何か明かされる秘密があるのかと思ったが、それもなく、全体としては、オーソドックス過ぎるストーリーにまとまったという印象を持った。

その意味では、クライマックスに「好きです」という直球の告白が入るところが最大の見どころなのかもしれない。


面白かったのは、昨年度の戦隊ヒーロー「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」との共通点が多いこと。

  • 敵味方のチームが明確にあり、その争いが話の主軸にある
  • 味方チームは、召集がかかると遠方からでも現地に駆け付ける
  • 敵味方とは別枠で存在する「怪獣」および人類をどうするかの観点が2チームで異なる
  • 主人公チームの中心メンバーは人間ではなく、敵チームと同じルーツを持っている
  • 敵チームも現代人類の文化に興味を持ち、争わずに遊ぶ回がある。(5話のプール回、8話のラウンドワン回など)
  • 敵チームのメンバーと間に、尊敬、友情、恋愛など、敵対関係からは生まれにくい関係性が表れる
  • 明らかにされなかった設定を多く残したまま本編が終了する

「明らかにされなかった設定」という点では、「グリッドマンと世界観を共有する」としておきながら、共通パーツはグリッドナイトのみ。
髪の色などから、ナイト君は、グリッドマンに出てきたアンチ君のはずだが(そして、お付き役の「二代目」は「怪獣少女」だが)、作中では特に言及がなかった。この辺りは劇場版で分かることなのかもしれない。


一方、今回、解説サイトを読んでみると、設定自体が「電光超人グリッドマン」から引いているものも多く、例えば「5000年前」という微妙に近い過去も、超古代文明を想定するなら5万年前くらいが適切な気がするが、原作準拠ということのようだ。

先ほども書いた通り、グリッドマンとの接点が予想より少ない作品だったので、映画でグリッドマンのキャラクター達とどう絡むのかが楽しみだ。

SSSS.GRIDMAN(グリッドマン

はじめは、一度見たアニメだから、ポイントのみで足りるだろうと思っていたが、第一話を見返してみると、「記憶喪失」という基本設定から忘れていることに気づき、結局全話鑑賞した。

全話見返して驚いたのは、「この世界はアカネによってつくられた世界」という基本構造が、終盤明らかにされてその後クライマックスに、というような流れではなく、徐々に明らかにされていくこと。(以下に示す)
そう考えると、この作品は全12話を通して見ないと意味がない。

  • 怪獣を作っているのは新条アカネであることが視聴者に明かされるのは第2話。
  • その事実を(怪獣少女によって)響裕太が知り、さらに街全体もアカネが壊して直してを繰り返していることを知るのは第6話。
  • 同じことを、響裕太がアカネの口を通して聞き、アレクシス・ケリヴと対面するのが第7話。また、この回では空の上に「天井の街」があることが判明する。
  • そのことを、内海と六花が教室で(アカネから)知らされ、宣戦布告されるのが第8話。さらに、この回では、六花をはじめとしたクラスメイトがアカネを友達と感じ、好意を抱いているのは、アカネが「そう設定した」からであることが示される。


一方で、アカネが「神様」であることがわかる第6話以降、逆にアカネはグリッドマンに対する連敗で手詰まりを感じ、孤独を深めていく。

  • 第7話では、自分の関知しないところでアレクシス・ケリヴが、怪獣を作って(アンチ君持ち込み企画)いることに苛立ちを感じる。
  • 第8話では、これぞと思った怪獣をグリッドマンに倒され意気消沈。
  • 第9話で登場する特殊な怪獣は、夢を使ってグリッドマン同盟の3人を仲間に引き入れようとする。このあたりから、アカネは「敵」というより「救うべき相手」として扱われるようになる。
  • 第10話では、アカネが最後に作った凡作怪獣があっさり倒されて、アカネがさらにダウナーになり、アレクシス・ケリヴからも心が離れていく。凡作怪獣の中に入っていた(アカネの心を反映した)怪獣にグリッドマンは苦戦するが、アンチ君が変身したグリッドナイトに救われる。そしてこの回ラストはアカネが響裕太を刺してしまう!
  • 第11話では、自身を失ったアカネが「次の怪獣」の打診を断り、アレクシス・ケリヴが「ありもの」で作るも、グリッドナイトと復活したグリッドマンに倒される。そしてラストでは、遂にアカネが怪獣にされてしまう。
  • 第12話(最終話)では、アンチ君により怪獣から引き出されたアカネだが、そのの残存エネルギーを利用して、即座にアレクシス・ケリヴが怪獣化。グリッドマンは、「倒す」のではなく「救う」力でアレクシス・ケリヴを撃破。


この12話で六花がアカネに向けて言う台詞「ずっと一緒にいたい。この願いが叶いませんように」は、すぐには理解できない内容だったので、解説ページを検索して調べてしまったが、このセリフにこそ「電光超人グリッドマン」から連なるグリッドマンの世界観の特徴が現れている。
六花は、自らが作られた仮想世界の住人であることを自覚し、アカネに現実世界と向き合ってほしい(仮想世界にとどまらないでほしい)ということを伝えたかったのだ。

ラストでアカネは実写映像として登場し、および主題歌で歌われる「君を退屈から救いにきたんだ」との符合もあり、物語終盤はすべてアカネの救済に収束していく流れが面白い。
ただ、このラストで物語は閉じており、この作品の続編をつくる際に、アカネの空想世界(響裕太や六花、内海がいる世界)を舞台にするとは想像しにくいのだが、劇場版は一体どんな内容になっているのだろうか…。

