Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「誰か」とは誰か?~宮部みゆき『誰か Somebody』

菜穂子と結婚する条件として、義父であり財界の要人である今多コンツェルン会長の今多嘉親の命で、コンツェルンの広報室に勤めることになった杉村三郎。その義父の運転手だった梶田信夫が、暴走する自転車に撥ねられて死亡した。葬儀が終わってしばらくしてから、三郎は梶田の娘たちの相談を受ける。亡き父についての本を書きたいという姉妹の思いにほだされ、一見普通な梶田の人生をたどり始めた彼の前に、意外な情景が広がり始める――。稀代のストーリーテラーが丁寧に紡ぎだした、心揺るがすミステリー。


先日ビブリオバトルで、自分が川上未映子『黄色い家』を紹介した同じ日に、他の方が「残酷な現実に打ちひしがれる小説」と紹介していて興味を持った宮部みゆき『昨日がなければ明日もない』。
これがシリーズもの(杉村三郎シリーズ)で、その一作目がこの作品、ということで読んでみた。


宮部みゆき自体は『火車』『龍は眠る』『レベル7』『魔術はささやく』など初期作品は読んだが、そのあと全く読まず。ブログ内では、『本所深川ふしぎ草紙』の感想が(2度!*1)あるが、それ以外は本当に読んでいないので、現代を舞台にした小説は四半世紀ぶりくらいだ。

ハードボイルド小説としての『誰か』

読んでみると、驚いたことに、読中の印象が『黄色い家』と似ている。
すなわち、なかなか話が展開しない。
あらすじにも謳っている通り「ミステリ」を読んでいるはずなのに何故?と思いながらページをめくるが、やっぱり物語がなかなか始まらない。
458ページで終わる小説の380ページ目に、杉村三郎が4歳の娘に読み聞かせている『スプーンおばさん』の一節が引用されているが、まさに、ネコの言う通り、これ以降で、やっと「意外な真相」+「予想外の展開」がスタートする。

「『ああ、やっと時期がきた』と、ネコがいいました。『あたしはなん日ものあいだ、 まって、まちつづけていたけど、やっときょう、その日がきたんです。あたしのせなかにおのりなさい。そうして、すぐにでかけましょう』
おばさんがせなかにとびのると、ネコは、雪をけたてて、かけだしました」  
p380

『黄色い家』の感想では、このように「何も起こらない」代わりに何が物語を埋めているのかと言えば「予感」だ、と結論付けたが、今回、もちろん「予感」はありながら、淡々と杉村三郎による調査が進む。
ところが、圧倒的に「獲れ高」が少ないのがこの小説の特徴だ。
梶田信夫の死亡事故をもっと探ろうと警察を訪れてたらい回しにされた挙句、手ぶらで帰ることになった杉村三郎自身のぼやきが面白い。

受付なんかを通していては駄目だということがわかった。
テレビのサスペンスドラマに出てくる探偵役の男女は、もっと効率よく動いている。彼ら彼女らには、たいていの場合、懇意にしている警察官がいて、また上手い具合にその警察官が事件捜査の中核を担っていたりする。
p95

小説を読み始めて一番驚いたのは、まさにこの設定で、「杉村三郎シリーズ」なのに、杉村三郎が探偵でも刑事でもなく、義父が束ねるコンツェルンの広報室の平社員であること。
この設定では、今回の小説は書けても、2冊目、3冊目は書けないだろう。しかもビブリオバトルで紹介された本は短編集だったはず。
一体どうやって、広報室の職員が、数々の「事件」に携わっていくのか。この本を読み終えた今でもそのからくりがわからなくて、早く続編が読みたいという気持ちを強くしている。


解説では杉江松恋が、そんな杉村三郎の役回りについて以下のように論じる。

「この事件は~である」という結論を出した瞬間に事件は風化を始める。それを避けるためには、ぎりぎりの臨界点まで、ただ「見守る」しかないのである。
言い換えればこういうことです。作家がもし「起こったこと」の全体像を描きたいと欲したならば、中途で解釈者になることの誘惑に負けず、傍観者であることの辛さに耐え、厳しい現実を見届ける任務を誰かに背負わせなければならない。その視点が神の高みに達することは決して許されない。あくまで地面を這う虫の位置にあるべきで、起こることを起こる順番で目撃する、平凡人の目に徹していかなければならないのである。逆説的な物言いになるが、そうした凡人の視点以外から「全体」を見通すことは本来できない。ましてや、描かれた物語が一読者の心に浸透するほどの切迫感を持つことも不可能なのであります。
(略)
『誰か』は、宮部がそうした態度を作品の形で初めて表明した、記念すべき作品である。 作者に成り代わり、そして読者の代弁者として、事件の一部始終を見届ける杉村三郎こそは、宮部みゆきが初めて書いたハードボイルド・ミステリーの主人公なのだといえます。
ハードボイルドという小説のスタイルには様々な定義があり、残念ながら完全な統一見解というものはない。便宜的にあえて定義するならば「複雑かつ多様で見渡すことの難しい社会の全体を、個人の視点で可能な限り原形をとどめて切り取ろうとする」文学上の試みというべきか。

そうか。
ハードボイルド小説はあまり通ってこなかったが、何となく、無口な探偵が主人公の小説、という程度の印象を持っていた。しかし、そうではなく、主人公が「起こった出来事を、人生の辛い側面を、受け止める」ことの方が、ハードボイルド小説の核にあったのだ、ということに気づかされた。

成長する謎

同じ解説で、杉江は宮部作品の「展開」について次のように語る。

宮部作品では強烈な「引き」を持つ謎が冒頭に呈示されることが多い。不思議なことに、その謎は成長するのだ。これは話が逆でしょう。通常のミステリーの場合、謎は解明されるにしたがって小さくなっていくものである。どんな魅力を誇っていた謎も、要素に分解され、構造を分析されれば謎とは呼べないものに変わる。最後に残るのは、きわめて即物的な個人の事情です。しかし宮部作品は違う。いつまで経っても謎の魅力が褪せないのである。なぜならば、物語が進行するにつれて、謎に未知の側面があることがわかり、ますますその神秘性が深まっていくからだ。

確かにその通り。
杉村三郎の調査は、「梶田さんを轢いたのは誰か」「なぜ梶田さんは事故が起きたマンションを訪れていたのか」「30年前、聡美(梶田姉妹の姉)が4歳のときに誘拐されたという記憶は正しいのか」「梶田さんが”誘拐”と同じタイミングでトモタ玩具をやめたのは何故か」など複数の謎の解明を目的としている。しかし、本人が自嘲するように調査は「非効率」で、なかなか話が核心に向かわない。
ただ、その分、読者の想像を促す。


このあたりについて、この小説は、読者に「他人の靴を履く」訓練を受けさせるようで、非常に「教育的」な読み物になっていると思う。
例えば梶田姉妹の姉・聡美が4歳のときに誘拐された話の真偽について、杉村の妻・菜穂子は、自分たちの娘に置き換えて想像することを促し、相当に怖いことがあったことは確かなはずだと述べる。
また、別の場面では、事故目撃者を募るビラを撒いた後でかかってきた非通知の無言電話の主がおそらく梶田さんを自転車で轢いてしまった中学生であることについて、杉村が同僚のシーナちゃんから、やはり想像を促される。(2つのシーンとも、杉村三郎に質問させて話を止め、繰り返し話させているのも読者の思考をコントロールするかのようだ)

「梶田さんの遺族が自分のことどう思っているか、知りたいのかもしれないですね」
「うん?どういう意味かな」
「その子の気持ちを想像してみてるんです。遺族はどのくらい怒ってるのかな。自分のこと許してくれるだろうか。怖いなぁって。それを知りたいけど知りたくない。だって怒ってるのは当たり前だし、そう簡単には許してもらえやしないってこともわかってる。中学一年生ならね」
p364

このようにして、出来事を色々な人の視点から眺めていると、杉江氏の言う通り、「謎が成長する」。事実は増えないのに、見方が多面的になっていき厚みが増す。
こういった宮部作品の巧さについては、『理由』(1998)~『模倣犯』(2001)~『誰か』(2003)の流れと合わせて杉江氏が詳しく解説していて、それも大変面白い。

誰か

その詳し過ぎる解説には、書かれていなかったのだが、タイトルの「誰か」(who is itではなくsomebody)については、すぐには分かりにくいものの、作品テーマがそのまま込められていると感じた。
この小説で一番印象的な文章は、「誰か」という言葉が含まれる以下の部分だ。(後半を読み返したが、やはりここが一番熱がこもっている)

野瀬祐子はまた泣いた。だが自分を責め、自分を苦しめて泣いている。さっきまでの涙とは違っていたと思う。
彼女もわかっていたのだ。言われるまでもなく、心では知っていた。それでも、誰かの口からそう言ってほしかったのだ。
わたしたちはみんなそうじゃないか?自分で知っているだけでは足りない。だから、人は一人では生きていけない。どうしようもないほどに、自分以外の誰かが必要なのだ。

p402

(ここは完全ネタバレ部分*2ですが)野瀬祐子が電話で杉村に語った「真実」は以下の通り。

  • 28年前、野瀬は、日ごろから暴力を振るわれていた父親を意図せず殺してしまった
  • 職場で信頼していた梶田に打ち明け、梶田夫妻が遺体を秩父山中に埋めることを引き受ける
  • 梶田夫妻不在の約一日間、野瀬が、当時4歳の聡美を預かる(これを聡美が誘拐の記憶と勘違い)
  • 野瀬はトモタ玩具を辞め、同じタイミングで梶田一家も辞めて寮を出て、音信不通に。
  • 28年ぶりに梶田が野瀬のもとを訪れ、聡美の結婚を報告し、披露宴にも誘う。運悪くその日の帰りに事故に遭って亡くなる

