Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

自分の視点から見える世界は限られている~前田健太郎『女性のいない民主主義』(その1)

女性のいない民主主義 (岩波新書)

女性のいない民主主義 (岩波新書)


自分は小池百合子都知事が嫌いなので、小池さんが出馬した2度の都知事選では、いずれも他の候補に投票した。しかし奥さんは違う。
今回、奥さんに「何で小池さんにするの?コロナ対策も不満でしょ」と聞くと、「他に女性候補がいないから」*1と言われて黙ってしまった。


実際、女性活躍を謳っていたはずの安倍政権でも女性閣僚はどんどん減少し、都知事選(7/5)が終わって直後に、「女性管理職30%目標」の断念+先送りのニュースと合わせて「ジェンダー・ギャップ指数で日本は153カ国中121位」という、とても恥ずかしい事実も突き付けられた。
www.bloomberg.co.jp


そんな時期にこの本を読んで、現政権の無策(口先だけ)に怒りを覚えると同時に、自分も他人事ではなく、この問題に向き合うべきだという思いを強くした。
この本には、それだけの強さがある。
以下、「まえがき」と「おわりに」の文章を引用しながら、この本の魅力を2点挙げて説明する。
本編の内容については、自分の勉強のためもあるので、今後、一章ごとに整理していこうと思う。

この本の魅力(1)タイトルが良い

字面を見て「日本の政治」の問題だとすぐにわかり、しかも「そもそも民主主義って何だっけ?」と考えさせる上手いタイトルだと思う。
以下に、「まえがき」 から、タイトルの意味について書かれた部分を引用する。

  • 日本では男性の手に圧倒的に政治権力が集中している
  • なぜ、民主国家であるはずの日本で、男性の支配が行われているのだろうか
  • そもそも、男性の支配が行われているにもかかわらず、この日本という国が民主主義の国だとされているのは、なぜなのだろうか

ここまで考えて著者の前田健太郎さんは、「女性のいない民主主義」を自らの専門である政治学の立場から捉えなおそうと考える。以下、同様に「まえがき」より引用する。

  • 政治学の教科書では、男女不平等の問題は、政治の現状分析と関係がないということで取り上げられてこなかった。
  • 近年は「ジェンダー」を政治的な争点の一種として扱うことも多いが、「環境」「人権」「民族」などといった項目と並んで扱われ、女性にだけ関係のある概念であるかのような誤解を与えかねない。
  • 本来、ジェンダーは、女性と男性の関係を指す概念で、ジェンダーと関係がない問題は存在しない。
  • そこで、本書ではジェンダーを、女性に関わる政治争点の一種としてではなく、いかなる政治現象を説明する上でも用いることのできる視点として位置付ける。

このあたりは、今の日本の政治に欠けていることを、理詰めで説得力を持って明らかにする。だけでなく、(奥さんが小池知事に投票する理由を聞いてハッとした)自分自身にも欠けている視点だということを痛感した。

この本の魅力(2)男性の書くフェミニズム

フェミニズムに関する本を読むと、自分自身の嫌な部分に気づかされてゲンナリすることが多い。しかも、多くの本は女性が作者なので、女性から本を通して糾弾されているような気持ちになる。
一方、この本の作者は男性である。
しかし、作者が男性でも、自虐的なスタンスで書かれた本であれば「ゲンナリ」は変わらないだろう。
本来のフェミニズムは男性を傷つけるためのものではないはずだ。
この本の良いところは、ゲンナリというマイナスの部分よりも多くのプラスの部分が感じられることだ。
「おわりに」の文章が良い。この本で一番気に入り、わくわくする文章だ。

誰にとっても、自分とは違う角度から世界を捉える視点に接することは、新鮮な驚きをもたらすに違いない。ジェンダーの視点を導入すると、これまでは見えなかった男女の不平等が浮き彫りになる。今までは民主的に見えていた日本の政治が、あまり民主的に見えなくなる。(略)
想像もしない角度から自分の世界観を覆されることは、反省を迫られる体験であると同時に、刺激に満ちた体験でもあった。次に、何が出てくるのか。新しい本を読むたびに、未知の発見があった。何よりそれは、自分が今までジェンダーとは関係がないと考えていた数多くのことが、実はジェンダーと密接に関係していることを知るきっかけとなった。(略)
多様なアイデンティティを持つ人々の意見がぶつかりあう問題においては、対立する当事者たちの間で妥協が難しい場合も多い。そのような状況において、自分の視点の正しさを力説し、相手を論駁しても、おそらく得られるものは少ないだろう。むしろ、自分の視点から見える世界が限られていることを認めた上で、他の視点から見た世界のあり方を踏まえ、粘り強く対話を続けるしかないのではないだろうか。本書は、そのような対話に資するような、視点の多様性に開かれた政治学のための、一つの試みである。

大切なのは、「自分の視点から見える世界が限られていることを認める」という部分だろう。ワクワクするような「目から鱗」の体験には、絶対に必要な要素だ。


もっと言えば、「知識」としてフェミニズムという言葉を知っていることは、自分にとって、何の「目から鱗」にも繋がらなかった。フェミニズムの本を読み、「他の視点」を意識することによって、少しずつでも世界が拡がっているように思う。
それは、他のことにも言え、関東大震災での朝鮮人虐殺の話も、『九月、東京の路上で』を読まなければ、「知識」レベルにとどまっていたと思う。
本や映画は、そういった「他の視点」を得るには、一番簡単な方法なので、もっと勉強していきたい。*2
それに加えて、その感動を他者にも拡げることも重要だろう。


最近、せやろがいおじさん(芸人)の、性暴力についてのインタビュー記事があったが、過去の自分の態度を俯瞰して反省し、自らが社会に向けて世界を少しでも良くしていこう動き出す姿勢に感動した。
www.huffingtonpost.jp



政治家にこそ、このような態度を期待したい。というより、「君子豹変」という言葉もあるが、自らの間違いを振り返ってこそ真のリーダーたりうるのではないか。


ちょうど先週、次の日本の首相を決める自民党総裁選の3候補の立候補記者会見があり、政策集も公表されている。安倍さんが掲げていた「女性活躍」が3人の候補にどのように引き継がれているのかを簡単に確認した。

  • 菅さんは 記者会見で東京新聞の望月記者を馬鹿にする回答が印象的。パワハラ体質を隠さない時点で論外だが、政策集にはジェンダー平等に関する記述はない。
  • 岸田さんも同様に政策集に記述はない。しかし、それ以上に、前日Twitterに挙げた夫婦写真が悪く目立ってしまい、そこでマイナス。(個人的には、何故あんな写真?とは思う)記者会見では夫婦別姓は「議論が必要」とのみ述べているが、逃げの回答だろう。
  • 石破さんは政策集にも記載しているが、会見でも「男女フェアな社会」について述べており、選択的夫婦別姓は導入すべきという立場。

