Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「元気をもらう」は実在する~城定秀夫監督『アルプススタンドのはしの方』

映画館に映画を見に行ったのは、4/1に『パラサイト』(2度目)を見て以来でしたが、市松模様の座席に戸惑いながらも、そして、現実には行われていない夏の高校野球選手権大会を羨ましく思いながらも、やっぱり映画は楽しい!と思える素晴らしい映画体験でした!(なお、パルクールバージョンの映画泥棒は初体験)


(以下、冒頭よりネタバレありです。)

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映画『アルプススタンドのはしの方』予告編


ラストは「ファンサービス」

最初に書くと、社会人になってからの彼らが描かれるラストは、嬉しいサプライズもあり、嫌いではない。しかし、あくまで「ファンサービス」でファンタジー(理想的世界)だと受け取った。矢野君の夢が叶い、安田(あすは)も藤野君もやりたいことを続けている将来像は、やや本編のメッセージからズレるように思う。

つまり、この映画は、「努力すれば報われる」という話ではない。高校演劇として作られた作品なのだから、演者の高校生たちは、皆「この努力が報われる」なんて思ってはいない。何が正解かわからない不安を抱えながら走っている。
その意味では、ラストが「蛇足」だという指摘も頷ける。

「しょうがない」

代わりに、この映画のテーマを象徴するように何度も語られるのは「しょうがない」という言葉。
もう少し限定的に書くと、クローズアップされるのは、誰かが夢を諦めるときに、当人以外が「しょうがない」と言っていいのか、という問題。


そもそも、何事も「しょうがない」と簡単に諦めてはいけない、というメッセージはこの物語の中では薄いと考える。むしろ、その人自身は諦めても良い。
映画の登場人物は、諦める人も沢山登場する。諦める原因は様々で、トラブル、才能、本人の思い込み、(好きな)相手の意思。
藤野君は野球を諦めた
宮下さんは恋愛を諦めようとしている
安田(あすは)は演劇を諦めかけた


中盤で、藤野君が野球部の矢野君が「才能がない、出番がないのに野球を続けている」ことを貶して、「出番のない野球部を諦めた」自分を正当化しているが、当人以外が口にする「しょうがない」が醜悪なことが際立つ部分になっている。(藤野君もそれに気づいている)

一方で、他の人の「好き」という気持ちは、成就するしないに関わらず、「しょうがない」などと言わずに肯定しよう!などという、「教訓」を伝えたい映画でもなかったと思う。


ラスト近くに「ここに来て良かった」と言い合う4人の目には、そこに「気づき」があったから、ということよりもむしろ、皆で経験を、気持ちを、その場を共有したことそのものへの喜びが溢れていたと思う。

その現象は実在する

変な言い方をすると、本作は「元気をもらう、 という現象は実在する」ということについての映画だったように思う。
つまり、頑張っている人を応援し、応援した相手が頑張っている姿を見せてくれることで、人は元気になる、ということ。
そして、それは「等価交換」ではなく、泉のように湧いて出る。


それが多分に受け取り手の問題であるから、送り手(スポーツ選手など)が気軽に「元気(勇気)を与えたい」などと言ってほしくないし、他の人が「元気をもらった」と公言するのを聞くと、「はしたない」という気持ちになる人が多いのもわかる。例えば、先日、評論家の江川紹子さんが次のように呟いていたが、そういう気持ちからだろう。

しかし、その現象は実在する。
事実、この映画を観ている自分自身が「元気」をもらっている。

シンパシーとエンパシー

見方を変えると、「しょうがない」というのはシンパシーだが、応援するという行為は、エンパシーを刺激する。

エンパシーと混同されがちな言葉にシンパシーがある。(略)
つまり、シンパシーのほうは「感情や行為や理解」なのだが、エンパシーのほうは「能力」なのである。前者はふつうに同情したり、共感したりすることのようだが、後者はどうもそうではなさそうである。

ケンブリッジ英英辞典のサイトに行くと、エンパシーの意味は「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」と書かれている。

つまり、シンパシーの方はかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。

ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』p75)

人は「想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う」ことが出来るから応援することができる。そして、それは、かつて努力していた(もしくは努力を続けている)自分を重ねることで成立するから、努力したり悩んだりしたことのない人には得難い「能力」であるともいえる。

映画に登場する4人は、そしてスタンドに集まった観客は、最初はバラバラだが、9回裏には、ピッチャー園田を応援する(園田君の立場を想像することによって経験を分かち合う)ということで一つになっている。
いや「一つになる」というのは語弊がある。
数ある感動シーンの中でも自分にとってのピークは、「トランペットに負けんな!」と藤野君が(片思いの相手である)宮下さんの気持ちを後押しするところと、その宮下さんが(恋敵である)久住さんに声援を送るところで、どちらも、それぞれが、他人の立場に立って気持ちを推し量ることで成立している台詞で、一つになっているわけではない。
彼らは「応援する」ことによって、大きな「元気」をもらっている。そこが、この映画の核だと思う。
そして、『アルプススタンドのはしの方』が良いのは、「元気」をもらう側が、それぞれの方法で、もらった元気を昇華させていることが分かること。少なくとも、安田と田宮は演劇に挑戦する方向に、もらった元気を使った。


脇道にそれるが、テレビの画面越しでも「元気」はもらえるが、エンパシーの深度は浅く、冷房の効いた部屋でビール飲みながら、パッケージ商品としての「元気券」を受け取っているに過ぎないのかもしれない。また、高校生なら、部活に恋愛に勉強に(進研ゼミ(笑)のように)「元気」を使えるが、大人だったら、パチンコに行く気力に使っていたかもしれない。

つまり「元気をもらう」発言が、はしたない感じがするのは、テレビ局がパッケージ化した「元気券」を受け取ったに過ぎないのに、それを有難がっているように聞こえてしまうことに加えて、「元気を何に使ったか」が明確になっていないからのように思う。
「甲子園の熱戦からもらった元気があったから夏休みの猛勉強に耐えられた」というのであれば、何も「はしたない」感じはしない。(『アルプススタンドのはしの方』で「うざい」厚木先生が、茶道部活躍に貢献したというのも、それはそれで「元気」の使い道として清々しい)


さて、映画の話題に戻すと、ここで語られる「しょうがない」というのは、エンパシーに欠けた発言で、何かに向けて努力(何かをなげうって努力)している人の立場に立って考えていないだけでなく、無限に湧き出る「元気」を無駄にしてしまう勿体ない言葉だと言える。
勿論、夢を諦めた当人が「しょうがない」という気持ちになっているのなら、その立場に寄り添って言うこともあるかもしれないが、先回りして発言するのはNGの言葉だ。
特に、自分の子どもたちを含め、若い人と話をするときには、気軽に使うことを躊躇われる言葉と心得たい。


一方で、誰かの努力や成功、失敗を見て、「シンパシー」の立場からしか受け取れないことは、端的に言って「損」だ。
「エンパシー」の能力を発揮して、そこから「元気」を搾り取って、自分のために使いたい。「情けは人のためならず」というけれど「エンパシーも人のためならず」なのだと思う。
そして、人の気持ちに寄り添うのは、結局は、叶わない夢であっても、そして途中で諦めることになったとしても、自らが努力した経験こそが生きてくる。その意味で、無駄な努力なんてない。だから叶わなかった他人の努力に同情する必要もないのだ。
自らの問題を諦めずに取り組みつつ、日々のニュースや読書の中で、できるだけ色々な人の立場になって、物事を考えるようにしていきたい。