未だに、梶田氏が後悔しているのではないかと繰り返す野瀬に、そんなことがあるわけがないと諭す杉村の言葉に野瀬は涙を流す。そんなシーンだ。


この部分もそうだが、この小説は「そう簡単に割り切ることはできない」人間の核の部分を丁寧に説明する。パターン化されたミステリであれば、「殺意があり、手段があったから殺した」程度の因果関係をもとに、パズル的にロジックを組み立てる。
それとは異なるタイプの『誰か』という小説は、野瀬祐子の告白で、メインストリームの謎が落ち着いたあと、一見ロジカルに見えない流れで、突然、梶田姉妹の確執に焦点が当たる。

ラストに配置されるのが、10歳下の妹(梨子)が結婚式を控えた姉(聡美)の結婚相手を奪うという下種な話で、事実だけを見ると、直前に明かされた死体遺棄の話と比べて軽い話に見えてしまう。
しかも、不倫の事実は、最後まで辿り着かずとも、早い段階で「え?でも何で?」と読者が気がつくように話が作られている。
それでも、最後に、不倫の事実が発覚し、それが「死体遺棄」の事実と密接に関わっていることを理解すると、ぐむむむむ…と、残酷な現実と話の巧さに唸ってしまう。


不倫の事実に気づいた杉村三郎は、梶田妹・梨子、その不倫相手で姉・聡美の婚約者・浜田、そして聡美、という当事者3人のそれぞれと話をする場面がある。ここで、聡美に対して、「真相」を知っている杉村はこう考える。

私はいろいろ考えた。たくさんのことを言おうと思った。あなたと梨子さんはご両親の愛を争って育った。あなたは梨子さんが”いちばん星”であることを羨み、梨子さんはあなたがご両親の戦友であることを妬んだ。
あなたは怖がりだが、梨子さんは闘士だ。あなたを打ち負かすために、あなたの持っているものを横取りすることで、あなたより自分の方が強いということを証明する。それが梨子さんの生き方だ。それをわかっていて、負けも認めないし勝とうともしない。それがあなたの生き方だ。
よそう。こんな分析が何になる?
私は沈黙を守っていた。
p452

忘れたい記憶と強く結びついた(そして共に乗り越えてきた)聡美と、新しい生活が落ち着いてから生まれた梨子では、どうしても育て方に差が出てしまう。
そこから生まれた姉妹の確執は、真相を知らない当事者たちには、その理由がわからないまま、今後も続いてしまうのだろう。
真実を知っても、それを伝えられない。そして背負っていかなければならない杉村はそれだけでも辛いが、梨子、浜田だけでなく聡美からも、「杉村のように恵まれた人には私たちの気持ちは分からない」と無碍にされるのがさらに辛い。


ただ、聡美は混乱しているが、自分ではわかっていたはずなのだ。
結婚したとしても、浜田とはうまく行かないし、姉妹間の争いは悪化することが。
だから、野瀬祐子の部分で出てきた文章は、そのまま聡美に当てはまる。

彼女もわかっていたのだ。言われるまでもなく、心では知っていた。それでも、誰かの口からそう言ってほしかったのだ。
わたしたちはみんなそうじゃないか?自分で知っているだけでは足りない。だから、人は一人では生きていけない。どうしようもないほどに、自分以外の誰かが必要なのだ。

「自分が一番わかっている」はずのことも、最後に「誰か」の一押しが無ければ行動に移せない。だからこそ、他の人の人生に介入するような言葉がけも、僕らはしていく必要がある。
つまり、杉村三郎が野瀬祐子や梶田聡美にとっての「誰か」となったのと同じように、他の人の「誰か」になる可能性は誰にでもあるのだ(感謝されないどころか非難されもするけれど)、と作品メッセージを理解した。


皆がそれぞれ自身の人生を生きているから、他人への安易な口出しは「余計なお世話」だ。一方で、誰もが強いわけではないし、後ろ暗い面もあるだろう。そういった人間の弱い部分に出来るだけフォーカスして、話をつむぐのが宮部流なのかもしれない。
改めて、宮部みゆきは優しい作家だと感じた一冊でした。

このあと読む本

杉村三郎シリーズは、このあと『名もなき毒』『ペテロの葬列』『希望荘』『昨日がなければ明日もない』と続くが、解説で名前の出た『理由』『模倣犯』は読まないといけない。(『理由』は読んだ可能性がある)

*1:感想を書き進めても、その本を読むのが(感想を書くのも)2度目であることを忘れていたという衝撃の一冊でした。

*2:ブログで意図して真相を隠したりしていると、読み返して全く思い出せない自分に対して過度なストレスを与えるので、できるだけ書くことにしました。

2つのパープルと苦手意識~映画『カラーパープル』×大河ドラマ『光る君へ』

カラーパープル』は公開初日に観たのだが、鑑賞前に、映画.comでの感想を流し見して「誰にも共感できなかった」と書いている人がいるのを目にした。黒人差別という、構造的にはわかりやすいはずの問題を扱っていて「共感できない」ということがあるのだろうか、と、そのときは思った。

大河ドラマ『光る君へ』

この前の土曜日に、NHKの土曜昼の番組「土スタ」を見た。
大河ドラマ『光る君へ』で紫式部を演じる吉高由里子がゲスト。番組進行役の近藤春奈とは十年来の親友ということで、とてもリラックスした雰囲気でいつも以上に楽しい回だった。ちなみに吉高由里子紫式部につけたニックネームが「パープルちゃん」ということで、『カラーパープル』と『光る君へ』は繋がっている。


数年前からドラマは毎シーズン1つか2つくらいは見ていて、吉高由里子主演ドラマだと、最近の『最愛』(2021年)も『星降る夜に』(2023年)は、ちょうど見ていた。
ドラマを見るたびに思うのだが、自分にとって吉高の一番のチャームポイントは声と喋り方だ。
声質がべたっとしていることもあり、少しずれると、「ものすごく下手」「あざとい」となりかねないが、絶妙なバランスで、幼さと落ち着きの両方を兼ね備えていて、聴き入ってしまう。
これに加えて、いたずら好きそうな仕草・笑い方も、確かな魅力だと思う。


今回、紫式部の思い人という立ち位置の藤原道長役の柄本佑も、誠実性が前面に出た演技が魅力で『光る君へ』は、主演2人を見るためにも見続けるだろうと思う。
なお、柄本佑を見ると、どうしても弟の柄本時生と比べてしまうが、今回も柄本時生だったら、全く違った道長になるだろうし、そもそも道長役には向いていない…等と思いを巡らせる。


このように、邦画作品は、ドラマや映画を見れば見るほど情報量が蓄積して楽しみが増していく。さらに、出演作品や交友関係など、言葉で表現される情報ではなく、その表情などから読み取れる情報についても、海外ドラマ・映画に比べて段違いに多い。

  • どういうタイプ(顔、声)が世間的に人気があるかを知りつつも、自分は、そこからズレる、こういうタイプが好きだ
  • 普通は、この役には、こんなタイプ(顔や演技)が選ばれるから、この配役は失敗している

など、初見の俳優であっても解像度の高い受け取りと消化が可能だ。(もちろん反対に、自分の決めた枠の中で、常に作品を見てしまう、という弊害もあるかもしれないが。)

カラーパープル』序盤の印象

さて、話を戻すと、映画『カラーパープル』に出演しているのは、日本人ではない。
それどころか、出演はほとんどが(自分としてはあまり見慣れない)黒人*1俳優。
そうすると何が起こるかと言えば、『光る君へ』を見ていたときにあれほど高解像度だった脳内カメラの精度は一気に落ちて、年齢どころか、人の区別がつかなくなる。表情から思考を辿ることができなくなる。そもそも、髪型もカッコいいかどうか判断がつかない。
字幕を追っているだけで、すでに物語を一歩引いたところから見ているのに、さらに2歩3歩と後ろに下がってしまう。
この状態では、『光る君へ』を見ている時のような、キャラクターを多角的に楽しみ方はできなくなる。
そうか。
今気がついたが、こういうキャスティングの映画に、自分は苦手意識を持っているのかもしれない。


実際、出だしは少し混乱したこともあり、冒頭に挙げた「誰にも共感できなかった」という誰かの感想は、(当人がどういう意味でそう書いたのか不明だが)十分に起こりうることだと感じた。実は、TOHOシネマズ新宿で観た『カラーパープル』は初日でガラガラだったのは、同じように苦手意識を持つ人が多いからなのかもしれない。
自分事ながら少し面白いと感じてしまったのは、同じ黒人俳優でもスクイーク(メリー・アグネス)を演じたガブリエラ・ウィルソン(“H.E.R.")は、とても日本人的な顔立ちなので、少し安心感があるということ。
それと対照的なのがハリー・ベイリー。彼女の顔立ちは独特過ぎるので、人を惹きつけるが不安にさせる。『リトル・マーメイド』を酷評する人がいることも、今回実感として分かってしまった気がする。


つまり、人は見慣れた顔に安心感と好感情を抱き、
反対に、見慣れない顔には、不安と嫌悪を抱き、いつしかそれが苦手意識につながるのだろう。

しかし、今回、映画を観終えてみると、ポスターに出ている主演3人の表情はある程度読み取れるようになったし、一番の悪役であるダメ夫「ミスター」の心の動きも掴めてきた。
こういう風にして、映画一作品見通すだけでも、自分の中で作品の受け取り方に大きな差が出るのは面白い。
カラーパープル』を2度目に見るときは、今回感じた序盤のつまずきは確実に感じないだろうし、もっと共感しながら物語を楽しめるはずだ。
とすれば、映画に限らず色んなタイプの作品に触れることが、人生の楽しみを増やしてくれるのかもしれない。(もちろんリアルに色んな人と会い、話をすることがさらに重要なのだろう)