→劇場版の感想に続く。


それにしても、後半にかけて強くなり、第11話で主役級の活躍(アカネを救う)をするアンチ君。
コピー能力をベースとしてオリジナルを凌ぐ強さを身につける、という、大好きなキャラクターである「アプトム」(強殖装甲ガイバー)に非常に似た特性を持っていて推せる。


そして何より何度聴いても飽きない主題歌「UNION」。
ストーリーとのリンクも含めてこの輝きは色あせない。

「空気」をめぐる希望と絶望~朝比奈あすか『君たちは今が世界』

2020年、難関中学の入試で出題多数!教室で渦巻く、悪意と希望の物語。

「文ちん、やれるよな?」人気者とつるむようになってから、文也は自分がクラスの中心にいるような気分がする。担任の幾田先生は地味で怖くないし、友達と認定してくれるみんなと一緒にいるのが一番大切だ。ある日、クラスを崩壊させる大事件に関わってしまうまでは――。(「みんなといたいみんな」)

今の自分は仮の姿だ。六年生の杏美は、おとなしい友人の間で息をひそめて学級崩壊したクラスをやりすごし、私立中学に進学する日を心待ちにしている。宿題を写したいときだけ都合よく話しかけてくる”女王”香奈枝のことも諦めているが、彼女と親友同士だった幼い記憶がよみがえり……。(「こんなものは、全部通り過ぎる」)

学校も家庭も、子どもは生きる世界を選べない。胸が苦しくなるような葛藤と、その先にある光とは。

2020年、難関中学校の入試問題に数多く取り上げられた話題作に、文庫でしか読めない特別篇「仄かな一歩」を加えた決定版!


購入するにしても、図書館で予約して借りるにしても、「読みたい」と思ったタイミングと実際に読むタイミングが大きくずれ、何故この本を?ということがよくある。
この本についても選んだ理由について全く記憶のないまま、裏表紙の「数々の入試問題に取り上げられた話題作」という惹き文句を読み、「世界」と書いて「すべて」と読ませる、こそばゆい感じから、なぜ小中学生向けの本を?と、やや舐めた気持ちで読み始めた。

ところが、結論から言うと、ミステリを読むように引き込まれる読書となった。
小学6年生にとって、教室は、雪の山荘のように関係者が限られ、辛くても逃げることの出来ない密室空間で、悪意ある言葉は、ときに生徒を、また先生の人生を左右するほどの影響を持つとも言える。ミステリは言い過ぎかもしれないが、一種の心理サスペンスを読んだ気になった。

構成

本は4章+エピローグの5章構成で、文庫本のための特別編としての1篇を加えた計6編の、それぞれで主人公が異なる群像劇タイプの小説となる。
尾辻文也が主人公の第一話「みんなといたいみんな」を読んだときは、そのことに気づかず、第2話で主人公が川島杏美に変わって本の構成を理解した。
いわゆる羅生門形式のように、同じ時系列を複数視点で語り直すのではなく、経時的に話は進む。その中でわかってくることが作品テーマと一致しているという構成の美しさは、ミステリ的という言い方ができるかもしれない。
(ただし、エピローグで上手くまとまっているため、追加の一話をエピローグの後に置いたのは少し気持ちが悪いのだが)

「空気」に加担するプレイヤー達

この本は、先生をいじり学級崩壊を起こす「空気」、特定の誰かを嘲笑してもOKな「空気」がどう生まれるか、について書かれた話と言える。
第一話(「みんなといたいみんな」:文也の話)は、その問題を提起して、第二話、第三話、第四話、エピローグでそれを検証していく流れとなっていると受け取ったが、出だしの第一話が結構重い。
カドカワのHPでの惹き文句は、その第一話の重い部分をさらっと書く。

六年三組の調理実習中に起きた洗剤混入事件。犯人が名乗りでない中、担任の幾田先生はクラスを見回してこう告げた。「皆さんは、大した大人にはなれない」先生の残酷な言葉が、教室に波紋を生んで……。

先生を困らせたい、という教室内の「空気」から、文也は家庭科の授業で、見本のパンケーキに洗剤を入れるという、いたずらというより犯罪的行為に走る。これに対して、激怒した担任の幾田先生が生徒を見捨てる発言をし、「空気」に冷や水をぶっかける。 
ところが、第二話で、その後の展開を見ると、結局「空気」は変わらず、幾田先生は休職、という酷い展開でさらに引き込まれた。

さて、第一話の文也は、中心メンバーでいる(「空気」を作る側にいる)ためなら、どんな頼まれごともやってしまうタイプだったが、

  • 第二話(「こんなものは、全部通り過ぎる」)の川島杏美は、バイスタンダー(傍観者)的な立場
  • 第三話(「いつか、ドラゴン」)の武市陽太は、こだわりが強く人づきあいが苦手で、いじめられる側
  • 第四話(「泣かない子ども」)の見村めぐ美はいじめる(「空気」を作る)側

...と、6年3組の物語は、異なる立場の人間から語られる。

第一話、第二話で完全に「悪役」として描かれる見村めぐ美も、色々な事情を抱えていることが第四話になるとわかる。

であれば、作品全体としてのメッセージは「クラスメイトや先生の気持ちを考えて行動しよう」になりそうだが、そうはならない。
そのように行動することを「空気」の力が妨げるからだ。
さらにいえば「君たちは今が世界<すべて>」だからだ。
まさに、このタイトルに呼応する内容が、第二話で、優等生の川島杏美の口から語られる。