この夫婦別姓の問題が典型だが、石破さんは結構意見を変える人のようだ。そこを否定的に捉える人もいるだろうが、自分としては、積極的に「他の視点」を取り入れているようにも感じ、ジェンダーの問題以外の個々の政策の是非は別として、3人の中では、最も人間的に信頼できそうだなと思いながら見ている。
そもそも、女性候補以前に、次の首相が71歳だというのは、国を「代表する人」としてふさわしいようには感じられず、他の先進諸国と比べてもかなり高齢でおかしい(習近平でも67歳。ただしトランプは74歳、バイデンは77歳とアメリカはダントツで高齢)。
何より、石破さんに負けることを怖れて、次期候補を岸田さんより菅さんに据え、選出方法まで変えてしまうという自民党の古い体質のどこに「民主主義」があるのか。


…と文句を言うだけなのは恥ずかしい。
ググって得た「知識」だけに頼って、浅い議論を振り回していると、個人への憎しみが先行してしまう気がする。
求めるのはそこではない。
自分の視点から見える世界が限られていることを認めた上で、新たにジェンダーの視点で世界を見ることができるようになりたい。
そのために、少しずつ意識的に勉強していくことが重要なのだろう。(続く)

*1:厳密には、いわゆる「泡沫候補」の女性候補は存在する

*2:ところが、本や映画を見ても、「他の視点」に無頓着な人もいる、ということを、映画『こんな夜更けにバナナかよ』を見たあとのある人の行動から知りました。(普通に考えれば、作者や同じ病気で苦しまれている方に話を聞きに行くのでは…→安倍晋三 on Twitter: "先日、映画「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」に出演された、大泉洋さんと高畑充希さんのお二人と、御一緒させていただく機会を得ました。… "

難解なルール or die ~クリストファー・ノーラン監督『インセプション』

インセプション (字幕版)

インセプション (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video


『テネット』公開に合わせてということか、クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』が4DXで劇場公開中ということで、親子で観てきた。

一度目に観た記憶

それにしても、一度見ているはずなのに、実質的に、第二階層がホテル、第三階層が冬山ということ以外はほとんど覚えていないという安定の「低」記憶力。
いつ見たんだっけ?とTwitterの過去ログで確認すると、2011年7月に東北新幹線の中で見ていることを確認した。(なぜ新幹線内で見たのに、冒頭のシーンが新幹線内だったことが印象に残っていないのか?は疑問)
今回、ルール設定の巧みさに改めて驚いたが、二度目だったから可能なことで、残っている微かな記憶から考えると、一度目はもしかしたら理解できていなかったのかもしれない。


大まかな感想を辿ってみる。
複数階層で同時並行的に進行する話の中で、映像自体がスタイリッシュな第二階層(アーサー) 、安らかな寝顔がスローモーションで落下していく*1、特徴的な第一階層(ユスフ)に比べて、雪山でのドンパチ中心の第三階層は、単なるアクションで面白みに欠けると思っていた。
しかも、元妻のモルがクライマックスで登場することは流れから考えて当然で、しかもコブが妻との問題を克服するという大まかなストーリーはわかっているので、第三階層のクライマックスに至る部分は結構退屈に感じてしまう。


このあたりは、一度目に見たときも同じ感想を抱いていた。よく考えてみると、このあとに述べる「ルール説明」が最も停滞している時間帯であることが「退屈」の理由のように思う。


ところが、第三階層のラストではこの退屈な流れが一転し、コブがモルを撃つことを躊躇した挙句に作戦失敗となる。これは、やや予想外の展開だ。
そこで、アリアドネが「さらに下」ならもっと長い時間を稼げると提案する。
この部分で「その手があったか!」とストーリーに乗れるかどうかが映画鑑賞のキモだったと思う。
前回見たときは、ルールの理解が追いつかず、コブとアリアドネが第四階層(虚無)に行く場面はボンヤリと見過ごしてしまった。

「ルール説明」で成立する物語

物語はまさにゲームのガイダンスのように進行する。
いや、考えてみると、全編に渡ってギリギリまでルールの説明が続くのだ。

  • 冒頭でサイトーがコブを試すシーンは、他人の夢にグループで侵入して、アイデアを盗むこと(エクストラクト)が可能だという最も基礎的な知識が示される。
  • さらに、夢の中の夢、つまり「階層」の存在についても提示がある。また、夢から覚める「命を落とす」以外 の方法として「キック」についても示される。
  • サイトーからアイデアの植え付け(インセプション)について依頼される中で、インセプション自体が上手く行く可能性が低いこと、下の階層に行くほど不安定になり、虚無(リンボー)に落ちてしまう危険性があり、それを避けるための鎮静剤の存在が示される。
  • その後、学生であるアリアドネを仲間に引き入れトレーニングをする中で「世界の構築」について学び、また、下の階層になればなるほど時間の進み方が遅いこと(上の階層の20倍)、夢か現実かを判断する道具としての「トーテム」について説明される。
  • この中で、コブの元妻であるモルについても徐々に明らかになっていく。


飛行機内で行われるメインのミッションが始まっても、ルールの説明は続く。

  • 第一階層では、サイトーが致命的な怪我をするが、鎮静剤の影響もあり、夢の中で命を落とす、という方法で「起きる」ことは、危険であることが示される。
  • また、下の階層では、上の階層の重力変化の影響を受けることが示される。このため、第一階層で車が落下する間、第二階層は無重力の状態が継続することになる。


このように、ルールが繰り返し繰り返し示されることで、「全階層でキック(もしくは死)により上の階層に上がらなくてはならない」という、この映画以外では理解不能な、ラストの切羽詰まる展開に、手に汗を握ることができる。。
また、第四階層(虚無)で年老いてしまったサイトーをコブが救うことができるということも(薄ぼんやりと)理解できる。


ただ、全体を通してみると、そもそも「誰の夢」に潜り込んでいるんだっけ?という細かい部分で不明点が出てくる。
しかし、検索すると、それぞれの階層が誰の夢なのかということも作品内で明確に示されているようだ。
inception.eigakaisetsu.com
filmaga.filmarks.com


 
こう振り返ってみると、『インセプション』という映画は、2時間半程度(実際には2時間42分)という時間制限の中で、「どれだけ、この複雑なルールを理解させるか」という、それ自体が相当困難なミッションにひたすら取り組み続ける作品のように思えてくる。
「虚無」の設定は、自分にとっては明らかに伊藤潤二『長い夢』を思い起こさせるはずなのに、そこに思いが及ばなかったのは、ルールの理解に相当時間をかけてしまったからだろう。*2
勿論、小さな画面(タブレット)で観た視聴体験というのは、あまり記憶に残らないというだけのことなのかもしれない。
この、ルールを理解しながらストーリーを追いかけるというのは、なかなか大変だが、その報酬(ご褒美)としての強烈な映像体験が用意されている、というのも『インセプション』の大きな魅力だ。(単に難しいルールだけの映画であれば途中でついていけなくなるだろう。)
自分が好きなシーンは、ホテルの無重力の中で、アーサーが他の5人をグルグル巻きにして、エレベーターに運び出すシーン。
また、アリアドネの練習の場面とホテルの場面で2度登場する「階段」のだまし絵も好きなので、キャラクターとセットの画面という意味では、主役のコブよりもアーサーの印象が強い。*3
コブの場面から選べば、始終崩れ落ちる第四階層(虚無)の海岸沿いの風景も印象的だ。