良かったところ

良かったところは圧倒的に歌。
今もサントラを聞きながらこれを書いている。
ちょうど、映画を観た日の朝に藤田和日郎が「ミュージカルは何でセリフを歌うんだろう?」という長年の疑問に、劇団四季の「ゴースト&レディ」の演出家スコット・シュワルツが答えてくれたというツイートを読んでいたので、「言葉にできないから歌う」を観に行って、まさにそれを実感した感じだ。


特にソフィア(ダニエル・ブルックス:ポスター真ん中)が、怒りを歌にするシーン(曲はHell No!)が良い。それまでも感情をむき出しにしていたが、歌にすることで、さらにギアがトップに入る。彼女が、理不尽に夫に怒鳴り家を出るところは感情移入しにくいし、収監されて意気消沈するところは、下げ度合いが強過ぎて、そこも含めて最も「共感しにくい」キャラクターという面はあるが、歌の巧さは、皆うまい役者陣の中でもトップではないか。(なお、ちょっとハナコ岡部に見えるときがある)

またディーバ役であるシュグ。最初に見たときは、あまり華のない見た目と感じていたが、歌い出すと一気に魅力が全開になるし、主役セリ―を演じるファンテイジア・バリーノもシュグと歌うシーン(What About Love?)や、お店を開いてからのシーン(Miss Celie's Pants)は、やっぱり歌が上手くて驚くし、歌でなければ表現できないと感じた。

パンフレット

カラーパープル』は、アリス・ウォーカーが1982年に発表した小説をもとにして1985年にスピルバーグが一度映画化している。その後、2005年にスコット・サンダースがブロードウェイ・ミュージカルにし、2015年にリバイバル公演。セリーやソフィアなど、舞台版の役者も引き連れた形で、新鋭ブリッツ・バザウーレの手によって2度目の映画化がなされた。
このあたりの情報がパンフレットに記載されているが、そのパンフレットの俳優インタビューで、それぞれが物語について深い解釈を持って演じていることがわかり驚く。(もちろん翻訳・編集の間でかなり手が入っている可能性もあるが。)
例えば、シュグ役のタラジ・P・ヘンソン

  • シュグとミスターの関係性をどう思いますか?
  • シュグとセリーについては?

など登場人物の関係性についての質問に、理路整然と自らの解釈を語っていく。
他の俳優も同じタイプの質問について同様に答えているが、セリーの回答の的確さもなかなかのものがある。

セリーの「姉妹たち」の存在について教えてください。


シュグ・エイブリー(タラジ・P・ヘンソン)、ソフィア (ダニエル・ブルックス)、そして最後にはスクイーク(ガブリエラ・ウィルソン “H.E.R.")も、全員が何かに気づきます。自分たちの強さに気づき、自分たちが何か偉大なことを成し遂げるために、この地球上に生まれたのだということに気づいたんです。
当時は、女性たちにとって今よりもはるかに大変な時代でした。だから、シュグが町にやってきた時、セリーたちは、「彼女は誰? 彼女が物事を進めている。彼女がボスで、誰にも指図されていない。彼女は誰の世話もしていない」って思うんです。
シュグは新風を吹き込んだ存在です。とくにセリーが自分の足で立ち、ステップアップするために必要としていた、あと一押しが彼女だったのではないかと私は思います。
それまでのセリーには自分の意見がありませんでした。セリーが自分たち女性にはものすごいパワーがあるんだということを理解するために必要としていたのは、シュグとの出会いだけでした。シュグとソフィアが自分のために立ち上がっているのを見て、セリーも最終的にミスターに立ち向かうことができるんです。


また、(スピルバーグ版ではソフィアを演じた)オプラ・ウィンフリーの言葉も素晴らしい。

製作のオプラ・ウィンフリーは固く信じている。
「この物語が長年生きながらえている理由は、辛い経験をしたり、透明人間になってしまった気がしたり、誰の目にも映っていないし大切にもされていないと感じたりしたことのあるすべての女性や男性にとって、これこそ、自分という人間になれる物語、自分自身になれる物語、他者の姿から反映される形での自己発見という素晴らしい体験を味わえる物語だからです。
セリーにとっての他者は、別の道があるということを教えてくれたシュグ・エイブリーでした。他の生き方があると。私たちが世界に向けて再びリリースすることで、この物語は引き続き生き残っていきます。」

テーマから何からオプラ・ウィンフリーの言葉に全部書いてある!
と、何度も噛み締めるように読む。


こうやって、俳優陣や製作陣の声を拾っていくだけでも作品のことが好きになるし、人間として親しみが湧いて来る。また、映画とは異なり、そもそもこの映画の核となる「音楽」は見た目と無関係に好きになることが圧倒的に多いアートだ。
そうすると、見た目で苦手意識を持っていた自分は勿体ないなあ、と改めて思った。
繰り返しになるが、映画は手軽に色々な文化、人種、民族に触れることができるメディアでもあるので、自分の知らない世界を扱った作品にこそもっと触れていきたい。

*1:あれ?「黒人」という呼称はOKなのか?と思って少し調べたが、厳密なルールがあるわけではないようだ。今回はパンフレットの表記が「黒人」で統一されていたので、それに倣った部分もある。こういった「呼称問題」はもっと勉強しておきたい→「アフリカ系アメリカ人」「黒人」、どちらが正しい呼び方?|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト日本人は「黒人」の定義をおそらく誤解している 安易にレッテル貼ることの影響を考えているか | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン

ノンフィクション、エンタメ、文学の境界~齊藤彩『母という呪縛 娘という牢獄』×川上未映子『黄色い家』

齊藤彩『母という呪縛 娘という牢獄』、川上未映子『黄色い家』という全くジャンルの異なる2冊の本を短い期間に連続して読んだ。
異なる、と書いたが、共通点もある。
『母という~』はタイトル通り、母が娘を拘束して、そこから逃げ出せないような「監禁」状態で過ごした二十数年間が描かれ、『黄色い家』は、冒頭で主要登場人物が若い女性の「監禁」で捕まる話が出てくる。
それもあって、順番的にあとに読んだ『黄色い家』は、『母という~』に似たような展開の可能性も予感しながら読み進めた。
結果的には、似たところは全くない二冊だったが、それらを読む中で、ノンフィクション、エンタメ、(純)文学というジャンル毎に自分が何を求めているのか、が見えてきた気がする。
今回は、そこにも触れるようにしながら感想を書いた。

齊藤彩『母という呪縛 娘という牢獄』

深夜3時42分。母を殺した娘は、ツイッターに、
「モンスターを倒した。これで一安心だ。」
と投稿した。18文字の投稿は、その意味するところを誰にも悟られないまま、放置されていた。
(省略)

母と娘――20代中盤まで、風呂にも一緒に入るほど濃密な関係だった二人の間に、何があったのか。
公判を取材しつづけた記者が、拘置所のあかりと面会を重ね、刑務所移送後も膨大な量の往復書簡を交わすことによって紡ぎだす真実の物語。
獄中であかりは、多くの「母」や同囚との対話を重ね、接見した父のひと言に心を奪われた。そのことが、あかりに多くの気づきをもたらした。
一審で無表情のまま尋問を受けたあかりは、二審の被告人尋問で、こらえきれず大粒の涙をこぼした――。
殺人事件の背景にある母娘の相克に迫った第一級のノンフィクション。

ページ数もちょうどよく字も大きい。
ここまでリーダビリティに優れる本も少ないだろう。
正に「一気読み」のノンフィクション。
あらすじを短く説明すると、扱われているのは、31歳の娘が同居する58歳の母親を殺害して河川敷に放置したという2018年の事件。医学部に合格せよという母親の要請にしたがって、9年間(!)の浪人を経て看護学校に合格した娘が、それ以降のさらなる束縛に耐え切れず犯行に及んだという。
母親とのLINEのやり取りや手紙がそのままの文章で挟まれるのも臨場感を生み、まさにページをめくる手が止まらない。いうなれば「本当にあったイヤミス」。


母親は、娘が小学校の頃から成績優秀であることを強要し、テストの点数が悪いと怒り、暴力を振るう。それが包丁で切りつけたり、熱湯を太ももに浴びせたりするというものなので度を越している。
娘の側も、悪かったテストの点数を改ざんするなど点数不足を嘘で補うなど対応するが、特に小中学生の頃はすぐに母に嘘を見抜かれる。バレるたびに表面的には母に従順を装いつつ、胸に澱が貯まっていく、というのも、そうだろうよと納得だ。


一方、母親は倹約家としても度を越しており、節水のために娘が20歳を過ぎても母娘二人で風呂に入る生活を続けていたという。(そんな彼女と気質が合わなかった父親は、日々の嫌味や罵声にも疲弊し、娘が小6のときに別居に至る)


忘れられないエピソードはいくつもあるが、一番衝撃だったのは、最初の受験で京大看護学科不合格が判明した直後のこと。(目標である医学部よりもレベルを下げた母の妥協点としての「京大看護学科」)
娘には、中高6年間の学費を補助してくれていたアメリカ在住の祖母(母の母)がいたのだが、母親は、祖母に向けて「京大に合格したことにする」と言い出すのだ。
電話での直接の合格報告に加え、わざわざ京大で母娘写真を撮影し、買った土産も送ってダメ押しをする。
母親の計画では、京大で仮面浪人をして医学部合格を目指す予定だったので、確かに、1年後に医学部に合格してしまえば、京大合格の嘘は小さいものと言えるのかもしれない。アメリカ在住ということでバレることは無いと言え、そこまで体面にこだわるのか。