まとめ

と、色々と書きましたが、小ネタ(黒豆茶、おーいお茶、タッチアップ、進研ゼミ、人生は送りバント、矢野のスイング、血吐いてた、腹から声…)や伏線も多く、密度の高い内容で、とても楽しめた映画でした。俳優も皆良くて、元の高校演劇のバージョンや、浅草九劇のバージョンも観てみたいです。また、関東大会と全国大会の関係の話や、「贋作マクベスは高3で書いた」話など、高校演劇そのものについても、改めて興味を持ちました。

コロナ禍の「しょうがない」

とはいえ、今年の夏は、本当に特別で、帰省や旅行(春+夏)、プールや美術館巡りを、すべて「しょうがない」で諦めてきているわけです。
何が正解かは未だに全くわからないまま、延期になった五輪や夏祭りのことを思えば、自分一人(もしくは家族4人)のことなんて、大したことはない、と言い聞かせているところです。
状況も対応も人それぞれだからこそ、やっぱり、自分のこと以外には「しょうがない」を簡単に使えないな、という気持ちです。自分の「しょうがない」とどう折り合いをつけるかは目下の課題です。

1粒で2度、どころか無限に楽しめる~RYUTist『ファルセット』

ファルセット

ファルセット

  • アーティスト:RYUTist
  • 発売日: 2020/07/14
  • メディア: CD

ここ最近、気が付けばずっと聴いているRYUTist『ファルセット』についてアレコレ書いてみた。

RYUTist『ファルセット』を買うまで

アイドルをしっかり聴いたのはモーニング娘。の「黄金の9人*1の時代で、ピークの頃は、さいたまスーパーアリーナに行ったりするほどの熱の入れようだったが、その後、アイドルというジャンルの曲は全く聴かなくなってしまった。
最近、唯一聴いたのはNegiccoで、2018年の矢野フェスの予習でベスト盤を買ったのが久しぶりのアイドルCD。
その後、アトロク*2でよく名前の挙がるグループをちょこちょこ聴くようになる。
最初に「おー!」と思ったのはsora tob sakana「広告の街」で、ポストロックというのだろうか、リズムも変則で歌詞も実験的にもかかわらず、アイドルソングとしても成立しているのに衝撃を受け何度も聴いた。 

sora tob sakana/広告の街(2019.7.6 sora tob sakana LIVE TOUR 2019 「天球の地図」@代官山UNIT)


今年になって聴いたものだと、フィロソフィーのダンスも良かったのだが、何といってもRYUTist「青空シグナル」にの疾走感に撃たれた。作詞・清浦夏実と作曲・沖井礼二はTWEEDEESコンビなのだが、沖井礼二は元Cymbals

RYUTist - 青空シグナル【Official Video】


90年代後半の自分は、渋谷系という音楽ジャンルが好き過ぎたが故に、ROUND TABLEや、Cymbalsなどの(楽曲的に)「ど真ん中」枠は、1曲だけ聴いて「このタイプは自分の好みにピッタリ合っていることを既に知っている。だから聴かない」という理屈で、むしろ避けていた。(若かった…)
ところが、RYUTist は「青空シグナル」のみならず、「黄昏のダイアリー」も  作編曲が沖井礼二・北川勝利(ROUND TABLE) (作詞は清浦夏実 )という、「ど真ん中」の布陣による鉄壁の楽曲で、ナイフみたいに尖っていない40代のおじさんは軍門に下るしかないのだった。


さて、アルバムに興味を持ったのは、3年ぶりの新作が新型コロナウイルスが原因で発売延期になったという話を聞いて「気の毒だなあ」と思ったのがきっかけ。
たまたま7月中頃に、久しぶりにタワレコに行ったときに、延期になっていたはずのアルバムが発売されていたことに運命の出会いを感じ、一曲目の「GIRLS」を試聴して、「コーネリアス実験音楽」っぽい感じに、すぐに買うことを決めた。

RYUTist『ファルセット』を買ってから

アルバムの凸凹があると、好きな曲ばかり聴くようになってしまう。
例えば、自分にとっては「青空シグナル」は鉄板過ぎるので、こればっかり聴いてしまう可能性もあった。
しかし、構成の妙なのか、万遍なく聴けるアルバムとなった。(収録時間は54分と短いわけではない。繰り返し聴けるアルバムの長さはよく言われるように40分程度と思う)
特に、全12曲中の2曲目(実質1曲目)の(ラップでなく)「語り」の掛け合いが気持ちを盛り上げる「ALIVE」(蓮沼執太フィル)、11曲目の、ピコピコ極まる「春にゆびきり」(パソコン音楽クラブ)という配置が周到だったのかもしれない。

RYUTist - 春にゆびきり【Official Video】


さらに、聴きこむほどに味が出る、というより、聴くたびに、好きな曲が動くのは、これもバランスが良いということなのだろうか。
特に、日本のシティポップを志向するインドネシアのバンドIkkubaruの「無重力ファンタジア」のサックスソロのカッコよさと、いかにもシティポップ然とした佇まい。(作詞は清浦夏美。コーラスでIkkubaruも参加) 
シンリズムがプロデュースした「センシティブサイン」の少し泣けるバランスの良い盛り上がり。(「青空シグナル」は盛り上がり過多)
弓木英梨乃作詞・作曲の「きっと、はじまりの季節」は「新しい船を建て」など、「はじまり」に「船」が出てくるKIRINJI「進水式」を思い起こさせるポップな曲。
そして、何といっても「ナイスポーズ」(柴田聡子)の変な歌詞、変な譜割り、変な構成 (サビがラストにやっと登場)。最初に聴いたときは、出だしがサタデーインザパークっぽく感じて、「いつもの奴」かな?と思ったものの、聴くたびに「変」さが際立っていく。しかも、ボーカルの受け渡しも含めてアイドル楽曲として最高級なのでは。

RYUTist - センシティブサイン【Official Video】



しかし、シンガーソングライターの曲を聴くことが多い自分にとって、ここまで雑多な人が曲作りに参加していながらアルバム1枚で通して心地よく聴けるというのはとても不思議だ。(しかも複数年に渡ってリリースされたシングルのベストという側面すらあるアルバム)
いつもアルバム単位で聴くYUKIの場合は、作曲は別々だが歌唱が強過ぎるので必然的に一体感が生まれるし、YUKIは歌詞も書くので、あまり比較にならない。


ただ、考えてみると『ファルセット』も、複数楽曲で歌詞が共通するものもいくつかあり、そこが上手く橋渡しになっているのかもしれない。
そもそもコロナ騒動がなければ5月に出ていたアルバム。PVや歌詞カードの写真を見ても「はじまりの季節」=春や桜をイメージさせるものも多く、発売が7月中旬という「夏」に延期になってしまったことを考えると、失われてしまった2020年の「はじまりの季節」を思い浮かぶ一枚ともいえる。MusicVideoも桜が登場するものが多い。

  • 今がきっと、はじまりの季節/今がそう、おわりの季節(きっとはじまりの季節)
  • 今日は旅立ちの日/今日が決別の日(青空シグナル)
  • 薄紅の街は霞み 風に舞うスカート(青空シグナル)
  • 花咲いてる季節だね(絶対に絶対に絶対にGO!)
  • 桜並木が恋をして(ALIVE)
  • 指切りで夜を灯して(センシティブサイン)
  • 消えないよう忘れないように ほら ゆびきりしよう(春にゆびきり)
  • いつか大人になっても変わらずにいたいな(絶対に絶対に絶対にGO!)
  • いつか僕らは大人になるから(春にゆびきり)
  • 大人になり切れない 子供じゃいられない(黄昏のダイアリー)