こんなものは、全部通り過ぎる。(略)
一生モノのランドセルなんて存在しない。ランドセルなんて、今だけじゃん。
恋焦がれたスターパープルが、六年も経たないうちに、こんなにどうでもよくなるみたいに、いつかこの瞬間も、どうでもいいものになる。
ほぼ確信的にそう思っている。
それなのに、馬鹿にしようとすればするほど、王国は眩しく輝かしく、杏美を閉じ込める。今この瞬間の生こそが全てだと、他の時間など存在しないのだと信じ込ませんとばかりに圧してくるから、酸欠になりそうな魚の必死さで杏美は居場所を探す。

小学生時代を「期間限定の王国」と理解していている杏美でさえ、そこから逃れがたい。


僕自身も「空気」からの逃れがたさは経験がある。

文也の視点で「空気」に乗る楽しさと、そこから抜け出す難しさが描かれている第一話を読んで、小学4年生の頃に「空気」に乗る、というより作り出す側で、友人のいじめに加担したことを思い出し、苦い気持ちになった。
「苦い気持ち」に懲りて、それ以降、「空気」を作り出す側になることは無かった。しかし、場の「空気」を盛り上げるために誰かが傷ついているにもかかわらず、愛想笑いで「通り過ぎる」のを待つ「バイスタンダー」となることは、社会人になっても経験した。酷いときは、やめさせるように働きかけたこともあるが、どこからがNGなのかのタイミングが難しい。
「空気が読めない」のは悪いことで、「空気を読んで盛り上げる」ことが、学校だけでなく様々な集団で求められる。


閑話休題
誰かを傷つけるような「空気」は、止めなくてはならない。しかし、大人にも難しいことを、子どもに求めることはできない。
それでは、この本の中では、どのようなメッセージとなったのか。

この本のメッセージ

エピローグは、小学校教師となった増井智帆が、当時のことを振り返りながら、小学6年生たちに語りかける。
彼女は、小学六年生の頃に教室を暴走させた主要メンバーを「切り捨てた」自分を思い返し、クラス全員を「切り捨てた」幾田先生のことを思い返しつつ、目の前にいる子どもたちを「切り捨てない」と、心に決める。

「皆さんにとって、わたしがどんな先生になれるかはまだ分かりません。でも(略)
わたしは皆さんを知りたいと思い続けます」
そう、君たちのことを知りたい。
お調子者、目立ちたがり屋…(略)
君たちはわたしの目に、今そんなふうに見えている。
だけど、わたしが見ている君たちの姿は、あくまで君たちをコーティングしている「個性」に過ぎなくて、ひとりひとりの内面に広がる海は、親も友達もそしてわたしも、知り尽くせないほどに深いのだ。
それは、「個性」というひと言でまとめられないくらい、尊い、おそらく君たち自身にもわからない「君」という存在。
知りたい。知ろうとし続けたい。

ここでの「個性」は、「みんなちがってみんないい」という言葉で理解した気になって、相手を知ろうとせずに「個性」というラベルだけ貼って中身を見ない、という悪い意味で使われている。
だから、次のように続ける。

「先生のことはね、おいおい分かっていくと思いますよ。(略)
「だけどね、分かったと思い過ぎないでくださいね。友達のことも同じ。分かったと思い過ぎないでください(略)
「全員、いつかは大人になります。それはつまり…、皆さんの隣にいる子も、後ろの席の子も、前の席の子も、皆大人になるということです。今、ここで分かったつもりになっている友達は、どんどん変わっていくし、自分も変わる。世界は、時間が経てば経つほど広がってゆく。ここ以外の場所のほうがずっと広いということを、どうか、覚えておいてください」

「空気」との関連で言うと、こいつは頭が悪い/いつもカッコつけている/いじってもいい人間だ…そういうレッテルを貼り、皆と共有することが「空気」の醸成に繋がる。だから、そういった決めつけ(相手を分かったと思い過ぎること)自体に疑問を抱く人が増えれば、「空気」が生まれにくくなる。
いや、生まれてしまったとしても、その見方が一面的であることが理解できていれば「空気」から逃れやすくなる。押し戻すことすらできるようになる。


僕は、この本のメッセージは、小学生だけでなく、広い範囲に有効だと思うし、何かを禁止する言い方ではなく、希望を与えるポジティブな言い方で「空気」の醸成・拡大を防止できるのが素晴らしいと思う。

残された課題

しかし、そんなことは絵空事だ、という批判はあり得るだろう。
勿論、作品内ですべてを解決したり、すべてにポジティブなメッセージを与える必要はない。
しかし、小学生に向けたメッセージ、という点で考えた場合に、「そんな言説は役に立たない」と考える、つまり「メッセージが届かない小学生」もいるのではないか。
具体的には、この物語の中に登場する親は、ダメな親も多く、子どもを縛り、悪い意味で「空気」づくりに大きく加担している。「親ガチャ」などの言葉がよく話題になる昨今、親ガチャに外れたと思っている子どもに向けて、増井先生の言葉は、ちゃんと「希望」として響くのかどうか、ということだけは気になった。(増井は、登場人物の中では親に恵まれていると言える)


なお、「空気」の問題は、日本の組織の問題として根深い問題があると思う。

入管収容中に死亡したウィシュマさんの監視カメラ映像公開ニュースに関連して、元入管職員の弁護士の方が以下のツイートをして炎上。アカウントを消すに至っている。

元入管職員として、あの動画を観て感じたこと。職員たちは彼女を苦しめようとも、死を望んでいたわけでもない。あの職員たちが特別なのではなく、私も含めて多くの職員が3年もすればあのような感覚になってしまう。それをふまえた改善をしないと、これからも不適切な対応が繰り返される