なお、第一階層、第二階層、第三階層ともにアクションシーンには事欠かず、4DXの演出も効果的だった。
特に、背中が叩かれたり、後頭部に風が吹きつけられるような体験は、純粋に面白いと感じた。
ただし、前方から煙が出てくるような演出は映画の中に没入させることを妨げるため、やや気持ちが悪かった。


来月公開の『テネット』は、予告編を見る限り、まさに「難しいルール説明+「かつてない映像体験」という、『インセプション』的な映画になるようで、これもとても楽しみだ。
ただし、予告編は長過ぎたのではないか?見せ場をほとんど見せられてしまっているのではないか?という部分だけが心配。
『テネット』主演は、ちょうど先日見た『ブラッククランズマン』主演のあの人じゃないか!と思ったらジョン・デヴィッド・ワシントンという名前からもうっすら連想はしていたがデンゼル・ワシントンの息子だという。
公開まではあと半月あるが、予告編の内容をしっかり忘れた上で、何とか映画館に観に行きたい。


ところで、思わせぶりなラストシーンは、そのままコマは倒れる(コブが子どもたちに会えたのは現実世界の出来事)と捉えたが、夢か現実かを判断する道具としての「トーテム」は、何かの時のために自分も持っておきたいな…と思っていたら普通に売ってました↓


参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:映像が映るたびに榎本俊二『ゴールデンラッキー』を思い出してしまう

*2:なお、よく引き合いに出される『パプリカ』は、当時は未見で、つい3~4年前に見た。

*3:アーサーの顔を見ていて、どこかで見たことあるなあ、と思っていたら、井浦新でした。『アンナチュラル』で言えば、竜星涼の体型に井浦新の顔を乗せたのがアーサーでは?

支える・支えられる~浅生鴨『伴走者』

伴走者 (講談社文庫)

伴走者 (講談社文庫)

  • 作者:浅生 鴨
  • 発売日: 2020/02/14
  • メディア: 文庫

伴走者とは、視覚障害者と共に走るランナーである。「速いが勝てない」と言われ続けた淡島は、サッカーのスター選手として活躍しながら事故で視力を失った内田の伴走者として、パラリンピック出場を賭け国際大会で金メダルを狙う。アルペンスキーのガイドレーサーを描く「冬・スキー編」も収録。解説・川越宗一。 

以前、小学校高学年向けのノンフィクション『伴走者たち』という本を読んで以来、ずっと気になっていた伴走者の存在。今回は、その伴走者に焦点が当たる小説で、作者は『中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?』 で有名なツイッターアカウント「@NHK_PR」の中の人(初代)ということでずっと読むのを楽しみにしていた小説。

読んでみると、期待通りの読後感で大満足。視覚障害者の方のスマホ操作の場面などは、『見えない目撃者』を見たあとだったのでイメージもしやすかった。

二部構成の上手さ

読むまで、二部構成ということは想定していなかったが、「夏・マラソン編」 「冬・スキー編」という全く独立した2編による構成は非常に巧みだと感じた。
「夏・マラソン編」は、国際大会でのレースの様子をスタートからゴールまで追いかけながら、伴走者・淡島と、ランナー・内田の過去を振り返るかたちで話が進んでいく。
「冬・スキー編」は、企業のCSRの一環でパラスキーの大会に向けて、盲学校に通う才能あふれる女子高生アスリート・晴を育成するサラリーマン伴走者・涼介の成長が描かれる。
解説(川越宗一)でも指摘がある通りだが、二つの話には共通する部分がある。

二人とも、視覚障害のパラスポーツ選手であること以外に、もう一つの共通点がある。
それは、世間で持たれがちな「かわいそうで助けが必要な障害者」というイメージを嘲笑うように、奔放であるということだ。
内田は、俗物だ。勝つためには手段を択ばない。ルールや法律に触れることこそしないが、触れなければなんだってやる。さらには狷介で、口も性根も悪く、ファッションもどうやら趣味が良くない。
晴は、まるで人の言うことを聞かない。天賦の才能がありながら「高校生って忙しいんです。スキーばっかりやってられませんよ!」とうそぶき、練習を嫌う。なのにやっぱりどうやらスキーは好きらしい。年ごろの複雑さに手足と才能をくっつけたような感じだ。


以前、自分が読んだ『伴走者たち』は、プロアスリートの話ではなく、アマチュアランナーの伴走者の話だったこともあり、「夏・マラソン編」の元プロサッカー選手で傍若無人視覚障害者で、「可能なものは金で解決する」と豪語する内田のキャラクターには面食らった。
内田に振り回される伴走者・淡島も一流ランナーであり、一般人ではない。視覚障害者と晴眼者のやりとりもレース上のものがほとんどで、その意味で、「夏・マラソン編」は、やや、読者が共感しやすい人・場所がない話で、まさしくスポーツ観戦に近い。


一方で、「冬・スキー編」は、若干の恋愛要素も含み、すぐにテレビドラマにもなりそうな、親しみやすい話。晴は勝利にこだわるプロアスリートではなく、楽しいことを優先するという点では、共感しやすい、可愛らしい人物。
伴走者の涼介(35歳)は、営業成績がトップクラスのサラリーマンで実力主義。共感しやすいかどうかは別として、周りにいるタイプのキャラクターだ。
「冬・スキー編」で驚く展開は、最後の最後、目指していた大会に晴が参加しないということ。
競技が異なることだけでなく、人間ドラマや展開の点でも、「夏・マラソン編」「冬・スキー編」は対照的で、この構成が生きている。というよりも、むしろ「冬・スキー編」を際立たせるために、むしろ導入部として「夏・マラソン編」があるのではないかとさえ思ってしまった。

「冬・スキー編」について

自分にとっては、マラソンの伴走者は、本だけでなく実際のマラソン大会でも既に見慣れた存在だったので、正直言って、「夏・スキー編」だけだと、消化不良だった。この一編だけであれば『伴走者たち』の方が断然面白かった。
しかし、「冬・スキー編」で取り上げられる、アルペンスキーのガイドレーサーの話は、ほとんど知らなかっただけに、それだけでとても面白く読んだ。
検索すると、冬季五輪の映像がいくつか出てくるが、こちらが分かりやすい。

また、ソチ五輪のほぼ日の記事はNHK_PRさんが登場しているので、まさにこの本の取材過程ともいえる。(こちらの競技者は全盲の方ではない)
www.1101.com