いやいやいや、「大人」関連の歌詞も含めて、アイドル楽曲の定番歌詞なのではないか。
やっぱり声なのかもしれない。下のリモートライブの動画を見ると、それぞれ声に特徴があるし、結構コーラスを細かく入れている。(この動画は、ウィンドウが分かれているので、4人のボーカルパートが明確にわかり、かつ、沖井礼二のベース+リズムボックスのみの「青空シグナル」や、シンリズムの一人多重録音の状況が分かる「センシティブサイン」も楽しい。「ナイスポーズ」の全貌も良くわかる。)

リモートライブ「ガチでRYUTist HOME LIVE #001」


それにしても、MiKiKiのインタビューの充実度合いはすごいな…。
RYUTist『ファルセット』特集① 柴田聡子と語る、歌うのがすごく楽しい曲“ナイスポーズ” | Mikiki
RYUTist『ファルセット』特集② Kan Sanoと語る、どちらにとっても新しいものになった楽曲​“時間だよ” | Mikiki
RYUTistを吉田豪が徹底解剖! “センシティブサイン”リリース記念、メンバー個別インタヴュー:横山実郁編 | Mikiki
RYUTistを吉田豪が徹底解剖! “センシティブサイン”リリース記念、メンバー個別インタヴュー:宇野友恵編 | Mikiki
RYUTistを吉田豪が徹底解剖! “センシティブサイン”リリース記念、メンバー個別インタヴュー:佐藤乃々子編 | Mikiki
RYUTistを吉田豪が徹底解剖:五十嵐夢羽編――卒業メンバーや大好きなアイドル、RYUTistの今後を語る | Mikiki


等々、Youtubeの動画やインタビュー記事をハシゴしながらRYUTist楽曲探求の夜は更けるのだった。

今後チェックしたいアルバム

『ファルセット』を聞いて一番良かったのは、次に聴きたい音楽が増えたこと。
シンリズムは、一枚目だけしか聴いたことがなかったので、その後の変化も楽しみ。ikkubaruは8/26発売。柴田聡子は、『ファルセット』購入日に、偶然、試聴機で「変な島」を聴いて変な曲と思っていた…。
つまり、『ファルセット』は、1粒で2度、どころか、数珠繋ぎにいろんな音楽が聴きたくなるという意味では、「無限に楽しめる」アルバムとなったのでした。

DELICIOUS.

DELICIOUS.

  • アーティスト:TWEEDEES
  • 発売日: 2018/10/31
  • メディア: CD
Have Fun

Have Fun

がんばれ!メロディー

がんばれ!メロディー

  • アーティスト:柴田聡子
  • 発売日: 2019/03/06
  • メディア: CD

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:飯田圭織安倍なつみ保田圭矢口真里後藤真希石川梨華吉澤ひとみ辻希美加護亜依の9人時代を指す言葉。9人でのシングルは『ザ☆ピ〜ス!』だけらしい。そうなのか…

*2:ラジオ番組「アフター6ジャンクション」略してアトロクでは、月に一回、「アイドルソング時評」のコーナーがあり、旬のアイドルソングを取り上げる。ただし、生放送で聞くことはほとんどなく、Podcastでは楽曲がかからないので、実は歌自体は放送では聞いていないのだが…

知識より態度を~上野千鶴子×田房永子『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください! 』

上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!

上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!

田房永子さんについて

女性の生きづらさ(あえて「フェミニズム」という言葉を使わない)についての本を読み始めたのは、そもそも田房永子さんからのように思う。
そもそも自分は高校3年間を男子校で過ごしているし、大学は理系で、かつ体育会系の部活に所属し(本の中でも書かれているような)ホモソーシャルな生活空間の中で長く過ごした。社会人になっても、男女比で見てやはり男7~8割の中で生きてきており、色々な問題に無知・無神経でいられるという「特権」を享受できる立場の人間だと思う。そのあたりのことを、田房永子さんの著作で指摘され、ずっと蓋をしてきたものにようやく向きあうきっかけになった。
(ブログを読み返してみると、田房永子さんと合わせて、森岡正博さんの存在も大きい。森岡正博さんの著作もまた、「男の特権」について強く指摘する内容だった。)
しかし、(本の中でも触れられているが)田房さんは、著作の中で「フェミニズム」という言葉をほとんど使用していないこともあり、自分にとって、田房さんは「フェミニズム」の人ではなかった。


フェミニズム」という言葉に親しみを持って接したのは、韓国フェミニズム文学が流行し、me too運動が勢いを増した2018~2019年という、本当につい最近のことで、それまでは、近づきがたいジャンルだったように思う。
したがって、セクシャルマイノリティーの本は読んでも「フェミニズム」の本は一冊も読んでおらず、上野千鶴子さんの著作も読もうとすら思わなかった。だから、今回、ちょうど良いタイミングでこの本を読むことができたと思う。


この本は、タイトルの通り、これまでの田房永子さんの著作や主張の振り返りも含めて、フェミニズムの歴史や基礎知識について、対談形式で上野千鶴子さんが解説を加えるもの。
ただし、例えば毒親の話題なんかは、田房永子さんの中では総括が出来ており、それは結局フェミニズム的な考え方と一致する、というように、対談では、むしろ「上野先生」の方が、田房さんの著作をよく読んでいるためにスムーズに話が進んでいく。

母からされたことへの個人的な恨みや傷をいやす行動は自分で取り組まなきゃいけないけど、それとは別に、こうやって時代背景や社会の構造を解剖して理解していかないと、母から娘への暴力・ハラスメントの連鎖なんて止められない。(p29田房)

田房さん、マンガで「石像化」って描いてたでしょ?信田さよ子さんも同じことを言ってたけど、娘と母が取っ組み合いのケンカをしてる最中に、父は石像になっちゃうって。(略)
雨宮処凛さんは「父の不在という暴力」って言いました。石像になることが一種の暴力だってことがなんでわからないのかね!(p45上野)

プレイヤーが「母と娘」になりがちな「毒親」の問題は、父親の責任が大きい。このあたりは、以前の著作でもあったが、田房永子さんのA面・B面という考え方がとても分かりやすく、わかりやす過ぎるが故に、自分もB面から逃げている(奥さんに任せてしまっている)部分に気づかされ、苦しくなる。


●↓A面、B面の概念
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●↓A面に胡坐をかく夫、A面、B面の往復に奔走する妻
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●↓既得権益を守りたい男
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ここも含めて、田房さんの問題意識は、年齢が近く、子どもが二人という家族構成も同じであるため、実感として理解しやすく、自分が奥さんから怒られているような気持ちになりながら読む。これは上野千鶴子さんの問題意識とはどうしても違いがあるように思う。

上野千鶴子さんについて

自分にとって、上野千鶴子さんの名を意識したのは平成31年東京大学入学式の祝辞が大きい。
それ以前から名前は知っていたが、何度も書くよう、フェミニズムという思想自体に興味を持てなかったことや、何かと炎上を招いている人っぽいということを知り、避けていた。

しかし、読んでみると、話は明快でわかりやすく、特に大学闘争からウーマンリブ(1960年代~70年代)の話に絡めたフェミニストを志した理由の部分を面白く読んだ。

  • ウーマンリブは世界同時的に登場したが、共通の大きな課題は中絶の自由だった。しかし、優生保護法があり「中絶天国」と言われるほど中絶が簡単にできる国だった日本のウーマンリブはそれが必要なかった。(p61)
  • 一方、女性主体で出来る安全で確実な避妊が、性の自立にとって決定的な条件だったため、欧米ではピルが広まったが、日本ではここが非常に遅れている。(p63)