この後、9年後に医学部を諦めて看護学科に志望変更をするタイミング(既に京大合格の嘘はバレている状態)でも、母は娘に、祖母に向けて嘘の手紙を書かせる。本文中での、この手紙の入り方が絶妙過ぎて、急に娘が心変わりして母親に協力的になったのか?と思わせ、一種の叙述トリックのように機能しているのもゾッとする。


なお、娘の側も高校時代から定期的に家出を繰り返し、隙あれば住み込みバイトに逃げ込もうとするが、母親側は探偵を雇って家出先を突き止め連れ戻してしまう。
タイトルにある通り、まさに「牢獄」で、30歳のときに母親殺害に至るが、よくそこまで我慢した、と思ってしまうほどの内容だった。


さて、事件は2018年1月に犯行、3月に遺体発見、直後に娘にも捜査の手が及び、6月に逮捕に至るが、当初、彼女は「死体損壊・遺棄」のみを認め、「母親は自殺した」と主張していた。滋賀県警や検事の取り調べに否認・黙秘を継続できたのも、20年以上もの母親との毎日のやり取りの中で、本心を偽ることを鍛えられてきたからだというのも皮肉な話だ。
その後、裁判の過程で、父親を含む多くの人の優しさに触れる中で、自らの殺人についても認め、後悔の気持ちも示すようになる、というのが、この本で数少ない感動ポイントだろう。


と、本の内容を振り返ってきたが、やはり元々のエピソードの豊富さにも助けられ、一冊の本としての読みやすさは一級だったように思う。
とはいえ、以下の点が非常に残念だ。

  • 娘と同じ立場にある人が、どこに助けの声を上げれば良いか、について参考となる情報がない。
  • (裏返しになるが)このような問題を「殺人」(もしくは「自殺」)という事態に発展させないための公の対策について言及がない。
  • 母親はそもそも取材が出来ない相手ではあるが、彼女自身にも、何か治療的なアプローチが必要ではなかったのか、ということについても触れない。これが無いと、単に母親という「モンスター」から逃れられて良かったね、という話になってしまい、議論が「モンスター」を生み出さない方向に向かわない。

これらの補足説明を付け加えれば、この本の一番の売りである「読みやすさ」は損なわれるだろう。しかし、これが無ければ、「ノンフィクション」というより「エンタメ」、まさに「本当にあったイヤミス」として消費される本ということで終わってしまう。
以前読んだ『モンスターマザー』は、「モンスター」の母親に追い込まれた男子高校生が自殺した事件を扱いながら、母親をトコトン追及することに拘りすぎていて、共通した問題点を感じてしまった。
読書は常に「何かためになること」を求めてなされるべき、とは思わないが、実在の事件を扱ったノンフィクションについては、ましてや、それで死人が出ている事件については、何らかの教訓を求めてしまう。それが亡くなった方の弔いになると思う。
pocari.hatenablog.com


川上未映子『黄色い家』

2020年春、惣菜店に勤める花は、ニュース記事に黄美子の名前を見つける。
60歳になった彼女は、若い女性の監禁・傷害の罪に問われていた。
長らく忘却していた20年前の記憶――黄美子と、少女たち2人と疑似家族のように暮らした日々。
(省略)善と悪の境界に肉薄する、今世紀最大の問題作!

川上未映子は、つい先日、映画『PERFECT DAYS』のパンフレットその人柄に触れはしたものの*1、著作はこれまで未読。
芥川賞をはじめとする受賞歴の数々から「文学」の人だと思っていた。
ただ、『黄色い家』は、先々週に読んだときは「王様のブランチBOOK大賞2023」のみ受賞(その後、読売文学賞受賞、本屋大賞ノミネート)しており、「エンタメ」なのかも、と不思議に思った。

ということもあり、今回、『黄色い家』は「文学」なのか「エンタメ」なのか、それを分ける者は何なのかを考えながら読んだ。
結論としては、

  • 『黄色い家』は「文学」
  • 「文学」は「予感」

連続で読んだこともあって比較すれば、『母という呪縛 娘という牢獄』が280ページながら非常に濃いエピソードが目白押しだったのと比べれば、600ページ越えの『黄色い家』は、主だった出来事が少なくスカスカとすら言える。その分を何が埋めているのかと言えば「予感」が埋めているわけです。

  • 17、8歳で社会で生きていくために共同生活を始めた主人公たちは、数年後どころか数か月後の暮らしの保証がない中で、過去を振り返り、将来への期待・不安で頭を悩ませながら、すなわち「予感」に右往左往しながら生きている。
  • 読者は、彼女たちに感情移入しつつも、物語の構造上の観点からメタ視点で、そろそろトラブルが起きる、そろそろ人が死ぬ、など勝手な想像をしながら、「予感」と並走しながら登場人物たちを眺める。

つまり、文学作品でよく言われる「何も起こらない」という特徴は、そのまま「(何も起こらない分だけ)予感に満ちている」と言いかえることが出来る。
これに加えて、この物語の最大の特徴は、「起きそうで起きない」こと。

  • 共同生活する4人(黄美子さん、花=主人公、蘭、桃子)の仲が悪くなり、協力関係が破綻したら…
  • 4人以外でもこの登場人物が裏切ると大変なことに…
  • 謎の多い登場人物が抱えていた事情が明らかになり物語が展開する流れなのか?

読みながら色々な「予感」が頭をよぎるが、大半は起きない。しかし、どんどん状況は悪くなる。

物語の中心にいる黄美子さん、つまり冒頭で2020年に若い女性の監禁・傷害の罪で捕まった黄美子さんのキャラクターが全くつかみどころがないのも大きい
彼女は、共同生活をしていた残りの3人(当時18~20歳)よりも20ほど年上だが、その年齢差を感じさせないキャラクター。スナックでも花に先輩風を吹かせるわけでもなく、ただ飄々と、いや飄々と、というより何も考えていないかのように暮らしている。
そんな彼女がなぜ逮捕されたのか?という謎を考えながら読み進めるフックがかなり効いており、小説内で起きなかった、もしくは起きたが描かれなかったトラブルの「予感」も含めて、読者は物語を味わうことになる。


そして結末も、誰も信じられない、という後味の悪いものではなく、皆が善人という能天気なものでもない。胸がすくような伏線回収もない。
結果として、2000年頃に三軒茶屋付近で共同生活を営んだ「黄色い場所」という、時間と場所、そしてそこで必死に生きていた人たちの人生そのものと、少しの希望が残る。
結末近くで4人が本音をぶつけ合う場面があるが、その部分の明け透けすぎる物言いも良い。人は勢いでそんな酷いことを言える。


ともすると、物語は、ストーリーを形づくるプロットとキャラクターが重視されがちだが、物語を味わう読者の「予感」をコントロールするように設計された小説の方が「文学」として優れているのではないか、というようなことを考えた。



最後に付け加えれば、この本は装丁が良い。
六本木の21_21 DESIGN SIGHTで開催中の「もじ イメージ Graphic 展」でも、名久井直子さんのデザイン本ということで並べられていたうちの1冊で、そこでも、『黄色い家』は目立っていたように思う。*2


表紙カバーをめくれば、真っ黄色な表紙には「SISTERS IN YELLOW」の文字。
そして表紙カバーは青が入り黄色が映える。
さらに帯の赤色も非常に綺麗。コメントを寄せたのは王谷晶、ブレイディみかこ、凪良ゆう、高橋源一郎、東畑開人、亀山郁夫河合香織、花田奈々子。
中でも河合香織のコメント「この小説は安易な要約を拒む、生の複雑を読者に突きつけていく」が、「予感」に満ちたこの本のポイントをついていると感じた。
Amazonのあらすじは、書き過ぎだったので、上に引用するとき、一部を省略しておいた。

次に読む本

齊藤彩さんは、これが初の著作ということで次作に期待。
川上未映子さんについては、有識者に聞いたところ、「っぽい」作品として、芥川賞受賞作『乳と卵』をオススメされた。『黄色い家』や『夏物語』は、本流とは少し異なるらしい。よく目にする『ヘヴン』も読んでみたい。そして勿論『夏物語』も。

*1:https://pocari.hatenablog.com/entry/20231231/perfect

*2:改めて見ても名久井直子さんのデザインの本は読みたくなるようなものが多く、どれを読もうか、と思ってしまう。→ www.bird-graphics.com

社会派ミステリで描く安楽死問題~中山七里『ドクター・デスの遺産』

先日久しぶりに会った2歳下の弟が、最近よく読んでいるということで中山七里を薦めてくれて、興味のある安楽死問題を扱った小説があるということで手に取った。


近年読んだ社会派ミステリとしては、相場英雄『アンダークラス』(外国人技能実習生問題)という傑作があり、脳内では常にこの本と闘わせながら読んだ。
新書『安楽死が合法の国で起こっていること』を読んだからこの小説に興味を持ったため仕方がないのだが、安楽死についてのリテラシーがかなり高い状態で臨んだことが災いして、その点では心に響かない内容だった。
しかし、日本での「安楽死」についての通常の問題意識は、『安楽死が合法の~』とは逆だということに気づかされた。


何が「逆」なのか。
ドクター・デスが約束する「安らかで苦痛のない死」は、「終末期医療に見放された患者と家族」にとって非常に魅力的だ、という台詞が出てくる。
ここで言う「終末期医療に見放された」というのは「医者が延命治療を停止するという決断をしてくれない」ということを指す。