「冬・スキー編」の、ということは、この本の一番の見どころは、晴と涼介の立場が逆転する霧の中でのスキー。
練習終わりかけの夕方、霧が濃くなったゲレンデは、前が見えない状態に。このとき、「一回でいいからやってみたかった」という晴の申し出で、晴が涼介のガイドレーサー(伴走者)をやることになる。
ほとんど晴しか見えない状況の中で、涼介はこう考える。

晴の後ろ姿からは、恐怖などまるで感じられなかった。本当に晴は弱者なのだろうか。
目が見えないというのは視覚に頼らないということだ。その代わりに晴は多くのものに頼っている。風に、音に、匂いに、皮膚に感じる僅かな気配と自分自身の感覚に。涼介は視覚を失えば何もできなくなるが、晴は視覚がなくとも多くのものを利用し、世界を見ている。
俺は目隠しをして滑っただけで何かがわかったような気になっていたが、見えないというのは、感覚を失うことではないのかも知れない。p254

結局、このシーンがラストまで尾を引く。
勝つことにこだわる涼介は、霧の中のスキーのあとでも、晴がスキーを通して何を望んでいるのかを理解できなかった。
大会に出ないという晴を涼介が説得にいった際の二人の会話は、晴から涼介への最後通告でもあった。

晴が涼介へ顔を向けていた。
「私にはできないことがたくさんあります」そう言って静かに微笑む。少し細くなった頬には、それでも笑窪ができていた。
「助けてもらえるのは嬉しいけど、できることは時間がかかっても自分でやりたいんです。だけど、みんながすぐに助けてくれるから、いつまで経ってもできないままなんですよね」
「晴は何がやりたいんだ」
「私は自分にできることがやりたい」
「スキーができるじゃないか。スキーがやりたいんじゃないのか」
晴はテーブルの上でタイプを打つようにパタパタと指を細かく動かした。
「ねえ、立川さん。私ってずっと誰かに支えてもらわなきゃダメなのかな。誰かを支えちゃダメなのかな」p300

涼介が、そういう晴の気持ちと直接向き合うことができたのは大会が終わってからだったが、この晴の気持ちは誰にでもある普遍的なものだ。
つまり、どんな立場であっても、誰かのために何かをして、その相手に喜んでもらえる、ということ(誰かに必要とされているという感覚)は皆が必要としており、その気持ちを共有でき、他人に頼れる人こそ強い。
誰のサポートも受けずに、常にサポートする側にいることは、強いようでいて弱い。
大会後に、涼介はそのことに気がつき、晴と滑りながらこう思う。

伴走者。それは誰かを助けるのではなく、その誰かと共にあろうとする者、互いを信じ、世界を共にしようと願う者だ。遥か上空から見下ろせば、俺たちの残す二本のシュプールは同じ軌跡を描いているはずだ。p316


思えば、『伴走者たち』でも同じことが書かれていたし、映画『見えない目撃者』も、振り返ってみると、そのようなバディものだったように思う。信頼できる、つまり困ったときに頼れる関係を築くことが重要ということだろう。
障害のあるなしに関わらず、助けが必要には「気軽に」手を差し伸べ、困っていることがあれば「気軽に」周囲に頼る。
自ら行動して少しずつ変えていくいくことで、どんどん生きやすい世の中になっていくと良いと思った。
また、最近、自分のタイムが落ちてしまい、その点で努力が必要ではあるが、いつか伴走者(マラソン)もしてみたい。

コロナ禍で読む感染症漫画~朱戸アオ『リウーを待ちながら』

富士山麓の美しい街・S県横走市──。駐屯している自衛隊員が吐血し昏倒。同じ症状の患者が相次いで死亡した。病院には患者が詰めかけ、抗生剤は不足、病因はわからないまま事態は悪化の一途をたどる。それが、内科医・玉木涼穂が彷徨うことになる「煉獄」の入り口だった。生活感溢れる緻密な描写が絶望を増幅する。医療サスペンスの新星が描くアウトブレイク前夜!!


3年くらい前のビブリオバトルで紹介されて、気になりつつも放置していたものを、読むならこのタイミングしかないだろう、と手に取り、一気に読み終えた。
ただし、コロナ禍で、高嶋哲夫『首都感染』と韓国映画『FLU 運命の36時間』を見ており、ウイルス(感染症)パニックのフィクションは慣れてしまっているせいか、期待していたほどの衝撃はなかった。
むしろ、以前読んだ『ネメシスの杖』と比べると、やや尖ったところの少ないストーリーであるとも感じてしまった。

首都感染 (講談社文庫)

首都感染 (講談社文庫)

FLU 運命の36時間(字幕版)

FLU 運命の36時間(字幕版)

  • メディア: Prime Video



考えてみると、理由のひとつは、先行作品が都市部を舞台にしているのに対して、あえて地方を舞台にしていること。これによって、「日本」としての切迫感が小さくなってしまったように思う。
自衛隊の海外派遣隊員が帰国時に持ち込んだという設定から地方(富士山の麓の駐屯地で、作品内の地名は横走市)を舞台にしており、確かに、無意味に都内で感染が広がる設定にするよりもリアリティはある。
しかし、やはり「コロナ禍」という状況では、一地方のみで生じるエピデミックという状態にはあまり怖さを感じず、「こういうことがあったら怖いな」という方向での素直な楽しみ方ができなかった。
(勿論、ここで取り上げられる新型ペストが非常に致死率の高い病気であることは理解しているが)


もうひとつは、キャラクターの描き分け。
ネメシスの杖』のときには全く気にならなかったし、メインキャラクターが少ないのにそう感じたのは、おそらくメインキャラとモブキャラの区別がつきにくかったため。 一読目に、「あれ?この人誰だっけ?」と思うことが何回かあり、再読してみて初めて、序盤から終盤までの人物の一致を理解できた部分がある。(それが分かるとよく出来た構成)

理由を考えてみると以下のようなものが考えられる。

  • ネメシスの杖』のときは単行本で、今回はkindleで読んでいる
  • 防護服やマスク姿で登場するキャラクターが多く、「顔全体」の登場頻度が少ない
  • 直前に、他メディアと比較して「顔」の主張が強い「ドラマ」で類似作品を観ていた(ドラマ『アンナチュラル』第一回)

上述した3つの理由のうち、2つは読者である自分自身の問題なので、作品というよりは受け手の感覚の問題なのかもしれない。
切迫感を感じなかった原因も、結局は、この部分が影響しているのだろう。  