例えば、このあたりは歴史的な話として聞けるにしても、大学闘争当時の個人的体験の話が強烈だ。

当時東大で男子と一緒にゲバ棒を持つ女の子がいたらしく、その女性についたあだ名が「ゲバルト・ローザ」。ローザは女性革命かのローザ・ルクセンブルクからとったのね。同志とした女は恋人にせず、恋人には都合のいい耐える女、待つ女を選ぶ。これが男のダブルスタンダード。今の「総合職女と一般職女」とおんなじね。(略)
大学闘争の現場にはもうひとつの類型があって、それが「慰安婦」だったの。当時、性的にアクティブな女の子たちを、男たちは「公衆便所」って呼んでいたのね。凄まじい侮蔑の言葉でしょ。同志の女につけこみながら、陰で笑い者にしてたの。(略)
運動には男も女もなかったはずなのに、結果としてどれだけジェンダーギャップがあって、女がどれだけのツケを払うかってことも、骨身に染みて味わった。私がフェミニストになった理由はね、私怨よ。(p65-67上野)

このあたりの強烈な実体験と「私怨」と言い切る強さが、上野千鶴子さんの核の部分なのだろう。
これは、田房永子さんが、コンビニのエロ本棚について考えたり、幼保無償化で、同じ「母親」の間に生じる分断に危機感を覚えたりするところから積み重ねたフェミニズムとは、核の部分が全く違う。
それ故なのか、頻発する「股を開く」という言葉遣いや、「子どもを産むのは親のエゴイズム」(p115)という発言には、間違ってはいないかもしれないが、違和感を拭い切れず、アンチが多いのもわかる気がした。*1

「一人一殺」について

この本の核は3章だと思う。
冒頭では、田房さんが、このように問いを立てる。

フェミニズムのイメージは「女性が社会で活躍するための権利を獲得する運動」という側面が強いと思いますが、結婚とか恋愛といったプライベートな場でフェミニストでいることは可能なんでしょうか?(p94田房)

これに対する回答の中に「一人一殺」という言葉が登場する。

当時の女は、そんな中で「おまえはいったい私と子どもにどう向き合うんだ」って迫る、命がけの闘いをやってたの。周りの女たちの間で「一人一殺」って言葉が流行ったぐらい(笑)。(p94上野)
(略)
女も男も、自分の人生に相手を巻き込んだり、相手の人生に巻き込まれていくのが恋愛や結婚。そういうことを真剣にやってないように見えるのよ。相手に踏み込むような人間関係を作らない、持たない、避ける、そういう育ち方をあなたたちから下の世代はしてきちゃってるのかな。(p95上野)

ここで言われる「一人一殺」の概念は、子育てにおける協力に限らず、男女の非対称の関係性に男は気が付いていないから、まず夫に教え諭す(結果的に夫婦での協力体制を構築する)必要があるという話で、「社会運動」ではないフェミニズム
この「「社会運動」ではないフェミニズム 」については、実は、森岡正博『宗教なき時代を生きるために』でも出てきた話で、そのときにも、自分は痛いところを突かれたと感じたことを思い出した。
森岡正博さんは、以下のように書く。

フェミニズムというものに最初に接した男性は、フェミニズムの主張を次のように理解するだろう。すなわち、「いままでは男性が女性を支配することによって社会が運営されていた。しかし、これからは、男性と女性が真に対等で平等な関係を保出るような社会に、変わらなければならない。そういう社会を求めて行動しているのがフェミニズムである」。
たしかに、この「 」のなかの主張それ自体は、フェミニズムが言ってきたことである。それは、大枠では間違ってはいない。だから、男性がフェミニズムの主張をそういったものとして理解するのは正当である。しかし大事なのは、この「 」のなかの主張が、フェミニズムの主張のすべてではないということだ。この「 」のなかの言明では、フェミニズムの主張の半分しか表現されていない。
なぜならフェミニズムの主張と言うのは、「 」のなかの言明という形では、言いたいことが半分しか伝わらないという、そういう種類の主張だからである。
この言明の裏に隠されている、フェミニズムの残り半分の主張とはいったい何か。それは、「 」のなかのことを理解したそのあなた自身が、いまこの瞬間から、自分の身のまわりの女たちに対して、どのように関わっていくつもりなのかということなのである。そしてこの点が、男性たちにもっとも伝わりにくいのだ。なぜかと言うと、それこそが、男性たちがもっとも<直面したくない>メッセージだからである。だから男に伝わりにくいのだ。

それに直面したくない男性知識人や学者たちの一部は、むしろ積極的にフェミニズムという思想に理解を示し、それを学習し、それについて議論をしようとする。そうすることによって、フェミニズムからの問いかけが、あたかもさきほどの「 」のなかの命題だけにあるのだというふうにみんなで錯覚できるのではないかと期待する。それに直面したくない男性ほど、フェミニズムの「命題内容」には理解を示そうとする。

今回の本の中でも、田房永子さんがこう指摘する部分がある。

フェミっぽい話をしようとすると、「男を代表して謝ります、すいません」って言ってくる男の人がいるんです。「男でごめんなさい」みたいな。私あれがほんと、虫酸が走るほどイヤなんです。(略)
そういう男性は悪気がなくて、むしろこちら側に寄り添ってますって感じの人なんですよね。だから悪く言いづらいんだけど、女性差別の問題は長くて深くて大きい話だし、個人が個人に謝ってもらうとかそんな話じゃないから、「男を代表してこめんなさい」って言われると腹が立つんです。(田房p170)

結局のところ、フェミニズムというのは、知識や学問体系ではなく、「態度」なのだ、と捉えたい。そうしないと、すぐに勘違いして、森岡正博さんが指摘するところの、 「フェミニズムの「命題内容」には理解を示そうとする男性」、田房永子さん言うところの「虫酸を走らせる」側の人間になってしまうからだ。


その意味では、「一人一殺」を地で行く田房永子さんの著作は今後も読みたいし、それらを読む中で、自分が家族に対してどのように向き合うのかが問われているのだと思う。前作は、かなり賛否両論があったらしいので、こちらもすぐに読んでみたい。


なお、5章では、すぐに「フェミを理解してるかしていないか」で論争が起こりがちな状況に対して上野千鶴子さんはこう言っている。

フェミニストは自己申告概念だから、そう名乗った人がフェミなのよ。(略)
フェミは多様なものよ。一人一派、それ以上あるかもしれない。それらがぶつかり合うことはあっても、正統と異端という考えは全くない。(p186上野)

つまり、対談している二人であっても、そのフェミニズムは一部では相容れないところもあるだろう。しかし、それは、ごくごく普通のことだし、自分が二人の意見を受け入れられなければ、フェミニズムに反対するのではなく、自分のフェミニズムを調整していけば良いことだ。
今後も、多様なフェミニズムに触れながら、考え、実践する、ということを続ける必要があるんだろうなと思う。Twitter上のフェミ論争は、本当に不毛なので、嫌になったら本を読もう。

参考

フェミニズムに限らず、この本の中で触れられていて気になった本。
p49 母と娘の関係の一例として→佐野洋子「シズコさん」

シズコさん (新潮文庫)

シズコさん (新潮文庫)


p55上野千鶴子も登場する同名のドキュメンタリー映画の書籍バージョン「何を怖れる」

何を怖れる――フェミニズムを生きた女たち

何を怖れる――フェミニズムを生きた女たち

  • 発売日: 2014/10/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



p70 ウーマンリブの中心的人物である田中美津の著作。『いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ



p160最近になって再評価の声が大きい田嶋陽子に関する本

エトセトラ VOL.2

エトセトラ VOL.2


p166フェミニズムの洗礼を浴びた男性作家として挙げられている、中森明夫山崎浩一星野智幸

青い秋

青い秋

焔

危険な文章講座 (ちくま新書)