このツイートをもう少し細かく説明した内容が、昨年記事になっており、こちらも問題がわかりやすい。
この記事はツイートを削除した方ご本人で、元入管職員で、現在は弁護士として在留資格のない外国人の方の案件等に携わっている渡邉祐樹さんだ。

日本の入管問題の今 −元入管職員と支援者、2つの視点から−|公共訴訟のCALL4(コールフォー)

私が勤めていた当時は、外国人に私がフレンドリーに接していると、先輩たちに「そんな接し方ではなめられる」と怒られていました。どこの国でも、入管は無愛想ですが、それは元々サービス業ではなくて、審査だからです。例えば裁判官が、「被告人の方どうぞこちらに」、「今日はどこから来ましたか」、などと接客のような振舞いだと逆に信用できないですよね。審査だからといってきつい言葉を使っていいわけではないですが、「ちゃんと書けよほら」といった問題のある言動も許される空気でした。

さらに私が勤務していた1990年代には、外国人の方を殴っている職員もいました。多くの人が並んでいる入国審査のブースでは、1人に長時間をかけられないので、少し見て問題があると思ったらブースで審査している職員がボタンを押すと事務室の職員が来て、取調室のような個室に連れて行って一対一で調べます。そこで態度が悪いとか、偽造旅券を持ってきたのではないかとか理由をつけて殴っている職員もいました。他の職員は、殴っているのはわかっていましたが、まずいなという空気はなく、当時はむしろ熱心にやってるなという雰囲気でした。問題視する人はいなかったと思います。

(略)

入管にはもちろん、いい人もいます。私が入管にいた当時でも、問題がある人は2、3割でした。普通の会社であれば、問題がある職員は退職・異動させることができますが、入管ではそういう人がむしろ幅をきかせています。すると周りも、「あいつがやっているなら俺も」といった感じで、問題のある人たちにどんどん感化されていきました。誰もそれを非難せず、むしろ丁寧に対応している人のほうが非難されていました。

いくつか抽出したが、入管が「空気」が支配する空間であることがよくわかる。
その上で、この元入管職員の渡邉祐樹さんは、「入管はもう内部からは変えられない。外から圧力をかけていくしかないと私は思っています。」と結論付けており、ここに少し絶望する。
入管職員にとっても「今が世界<すべて>」で逃げ道がないのであれば、人を死に至らしめてもなお「空気」にしたがうしかないのだろうか。
人の命を奪ってもOKな「空気」くらいは、内側から変えるべき、という声は上がらないのだろうか。


とはいえ、自分が属する集団(企業や家族、遊び仲間)の「空気」に飲み込まれていないか、悪い「空気」を変える努力をしているか、と言われれば、なあなあにして続けている部分は間違いなくあるだろう。
たとえ「今が世界<すべて>」と感じてしまうほどギリギリの生活を送っていたとしても、「今」を変えることから逃げ続けてはいけない。
この本は、大人(作中の登場人物の親たち)に向けては、もっと変わることを求めている部分もあるのかなと思った。


支離滅裂になってしまったが、「空気」をめぐる課題は、今後も折に触れて考えていきたい。

この種の連作短編集では近年ベスト~松井玲奈『累々』

本当の私は誰。結婚、セフレ、パパ活、トラウマ……。不穏さで繋がる全5編。大きな話題となったデビュー作『カモフラージュ』の衝撃を超える、著者の新境地といえる意欲作。人間の多面性を切り取る、たくらみに満ちた自身初の連作短編集。今作は、日本での発売と同時に、台湾の出版社・尖端出版より、中国語繁体字版も発売。


タイトルと表紙(有持有百さん)が既に面白そうな松井玲奈さんの本。

タレント活動がメインの人の書く本には興味があって、最近では、NEWSの加藤シゲアキと元SKE48松井玲奈が双璧、でも未読、という状態が長く続いていた。
が、ちょうど最近、アトロクの松井玲奈登場回で新作について触れた部分があり、前作『カモフラージュ』を読まないまま次の小説が出てしまったか…と思ったのと、番組での宇多丸、宇垣美里・両名の褒め方が印象に残ったので、今度はすぐに読むことにした。
ふたり曰く

  • 男女問わず、多彩な登場人物の視点
  • 連作短編集ならではの「仕掛け」が巧い

「仕掛け」については、ちょうど番組の中では、松井玲奈が「推理小説は最後から読み、最初に犯人を知って読み始める」という衝撃の話が出ていたこともあり、宇多丸が「それで、よくこんな仕掛けを…!」と驚きのコメントを。
それに対して、松井玲奈は「連作短編なので、どこから読んでも大丈夫なんですよ」と返していたが、この本に感銘を受けた一読者からすると「絶対にそれはない」。
最初から読むのが一番はまるような構成になっているし、連作短編集ならではの構成の妙という点では近年読んだ中で一番の大ホームランだと思う。*1


直前に読んだ『ジャクソンひとり』と同様に、激務で体調面がベストではないときに読んだにもかかわらず、ここまでヒットに感じる、というのは、今まで自分が読んだ作品の範疇での「どストライク」だったからなんだろう。
(改めて思うと『ジャクソンひとり』は、恋愛が絡まないゲイ4人が主人公の小説ということで、登場人物の関係性を掴みにくかった。『累々』がストレートだとすると、『ジャクソンひとり』は見慣れない変化球(ナックルボール?)だった。)