一方で、コロナ禍だからこそわかる漫画のリアリティ、そして、現実との違いもあった。
まず、非常事態宣言発令、濃厚接触者の確認と自宅待機の措置。このあたりは現実の通りだ。
『首都感染』についても同じように感じたが、これは、考えてみると、2009年~2010年の「H1N1新型インフルエンザ」の流行で日本でも一度経験済みで、これを受けて2012年5月に「新型インフルエンザ等対策特別措置法」が公布されていることから、法の手続きおよび、パンデミックのシナリオがある程度できており、そのシナリオをなぞった内容になっているのかもしれない。
その意味では、『アンナチュラル』『首都感染』は、シナリオ通りともいえ、逆に『リウーを待ちながら』の新奇性は、対象が新型ウイルスではなく、ペストであることだ。
しかも、『リウーを待ちながら』のペストの設定が巧いのは、途中からペスト菌が変異しており、いわば第一波と第二波があること。
このあたりは、今のコロナウイルスの状況とも通じるところがある。


ただ、コロナ禍で一番うんざりしていることで、このようなフィクションが描かない重要なポイントは「時間」の問題だ。つまり、現実には、フィクションで描かれるほど短期間では収束しない。結果として、感染拡大防止と経済の立て直しという矛盾した二本を同時に進めなくてはいけない困難に直面する、
『首都感染』は、おおまかに言えば、初期に厳戒な首都封鎖(ロックダウン)を行うことで防ぎ切るという展開で、これは、コロナで言えば中国の対応に通じるが、現実には、ロックダウンが成功したかに見えた中国でも未だに感染者が発生している。
(勿論、致死性の高い極悪ワクチンの方が封じ込めが楽という面はある)
 映画『FLU 運命の36時間』に至っては、36時間で大団円になるのだが、映画の惨状を考えると、このあと数か月~数年は引きずるに違いない。
なお、いずれも、有効なワクチン、治療薬がカギとなるが、そもそもそこに多大な時間がかかるということを、今では皆が理解しているため、今後のフィクションでは、薬の扱いには工夫が必要になるだろう。


現在の新型コロナ騒動も、5月の緊急事態宣言明けという短期間で終わっていたら、「いろいろあったけどいい思い出」になる可能性もあった。(職業や立場によるが)
しかし、あまり想定していなかった夏の流行(いわゆる第二波)が広がったのに対して、政府の対応が臨機応変と言えるものではない。それどころか、夏には収まっていることを前提とした対策(GOTOトラベルキャンペーン)をそのまま実施する、また、誰も望まないのに、何故か二度目のアベノマスクが発注されている等、「一度決めたら止められない」日本の悪いところが(国際的にも)目立つ結果となった。
感染症などのパニックもののフィクションでは、政府が有能というのがセオリーだという。そうでなければ、ウイルス(細菌)の怖さが描けないからだ。(ウイルスが狂暴なのか、政府が無能なのか、理解しづらくなるため)
しかし、現実の政府と地方自治体の対応が一貫していない(その象徴がGOTOキャンペーン)、地方公共団体の対応もポイントをしっかり押さえていない(東京では、東京アラート、感染防止ステッカー、大阪では、雨がっぱ、イソジン)中で、ひたすらに外出を控えることばかりを求められるのは、終わりの期限が見えない中では苛々も募る。
全く同意できないが、「クラスターフェス」(このネーミングのセンスの無さ…)なるものをやろうと発想する人が出てくるのは理解できる。


と、むしろ、現状に対する不満が多くなってしまったが、全3巻とコンパクトにまとまっており、また、ウイルスでなく「ペスト」というのは新鮮ではあった。タイトルも含め、全編で引用されているカミュ『ペスト』は、実際、書店でも多く見かける本で、これも今のタイミングで読むべきだろう。
なお、川端裕人『エピデミック』は2007年発売ということで、10年前の新型インフルエンザ騒動よりもさらに前に書かれている本で、しかも評価が高いので、こちらも読んでみたい。

ペスト(新潮文庫)

ペスト(新潮文庫)

エピデミック (BOOK☆WALKER セレクト)

エピデミック (BOOK☆WALKER セレクト)



その川端裕人さんがラジオ番組で紹介していた本として、瀬名秀明さんの本と、テレビでも見る機会の多い尾見茂の本も気になるところだ。
Twitterやワイドショー、また新聞も含めた日々の報道を追っていると、何が何だか分からなくなるので、基礎の勉強も必要だろうと思うので、こういったフィクションでない本も読んでみたい。

WHOをゆく: 感染症との闘いを超えて

WHOをゆく: 感染症との闘いを超えて

  • 作者:尾身 茂
  • 発売日: 2011/10/21
  • メディア: 単行本

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

「諸説」として扱ってはならない~ 加藤直樹『TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』

TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち

TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち

  • 作者:加藤直樹
  • 発売日: 2019/07/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

昨年の今頃、加藤直樹『九月、東京の路上で』を読み、強く心に残った一冊となったので、少し前(昨年6月)に出たばかりのこの本はずっと気になっていた。
それもあり、続編的なものを想定していたが、『九月、東京の路上で』とは全く異なるタイプの本で、正直、最初は戸惑いもあった。しかし、読み終えてみてみると、戸惑った前半部の意図もよくわかり、歴史問題の勉強の必要性を改めて感じた。


この本は大きく3章で構成されている。

第1章では、ネット上で拡散する朝鮮人虐殺否定論について、それがどのように間違っているかを説明する。
第2章では、虐殺否定論が工藤美代子・加藤康男夫妻が発明した”トリック”であることを示し、彼らの著書に仕掛けられたトリックの数々を明らかにする。
そして第3章では、虐殺否定論が現実社会にすでにどれほど浸透し、危険な役割を果たしているかを見ていく。


第1章は、池上彰のテレビ番組かというくらいに、論点・ポイントを簡潔にまとめ、構成等もわかりやす過ぎるほどにまとめられている。確かに、わかりやすいが、正直『九月、東京の路上で』を読んだときの心に迫ってくるような感じと比べると、とても退屈だった。


第2章では、『トリック』というタイトルの意図するところが以下のように書かれている。

マジシャンが演じる見事なトリックを見て超能力だとは早合点する人はいても、自らを超能力者だと思い込みながらマジックを披露するマジシャンは存在しないだろう。本人はタネを知っているのだから当然だ。つまり、『なかった』はトンデモ本ではなく、自らも信じてはいない「朝鮮人虐殺はなかった」という主張を読者に信じさせるために様々なトリックを駆使した“トリック本”なのである。本章の目的はそのトリックのタネ明かしにある。P80

2勝を読むと、(この本で俎上に挙がっている)虐殺否定論の元祖『関東大震災朝鮮人虐殺」はなかった!』が、「信じちゃってる人」による本ではなく、嘘と分かりつつ「確信犯」的に書かれた本であることがよくわかる。
なお、この章も第1章に輪をかけて丁寧だ。
繰り返し書くが、『九月、東京の路上で』を読んで、朝鮮人虐殺は間違いなく歴史的事実で、「虐殺がなかった」と考えるのは相当に困難であることを理解した人にとっては、退屈を通り越してイライラが募る内容だ。(これが酷い本だということは最初の数ページでわかるのに、ここまで何ページも割いて書く必要があるのか…)