危険な文章講座 (ちくま新書)


番外編

さて、今は少し空気が変わってきているが、少し前の「フェミ隠し」について触れられた部分が面白い。
時代の空気の変化については、田房さんが「私たちの世代はフェミニスト田嶋陽子でしたが、今の10代はフェミニストエマ・ワトソン(p165) 」と言うように、最近では大きく状況が異なるが、少し前まで、内容はどうあれ、イベントや本のタイトルはよく考えないとトラブルになりがちと思われていたのだという。

(田房)フェミニストのイベントをやろうとしたら、主に同世代の人たちに「フェミニスト」って言葉を使わない方がいいって言われました。「アクティビスト」とか別の言葉を使った方がいいって。
(上野)それフェミ隠しね。隠れキリシタンみたい。私も同じことを言われました。(略)
本のタイトルに「ジェンダー」とか「フェミニズム」って言葉を使わない方がいいって。読者にひかれる、売れないって理由で。それが事実かどうかはわからないけど。(p159)

さて、ここでどうしても思い出してしまうのが、オリジナル・ラブ14枚目のアルバム『東京 飛行』(2006)の1曲目「ジェンダー」。
どういう意図でこのタイトルを選んだろう?と今になっても気になってしまう曲。曲自体は格好いいのだが、本当に何でなんだろう?


ちなみに、自分が「フェミニスト」という言葉を知ったのは、小比類巻かほる「両手いっぱいのジョニー」(1986)だったように思う。調べてみると、古くは井上陽水の「フェミニスト」(1979)という曲があったようだが、80年代頃までは、「女性を大切に扱う男性」という意味で使われるのが普通だったのかもしれない。

東京 飛行

東京 飛行

  • アーティスト:ORIGINAL LOVE
  • 発売日: 2006/12/06
  • メディア: CD
両手いっぱいのジョニー

両手いっぱいのジョニー

  • 発売日: 2014/04/07
  • メディア: MP3 ダウンロード



*1:加えていえば、天皇のことを「天ちゃん」と言ってしまうあたりも疑問。

死にたい二人を救ったもの~映画『聲の形』

映画『聲の形』Blu-ray 初回限定版

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  • 発売日: 2017/05/17
  • メディア: Blu-ray


聲の形』には、もともと漫画連載時から興味があったので、何となくの筋は知っていたが、実際に映画を観てみると、「あらすじ」を超える圧倒的なものを持った作品になっていた。
ここでは作品での中心的に扱われる「いじめ」の描き方について書いてから、死にたい二人を救ったものについて考えたことをメモに残しておきたい。

「いじめ」について

まず、「いじめ」について。
この映画の凄みは、いじめの「酷さ」と、いじめに関わるプレイヤーの多さ。

まず、聴覚障害者として転校してきた西宮(ヒロイン)に対するいじめが度を越して酷い。補聴器の紛失など、100万円以上の補償が必要な悪質ないたずらを含むのは勿論、重要なコミュニケーション手段で ある筆談ノートへの仕打ちも、金額に換算できないが酷い。
西宮の母親が、高校生になった石田の頬を叩くシーンがあるが、親なら絶対に許せない、本当に胸糞悪くなる。何も知らない小学生だから、などという言い訳は聞きたくない。死んで詫びろと言いたくなる酷いいじめだ。


次に、いじめに関わるプレイヤーの多さ。
「いじめる側」だった主人公が、「いじめられる側」も経験して改心し、かつての被害者に加害者として謝罪する、という話は、もしかしたらそれなりによくあるかもしれない。
しかし、この映画のメインキャラクターは、それぞれに異なる立場で「西宮へのいじめ」に関わり、かつ、「石田(主人公)へのいじめ」については、おそらく「傍観者」だった。

  • 西宮に色々な気持ちを持ちながらも、主体的にいじめた当事者であり、その後、いじめられる立場に回った主人公(石田)
  • 主人公以上に「悪意」を持って西宮をいじめていた女子(植野)
  • 正義感は強いが、直接的に関係しようとせず、結果的に傍観者となった女子(川井)
  • いじめられっ子の友だちになろうと努力するも、そのことで周囲から非難され不登校になった女子(佐原)

この小学校時代の出来事に対して、別の小学校出身で直接いじめを知らない男子(永束、真柴)も出てくるが、彼らにつべこべ言われたくない、と切れてしまう主人公・石田の気持ちもわかる。


登場人物が 、「いじめる側」「いじめられる側」の2種類だけしか用意されていなければ、おそらく多数派である「傍観者」の立場の視聴者は安全側にいられる。しかし、一見「いい人」に見える川井も佐原も、結局は「傍観者」だったのだと思うと、逃げ場がなくなる。
この映画は、観ている者に、「これは酷いいじめだ」と思うと同時に、「自分には止められなかったのか」という罪悪感を抱かせる。それは、石田のみならず、川井も佐原も持ち続けた気持ちなのだろう。(植野は少し違う)

「死にたい」ということについて(石田)

この作品では、2人のキャラクターが「死にたい」と思うくらいに気持ち的に追い込まれるが、まず、石田について見てみる。
小学校で「いじめられる」側に立って以降、どんどん追い込まれていった気持ちは、誰の顔も見ることができない(=顔に「×」印がつく)石田視点の学校風景によく表れている。
この部分の描き方こそが作品のキモだろう。


映画を観ていて、繰り返し登場する植野に「なぜ植野、お前が出てくるのか?」とずっと気になっていた。一生懸命になっている人に「ウケる~笑」とバカにしたような態度をとる性格は高校生になっても変わらない。西宮の補聴器を奪おうとするところまで小学生時代から変わっていない。正直、このキャラクターが登場すると気分が悪くなる。
しかし、植野と西宮の観覧車内での会話のシーンを見ると、植野にもそれなりの言い分があったことが分かる。つまり、植野から見ると、心を閉ざしていたのは西宮で、相手を見ようとしない西宮こそ、世界を自分の都合のいいように捉えているということだ。
そんなのは植野に都合のいいコジツケだとは思いつつも、自分にとっては、植野の世界の見方があったから、映画全体を捉えやすくなった。
つまり、「相手を見る」ことから世界は始まる。(なお、自らの発言により我が身を顧みたのかもしれないが、その後、植野は、西宮のために手話を覚える、という「相手を見た」上でのアプローチをかけるのは良かった)


ラストで石田が「救われた」のは、世界が自分を見てくれていることに気が付いたからであり、そのためには、まず相手を見ることから始めなくてはいけない。小学校で、いじめられる立場になり、その後、孤立を深めていった石田は、相手を見ないことで、さらに他者との関係性を結べなくなる悪循環に陥った。死にたくなる原因は「罪悪感」以上に「孤独」にあったのだと思う。

「死にたい」ということについて(西宮)

「孤独」という観点からすると、聾者である西宮は、リアルタイムのコミュニケーションに関われない部分が多いはずで、石田よりも孤立しやすい存在である。*1しかし、西宮が死にたくなった理由は、直接的には「孤独」ではない。
いじめの話をきっかけに、皆が仲違いをしてしまったことや、妹の結弦がいつも姉のことに一生懸命であることを見て、自分の存在が、自分の大切な人の人生に悪影響を与えていると思い込んでしまったのだ。
そんな西宮を救ったのは、病院から抜け出した石田の言葉だろう。石田は橋の上でうずくまる西宮に謝罪し、「生きることを手伝って欲しい」と告げるのだ。
ここで、また、ロボット研究者・吉藤健太朗さんの同じ言葉*2を引用するのだが、つまりはこういうことだと思う。