「終末期医療のガイドラインというのは手続きに限定した内容で、どんな病気のどんな症状が終末期に該当するかが規定されていません。その判断はあくまでも医療チームによるものと明文化されているんです。終末期というのは一般に余命数週間から六カ月以内という意味らしいのですが、現実の医療現場でお医者さんがそんなことを定義してくれるでしょうか」
実際には無理な話だろうと犬養は推測する。医療現場に何度か立ち会った経験からすると、臨床医師は患者の救命と延命が至上命令であり、己が持てる医療技術の全てを延命治療に注いでいる。それこそが医療の大義という意見がある一方、終末期を定義するとなればガイドライン自体に規定がない以上、延命治療を停止する行為は法的責任を問われる。医師が終末期医療を回避したがるのは人情というものだ
これは穿った見方だが終末期の延命治療はどうしても高額医療になる。患者本人には特定医療費などの保険制度で負担は軽くなるが、病院側にすれば最新の延命治療をすればするほど医療収入が上がることになる。病院経営者が徒に延命治療を止めようとしない図式も容易に推察できる。

p58

確かに、日本で「安楽死」が話題にのぼるときは、常に「延命治療」への批判が含まれている気がする。
安楽死が合法の~』で扱われている海外事例から「医師は安楽死させたがる」という前提で問題を眺めていたが、少なくとも日本ではその状態にない。そう考えると、この小説ももう少し「延命治療」を悪いものとして描く書き方になっていると面白かったのだが、扱われる事件は、やや淡泊なものが多かったのが残念だ。


さて、この小説のミステリとしてのオチ(メモとしてネタバレを文章末に→*1)は、ステレオタイプへの偏見に頼ったもので、これに引っかかってしまった自分はまだまだ修行不足だった。ここは、驚けたことを単純に喜ぶことにしよう。


なお、主人公の犬養刑事には、難病で入院中の娘がいて、彼女がドクターデスの標的になるかも…という部分も物語を盛り上げる。今回は、この親子関係には深入りしなかったが、シリーズ物としては第四弾ということで、これ以外の作品についても読んでみたい。
一作目(切り裂きジャック)はテーマがわからないが、三作目(ハーメルン)は子宮頸がんワクチン問題、五作目(カイン)は違法な臓器売買と貧困問題ということで、こちらにも興味がある。ドクター・デスは映画もあるようなので、こちらも余裕があれば。
お、今気づいたけど中山七里の最新作はAI裁判なのか!これは読みたい。


参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:塩化カリウム製剤の注射を持って訪れるドクターデスは常に禿げ頭の小男で、看護師を連れて現れた。というミスリードは、看護師=女性、医師=男性というジェンダーバイアスそのもの。河川敷で路上生活をしていた禿げ頭の小男の「ドクターデス」を捕まえてみたら、彼は「看護師」(ドクターデス本人)に雇われていただけだった、という事実を知らされるまで全く気がつかなかった…

尋常じゃない「聡実くん」祭り~綾野剛・齋藤潤主演『カラオケ行こ!』


チラシを見たときから「これは、漫画そのままでは?」と思っていた。未読だったが、原作漫画の存在は知っており、和山やま作品も『夢中さ、きみに。』を読んだことがある。チラシの2人は漫画の2人にイメージ的にぴったりじゃないか。


実は初めて原作漫画を読んだのは映画を観に行った当日の朝。
頭の中に綾野剛と齋藤潤(岡聡実役)のイメージが入り込んでいたからかもしれないが、今思えば、その時点で、映画キャストに当てはめて漫画を読んでおり、すでに映画を観る前から漫画と映画が一体化していた。

そして実際に観てみると、映画の感想はとても独特で、何というか「聡実くん祭り」という感じ。途中から、彼がどんな表情、どんな声で「紅」を歌うのか?ということが気になって仕方なくなり、筋や映画のアレンジよりも、齋藤潤演じる岡聡実をひたすら観察するような映画体験となった。

映画独特の追加要素*1も、成田狂児よりも「聡実くん」を映えさせるものが多く、特に、岡部長への尊敬、妬み、軽蔑などがすべて顔に出る2年生の和田くんのキャラクターが最高だった。
映画を見る部の栗山くんと聡実くんの2人のビデオ鑑賞の様子は、むしろ漫画っぽいつくりで、何故これが原作に入っていないのか不思議なくらい。


そして、聡実くんと同じくらいfeatureされるのが『紅』。
そして、映画ならではのアレンジとして、イントロ部分の英語詞を日本語詞に変えたのもストーリーに深みを持たせているし、エンドロールの楽曲が『紅』になることは予想が出来ていたが、それが「合唱ver」であることまでは読めなかった。
このあたりはすべての改変が正解過ぎて驚くほど。
肝心の聡実くんの歌唱は、思ったより「普通」ではあったが、彼の魅力が倍増したのは間違いない。



しかし、この映画を観ることになったきっかけの最後の一押しは、実は、年末から集中放送を追っかけたドラマ『MIU404』。映画『カラオケ行こ!』には、『MIU404』の伊吹(綾野剛)、陣馬さん(橋本じゅん)が出ているだけでなく、何といっても脚本を野木亜紀子が手掛けている。
『MIU404』も『アンナチュラル』も、全エピソード好きなものばかりだったし、一番最近見た『MIU404』の最終回も、本当に良かった。その野木節が、どのように『映画行こ!』に反映されているかというと、何とも言えないが、場面転換のテンポの良さやギャグの切れに加えて、脚本ゆえなのか監督ゆえなのか分からないが、共通して俳優の演技を引き出した作品になっていると感じた。綾野剛は、2作品で雰囲気が全く違っていて、やっぱり役者ってすごい。
今年は、夏公開作品として、『MIU404』『アンナチュラル』と世界を共有する『ラストマイル』が待っている。これは本当に楽しみだ。
last-mile-movie.jp


そして、映画鑑賞後に、続編の『ファミレス行こ(上)』も読んだ。
これがまた、続編なのに独特な雰囲気を持った作品で、先が読めない中、最後に驚きの展開があって、下巻が待ちきれない。

和山やま作品は、『女の園の星』も未読で、1作品見ただけで、いろいろと宿題の増える映画でした。



*1:先生役の芳根京子も良かった!ピアノを実際に弾いているというのも驚きです。

植物状態の母との25年~朝比奈秋『植物少女』


「図書館で借りて読んだ」と書くと申し訳ない気がしてあえて書かないが、買って読む本より借りて読む本が多い。
予約貸し出しの場合、ほとんどの場合は、何故この本を予約したのかを思い出せない頃になって本が手元に届く。
そんな風にして、偶然、児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』のあと、問題意識が継続しているタイミングで、この小説を読むことになったのは本当に良かった。

美桜が生まれた時からずっと母は植物状態でベッドに寝たきりだった。小学生の頃も大人になっても母に会いに病室へ行く。動いている母の姿は想像ができなかった。美桜の成長を通して、親子の関係性も変化していき──現役医師でもある著者が唯一無二の母と娘のあり方を描く。


物語は、主人公の美桜(みお)が子どもを抱っこして母親の葬儀の準備をする場面から始まり、母親との最初の記憶からこれまでを振り返っていく。
つまり「植物少女」というのは、一義的には主人公の「みお」のことを指すのだろう。
小学校低学年の頃のみおは、親戚や医者などが廊下でこっそり使っている酷い言葉を真似て、配属されたばかりの看護師に向かってこんなことを言ったりするのだった。

「ママな、植物人間やねんで」(略)
父や祖母の前では使えない言葉を披露する絶好の機会だと、
「人間としては死んでるようなもんやねんで。息してるだけ。何の意味もなく生きてるだけやねんで」
と聞いたことのある言葉を並べていった。
p28

このあたりの、罪悪感なく行ってしまう酷い言動は『こちらあみ子』を思い出すが、病室の隣のベッドの「首呼吸のお爺」(気管切開していて首に穴が開いている)へのいたずらが忘れられない。
チューブでの痰吸引を手伝ってあげたあとで、好奇心から首の穴に指を入れる場面だ。
翌日に高熱を出して、お爺は亡くなってしまうのだが、みおは気にしていないように見える。彼らには見舞いの客も来ず、悲しむ人もいない。病室を毎日の遊び場としているみおには、日常的な「死」だということなのかもしれない。


この頃のみおは、「母をいいように使った」のだという。

乾いて冷たい人形と違って、母の肉体には紛れもなく血が通っていて、普通の人間と同じだった。そのおかげで、時々こういった声が聞こえた気がした。人形遊びだと、時に話しかけることに虚しさを覚えたりしたが、生身の人形ではそんな気持ちにならなかった。
言ってほしかった言葉が聞こえると、母の右腕を担いで、わたしの肩を抱かせる。頭を母の首元に擦りつけているうちに、
「お父さんとおばあちゃんはなんで仲良くできないん?」
と自然とぽろぽろ涙が溢れてくる。すーっとカーテンが閉まる音がして、カーテンの端を握る吉田さんの手だけが見えた。そこからはたいてい、わたしは肩を震わせて泣いた。そして、最後に母のすっと伸びた指で涙を拭わせると、いつも気持ちがすっきりした。 
そうやってわたしは母をいいように使った。母が大好きだった。ここまで思い通りにさせてくれる人間は、わたしの周りに大人も子供も含めて誰一人いなかった。どんな話も遮らずに最後まで聞いてくれた。
閉じられたままの目も素敵だった。黒目がちなつぶらな瞳や知的でミステリアスな三白眼。目を瞑っている限り、母はどんな瞳にもなれた。
p20