しかし、ここまで読むと、少なくとも1章、2章は、『九月、東京の路上で』を読んだような人は、対象読者と考えられていないことを知る。
作者の加藤直樹さんは、あくまで、「朝鮮人虐殺はなかった」と考える人や、「実際にあったことなのかどうかは、諸説あるから判断できない」と考える人に読んでもらいたくて、この本を書いているのだ。
教科書のように異常にわかりやすい構成、図表もこの目的に沿ったものと言える。

ということで、1章、2章は、自分にとっては、赤チャートなどの参考書を読んでいる気分で、知的好奇心の満たされない内容だった。


つまりは、3勝を読むまで、この本全体の意図と作者の主張がしっかりわかっていなかったといえる。
3章では、最初に『関東大震災朝鮮人虐殺」はなかった!』で主張される虐殺否定論が、百田尚樹『日本国紀』にも登場し、産経新聞で何度も取り上げられ、高須クリニック高須克弥によって引用され、広く拡散されていることが説明される。
また、教育現場への広がりとして、横浜市の中学生向け副読本や、東京都の都立高校向け副読本から「朝鮮人虐殺」の記述が消えているという話も載っている。
さらに、内閣府中央防災会議が2009年に出した報告書で整理されている、関東大震災における朝鮮人殺傷に関する詳しい調査報告が2017年4月にHPから見えなくなった事件や、今年2020年も続く小池都知事の追悼文送付取りやめ事件についても触れられている。
到底信じられない虐殺否定論がここまで幅を利かせているというのは怖れるべき事態ではある。その一方で、少し調べれば「なかった」等あり得ないことはわかるのだから、これ以上広まることはないのでは?と高を括っていた。


しかし、彼ら自身も、虐殺否定論を本気で「正史」にできるとは思っていないのだという。
加藤直樹さんは、リップシュタット『ホロコーストの真実』から引用して次のように語る。

否定者は、論点が真っ二つに割れていて、自分たちがその”一方の立場”にあると認知されたいのである。
つまり、ホロコーストが実際にあったか否かについて2つの対立する学説がある、という構図さえ持っていければ、否定論者の“勝ち”だということだ。そうなれば一般の人々は、歴史の素人である自分にはどちらが正しいか分からないので判断保留にしようとか、真実はたぶんその中間にあるんだろうとか考えるようになる。これが否定論の《機能》である。
これは朝鮮人虐殺否定論にも大いに当てはまる。虐殺があったという説となかったという説の2つがある、という構図が受容されてしまえば、日本の社会風土では、学説が分かれているテーマを教育に持ち込んだり、公的な場で追悼したりするべきではない、という話に帰結する。p135

私たちは虐殺否定論のこうした狙いとどう対決すべきなのか。これについてもリップシュタットはヒントを与えてくれている。彼女は、否定論者と「論争」してはいけないと強調する、それは、「諸説ある」という構図をつくってしまうからだ。では放っておくしかないのか、そうではない。(略)
リップシュタットは否定論者の「物事を混同せしめ歪曲するやり方」「もっともらしい議論の吹きかけ方」「意図や手口」をこそ、「白日のもと」にさらすべきだと主張する。(略)
これを私の言葉で言い換えると(略)否定論のトリックとしてのタネを広く共有し、これを「諸説」であるかのように扱うことを決して認めないことだ。p136

つまり、一見、間違っていないように見える「虐殺否定論なるものを信じる人たちがいるが、自分はそうは思わない」という態度は不誠実で、そもそも虐殺否定論は許してはならない。

ここも引用する。

そもそも私たちはなぜ、朝鮮人虐殺否定論を許してはならないのか。
第一に、「虐殺否定論」は、事実に反しているだけでなく、被害者を加害者に仕立て上げるという道義的な罪を犯しているからだ。朝鮮人であるというだけで多くの人が無差別に殺されたという事件の本質を考えれば、許されるべき言動ではない。ましてや虐殺の引き金を引いた流言を「事実」としてよみがえらせるのは、犯罪的と言ってよい。
第二に、「朝鮮人が災害に乗じて悪事を行った」という当時の民族差別的流言を「事実」として流通させてしまえば、「災害時には外国人の悪事に気をつけろ」という誤った”教訓”を育ててしまうからだ。(略)
こうした発想を放置しておけば、災害時に差別的流言の拡散を許し、ありもしないテロへの「自衛反撃」を扇動するメッセージとなる。(略)
虐殺否定論は、誰かの生命を実際に奪う可能性があるのだ。p139

つまり、人の生き死にに関わる問題だからこそ、虐殺否定論は勿論、それを産む差別デマは決して許してはならない。このあたりの意識の重要性はわかっていたつもりだったが、もっと強い気持ちで当たらなくてはならないのだろう。
改めて考えると、この本の1~2章の、異常にわかりやすい*1内容は、とにもかくにも「諸説」化することを妨げるため、ひいては、奪われるかもしれない誰かの命を守るためなのだ。
こういった歴史修正主義の問題は、歴史認識の差などではなく、捏造だと知りつつ広めようとする「悪意」が根本にあるのだから、そうした「トリック」を積極的に知り、多くの人に広めていかなくてはならないと感じた。


なお虐殺犠牲者の人数については、一般的には「約6000人」とされ、これが最も有力な調査結果だという。しかし、近年の研究では、「数千人に達したことは疑いないが、厳密に確定することは不可能」ということから「数千人に上るとみられる」などの記述が増えているようだ。
慰安婦問題もそうだが、「数」については論争になりやすく、すぐに「捏造だ!」との声が上がりやすいファクターなので、特に気にしていくようにしたい。
また、今後も、歴史修正主義やデマに関する本は積極的に読んで「トリック」を見抜く目を鍛えていきたい。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

*1:あまりに丁寧すぎると、かえって嫌味で誠意が感じられなくなるという意味の「慇懃無礼」という言葉があるが、1章2章は、いわば「慇懃無礼」だと思う。

似てますよね~『見えない目撃者』VS『アンナチュラル』

見えない目撃者

見えない目撃者

見えない目撃者

  • 発売日: 2020/01/18
  • メディア: Prime Video

警察官として将来を有望視されながら、自らの過失による事故で視力も大切な弟も失い、失意の底にあった浜中なつめ(吉岡里帆)は、ある夜、車の接触事故に遭遇。なつめは慌てて立ち去る車の中から助けを求める少女の声を耳にするが、彼女の訴えは警察には聞き入れてもらえない。視覚以外の人並外れた感覚、警察学校で培った判断力、持ち前の洞察力から誘拐事件だと確信するなつめは、現場にいたもう一人の目撃者高校生の国崎春馬(高杉真宙)を探し出す。

事件に気づきながら犯人を見ていない目の見えないなつめと、犯人を見ていながら少女に気づかなかった高校生の春馬。
“見えない目撃者”たるふたりの懸命の捜査によって、女子高生連続猟奇誘拐殺人事件が露わになる。
その真相に近づくなつめたちに、犯人は容赦なく襲いかかる。絶命の危機を前に、彼女らは、誘拐された女性を助けることができるのか。