感謝は集めてしまってはならない。送りすぎてしまってもいけない。
何かをしてもらって「ありがとう」と言ったら、次は何かをしてあげて、「ありがとう」と言ってもらえる、つまり”循環”が人の心を健康にする。


私がつくりたいのはロボットではない。
「その人が、そこにいる」という価値だ。
たとえベッドから動けずとも、意識がある限り人は”人の間”社会の中にある。私がつくりたいものは、あらゆる状態でも、人に何かをしてあげられる自由。人から遠慮なく受けとることができる”普通”を享受できる自由、そこにいてもいいと思えること。普通の、社会への参加である。


人は、誰かに必要とされたい。
必要としてくれる人がいて、必要とする人がいる限り、人は生きていける。

(吉藤健太朗『「孤独」は消せる。』)


謝罪や感謝では、人は救えない。自分を必要としてくれる人がいる、と思えるから、人は孤独を感じずに「生きよう」と思うことができる。*3
石田にとって、永束君の存在は大きいはずで、西宮にとっては、当然、家族の存在は大きいはずだが、信じ切れない部分があったのだと思う。
しかし、信頼は「言葉」によって形になる。
より多くの人が自分を見てくれる、見てくれるはずだ、という、人間に対する信頼は「言葉(=聲の形)」によって強化される。
文化祭に集まったたくさんの顔から「×」印が消えていくシーンは、石田の明日も「生きよう」に確実に繋がっている。


聲の形』は、作品そのものが、観た者の気持ちを上向きにさせる、「生きよう」と思う気持ちを強くさせる、とてもいい作品だった。
作品テーマの真面目さや辛い思い出から距離を置き、「お笑い」パートを担った永束君の存在も良かった。
原作は映画と少し違うところもあるようだが、原作漫画もとても評価が高いので読んでみたい。

*1:「聾は盲目より不幸なこと」というヘレン・ケラーの言葉に対して、作者の杉浦さんは、視覚より聴覚の方が疎外感には関連が深いと思う、と共感を示している。杉浦さんは、視覚と聴覚を比較して情報をどこから得ているかといえば視覚がメインだが、コミュニケーションということを考えると、聴覚の重要性は視覚を上回ると考えている。→耳かきの適正頻度はどれくらい?〜杉浦彩子『驚異の小器官 耳の科学』 - Yondaful Days!

*2:私がつくりたいのはロボットではない~吉藤健太朗『「孤独」は消せる。』 - Yondaful Days!

*3:7月に起きたALS患者嘱託殺人事件は、もっと、この観点で語られるべきだった。

四半世紀ぶりに再読したホラー短編集~井上雅彦『異形博覧会』


まさに四半世紀ぶりくらいに読む短編集。
高校生の頃だったか、ミステリーゾーントワイライトゾーン)の小説版をよく読んでいて、その頃のことも思い出した。『異形博覧会』が刊行された1994年は、自分は既に大学生になっているが、テレビでは『世にも奇妙な物語』が流行っていた時期と重なるように思う。(調べるとレギュラー放送は1990-1992)
角川ホラー文庫は1993年4月創刊とのことなので、『異形博覧会』は同レーベルの中でも初期の作品ということになる。ちなみに、角川ホラー文庫で印象深い作品は貴志祐介『黒い家』『クリムゾンの迷宮』『天使の囀り』(いずれもホラー文庫版は1999-2000)。『リング』は、単行本で読んでいたので角川ホラー文庫というイメージはない。


改めて読み直すと、本人もあとがきで触れている通り、海外のモダン・ホラー小説ぽさと、まさに『世にも奇妙な物語』風の「奇妙な出来事」短編のバランスがよくできている。叙述トリック重視のホラーが入っているのも、いかにも日本のホラー短編という感じがして楽しい。


新たな発見としては、故郷の島の奇妙な風習「オマネキの夜」と「オミオクリの夜」を扱った「潮招く祭」の、あまりに伊藤潤二を彷彿とさせるビジュアルイメージ。大量発生する蟹と、墓から蘇る死者のイメージは、ちょうど「墓標の町」「ギョ」に重なる。
それ以外にも、ホラー映画用のモンスターの特殊メイクが惨劇を起こしてしまう「とうにハロウィーンを過ぎて」は「顔泥棒」とも重なる。
おそらくそれが「異形」を前面に押し出している理由なのだろうと思うが 、井上雅彦作品のバックボーンに映画などがあることから、ビジュアルイメージが強い傾向にあることが伊藤潤二の作風と一致しているのだろう。


そのほか、ゾンビ物の「死霊見物」は、ゾンビを「墓から蘇って人を喰う腐った死体」ではなく、本来の意味では「ブードゥー教の魔術師が、労働させる目的で操る死体」を指すと、まず明確に定義づけ、その上で近未来技術「ワークマン・システム」というSF設定と結びつけているところが面白い。
つまり仕事時間はミスをせず効率的に作業を進める(生産性を上げる)ために、思考と人工知能(ワークマンシステム)に預けるというディストピアユートピアの世界である。
確かにそんな世界であれば、労働者は死人であっても構わないかもしれない。


そして何といっても星新一ショートショートコンテスト入選作である「よけいなものが」そして、「残されていた文字」の叙述の技の切れ味が素晴らしい。


ただ、自分の記憶にあった「ヒーローショーを題材にしたホラー短編」は、ここには含まれていなかったので、続編の『恐怖館主人』『怪物晩餐会』を読んでみたい。なお、この「異形」というタイトルは、その後、井上雅彦監修のアンソロジー異形コレクション」に受け継がれている。
こちらもかなりの巻数を重ねているが、少しずつ手を伸ばしたい。

進化論  異形コレクション (光文社文庫)

進化論 異形コレクション (光文社文庫)

  • 発売日: 2006/08/10
  • メディア: 文庫
憑依―異形コレクション (光文社文庫)

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  • 発売日: 2010/05/11
  • メディア: 文庫

38年差対決の結果は…?~『斜め屋敷の犯罪』(1982)VS『#柚莉愛とかくれんぼ』(2020)

島田荘司『斜め屋敷の犯罪』

自分の読んだ2016年発売の講談社文庫の「改訂完全版」の綾辻行人による巻末解説に詳しいが、『斜め屋敷の犯罪』は1982年11月に講談社ノベルスより刊行された。当時22歳(大学4年)だった綾辻行人は『占星術殺人事件』に続く島田荘司の傑作に衝撃を受けた。5年後に刊行の『十角館の殺人』から始まる「館」シリーズは、「異形建築もの」の先駆的傑作である『斜め屋敷』からの影響を免れないと、この解説で吐露している。
自分が新本格を読み始めたのは1990年頃のように思う。高校時代に、図書館で借りた「本の雑誌」でそのジャンルを知り、「新本格」作家を意識して最初に読んだのは、確か、島田荘司『異邦の騎士』だった。『斜め屋敷』を当時読んだかどうかは、例によって忘れてしまったが、自分にとって新本格の原点である島田荘司の著作を、原点に立ち戻る気持ちで読んでみたのだった。

北海道の最北端・宗谷岬に傾いて建つ館――通称「斜め屋敷」。雪降る聖夜にこの奇妙な館でパーティが開かれたが、翌日、密室状態の部屋で招待客の死体が発見された。人々が恐慌を来す中、さらに続く惨劇。御手洗潔は謎をどう解くのか!? 日本ミステリー界を変えた傑作が、大幅加筆の改訂完全版となって登場!