「何か言葉をかけてきそうな感じ」
「話を聞いてもらっている感じ」
実際に、そこで情報のやり取りが出来ているかどうか、ではなく、受け手の一方的な思い込みだとしても、コミュニケーションとして、機能を果たしている。みおにとって母が必要な存在だったことがよくわかる。
想像しにくい状態だが、実際に会話ができる母を、みおは見たことがない。だから、何度本当のことを聞いても、みおの中では、母親は生まれたときから「植物状態」だったことになってしまう。(母親は出産時に脳出血を発症し、大脳のほとんどが壊死して植物状態になったのだ。)
これは、「祖母や父」が、昔の思い出と重ねて、こちらに話しかけてくる予感を持ち続けているのとは違う。
ただ、看護師さんにとっての「母」も、みおにとっての母と同じで、やはり元気だった昔の姿を知らない。
すると、みおに限らず、医師、看護師は、家族の頭の中にある「本来の(元気でいた頃の)患者」像と常に向き合う必要があるのだろう。(少なくとも、家族はそうしてくれることを望んでいる)

なお、「植物状態」というのは、点滴で栄養を取るのかと思っていたが、驚いたことに、みおの母親も、隣のベッドの「あっ君」も、食事は、スプーンを口に運び、食べさせている。唇に食べ物をあてれば舌や歯が動き、痛いことをしたら痛がる。時々目を開けることもある。みおの母親の場合は、開いた手に手を置けば握り返してくる。
登場する医者の説明では「単なる生理的な反射」なのだというが、そうだとしても、想像していたよりも、コミュニケーションの機会は多く、「植物状態」について少し具体的にイメージすることが出来た。


さて、みおは、そのような母親の状態をどう捉えていくのか。
小説の中で特に印象に残るのは、中学生になって陸上部に入ったみおが、堤防で走っていて、ランニングハイのような状態になり「気がつく」場面。少し長めに引用する。

頭が真っ白になって何も考えられなくなって、胸も空っぽになって何も思わなくなって、ただ呼吸だけが続く。
呼吸の底に力が集まってくる。
存在しているという確かな感覚。流れる景色の中でただそれだけを感じていると、不意に母の顔がサッと目の前をよぎった。 
「あっ」
自分の体につまずいて、動きの全てがちぐはぐになる。
すぐに歩きだし、やがて立ち止まってしまった。反動のように呼吸があがって、ぜぇぜぇと苦しくなる。わたしは膝に手を当てて、ただただ呼吸を続ける。
時おり体験するこの現象を、わたしはいつも摑みそこねていた。日常の軋轢や植物状態の母を持ったこと、そういったことのもっと奥にある、これは一体何なのか。

白んでいた頭に像を結べるようになって、ようやく自分が何につまずいたか、むずむずとわかりはじめる。


もしかして、母は・・・・・・


何も考えられない、何も思うことができない母は、もしかしたら、こんな生の連続に生きているのではないか。息だけをして生きる、この確かな実感の連続に居続けているなら。
すると、頭が思考を取り戻しはじめ、胸が熱くなってくる。
わたしは頭を振って夜気を胸に大きく吸いこんでから、息をぐっと抑えて姿勢をまっすぐ起こして無理やり走りだした。
振りだされる脚、揺れる肩甲骨、波打ちはじめる背骨。そんな感覚も、走るため、ただ一心に呼吸をするうちに、すぐに呼吸に溶けていく。頭も真っ白に、胸も空っぽになって、ただ呼吸そのものになる。呼吸がわたしの底に触れると、他はなんでもなくなる。ただ存在しているだけになる。とうとう息が上がって、わたしはのたうつように堤防に座りこんだ。砂利がお尻に食いこんでも、息を継ぐので精いっぱいで痛みも気にならない。

あぁ、間違いない・・・・・・間違いなかった・・・・・・ 

呼吸がゆったりしてくると、やがてわたしの底の存在感が全身にじんわりと広がっていく温泉に入ったみたいに、呼吸のリズムで喜びが染みていく。
もし、母が、呼吸以外、何もできない母が、こんな充実した今を生きているなら。


母はかわいそうじゃない
みじめじゃない
空っぽなんかじゃない


涙が自然と垂れてくる。
わたしもまた母のことを勘違いしていたのかもしれなかった。
p106-108

ここは一番好きな部分。
何度も何度も読み返したくなるような表現。
勿論、それが本当のことかどうかでなく、そういった見方が生まれたこと自体に意味がある。こういった「悟り」は、みお1人ではなく、母親がいたから、母親とのコミュニケーションがあったから辿り着けた場所だ。
児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』の感想を書いた時に引用した部分を思い出す。
「相互性」という言葉は、自分にとっては耳慣れないものだったが、言葉通り、相互に影響を与え合っているということだろう。『植物少女』を読めば、みおは、間違いなく、植物状態の母親と相互に影響し合い「対話」を続けていたことがわかる。

私たちの気持ちや思いや意思が生起したり形を変える場所は、きっと「自分」という閉じられた内部というよりも、たぶん「誰か」と「私」との間なのではないか。人は常に自分自身とも対話を続けているものだから、その「他者」の中には「自分自身」も含まれているだろう。私が自分自身を含めた他者と出会い関係を切り結んでいるところ。自分を含めた他者とのやりとりを鏡にして私が私自身と新たに出会うところ。そこで、感情も思いも意思も形作られては、常にまた形を変えていく―。私たちが関係性とその相互性の中で生きる社会的関係的な存在だというのは、きっとそういうことなのだと思う。

それならば医療もまた、目の前で病み苦しむ人との関係性と相互性を引き受けることによってしか、患者を真に救うことはできないのではないだろうか。

児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』p246


そんな母親との時間も、母の死によって終わりを迎える。
いや、厳密には、死後少し経ってから「終わり」が生じる。
お通夜が終わり、明日の葬儀に向けて父と話をしているタイミングで、「終わり」が突然現れる、この場面は、心霊的な要素も含むが、人の「死」の受け止めについてのリアルを感じた。

「こんな話しかけられたん、久しぶりやろ」
平日のお通夜で訪れた人は少なかったが、それでも母を知る人間がこんなにも訪れたことはなかった。
「みんな、驚いてたなぁ」
棺の母をのぞいたその瞬間だった。
母の背中からすっと影が消えていったように見えた。目を瞬かせると、影はやはりあった。しかし、ずっと感じていた、そして、亡くなった後もあった存在感が母の体からなくなっていた。
足腰の力がふっと抜けて、たまらず棺にもたれかかった。それでも上体がぐらついてどうしようもなく、わたしは上体を預けて棺に覆いかぶさった。
「大丈夫か」
父に腰を支えられて、ようやく体に力が戻ってくる。 
「どうしたんや」
父は訝し気に眉をひそめる。
「うぅん」
わたしは首を横に向けて母の顔を眺めた。そして、確信と共に首を左右に振った。
「お母さん、おらんくなった」
すると、
「うん?」
父は身を乗りだして、真正面から母を凝視する。しばらくしてから、父は身を引いて、後ずさりしていすに座りこんだ。
「あぁ、おらん。どっかいってもうた」
口を半開きにして呟く。
「せっかく、元に戻ったのに」
父は呆然となって、無表情の顔に涙を流しだした。


上に使った言葉に繋げるのならば、ここまでは存在した「相互性」が消えたということなのだろう。
医学的な「死」とは、そのタイミングがずれるというのは、感覚的には分かるし、きっとそうだろうと思えてきた。


小説は、最後に、25歳のみおが、小学生のときに毎日顔を見て、まだ病室にいるお爺やお婆のことを思い返して終える。このフィードバックを見るにつけ、亡くなった母親だけでなく、彼らも、「相互性」の輪の中に入っているといえるのかもしれない。

彼らは今もあそこで座って呼吸を続けている。そのことを思いだすと、わたしは目を閉じて一息一息呼吸する。すると、自分もまた呼吸をして生きていることが実感されるのだった。


人の「生」と「死」は難しい。
難しいが、考える価値があるテーマだと改めて思った。
朝比奈秋の名前を検索すると、『植物少女』で三島由紀夫賞を受賞したときの記事が見つかった。(筆名から女性を想像していたが、男性だった)
www.m3.com

病棟実習で植物状態の方を介助する中で、むしゃむしゃと食事する様子に衝撃を受けたくだりなど、小説で伝わってくる内容は、作者の実感がベースになっていることがよくわかる。
医師で作家の方は他にも何人もいるが、テーマ設定が自分の感性に合うように感じたので、最新作で、第45回野間文芸新人賞を受賞した『あなたの燃える左手で』など、他の作品も読んでみたい。(この受賞の仕方を見ると、次作あたりで芥川賞の候補になる流れだろうか*1

「死にたい」という人を死なせてあげていいのか?~児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』

昨年、興味はあったのに見逃した映画のひとつに『PLAN75』がある。
少子高齢化が一層進んだ近い将来の日本で、満75歳から生死の選択権を与える制度<プラン75>が国会で可決・施行されたら?という内容だ。

happinet-phantom.com


この『安楽死が合法の国で起こっていること』の序文では、この映画(2023)に加えて、相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月)の植松聖の発言、直後の橋田壽賀子安楽死で死なせてください』(2017)、NHKスペシャルでのスイスでの医師幇助自殺の密着取材(2019年6月)、京都ALS嘱託殺人事件(2019年11月)が取り上げられている。

こういった、さまざまな事件や話題の中で、いわゆる安楽死と言われるものをどう考えるかについて問われる機会の多い中、自分なりの考えを持たないままでいた。ひろゆきや成田悠輔などネット著名人から定期的に出てくる「高齢者の死」についての発言についても、直感的に「酷い」と断じるだけで、何に対して酷いと感じているのかを十分に言語化できていなかった。

そんな自分にとってこの本は、まさに「今読むべき本」だっただけでなく、議論の抜けが無いように思えるほど、本当に読み応えのあった新書で、今回、感想のあと、内容の要点メモを残したが、結果的にそちらがメインの文章となった。

雑感

本書の前半(第一部、第二部)では、タイトル通り海外事例を参考に、安楽死を合法化すれば、線引きをどのように決めても、引かれた線は動いていく(対象範囲が拡大していく)という「すべり坂」の問題が語られる。