さて、「仕掛け」に触れる前に、5話の中で一番、「よくこんなキャラクターを描写できるなあ」と思った登場人物について書く。
それは、3話「ユイ」に出てくる、パパ活女子を買うパパ側の「星野さん」だ。
3話は彼の視点で話が進むが、彼の恋愛に対する考え方は独特だ。
中学時代に、当時発売されていたありとあらゆる恋愛シミュレーションゲームを攻略し、頭の中では恋愛マスターになっていた彼は、高校入学後に出会った初恋相手に声をかけることすらできない。
しかし、恋愛マスターなりのメソッドを使って、学力で上位に入るなど地道にレベルを上げて攻略を進めていった結果、ついに彼女から告白される。が、そこで興味を失ってしまうのだ。彼の好んだ恋愛シミュレーションゲームは、告白される場面でゲームが終わってしまう、というのがその理由。
相手が自分のことを好きになるまでの「過程」のみに興味がある彼にとっては、実際の恋愛は不毛(つき合うことに興味がなく、実際につき合ってしまうと別れるのが大変)と感じる。未婚のまま年40代になった彼にとって、こちらに興味のない女性を振り向かせるのを攻略の目的とし、ゴールに至ればすぐに関係を解消できる(男女の関係なしの)パパ活に嵌まる理由としてこれ以上ないと思う。

ここから完全ネタバレ(「仕掛け」の話)

*1:書き終わって日記を読み直してみると、昨年、相沢沙呼『medium』を読んでいることに気がついた。確かに、あれも連作短編だが、大ネタ過ぎるので対象外としたい笑

続きを読む

軽く読むべきだった芥川賞候補作~安堂ホセ『ジャクソンひとり』

井戸川射子『この世の喜びよ』、佐藤厚志『荒地の家族』が受賞した第168回芥川賞の候補作が発表になったとき一番気になった作品はこの本のタイトル。
実際に本を見てみると装丁も良く、字も小さい。
これは絶対に自分に合うやつだ!と思って読みだすと、冒頭が既にカッコ良過ぎる。

ココアを混ぜたような肌、ぱっちりしすぎて悪魔じみた目、黒豹みたいな手足の彼は、ベッドに磔にされていた。そのビデオを見てすぐに、ジャクソンはそれが自分だと察した。その時のことは覚えていないし、似ている男なんて世界中に何人もいると思う。だけど、ここは日本で、この外見でこんなふうに扱われるのは、ジャクソンひとり。


ちょうど、荻上チキsessionで特集があったので、ジャクソンに対する 「レイシャル・プロファイリング」 *1がテーマなのかとあたりを付けて読み進めると、予想外にエンタメ方向に話が進みジャクソンが増えていく。

ジャクソンは頭の処理が追いつかない。二人目のジャクソンが現れたと思ったら、さらに二人追加で、ジャクソン四人。もう一人誘ってグループ組む?って冗談でも言おうと思ったけど、雰囲気からすると追加メンバーなのはむしろジャクソンらしかったし、黙っていた。

ジャクソン・ファイブの冗談が出たと思ったら、『君の名は。』に絡めて「俺たちも、入れ替わっちゃう~?」という大作戦の提案が出る。
ひとりかと思ったジャクソンに外見がそっくりの人物が本人含めて4人集まり、入れ替わり作戦を講じる…という、改めて読むと愉快な展開なのだが、このあたりから自分には怪しくなってきた。

というのは、三人称視点で「ジャクソン4人」(ジャクソン、ジェリン、イブキ、エックス)それぞれの内面も描写されるのだが、主人公ジャクソンの心情ごあまり見えないままにどんどん新キャラクターの描写にスライドしていくので、誰が誰だかわからなくなってしまったのだ。

結局、「ジャクソンひとり」なのは冒頭だけで、しかも4人の中でジャクソンが一番感情をあらわにしないタイプなので、話に没入できず行きつ戻りつ読み進め、8割くらいまで行ったところで眠り込んでしまった。(少し深掘りすると、恋愛関係を挟まないゲイ男性4人の関係性が全く読み取れなかったということもあるかもしれない)

個人的に面白かったのは、自分が夢の中で、「ジャクソン4人」が入り混じって感じられることが、現代社会で希薄になるアイデンティティを示している、みたいな総括を勝手にして納得していたこと。


目を覚ましてまだ本を読み終えていないことに気がつく。しかも眠ってしまった少し前の部分に非常に重要な事実が明らかにされているし、アイデンティティ云々は全然無関係じゃないか!と驚いた。(笑)

そもそも、実際に芥川賞をとった『この世の喜びよ』が何も起きないタイプの小説だったので、同じ芥川賞候補の作品にストーリー展開に期待しない、というか想定していなかった。しかし、この小説の特徴は、ラストギリギリまで話が展開すること。ここまでわざわざ展開する必要があるの?というくらいに…。
改めて本の紹介を見ると、Amazonのあらすじはこんな感じ。そうか「芥川賞候補作」としてではなく、こういう内容の本を読むというマインドセットだったらもっと違う印象になったのかも。

着ていたTシャツに隠されたコードから過激な動画が流出し、職場で嫌疑をかけられたジャクソンは3人の男に出会う。痛快な知恵で生き抜く若者たちの鮮烈なる逆襲劇!第59回文藝賞受賞作


読み終えてから安堂ホセのインタビューを読むとどれも面白いし、彼自身がとても魅力的だ。
book.asahi.com
pdmagazine.jp
www.huffingtonpost.jp