『見えない目撃者』は、ノベライズ版を読んだあとで、映画そのものへの高評価を聞き、とても気になっていた作品。
実際に観てみると、予想を上回る面白さ。
毎度のことだが、出だしと、追いかけっこの部分以外は(ということは全体のストーリーについて)ほとんど記憶に残っていなかったこともあるが、何人かの主要キャラクターが命を落としてしまうこともあり、最後まで気が抜けない映画となった。


そして何より吉岡里帆の演技が光る。
自分は、ドラマをほとんど見ないので、吉岡里帆を見るのはもっぱらCM。
演技が巧いと感じたのは、CMと印象が違うのは当然として、緊張感、神経質、不安というセリフ以外の部分で表現される要素がしっかり伝わってきたから。
そこには、目の見えない登場人物を演じるという特殊な状況が作用しているのかもしれないが、この映画は圧倒的に吉岡里帆の映画となっていた。


俳優でもう一人挙げるなら、連続殺人犯を演じる浅香航大
今回、死体や遺体損壊映像が比較的多く、それだけで嫌な気持ちになったが、その嫌な気持ちを引き受けるにふさわしいサイコパスぶりを発揮している。
追いかけっこのシーンも、吉岡里帆を追いかける浅香航大の足取りはゆっくりで、実際の犯人の行動と考えると疑問符がつくが、浅香航大の「怖さ」ですべてを乗り切った。


そして、脚本的には、なつめ(吉岡里帆)の推理のロジックがわかりやすいということが大きい。推理の部分が饒舌だったり、難解だったりすると、全体的なスピード感が損なわれるだけでなく、頭脳明晰ななつめであれば、 目が見えないというハンデがあっても、「やってくれる」と視聴者に思わせる。(このあたりは元の韓国映画や中国版リメイクとの違いを確認したい)
後半になればなるほど、チャレンジに対するリスクの難易度が上がって、どんどん「これな嘘だろ」「これは無い」と思ってしまう部分もあるのだが、なつめの頭脳と行動力(それを支える吉岡里帆の演技)があるので、心の中のツッコミは、そこまでノイズにならなかった。 


なお、高杉真宙は(自分のこれまで観た作品からすると)とてもはまり役なんだけど、いつも通り。
散歩する侵略者』も『前田建設ファンタジー営業部』もこんな感じだったので、もう少し違うキャラクターが見たい。


また、通して見る中で、視覚障害者の方が、(人それぞれであろうが)スマートフォンをどのように使用しているのかも何となくわかり、その点では「教育的」な部分もあった。

アンナチュラ

アンナチュラル DVD-BOX

アンナチュラル DVD-BOX

  • 発売日: 2018/07/11
  • メディア: DVD

『アンナチュラル』は諸先輩方からのオススメもあり、Amazonプライムビデオ見放題に入ったタイミングで久しぶりに見た連続ドラマ。なお、見る前は、何のドラマか全く知らなかった。
なぜ、この2作を並べて書いているのかといえば、全体を通してみると、『アンナチュラル』は、直前に観た『見えない目撃者』との共通点が多いから。
もちろん時系列は反対で、『アンナチュラル』は2018年1月期のドラマで、『見えない目撃者』は(韓国版オリジナルがあるとはいえ)2019年9月公開の映画であることを考えると、『見えない目撃者』の方が意識している可能性があるのではないかと思ったり思わなかったり…。

  • 主人公は女性で、見習いが相棒役
  • 相棒は、当初、主人公の(元)職業に不信感を持っている
  • 写真も含めて死体が画面に映ることが多い
  • 扱うのが連続殺人で、動機が怨恨等ではなく儀式殺人
  • 犯人がサイコパスで幼少期に問題あり
  • 推理がロジカルであることに重きが置かれる
  • しかし、最初は、警察側は主人公の推理を信じようとしない
  • ラストで相棒役の見習いが、主人公の職業を目指すことを決心
  • 大倉孝二がほぼ同じ役回りで登場

ただし『アンナチュラル』のミコト(石原さとみ)は、『見えない~』のなつめほどは強い人間として描かれず、また他のキャラクターも強い面と弱い面の両方が丁寧に描かれる。そこが連続ドラマの良さなのだろう。
そして何より『アンナチュラル』は、『見えない~』とは異なり、ミコトと六郎(窪田正孝)のストーリーというよりは、中堂(井浦新)のストーリーだったということが大きい。そこには主題歌の米津玄師『Lemon』の影響もあるだろうが、映画だったら、こんな感じのストーリーにするのは相当難しいはずだ。


もう一つ、今回『アンナチュラル』に見た連続ドラマの良さは、テーマ性。
繰り返し描かれる法医解剖医の役割について、公式HPより引用する。

主人公・ミコトの職業は、死因究明のスペシャリストである解剖医。

彼女が許せないことは、「不自然な死(アンナチュラル・デス)」を放置すること。不自然な死の裏側には、必ず突き止めるべき真実がある。偽装殺人・医療ミス・未知の症例…。しかし日本においては、不自然死のほとんどは解剖されることなく荼毘に付されている。その現実に、彼女は個性豊かなメンバーと共に立ち向かうことになる。

これは元医師のベストセラー作家・海堂尊が主張していたことだろうと思ったら、監修に携わっているわけでもなく、立場や主張も異なるようだ。『死因不明社会2018』に海堂尊×野木亜紀子対談が載っているようなので、こちらはチェックしたい。



さて、『アンナチュラル』が面白いのは、各話ごとに、異なるテーマが仕込まれていること。
2年先の現在が見えていたとしか思えないMERSコロナウイルス感染症をめぐる差別問題(1話)が典型だが、法廷の場における女性差別(3話)、労働問題(4話)、いじめ問題とサバイバーズギルト(生き残った者が感じる罪悪感)の問題(7話)など、広範囲にわたる。
また、神倉所長(松重豊)の東日本大震災の身元不明遺体調査の話(8話)などもとても切実で、それぞれ視聴者側も問題意識を共有しないといけないような重要なテーマで、とても「教育的」な番組と感じた。


ということで、後半は『見えない目撃者』と比較したときの『アンナチュラル』の良さ、ひいては映画と比べたときの連続ドラマの良さについてズラズラとかいてきたが、どちらもとても面白かった。

個人的には、連続ドラマでもAmazonプライムビデオみたいなCMなしで45分であれば、ギリギリ見られると知れたのは良かった。(海外ドラマに多い1話60分は、自分にとっては厳しい)
今後は連ドラも、色々な作品を観ていければと思います。まずは、野木亜紀子関連作品でしょうか。(放送中のMIUは見てません…)