この中で、患者、家族、医療職という複数の観点からの問題の見え方が説明されるが、全く予想外だったのが、移植医療の立場から見た「死」という観点。この中で安楽死のような「予定された死」は、「有益な臓器ドナー・プール」として強く望まれていることを知り衝撃を受けた。

また、後半(第三部)では、日本で安楽死の議論を進めることのリスクが語られるが、ここで言われる日本型「自己決定」は、退職や退学など死と関係のないところでも見られるもので、欧米方式を日本に輸入する際に常に考えておくべきポイントに気づかされた。

全体を通して、誰かが「死にたい」と言ったときに、それに対してどう向き合うか、ということについても考えさせられる本だった。


なお、後半になるにつれて、重い障害のある娘の親でありケアラーとしての立場での言葉が語られるようになるが、それもあって終盤は、読者としてもより熱を入れて読むことができた。
ただし、この本は医療の側に非常に多くのものを求めている。コロナ禍では、激務を苦に自殺に追い込まれた医師もいたことを考えると、患者をどうサポートするのか、という視点と同様に、医師をどうサポートするのか、という視点が必要になってくるのだと思う。


以降では、本書の要約(個人的メモ)を示すが、その前に、少し長い文章を引用しておきたい。

まず、医療において重要になってくる「意思」表示の「意思」についての文章。
「思い」「考え」「意思」は個人の中で練られたものが確定的に発せられるものではなく、他者(自分を含む)との「関係性」と「相互性」の中で形を変えていく、という指摘は、男女関係はもちろん一般的な人間関係の中でも同じことが言えるだろう。ここで「関係性」と切り分けて「相互性」ということが指摘されているのが興味深い。

私たちの気持ちや思いや意思が生起したり形を変える場所は、きっと「自分」という閉じられた内部というよりも、たぶん「誰か」と「私」との間なのではないか。人は常に自分自身とも対話を続けているものだから、その「他者」の中には「自分自身」も含まれているだろう。私が自分自身を含めた他者と出会い関係を切り結んでいるところ。自分を含めた他者とのやりとりを鏡にして私が私自身と新たに出会うところ。そこで、感情も思いも意思も形作られては、常にまた形を変えていく―。私たちが関係性とその相互性の中で生きる社会的関係的な存在だというのは、きっとそういうことなのだと思う。

それならば医療もまた、目の前で病み苦しむ人との関係性と相互性を引き受けることによってしか、患者を真に救うことはできないのではないだろうか。 p246


もう一つは、以下。
あらゆる社会問題で、苦しい立場の人たちが「言える言葉」が、それを言うように誘導されているとしたら本当にグロテスクだが、当事者としてはその一面があるということだ。その中で「議論を始める」として優先すべきことは何か。一番大切なことを改めて教えてくれる本だった。

でも、だからこそ….....と思う。私たち障害のある子をもつ親たちのように、この社会で 声を上げにくくされてきた様々な立場の人たちがいるからこそ、そういう人たちの声が封じられることに、ひとりひとりが力を尽くして抗わなければいけないのではないか、と思う。今この時に死にたいほど苦しんでいる人たちは声を上げる余裕すらない人たちだからこそ、少しでも声を上げられるところにいる人が自分にできる限りの勇気と力を振り絞って、声を張るしかないのではないか。そうでなければ、声を上げる余裕がないほど苦しいところに身を置く人たちが言える言葉、聞いてもらえる言葉が「もう死にたい」だけにされていってしまう。家族も何も言えずに「殺させられる」しかなくなってしまう。p270

序章 「安楽死」について

  • (本書での)言葉の定義
    • 尊厳死(日本でいう尊厳死):消極的安楽死=治療の不開始と中止。※日本では終末期医療において日常的に行われている。
    • 安楽死:①積極的安楽死=医師が薬物を注射して患者を死なせる。②医師幇助自殺=死を引き起こす最後の決定的な行為(薬物を飲む、点滴のストッパーを外す等)は患者自身が行う。※現在の日本では違法。
  • 海外で制度化された「安楽死」に共通した前提は、(1)意思決定能力のある人本人の自由な意思決定による、(2)所定の手続きを踏み・所定の基準を満たしたとして承認された人だけを対象、(3)所定の手順に沿って医療職から提供される手段による

第一部 安楽死が合法化された国で起こっていること(1~2章)

第一章 安楽死「先進国」の実状

  • 安楽死が合法化されているのは、2007年3か所→2016年末11か所→2023年5月22か所で増加が加速している。(医師幇助自殺のみを合法化している国と、積極的安楽死も合法としている国がある)
  • スイスは自殺幇助が違法とされず、自殺幇助機関が複数存在し、外国人の「自殺ツーリズム」を受け入れる機関もある。
  • オランダ、ベルギーは世界で最も早く積極的安楽死を合法化した国で要件緩和が進む懸念がある。
  • カナダは安楽死の合法化は2016年で後発だが、進み過ぎて問題の多い「先進国」

第二章 気がかりな「すべり坂」

  • すべり坂:一歩足を滑らせたら最後、どこまでも歯止めなく転がり落ちていくイメージ。安楽死をめぐる議論では主に、いったん合法化されれば対象者が歯止めなく広がっていくことを指す。
  • 1 緩和ケアとの混同
    • 生を改善するための緩和ケアと、死を与えて生を終わらせる安楽死は異なる。
    • 安楽死を望む人は「生きるより死ぬ方がよいと言っているわけではなく、この状況下で生きているよりも死んだほうが良いと言っている」のであり、身体的、精神的苦痛の症状に対して(緩和ケアでの対応がまず第一であり)、安楽死が唯一の解決策となるのはおかしい
  • 2 対象者の拡大と指標の変化
    • 対象者が、終末期の人から認知症患者、難病患者、重度障害者、精神/知的/発達障害者、高齢者、病気の子どもへ拡がっている
    • 「オランダの安楽死は、ひどい苦痛を回避するための最後の手段から、ひどい人生を回避するための方法となってしまった」(オランダの生命倫理学者テオ・ボウア)
    • 安楽死の対象者が終末期の人から障害のある人へと拡大していくにつれ、安楽死が容認されるための指標が「救命できるかどうか」から「QOLの低さ」へと変質してきた
    • 安楽死をめぐる議論がそれに影響を受けると「一定の障害があって、QOLが低い生には尊厳がない」「他者のケアに依存して生きることには尊厳がない」という価値観、さらには「そういう状態は生きるに値しない」といった価値観が広がり、「すべり坂」を引き起こす
  • 3 「死ぬ権利」という考え方に潜む「すべり坂」
    • オレゴンでは医師幇助自殺が可能なのに、カリフォルニアではできないのは権利の侵害」「自国で合法化されていないためにスイスまで行かなければならないのは権利の侵害」という物言いにより、「すべり坂」が加速していく
  • 4 日常化に潜む「すべり坂」
    • 安楽死に慣れて機械的な思考に陥った医療職は簡単に自分たちの方から安楽死を持ち出す(医師側から持ち出すのは違法)
    • さらに「安楽死の些末化」が進んだ現場では、医師の勝手な判断でモルヒネの量を増やして患者を死なせる行為までが生じている。
  • 5 崩れていく「自己決定」原則
    • 認知症や精神/発達/知的障害の人の意志確認は困難にもかかわらず安楽死が行われ、裁判になっても、医師が法的責任を問われないケースが複数出ている。
    • 「大人には認められているのに、同じように耐えがたい苦痛があっても子どもだと言うだけで認められないのは人権侵害」という論理により、ベルギーでは2014年に子どもの安楽死を合法化、オランダも追随
    • もともと周囲とのコミュニケーションに齟齬が生じやすい意思決定弱者を「護る」べく、慎重に法制度がつくられてきたはずなのに、なし崩し的に「護るべき対象」から「死なせてあげるべき対象」へと変わっていく
  • 6 社会保障費削減策としての安楽死
    • カナダでは2016年の安楽死合法化による医療費削減は8690万ドル、審議中の要件緩和でさらに1億4900万ドルの削減が見込まれるとされる。
    • 社会からの経済的な要請の圧がかかった終末医療の現場では、安楽死は医療職から効率的にかつ非合法に提案されている。
    • 政治と医療が犯してきた人権侵害としてナチスによる障害者の安楽死がある。それは「強制」で、今の安楽死は「自己決定」によるものだから別物、とは(「自己決定」原則が崩れてきている現状では)言い切れない。
  • 7 安楽死後臓器提供・臓器提供安楽死
    • 移植医療においては、ドナーが死んでいない限り臓器を摘出してはならない(デッド・ドナー・ルール)
    • このルールに従うと臓器の痛みが避けられない。しかし、臓器提供安楽死なら生きた状態で摘出するので臓器が痛まない。
    • 安楽死後臓器提供は、ベルギーでは2005年、オランダでは2012年、カナダでは2016年、スペインでは2021年から行われている。安楽死と臓器提供の意思確認はそれぞれ独立して行われる。

第二部 「無益な治療」論により起こっていること(3~4章)