中でも面白かったのは島本理生との対談。

www.bookbang.jp


まず、他のインタビュー記事でも必ず触れられているように、この小説をどのようなものとして読んでほしいかという部分。これを読んで「純文学作品なら、何かのテーマを読み取って読まなくちゃ!」という自分の思考の癖が、思いっきり的を外していたのだな、と考え直した。

もともと大学で映画の勉強をしていたこともあって、映画や映像をよく見ていました。Netflixで見られるような海外ドラマが好きでよく見るのですが、ああいう30分くらいの尺で単純に見ててワクワクする面白い展開をつくりたいなと思って。仕事が終わって疲れて家に帰って、みんなで適当に見て楽しめるような、難しく考えすぎないで一気に読んでもらえる小説をつくろうと思いました。

そして、自分が読みにくいと感じた三人称での進行についても言及があった。

ゲイの書き手がゲイの小説を書くときに一人称を使うと、自分の話やエッセイみたいなものと思われて、小説と思ってもらえなかったりすることがあるなと前から思っていました。たとえば悲しい状態を一人称で書くときに、書き手よりも読み手のほうが入り込みすぎちゃうというか。悲しい話で悲しい語り方です、となると読んでいる人からしたらそれは単純にしんどかったり、最初の時点でこの作者は何を訴えたいかを決めつけて、読む気がなくなっちゃうことがあるのかなと思って。

(略)遊びに見えるようにしたかったんです。だから設定も日本だけど片仮名の名前がたくさん出てきて、話のスピードもすごい速くて、コミカルな感じで読んでもらえたら。言い方は悪いんですが、舐めた態度で読んでもらえるようにしたかったんです。いろんな人が出てくるから、一人称でジャクソンがいろんなことを追っていくよりも、読み手と少し距離がある三人称で書いていったほうが話も進めやすいとは思いました。

ほら、やっぱり「この作者は何を訴えたいか」を先回りして読むような読み方は望まれていない(笑)。ただ、「コミカルな感じで読んでもらえたら」の意図はわかるけれど、キャラクターがごっちゃになってしまったのは確か。でもそれも最近の自分が忙し過ぎて疲れていたのかもしれない。

その他、作家になったきっかけが「文藝」の「覚醒するシスターフッド」という特集を読んだことだったり、文学に目覚めたきっかけが川上未映子の詩集だったりと女性作家の影響を大きく受けていることが興味深い。

タランティーノ映画の話などの雑談や、文藝賞の選考委員としての島本理生角田光代の話も面白いし、豊作の対談だった。


ということで、インタビュー記事や対談はどれも面白いのだけど、巧く読み取れない部分があったのは自分の体調と読解力が理由かもしれない。
島本理生との対談の中で執筆中とされている次作は体調の良いときに読もう!

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

文庫解説に2度救われる~白井智之『お前の彼女は二階で茹で死に』×小野一光『冷酷 座間9人殺害事件』

2冊の文庫本を平行して読んだ。
端的に言うと、救いがなく、途方に暮れるような終わり方をする2冊だったが、どちらも解説に救われてやっと戻ってこられたという感じ。
しかも、読み終えてみれば、2冊をまとめて読むべきではない「混ぜるな危険」案件だったように思う。たまたまだったのだが、何故この2冊だったのか…。

白井智之『お前の彼女は二階で茹で死に』

天才女子高生(ミミズ人間)が謎を解き明かす!
著者史上最強!
衝撃のスラッシャー小説×本格ミステリ!!

「読まないと損するレベルで優れている」
乾くるみ(小説家)絶賛!!!

こんな小説、はじめて!?
特殊設定×多重解決ミステリ

自殺した妹・リチウム(ミミズ人間)の仇を討つために、
刑事になったヒコボシ。事件を追いながら、
リチウムを自殺に追い込んだ連中の尻尾を摑み、
破滅させてやろうとたくらむ。
事件の謎を解くのは、
天才的な推理力を持つ女子高生探偵・マホマホ。
しかし、彼女はヒコボシに監禁されていて……。
文庫化に際し大幅改稿、著者渾身の本格ミステリ大作!

もともとは本の雑誌社の毎年恒例の「オススメ文庫王国」で取り上げられていたのが読んだきっかけだ。
ときどきバカミスが読みたくなる。
そんな自分にとっては、タイトルとあらすじ、登場人物名だけで、「これは読みたかったやつ」と確信。

しかも「特殊設定ミステリ」はさほど読んでいない分野で物珍しく、読む前から「大当たり100%」と期待していた。


しかし、この本は、少なくともゲラゲラ笑って楽しめるタイプの小説ではなかった。


以降、ネタバレを気にせず内容に触れるが、話の筋よりも推理のロジックを売りにしている作品なので、ストーリー上のネタバレは、あまり作品の魅力を損ねないように思う。というより、精神衛生上の観点からは、自分はいくつかの点について事前にわかった上で読み進めたかったという部分もある。


(以下ネタバレ)



冒頭、これからレイプ行為に走ろうとする犯罪者視点の描写で、げんなり。

さらには、主人公ヒコボシが警察官にもかかわらずモラルに欠けるだけでなく、口汚い暴力体質の人間で、好きになれる魅力的な部分が全くないことがすぐにわかり、逃げ出したい気分に。

そんな自分に追い打ちをかけるのが複数の登場人物の途中退場。
この本は4作の連作短編+エピローグという流れだが、3編目の途中までは希望を持って読んでいた。
主人公がタッグを組む後輩警察官オリヒメ、主人公が監禁*1している女子高生探偵マホマホの2人が、ヒコボシの悪事を暴いてスッキリする流れになるのではないか、という淡い期待だ。