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

「かわいそう」には「感謝」が足りない~内澤旬子『飼い喰い 三匹の豚とわたし』

飼い喰い――三匹の豚とわたし

飼い喰い――三匹の豚とわたし


内澤旬子さんを知ったのは、『ストーカーとの七〇〇日戦争』が最初。この内容について、荻上チキSession22に出演しているのも聴いて、ストーカーの実体験を本にしてしまうバイタリティにとても興味を持ち、その後、今年に発売された『着せる女』も書評を読み気になっていた。
が、過去の著作を見て一番最初に読みたくなったのがこの本。「豚三頭を飼って食べる」そんなことに挑戦するのが、女性というのは驚いたし、「かわいそう」で食べられないのでは?と直感的に思った。


しかし、結論を言うと「そういう本」ではなかった。

自分で豚を飼って、つぶして、食べてみたい――。世界各地の屠畜現場を取材してきた著者が抱いた、どうしても「肉になる前」が知りたいという欲望。廃屋を借りて豚小屋建設、受精から立ち会った三匹を育て、食べる会を開くまで、「軒先豚飼い」を通じて現代の大規模養豚、畜産の本質に迫る、前人未踏の体験ルポ。


あらすじにもあるように、『世界屠畜紀行』を書くために、これまで何百、何千という屠畜される豚を見てきている著者の視点は、死にかけのセミすら怖いと思う自分なんかとはレベルが全く違っている。
とにかく実利的というか、現実的で、実際に食べてからの気持ちを振り返った記述もサバサバしている。

豚に名前を付けて飼って、思い切り感情移入してみれば、かわいそうと言いたてる気持も理解できるかと思った。屠畜の瞬間には、かわいそうとは思ったものの、やっぱりそれよりも関わってくださったみなさんへの感謝が大きく勝った。よくぞちゃんと殺してくださった、切り分けてくださったと、今でも思う。p278


それでも、例えば何度も登場する旭畜産の加瀬さんは、何度も警告しており、畜産に関わる方でさえ、「かわいそうという気持」があるということが分かる。

「豚はちゃんと飼うと、犬よりかわいいよ。飼ってる時はいいけど、屠畜場に送るんだから相当残るよ。後々まで引きずるかもよ」p9
「なんで豚に名前をつけたんだよ……」(略)
加瀬さんは酔っ払って、私のことを「鬼だ鬼だ」と言い始め、「ホントは公社(屠畜をお願いする予定の千葉県食肉公社)に持って行くんじゃなくて、自分でやりたいんだろう」とからんできた。p137

結局、3月に生まれた3頭を5月から飼い始めることになる。3頭にしたのは、死んでしまうリスクを想定して保険のため、という理由と、別々の農家から違う種類の豚を譲ってもらい、違いを確認したい、という理由。そして味への興味を隠さないところも流石だ。

  • 中ヨーク:イギリスのヨークシャー州原産で1885年に成立した品種。昭和30年代には全国の飼養頭数の8割を超えていたが、今では「天然記念物的存在」。  ⇒伸二(去勢)
  • 三元豚:三種類の品種を掛け合わせた雑種。二種を掛け合わせた第一世代に別の品種を掛け合わせる。雑種は、それぞれの品種のいいところが組み合わさり、病気に強い上部な豚になる。日本で一般的なのはLWD。⇒夢明(去勢)
  • デュロック:肉質に優れる。LWDのD。黒豚ではないが黒っぽい。⇒秀明(雌)

「三匹の豚とわたし」の生活が描かれる前に、交配、出産、去勢についても書かれる一方で、準備として大変なのは、飼う場所。
養豚が盛んな千葉県旭に住むのだが、借りることになったのは廃墟に近い一軒家。ここに養豚の施設を作って、かつ、自分も生活できる準備をする。また、足がないので、ペーパードライバーを返上して、教習所にも通い、軽トラックをリースする。
このあたりの糞尿処理についての記述などは、細かい。個人的には、これまで水質汚染の原因として用語として触れていた「野積みや素掘り」というかつての糞尿処理の方法についても知ることができて良かった。(平成11年の「家畜排せつ物法」以降は、豚の糞尿は、床をコンクリートなどの不浸透材料で作った施設で管理しなければなくなった)
内澤さんはイラストで参加とのことだが、以下の本も読んでみたい。


そして、5月に実際に豚が来てから、豚との生活が始まるのだが、実際には屠畜まではあっという間だ。
豚は生まれて「半年後」には出荷されてしまう。屠畜の日は9月下旬。
そんな短い間でも、毎日暮らしていると、名前を付けた3匹の豚の特徴、性格もよくわかる。
秀明はマイペース。夢明は負けん気が強く、その分、伸二は隅に追いやられるいじめられっ子。
それでも、この本のバランスは、内澤さんの興味と伝えたい強度によるのか、畜産の状況(飼料、豚をいかに太らせるか、口蹄疫などの疾病など)に多くのページが割かれる。
実際に、豚を飼う話と並行に書かれるこれらの話は、非常にわかりやすく、今後、食肉や畜産業について興味を持った時に改めて読み直したい。


この本の「記述のわかりやすさ」以外のもう一つの魅力は、内澤さんによるイラストなのだが、このイラストを眺めるだけでも、内澤さんの「サバサバさ」がよくわかる。

  • 処分直前の三頭の様子(p233)
  • 飼った豚の「枝肉」の状況(p241)
  • 三頭の「カシラ」の湯むき(p251)
  • 伸二の頭をむくところ(p275)

知らない(名もなき)豚ではなく、一緒に数か月を過ごした豚についてのこういう場面が描けるのが、この人の凄いところなんだろうと思う。
また、本を読んで伝わってくるが、豚との生活のためのアレコレ(特に大工仕事)にかけた本人のエネルギーと周りの人たちの数多くの支援を無駄にしたくないという思いが強いことがよくわかる。
最後に、育てた3頭を売ったとしても、それぞれ2万円にもならない、という産業の問題点の指摘や震災時の養豚についても触れられていたが、屠畜を「かわいそう」と思う気持ちは、養豚・食肉過程で携わっている沢山の人への「感謝」が足りない、ということなのだろう。

この本を読んだことで、肉を食べるときに、これまでよりも感謝の気持ちが増えるかどうか自信がないが、関心が増したことは確実に言える。屠畜に関する本はもう少し読んでみたい。

牛を屠る (双葉文庫)

牛を屠る (双葉文庫)



ということで、勉強になる本ではあったが、それ以上に、内澤旬子さん自身への興味が強くなった一冊だった。『ストーカーとの七〇〇日戦争』 と、その前日譚(なのか?)である『漂うままに島に着き』、そして有名な『身体のいいなり』(乳がんの闘病記)あたりも読んでみたい。

ストーカーとの七〇〇日戦争

ストーカーとの七〇〇日戦争

漂うままに島に着き (朝日文庫)

漂うままに島に着き (朝日文庫)

  • 作者:内澤旬子
  • 発売日: 2019/07/05
  • メディア: 文庫
身体のいいなり (朝日文庫)

身体のいいなり (朝日文庫)

  • 作者:内澤旬子
  • 発売日: 2013/08/07
  • メディア: 文庫