第三章 「無益な治療」論

  • 1 テキサスの通称「無益な治療」法
    • 患者本人や家族が治療の続行を望んでいたとしても、「医師の判断」で治療を差し控えたり中止したりすることができる、という立場に立つ議論を本書では「無益な治療(futile treatment)」論と呼ぶ
    • 米国テキサス州のテキサス事前指示法(TADA)など米国・カナダで類似の法律が広がりを見せているが、患者家族サイドからの抵抗で訴訟が多発している。
  • 2 「無益な治療」論の「すべり坂」
    • 対象者が拡大し、また、医療現場の「無益な治療」論が患者を治療放棄へと誘導し、患者の「自己決定」がなし崩しにされていくリスクがある
    • 医療経済学によるQOLの数値化:従来、医療行為の費用対効果で用いられた「寿命」そのものではなく、障害のある期間を割り引く形(例えば目の見えない人はそうでない人の60%など)で数値化しようとする試み
    • 近年広まっている「健康寿命」という言葉には、「障害があって介護を必要とする状態は健康とは言えない」という価値観が潜んでいる:QOLの数値化の考え方と同じ
    • 「質的無益」論の人間観:治療は「効果」だけではなく「利益」をあたえなければならない→「利益」を感じることのできない患者には治療は無益だと主張する
    • 「人間である」ことに必要な特性を医師側が決め、医師の価値観次第で「その人が生きるか死ぬかが決定される」
    • 医師による一方的なDNR(Do Not Resuscititate:蘇生不要)指示は、終末期患者以外にも日本でも行われており、その適用範囲が拡大していく可能性がある。
  • 3「無益な治療」論と臓器移植の繋がり
    • 移植医療の世界は、あたかも臓器が必要な患者に行き渡るべきものであるかのように、常に「臓器不足」解消を喫緊の課題として訴え続けてきた
    • 重い障害のために自分の意思を表明できない人たちは今や「有益な臓器ドナー・プール」と目されている。
    • 1960年代以前は「心臓死」後の臓器提供 DCD:Donation after Cardiac Death
    • 1970年代以降は「脳死*1者からの臓器提供 DBD:Donation after Brain Death
    • つまり、DCDよりも新鮮な状態で臓器を採取できるようにしたのがDBD
    • 1990年代に復活したDCDは、脳死に至っていない患者から人工呼吸器を取り外すなどして人為的に心停止に至らしめて、拍動が戻らないことを確認してから臓器を摘出する(人為的DCD)
    • この話が「無益な治療」論と結びつくと、医師が臓器摘出のために死を早めることに繋がる

第四章 コロナ禍で拡散した「無益な患者」論

  • 1 コロナ禍でのトリアージをめぐる議論
    • トリアージで治療優先度が低いとして医療資源の分配の対象外になるのは、結果的には高齢者や重度障害者、つまり「無益な治療」論の対象となった「QOLが低い」人たち
  • 2 コロナ禍が炙り出した医療現場の差別
    • コロナ禍以前から存在する「迷惑な患者」問題:障害のある人たちが医療から疎外されている問題
    • コロナ禍で「合理的配慮」が特に軽視された。コミュニケーションがとりにくい人たちにとっての厳格な面会禁止、付き添い禁止は命に直結。

第三部 苦しみ揺らぐ人と家族に医療が寄り添うということ(5~6章)

第五章 重い障害のある人の親の体験から医療職との「溝」を考える

  • 1 医師-患者関係を考える
    • 医療の世界に特有のものの見方、考え方、価値観や慣例、そこに含まれる偏向が医師-患者の間に「溝」を作る
  • 2 医療職と患者・家族の意識のギャップ
    • 患者と家族にとっては「生活」>「医療」。それが医療職では逆転し、医療が圧倒的に優先される。
    • 専門性とは狭い範囲に詳しいことなのに、その狭さを自覚できていない医療職が多い。医療や福祉が本当に家族のために機能するためには、いくつもの種類の専門性を持った人が必要。
    • 目の前の患者の医療をどうするかという問題は、医師にとっては「今という時点」において「医学的な正解は何か」という問題。患者や家族にとっては、これまでとこれからの生き方を含む「人生」の問題なので「正解」を示されても、そこに素直にしたがえない。
    • 親たちが立ちすくみを乗り越えて意思決定に向き合うことができるために必要なのは「正しい」情報の提供や、「正解」へと誘導する「説得」でもなく、「正しいのはどっちか」という問いを「なぜ?」へと転じること。
    • 家族が自分で気持ちを整理していくプロセスには、専門職から見たら明らかに間違っている発想があったとしても、それをすぐに指摘したり訂正するのでなく、共感的に聞いてくれる人が必要。
    • 「なぜ?」という問い、「共感」のまなざしが、医療職を「判定者」ではなく「伴走者」に変える。
  • 3 日本の医療に潜むリスク
    • 日本で安楽死が合法化されることは、欧米以上にリスクが大きい
    • 欧米では、医師の決定権と患者の自己決定権とは対立を含んだ緊張関係にあるが、日本では医師の権威が大き過ぎて、「患者の権利」そのものへの意識が希薄。
    • インフォームド・コンセント」は元々、患者の権利擁護と自己決定権の保障という理念を背負って生まれた概念だったが、日本の医療現場に持ち込まれると、単なるアリバイ作りの「手続き」と化してしまった。
    • 日本の医療においては「患者の自己決定」という言葉と概念は「患者の意思の尊重」という表現に置き換えられており、「患者が決める」ことは「医療職の我々が患者の意思を尊重してあげる」ことへと主体がすり替わっている。
    • 日本病院会倫理委員会の「尊厳死」への考察も、医師が患者を選別して「死を与える」、つまり「無益な治療」論の文脈で行われている。
    • 日本の医師は患者に権利の放棄を説き、日本の高齢者の多くは、それに忖度して最初から治療放棄を口にする。
    • 『PLAN75』の早川千絵監督「誰がやっているのか顔が見えない中でひとりひとりの尊厳が奪われていく」「『選んで』いるわけではないけど、そっちに流されていく」→日本型「自己決定」の本質
    • 「人生会議」と称されて行政の肝煎りで強力に推進されているACP(アドバンス・ケア・プラニング)も、患者に治療を諦めさせる誘導とアリバイの手続きに化す可能性が大きい
    • 日本で「死ぬ権利」が喧伝された場合、「患者の自己決定」や「意思決定支援」を偽装した日本型「無益な治療」論がステルスで進行していく。いや、公立福生病院事件を見ると、すでに進行している。

第六章 安楽死の議論における家族を考える

  • 1 家族による「自殺幇助」への寛容という「すべり坂」
    • 多くの国で家族ケアラーが介護している相手を死なせる行為に対して司法がどんどん寛容になっていくように思える
    • 家族や友人にも目を向けることは、安楽死の議論で「自己決定する個人」から「関係性を生きる者としての人間」へとまなざしを深めること
  • 2 家族に依存する日本の福祉
    • 日本で安楽死を合法化することのリスクが欧米以上に大きいと考える理由のひとつは「家族規範が強く、家族を優先して個としての自分の生き方を貫きにくい文化特性」
    • ほとんどの高齢者が「家族に迷惑をかけたくない」と考える日本において、終末期を意識すると、本人、家族、専門職までが「家族のために」を織り込んだ上での「本人の医師」により様々な選択がなされる
    • 「地域移行」「共生社会」「ノーマライゼーション」といった美名のもとに、国の方針で施設は増えない一方、地域生活を支える支援制度はむしろ空洞化し始めている。
    • 「地域移行」の受け皿として期待されていたはずのグループホーム(GH)でも、付き添いが家族に義務付けられるなど、家族依存のGH生活となっている。一方、重度者を受け入れるGHはほとんどなく、親たちが年齢相応に不調を抱えたまま自分が介護を担い続けざるを得ない(老障介護)
    • 制度が変わるたびに高齢者と障害者は医療も福祉もじわじわと奪われてきている日本では、「死ぬ/死なせる」へと人を導いて「家族に殺させる社会」は、とっくに現実となっている。
  • 3 苦しみ揺らぐ人に寄り添う
    • 患者の主観的苦しみ:未知の体験に臨む不安、体の内部が無防備に外界と繋がることの恐怖、その状態に長時間耐え続ける辛さ、そのような重大な病に見舞われた情けなさ、それらを傍で共にしてくれる人がいない心細さなどは、状況により身体的痛みを増幅させ、蓄積される
    • 患者の「死にたい」という言葉を額面通りに受け止めて死なせてあげようとする態度は「理解」ではない。その固有の苦しみのリアリティを理解しようとすることが、あるべき緩和ケアに必要。
    • 医療職の苦しみとそこに潜むリスク:改善の見込みを示せないとき、安楽死は患者を排除することによって医療職の苦しみを排除する。医師の権威を取り戻してくれるように見える。
  • 4 苦しみ揺らぐ人の痛みを引き受ける
    • ケアする家族が、そして医療職が、自分の無力という痛みに耐えてかたわらに留まり続けるとは、そこに愛があり、祈りがあるということ

終章 「大きな絵」を見据えつつ「小さな物語」を分かち合う

  • この問題は「あまりに苦しいから死にたいという人は死なせてあげてよいかどうか」「自分は一定の状態になったら死なせてほしいかどうか」といった、個々の人のレベルの議論で終わらせず、「世界では実際に何が起きているのか」「世の中はどこへ向かって行こうとしているか」といった「大きな絵」を掴む必要がある。
  • 大きな議論だけで終わったのでは、現に苦しんでいる個々が置き去りにされてしまう懸念があり、個々の人が生きている「小さな物語」にも耳を傾けなければならない
  • 近年広がる「議論はあってもいい」「日本でも議論を始めるべきだ」と力を籠める人たちが言っている「始めるべき議論」とは「日本でも安楽死を合法化することを前提とした議論」でしかないので、やめた方が良い。
  • 「終末期の人には安楽死を認めるべきか」ではなく、問題を「終末期の人の痛み苦しみに対して何ができるか」へと設定し直すべきだ。患者は痛みに耐えているのではなく、痛みを訴えても聞く耳を持ってくれない医師に耐えているのだ。

*1:知らなかったが、脳死者の中には脳幹が生きている場合があり、脳死概念は科学的には誤りであるのだという:p143