読み終えて思うのは、やはり「読者への挑戦」が間に入ってフェアだとかフェアじゃないとか言う話ができるのは、小学生時代に『エッケ探偵団』という推理クイズ図書を読んだときの気持ちが蘇り、ドキドキする。
しかも、この作品は、その「フェア」性を保つためか、殺人が行われた部屋の見取り図が豊富で、もうそれだけで大満足なのだ。


しかし、トリックが明らかになったときの感想は、やや想定外だった。
ひとことで言うと、初期の名探偵コナンっぽい。
密室殺人を可能にする物理トリックを突き詰めているので、殺人の動機等は後付けで、トリック自体は、糸が出てきたり氷が出てきたりとやたら細かい。
そして、大ネタは、(島田荘司作品における名探偵)御手洗潔が解決編で発する「ただそれだけのために、この家は傾けてあるのさ」というセリフの通り、準備が大がかり過ぎるもの。
しかも、自分にとっては、この大ネタは、石黒正数の傑作漫画『外天楼』のギャグパートで披露されたトリックを思い出させるもので、どうしても笑いを抑えきれない、という意味ではバカミスっぽさを感じてしまうものだった。


自分にとって、ミステリは「フェア」よりも「驚き」重視なので、本格よりも「邪道」を好む。しかも、新本格以降、ジャンルとして層の厚みが増し、叙述トリックすら当たり前になってきた近年のミステリを読み慣れていると、どうしても『斜め屋敷』には古さを感じてしまう。
ちょうど次に読む予定の本は、「邪道」の象徴のようなメフィスト賞受賞作でもあり、この満ち足りない部分は、きっとそちらで補うことができる。そう思いながら『斜め屋敷』を読み終えた。


もうひとつ感じた「古さ」は、女性登場人物の扱い。ひとことで言えば、以下の女性キャラクターの面々からは「男性優位」を感じてしまう。

  • いかにも「お嬢様」である流氷館(斜め屋敷)の主人である会長の一人娘
  • その主人と付き合いのある会社社長の秘書兼愛人
  • あとは、「その妻」たち

少なくとも、このミステリの中での女性キャラクターは「刺身のツマ」で、死体を見て悲鳴を上げる役回りか、男性キャラクターの恋愛対象としてしか存在意義がない。
この状況は、戦隊ヒーローの5人の中に一人、申し訳程度に女性戦士がいた頃の状況を思い起こさせるが、確認すると、女性戦士が2人になったのは1984年の超電子バイオマンから。また、男女雇用機会均等法は1985年に制定、1986年に施行とのことで、『斜め屋敷』の刊行された1982年の日本は、まだ「男性断然優位」な世の中(2020年も均等には程遠いが)だったのだろう。

真下みこと『#柚莉愛とかくれんぼ』

#柚莉愛とかくれんぼ

#柚莉愛とかくれんぼ

  • 作者:真下 みこと
  • 発売日: 2020/02/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

自分の好きな「邪道」の極みのようなメフィスト賞受賞作であり、女性作家による女性が主人公のミステリということで、まさに『斜め屋敷』の弱点を補って余りある「最先端」が堪能できるはず!と、読み始めたのが第61回メフィスト賞受賞作で2020年2月に発売されたばかりの真下みこと『#柚莉愛とかくれんぼ』。

超期待の新人
現役女子大生作家、衝撃デビュー!


第61回メフィスト賞受賞作
アイドルの炎上、ファンの暴走、ネット民の情報拡散ーー
今読むべきSNS狂騒曲(ミステリー)!


アイドルグループ「となりの☆SiSTERs」、僕の推しは青山柚莉愛(あおやまゆりあ)。
その柚莉愛が動画生配信中に血を吐いて倒れた。
マジか! 大丈夫なのか?
でも翌日、プロモーションのためのドッキリだったってネタばらしが……。
本気で心配した僕らを馬鹿にしやがって。ありえない、許さない!
SNSで柚莉愛を壊してやる!


タイトルにハッシュタグ(#)がついているよう、SNSを題材にしており、期待度は増した!
しかし、一言で感想を書くと「期待外れ」だった。
何が「期待」で何が「外れ」だったのかを3つ書く。


まず一つ目は、SNS。この小説は、Twitterでのやり取りが多数登場するが、SNS叙述トリックはとても相性が良い。有名どころだと朝井リョウ直木賞受賞作『何者』(2013年)がそうだし、湊かなえ『白ゆき姫殺人事件』(2009年本屋大賞)もあった。古くは、パソコン通信小説として、乗越たかおアポクリファ』(1991年)などもあったが、いずれもインターネットの匿名での人間関係と実際の人間関係のずれをうまく扱った小説だったように思う。
しかし、この小説で、それほどSNSを作劇上で効果的に使えているとは思わない。(肝心の叙述トリックも大味だ)
一点だけ、自然発生ではなく、故意に「炎上」を起こす方法が示されているという点は読みどころかもしれないが、逆に、SNS(特にTwitter)に疎い人がこれを読んですんなり理解できるのか疑問だ。
また、ネットを絡めた犯罪の怖さという点では、例えば『スマホを落としただけなのに』など、もっと実生活に絡めて「怖さ」が分かりやすい小説もあり、「炎上」自体は、実生活とは関係が薄くTwitter民のテクニカルな話題のようにも感じてしまう。


二つ目は、アイドル小説としての評価。講談社HPには「アイドル好きの書店員として断言しよう。これは今までに読んだ「アイドル小説」の中で最もリアリティに溢れた作品だ。」などという書店員の方の推薦文が載っているが、これが5年まえに出た本ならそのような誉め言葉はあり得るかもしれない。
アイドルを扱った小説は『最後にして最初のアイドル』(2018年:難解なSF)くらいしか知らないが、アイドルを扱った漫画(空想ではなく、実際のアイドルをイメージした作品)はとても多く、自分の知っている作品だけでも、例えば『さよならミニスカート』(2018年~)*1もそうだし、アニメ化した『推しが武道館いってくれたら死ぬ』(2015年~)もそうだ。
そもそも、昔と異なり、アイドル自体が、私生活の一部まで商売にしており、ほとんどがオープンになっているような状況で、何をもって「最もリアリティに溢れた作品」と推薦してしまえるのかと感じる。
自分には、ここで扱われる「炎上商法」も含めて、ネットニュースやアイドルファンの言動を追っかけるだけでも得られるような情報だけで、独自要素、つまり独自取材、もしくは作者自身のアイドルへの思い入れに溢れる小説であるように思えなかった。


このことは3つ目にそのまま繋がる。分量が少なすぎる、そして「過剰さ」が感じられないのだ。
分量が少ないことは読みやすさに繋がるが、その分、内容が軽くなってしまう。先ほど「独自の取材」が感じられないと書いたが、どこかで読んだことがあるようなコピペ感が強くなってしまう。
それだけではない。ここが、この小説で、自分が一番の問題に感じた部分だが、メフィスト賞なのに、「こだわり」が少ないと感じられる、「こだわり」が多ければ分量も多くなるはずだが、この話は、ほとんど寄り道がなく、最短距離を進む。
終わり方がバッドエンドであるところも、この小説の大きな特徴だと思うが、それすら最短距離で余韻がないため、嫌な気持ちにさえ浸れない。タイトルの意味づけも、付加要素によっては、もっと深みを増すことができたように思うが、それもない。


自分がミステリ(特にメフィスト賞作品)に求めるのは、最短距離とは正反対の「過剰さ」だと思う。突き抜けたバカミスである『○○○○○○○○殺人事件』や『NO推理、NO探偵?』は下らなさが只事ではなく、ミステリではないが『線は、僕を描く』でさえも、作者が書きたいことが文面から滲み出るようだった。
そういった過剰さ、こだわりが『#柚莉愛とかくれんぼ』にはとても薄い。
逆に、『斜め屋敷の犯罪』は、一瞬バカミスと思ってしまうほどの、こだわりに溢れていて、もっと言うと「こじらせ」を感じてしまい、話が自分に合う合わない以前に、作品が愛おしくなるような気持ちが生まれる。