ところが、2編目の途中で、オリヒメは離脱。(理由はヒコボシによる毒殺)
さらに、最後の頼みの綱のマホマホも3編目の最後に離脱。(理由はヒコボシ…)
そしてヒコボシは裁かれない。

たしかにエピローグで、冒頭に登場し、4編すべてに関わるノエルという、冒頭に登場したレイプ魔は裁かれるのだが、全然スッキリしない。


その意味では、解説で乾くるみが、この作品のポイントと白井智之作品の楽しみ方をまとめてくれたおかげで、気持ち的には落ちついた。解説が無ければ、宙ぶらりんの気持ちのままでいただろう。

乾くるみは、本作を含む白井智之作品群を、酷いタイトルの作品ばかりだが「優れた本格ミステリ」と絶賛する。
この中で白井作品の特徴を4つ挙げているが、最初の2つは「特殊設定」と「多重解決」であり、『おまえの彼女は』はさらに、冒頭に「分岐」があり、その分岐それぞれに解決が用意されれている構造が取られていることが技術的に高度であるのだという。
さらに、乾くるみは、白井作品の特徴として「グロテスク性」と「ユーモア」を挙げ、本作で言えばヒコボシ、オリヒメ、オシボリくんなどの「ユーモア」に溢れた固有名詞は「グロテスク性」を中和する、としている。


ということで、理屈はわかったのだが、結論から言えば、中和できなかった。
自分は、ある程度「これはひどい!」タイプのミステリは好きだと思っていたが、少なくとも、この小説は、ユーモアがグロテスクを上回らないタイプの小説で、圧倒的に救いがなく、特殊設定も不快になるようなもの*2ばかり。一方、ミステリ好きの人は、論理的整合性やフェアかどうか、を重視するが、自分にとって、そこはあまり気にならない部分で、マイナスを打ち消すような加点ができなかった。
乾くるみの解説は「この小説をどのように読めばよいのか」を教えてくれ、白井智之への関心を繋ぎ止めてくれたが、一方で、いわゆるパズラー向けミステリを楽しむ素養は自分には無いことを再確認させてくれた。
ただ、ここで手を引くのも癪なので、もう少し読んでみたい。


小野一光『冷酷 座間9人殺害事件』

いつもなら割り切って楽しめるはずのミステリ小説を楽しんで読めなかったもう一つの大きな理由は、並行して、この『冷酷』を読んでいたから。
「こんなことあるわけない」ということを前提として楽しむタイプのグロテスクなフィクション(小説に限らず例えばホラー映画)は、「現実に起きうる」「現実にこういう考えの人がいる」ということを知ると、ただひたすら怖くなってしまう。
今回の『冷酷』で描かれる犯人の白石隆浩は、自分にとっては、フィクション級の「ありえない人」だったので、本当に怖さを感じたし、被害に遭った方々のことを思うと辛い。


もともと、「座間9人殺害事件」については、ニュースを通じて知っていたが、被害に遭ったのが皆、自殺志願者だったという報道から、犯人は、いわゆる凶悪殺人犯とか快楽殺人者みたいな括りに入らない人(例えば共感力の高すぎる人)なのかと勝手に思っていた。

が、全くそうではなかった。


ひとつずつ挙げるとキリがないのだが、以下、目次に抜粋された白石隆浩の発言から特に酷いものを抜粋する。*3

  • リスクはあるけどレイプしたいなと思って、レイプして殺しちゃいましたね
  • 臭いとか9人が9人とも、全部違うんですよ
  • 最後のほうになると、(遺体の解体を)2時間くらいでできるようになってました
  • 正直、殺してもバレなければ良いと思ってました
  • (甲さんは)私が鍋で骨を煮ているシーンを見ています
  • 殺害後の性交に抵抗は湧かなかった。気持ち良かったです
  • トイレは遺体がある状態でしています

全体に漂うのは殺害から遺体の処分まで一連の行為を「作業」と捉えている異常性。
家に呼んだ女性が外出している間に、別の女性を殺害・解体する神経も全くわからないが、遺体を鍋で処分している場面(言葉に書いていても怖いが)を別の女性に見られても気にしないというのは意味が分からない。

つまり、罪悪感や葛藤、躊躇、そういった人間らしさの根本にあるべきものが全くない。
彼の頭の中には、それらの代わりに「フローチャート」があるのだという。

「自分のなかにフローチャートがあって、出会ってまず、おカネがありそうかどうか判断するんですね。おカネになりそうだったら、付き合っておカネを引っ張って、おカネにならなさそうなフローチャートの人はレイプする。ほんと、殺人の理由はおカネと性欲ですよ。まあ、三人目の男性以外はそうです」
白石は被害者9人を殺害した理由について、そう振り返った。そこで私は聞く。
「亡くなった方への気持ちはどうなの?」
「本音を言うと、なにも思ってないんですよ」

自らの死刑に対してすら関心が希薄な白石隆浩のような人物には、厳罰化も、執行猶予という仕組みも、すべて犯罪の抑止にならない。
いわゆる「無敵」の人という括りにも入るのかもしれないが、今までも話題になった「無敵」の人の中でも、ここまで空っぽな人間もそうそういないのではないか。
読んでから街を歩く見知らぬ人すべてを疑ってしまうほどのショックを受けた。