とはいえ、『#柚莉愛とかくれんぼ』がとても読みやすかったのは事実。主要登場人物間の関係やお互いを思う感情の説明が巧いからこそ、あっという間に読み終えた、というところもあるのかもしれない。作者は女子大生ということで、まずは就職しながらの執筆、という形になるのかわからないが、次の作品には期待したいと思います。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
 →メフィスト賞受賞作は、これまで9冊読んでました。他に直木賞芥川賞の受賞作の感想も。
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:3巻がなかなか出ないなあと思っていたら、2019年6月以降、連載がストップしているという話は知りませんでした。

なぜ唐突にバキ!~熊澤尚人監督『ユリゴコロ』

ユリゴコロ

ユリゴコロ

  • 発売日: 2018/04/04
  • メディア: Prime Video
ユリゴコロ (双葉文庫)

ユリゴコロ (双葉文庫)


先日、沼田まほかるの原作小説『ユリゴコロ』を読み終えて、さあ、感想を書こうと思ったら、3年前に既にブログ記事が書かれていることに気が付き、自分の記憶力の無さに大変ショックを受けた。だけでなく、内容も自分の書こうと思っていた内容そのもの(むしろ表現が巧み)であることに気が付き、ゲンナリしたという出来事があった。
しかし、今回、3年前はかなわなかった「映画版」の鑑賞が非常にしやすくなっているので、こちらを観る良い機会なのではないかとプラスに捉えることにした。色々なものと結びつけることで、どんどん記憶力も上がっていくに違いない…

「映画」的に表現した気色悪さ

さて、2度目の原作読後、あまり時間をおかずに観た映画だが、受ける印象が、原作で抱いていたそれとほとんど変わらないことに驚く。
特に、ミルク飲み人形のお尻、井戸の奥底、共通して何かの「穴」を覗き込む幼い美紗子の目。そして、小学生時代のミチルちゃんや、道路側溝に頭を突っ込んだ男の子の殺害シーンは、原作を読んで感じた禍々しいイメージそのままだった。
そして、目を背けたいリストカット描写。暗く陰のある女性「みつ子」を演じる佐津川愛美がすごい、ということになるのだろうが、大嫌いなリストカット場面のしつこさは、原作に抱いた印象と全く同じだ。
美紗子から亮介に、オムレツの味とともに受け継がれる「殺人者」の血。殺人のイメージが、美紗子・亮介がそれぞれ肉を捌く「包丁(に象徴される料理全般)」に現れているのも絵的に巧い。その意味で、亮介が開くお店がドッグランからレストランに変わっているのは巧い改変だった。そして、洋介(松山ケンイチ)と美紗子が初めて結ばれるシーンで過剰に強調されるオナモミも、美紗子の異常性の象徴として各所に上手く配置されていた。
ミルク飲み人形、水の中からの映像、リストカット描写、包丁、オナモミ、これらすべてがトータルとして、原作が持つ「イヤミス」などという軽々しい言葉では言い表されないような気色悪さ、「ユリゴコロ」というタイトルが醸す不安感を、映画としてうまく表現していたように思う。

吉高由里子

原作では、亮介が押し入れで発見するノートの書き手は、最初は性別さえ不明だったため、亮介は父(洋介)の書いたものかもしれないと思って読者は読む。一方、映画では、ノートの書き手として、最初から吉高由里子の声があてられるので、原作にあった性別さえ不明というミステリ要素は少ない。
しかし、この、吉高由里子の声こそが、この『ユリゴコロ』という映画の最大の魅力であるように思う。ベタッとした、無感動な、しかし少しの人間性を感じさせるような声。『劇場』における山崎賢人のモノローグが違和感を産み続けていたのとは対照的だ。
階段からラーメン屋のバイトを突き落とす場面とか、娼婦時代に殺人を無感動にこなしてしまう感じは、演じているのが吉高由里子だったからこそ、そしてベタッとしたモノローグでのフォローがあったからこそリアリティのあるシーンとなっていたと思う。
そして、松山ケンイチと出逢ってから少しずつ心を開き、子どもを産んで変化していく様子も、性格の移行に全く違和感を覚えなかった。勿論、相手役の松山ケンイチの上手さもあるのだろうが、年月をかけて人間が成長していくさまが演じられるというのは、さすが朝ドラで主演していただけはある。

唐突にバキ

原作との差異で言えば、原作にはあった、弟の存在や母親の入れ替わり等、もう少し細かい家族にまつわる背景設定が大幅にカットされているが、そこは時間的には仕方がない。
一方、一番問題の大きな内容改変は、細谷役として登場する木村多江に関する部分で大きく2つ。小さな方から行くと、原作では、千絵とは関わりのない人間として、亮介の店で働いていた細谷は、映画では、単に千絵の元同僚役として登場する。その時点で、細谷→亮介を結ぶ線が偶然の産物過ぎて、そのあと明かされる細谷の正体に素直に驚けなくなるのだが、まあ、それも次に示す改変に比べれば問題は小さい。
最大の問題であり、何故そのような改変をする必要があったのか頭を捻ってしまう部分は、亮介の婚約者である千絵の元夫役を、バリバリのヤクザにしてしまったこと。原作では、彼はもっと下っ端のチンピラで、故にクライマックスシーンは、千絵を奪還したあとで、亮介が手切れ金を払いに山中の待ち合わせ場所に会いに行くシーンで起きる。どうしてもお金が欲しい相手に一対一で会いに行く。こちら側が武器を持っており有利で、殺意があれば相手を殺害できてしまう状況なのだ。
映画では、設定が変わったためか、このクライマックスシーンは都内の暴力団事務所に監禁された千絵を助けに行くという無理難題に変わっている。しかも、亮介が行ってみると、既に事務所ではヤクザが3、4人殺されているのだった…。
一人でここに乗り込んで複数の暴力団員を殺してしまう。実際にそれを成し遂げてしまうのはバキ(グラップラー刃牙)のキャラクターくらいで、現実には到底あり得ない。そんなことをやってしまおうと考えた松坂桃李(亮介)も馬鹿で、ラストに近づくにしたがって、彼の興奮した演技も過剰になり、緻密に組み立てられた作品世界がどんどん崩れ落ちてしまう。
ヤクザ3~4人を殺した「殺人マシーン」が犯行声明的に現場にオナモミを残していくというのも謎で、やっぱり途中で『バキ』が混ざってしまったのではないかと邪推してしまう。
吉高由里子佐津川愛美吉高由里子松山ケンイチ、役者の演技で大いに盛り上がった中盤が勿体なくなるくらいラスト付近がダメ過ぎる。まさに「緊張の糸が切れた」とは、こんな展開にピッタリの言葉だ。

ユリゴコロ』以外の吉高由里子

なお、最近、ガッキーが長澤まさみと1歳違いと知り、イメージ的には長澤まさみがだいぶ年長のように感じて驚いたのだが、吉高由里子はガッキーと同学年だった。邦画は出演俳優が重なることも多く、こういった視点でも見る映画を広げていきたい。

吉高由里子の過去の出演作を調べるとと、フェイクドキュメンタリーや、攻めた設定の漫画原作ものなど、実験的な作品への出演も多い。もっと観てみたいなあ。

トンスラ DVD-BOX

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  • 発売日: 2009/01/21
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紺野さんと遊ぼう ウフフの巻 [DVD]

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紺野さんと遊ぼう ニヤリの巻 [DVD]

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参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com