異質なノンフィクションとしての『冷酷』

ということで、事件そのものの凄惨さは嫌になるほど伝わってきた。
しかし、この本はノンフィクションとしてかなり異質だと思う。
考えてみれば、自分はこういった凶悪殺人犯を題材にしたものはあまり読んだことが無かったのかもしれないが、少なくとも終わらせ方に驚いた。


通常、ノンフィクションは、これまで気がつかなかった「悪」に目を向けさせたり、見過ごしてきた社会問題に対する問題意識を喚起させたりするものだと思ってきた。そして、そこには当然、ノンフィクション作家の問題意識が反映される。
言ってみれば、ノンフィクションは、作家の問題意識という車に乗って世界を再確認するタイプの本だと思う。しかし、この『冷酷』は、車に乗せてもらえなかった。いや、この本は2部構成で、途中(第一部 面会)までは車に乗せられて進む。しかし、そこで運転手は手を止め、読者は、止まった車の中(第二部 裁判)で、ドライブインシアターのように、淡々と事実だけを見せられる。

エピローグになり、ようやく運転手が戻り車は先に進む。そこでは、作者自身の取材に対する後悔が語られるが、逆に言えば、裁判の過程を記した第二部は、作者である小野一光の存在感が希薄だった。
このことについて、エピローグで作者はこう語る。

今回、私はいままでやってきた殺人事件取材とは、まったく異なるアプローチをした。加害者、被害者の周辺を一切当たっていないのだ。つまり、白石と面会する以外、足をほぼ使っていない。それは裁判についても同じで、そのほとんどが裁判を傍聴した関係者への取材に終始した。そうした手段による成果を、事件の本としてまとめることに対する抵抗がないわけではない。

それでも、本のかたちにして伝えたかったのは、「いまそこに苦悩を抱えている人々に対して、最悪の選択の先には、白石のような、”卑劣な悪意”が待ち構えている可能性もあることを、記しておかなければならない」という決意からだと言い、この本は唐突に終わる。


このあと、文庫版には小野一光と高橋ユキ(『つけびの村』)の対談、および、森達也の解説があるが、自分はこれらに救われた。この2編が無いのが単行本版だったとしたら、単行本を読んだ後の自分は途方に暮れていただろうと思う。
対談の中で、面会以外の取材をほとんどしていない理由について小野一光は以下を挙げている。

  • 取材時期が新型コロナ感染拡大時期と重なった
  • 被害者遺族全員が弁護士を立てていて、拒絶の意志の強さがわかっていた
  • 白石自身が犯行を否認しておらず、ほぼ包み隠さず喋っている
  • 裁判(裁判員裁判)の中で、被害者の背景についてかなり細かいところまで説明があった

しかしそれでも、白石と家族との関係についてはもっと取材が必要だったということを改めて述べるも、高橋ユキから「新型コロナの状況がよくなったら、家族への取材を進めるつもりか」と聞かれて「わからない」と答える。

この「わからない」という回答については、小野自身は、事件取材は本当に厳しく、成果が得られるのかどうかわからない中で進めなければならない、と言ってお茶を濁しているが、森達也の解説に、腑に落ちる説明があった。

結果的に本書は面会編と裁判編の二部構成になった。ただし二つのパートは分離しているわけではない。小野が書くように、裁判は面会時の言動の答え合わせの場でもあった。そして結果として、面会時と裁判とで齟齬はほとんどない。つまり白石は隠していない。ごまかしてもいない。だからこそ逆に不安になる。だって煩悶や葛藤がなさすぎる。平坦なのだ。あまりにのっぺりしている。そんなはずはないと思いながらも、そんなはずがない根拠をどうしても見つけられない。小野も同じ思いであるはずだ。白石と家族との関係に不可解な要素があるのでは、と推測する。(略)
ここで終わらせたくない。絶対に終わらせるべきではない。小野は今もそう思っているはずだ。僕もそう思う。死刑制度についての議論はここでは控えるが、確定後は社会との関係をいっさい断絶させられる現行システムについては、強く異議を唱えたい。
そして無理を承知で書くけれど、白石についての煩悶を小野には持続してほしい。おそらくそれはノンフィクションではなく、文学のレベルになるのだろうけれど。

森達也が内面にまで踏み込んで推測した通り、小野一光が家族への取材を進めることに対して「わからない」と答えた理由は、犯人である白石の「煩悶や葛藤がなさすぎる」部分が、取材を進めても明らかにならない可能性が高いと感じたからではないだろうか。


森達也は「生まれながら残虐で冷血な人はいない」という信条が、「座間九人殺害事件」については当て嵌めることができず、白石隆浩の犯行の動機について自分の中で説明がつけられないと言う。
彼が繰り返し言う通り「金銭と性欲を満たすため」という、ただそれだけに尽きるのかもしれないが、逆にそれでは納得がいかないし、自らの信条に反してしまうということなのだろう。
その意味では、この『冷酷』が普通のノンフィクションの形式を逸脱しているのは、白石隆浩が「普通」から大きく外れる人間だからだと思う。


これまで凶悪殺人犯の本をあまり読んだことが無かったが、白石との比較の意味でも読んでみたい。また小野一光さんは、やはり、他の著書で、この『冷酷』との違いを確認してみたい。そして、森達也については「生まれながら残虐で冷血な人はいない」という信条が感じられるような本を読んでみたい。

*1:この時点でどうかしているのだが

*2:ミミズ人間やトカゲ人間は許したとしてもニンゲンアブラの設定とか、要らないし、何でこんな不快なものを思いつくのか…苦笑

*3:この本は、目次が内容のダイジェストになっていて振り返りやすいのが良いところ